本を棚に戻しているとき、背伸びしても届かなくて困っていると、助けてくれる手があった。
 振り返って見上げると、無言で微笑む背の高い男子がいたんだ。
 彼はなにも言わなかった。それが当たり前のように手伝って、そしてすぐに去ってしまうのだ。
 だから、ずっとお礼が言いたかったけれど、いつも言えず終いだった。

 橙色の図書室。長い影は楠君のもの。

 そうか。楠君だったんだ。手伝ってくれてたのも。こうして目の前にいるのも。

 穏やかな雰囲気の楠君の大胆な行動。あまりにも知っていた彼とかけ離れていて、私は驚いてしまったのだろう。なかなか思い出せなかった。
 やっとつっかえていたものがすっきりして、私は息をついた。

「そっかあ〜。楠君だったんだ」
「あれ? 気付かなかった?」

 楠君の言葉に、

「うん……。ごめんなさい」

 私は素直に詫びた。

「そっか」

 楠君は少し寂しそうに笑った。

「あ、あのね。ありがとう」
「え?」
「いつもお礼が言いたかったんだ。でもすぐにどこかに行ってしまうから、伝えられなかったの。だから、ありがとう」
「ああ」

 楠君は私の言葉に優しく微笑んだ。

「いいんだ。俺がやりたくてしてたことだから」

 そうだ、私の知っている顔はこの顔だった。控えめで穏やかな笑顔。楠君のこの笑顔を見ていると、なんだか胸が。

 ――安心もするし、胸がきゅーってなるときもある――

 突然茜の言葉を思い出して、心臓が早鐘を打ち出した。

「好きだから、力になりたかった」

 楠君の続けた言葉にますます私の心臓は落ち着かなくなった。

「今日は、強引なことしてごめん」

 楠君は体を小さくして頭を下げた。

「あの男子が早瀬さんに声をかけようとしたとき、いてもたってもいられなくなった」

 楠君はうろうろと視線をさまよわせた。

「それに、早瀬さんが困っているように見えて」
「あ」

 図星だった。私は楠君がいなかったら、どうしていいか分らなかったはずだ。持田君に返事もできなかったかもしれない。

「もしかして、助けて、くれたの?」
「というのは言い訳」

 楠君は恥ずかしそうにそう言った。

「え?」
「嫌だった。他の男子と早瀬さんが帰るのは、嫌だったんだ」

 今度は楠君はしっかりと私に言った。楠君の黒い瞳は真っ直ぐで強い光を宿していた。

 どうしてだろう。私は強引に一緒に帰ろうとしたこの男子を責められなくなっていた。持田君も同じような、大人びた目で私を見ていた。
 でも。持田君と楠君とは何かが違う。同じように普段は穏やかな二人だけど。楠君のこんな目は、私を落ち着かせなくさせる。

 心臓がさっきからうるさい。どうしちゃったんだろう。私。

 初めてのことに戸惑っていると、なにかが私の手に触れた。楠君の手だった。 
 私の小さな手は楠君の大きな手に包まれて、震えるのをやめた。そう、私の手は震えていたのだ。

 私は顔が上げられなかった。楠君の瞳に映る自分を見る自信がなかった。持田君の瞳に映っていた怯えた小さな自分が頭をよぎる。

「困らせた?」

 優しい低い声に、私が楠君を見上げると、楠君は悲しい目をしていた。

 ドクン。
 また心臓が跳ねた。苦しい。

「そんなことない!」

 思わず出た自分の声の大きさに、私は驚いた。楠君も目を丸くしている。
 楠君に悲しい顔をさせるのだけは嫌だと思った。私の知っているこの男子は笑顔が似合うんだ。