「事故のとき、運ばれたのはこの病院じゃないんでしょ」
細く、白い息が溢れて舞う。
「そうだよ。知ってたんだ、事故のこと」
「見てたから」
「え?」
「私、あの日、現場を見てたから。命に別状はないって聞いて、安心した」
濁すことなく、素直な気持ちを綴ったシンプルな言葉が、体に浸透していく。驚きよりも、彼女のなかに自分が存在していることが何よりも嬉しい。
「ごめん。心配掛けて」
「……で、どうして移植科に居たの?」
一歩近づく彼女の瞳に宿る光が、微かに揺れている。本当に蝋燭のような人だ、と思った。
「ドナーになろうと思って」
「何の?何で?」
「絵が、思うように描けなくなったんだ」
装着していた右の手袋を、装着したままの左手でゆっくり脱がす。肌の色とはほど遠い、チタン製の義手が冷気に触れる。とはいえ冷たいという感覚は、もちろん脳には伝わらない。
金属の混じった間接を折るようにして、軽くグーとパーを繰り返す。臨未はその義手に視線を注いだまま、自身の掌に仕草を映した。
「左手は?」
仕草を終えて、彼女は訊く。
「こっちは無事だったよ。右だけ、切断したんだ」
「そう。……痛かった?」
「うん。大分。これを装着したばかりのときも、違和感というか……痛みはあったけど、切断する前の痛みより大分良かったよ」
この手を見せると、大抵は目を逸らすなり、憐憫の目を向けられる。だからいつも手袋で覆っていた。
それなのに、まじまじとチタンの筋を辿る彼女の視線には、そのどちらも感じられない。興味などまるでなさそうな、だけどどこか吸い付くような瞳に、心臓がドクドクと鳴る。
「三ヶ月……。たった三ヶ月の間に腕を失って、義手になって、」
「速いよね。数年前までは、適合する義手の製作に時間がかかってたみたいなんだけど。今は断端が綺麗になる前に、AIが適した腕の形状を検知してくれるんだよ。だから、製作過程がかなりスムーズになったんだって、先生が言って——」
「そうじゃない」
ギシギシと間接を動かした義手に、彼女の手が触れる。白い息は刺すように落とされ、よく回っていた舌がチクリと疼いた。
「その短期間で、思うように描けないから、自暴自棄になったの?だから、移植しようなんて思ったの?」
感覚がないせいで、判らなかった。彼女の手は義手に触れているのではない。強く、僕を攻め立てるように握りしめている。面倒を見てくれている祖母でさえ、これまで滅多に触れてこなかったのに。
「あの、臨未ちゃ——」
「まあ、とりあえずいいわ」
僕はとりあえず、と前置きされた言葉を反芻しながら、マフラーに埋まった美しい顔を見据えた。小ぶりな鼻先と唇がピンク色に染まっていて、先ほどの威厳が嘘のように愛らしい。
「これから、私の言う通りにしてほしいの」
コート越しの、胸元辺りに弾痕を残される。鋭利に尖った彼女の指は、簡単に心臓の位置を押し当てた。
*
静岡県西部のターミナル駅である浜松に訪れるのは、人生で三度目だ。
多くの楽器メーカーが集う“音楽の町”として有名なこの地には、楽譜をパッケージデザインのモチーフにした土産や、楽器博物館が駅前にあるということを、僕は知っている。駅から徒歩圏内にある大学のオープンキャンパスと、推薦入試のために訪れた際に知ったのだ。
すでに合格通知も貰っているので、春からは一時間半かけて通うことになる。だけどまさか、三度目がこんな形で訪れるなんて——人生は、何が起こるかわからない。
北口方面に歩く華奢な背を見失わないように、付いていく。スキニーに覆われた足は、迷いなく進んでいく。
改めて見ても、ちゃんとご飯を食べているのか心配になるくらいに、全体の線が細い。彼女に背負われている黒いリュックは、上半身を易々と覆い隠している。
「ここ、下るよ」
制服とは一転、襟の立った青のウィンドブレーカーに身を包んだ彼女は、スポーティーでも十分美少女だ。振り返った横顔にドキリとしながら頷くと、エスカレーターで地下へと潜った。
約二時間半前。
——これから、私の言う通りにしてほしいの。
そう言った臨未は、すぐに詳細を続けた。後輩であることを忘れてしまうような、短くも的確な指示に、抗う選択肢など無かった。
——すぐ家に帰って何着か下着を持ったら、駅の改札口に来て。……家の人には、私がうまく説明するから。
何も知らせてくれないのに、ばつが悪そうになる表情が少し可笑しかった。
何が起こるのか分からなかったのに、僕は大丈夫だと答えていた。そもそも、大抵家の人はいないのだ、と。小さなアパートに、祖母が週に二、三度行き来してくれるけれど、居なくても不審には思われないのだ、と。
家を空けると言われた訳ではないのに『下着を何着か』と告げられたせいで、勝手に口走っていた。
覚悟していたよりも、行き先は近場だったな、と今は思う。
出来る限りの下着と着替え、そして歯ブラシを詰め込んだリュックのショルダーに指を掛け、背負い直す。一度地下に潜ったのに、再びエスカレーターで浮上した地上には、バスが数台停まっていた。
「バスターミナル……?」
「そう。まだ時間あるから、ちょっとその辺座ってて」
彼女は近場のベンチを差して、僕を座らせた。浜松は三度目だけどバスに乗ったことはないので、この場所に来るのは初めてだ。
ドーナツ型になっている乗り場に沿って、緑色のバスが走っていく。
「うん……うん、そっか。体調は?大丈夫?」
撫でるような風に、臨未の声が乗ってやってくる。ベンチに座ったまま振り向くと、真後ろに居た彼女と目が合って、すぐに背を向けられた。
スマホを片手に、彼女はボリュームを落としながら通話を続ける。
「ごめんね、歩睦。礼実ちゃんにも連絡はしてるから。……うん。うん。何かあったら、すぐに教えて」
向こうから微かに聞こえてくる声は、幼く、男女の区別はつかない。……弟か、妹だろうか。
電話を切った彼女は腕時計を一瞥した後、もう一度スマホを耳に当てた。
「もしもし。……うん。ごめん、変なメッセージ送りつけて。……そう。香吏くんにしか頼めないから。訳は今度……うん、分かった」
胸が、何かに斬り付けられたようにズクンと痛む。次に漏れたのは、低い男の声だ。
「ありがとう。また連絡するから」
通話口に向かって、彼女は安堵の息を吐く。それが“カガリくん”に向けられたものだと思うと、斬り付けられた痕が妙に疼いた。
細く、白い息が溢れて舞う。
「そうだよ。知ってたんだ、事故のこと」
「見てたから」
「え?」
「私、あの日、現場を見てたから。命に別状はないって聞いて、安心した」
濁すことなく、素直な気持ちを綴ったシンプルな言葉が、体に浸透していく。驚きよりも、彼女のなかに自分が存在していることが何よりも嬉しい。
「ごめん。心配掛けて」
「……で、どうして移植科に居たの?」
一歩近づく彼女の瞳に宿る光が、微かに揺れている。本当に蝋燭のような人だ、と思った。
「ドナーになろうと思って」
「何の?何で?」
「絵が、思うように描けなくなったんだ」
装着していた右の手袋を、装着したままの左手でゆっくり脱がす。肌の色とはほど遠い、チタン製の義手が冷気に触れる。とはいえ冷たいという感覚は、もちろん脳には伝わらない。
金属の混じった間接を折るようにして、軽くグーとパーを繰り返す。臨未はその義手に視線を注いだまま、自身の掌に仕草を映した。
「左手は?」
仕草を終えて、彼女は訊く。
「こっちは無事だったよ。右だけ、切断したんだ」
「そう。……痛かった?」
「うん。大分。これを装着したばかりのときも、違和感というか……痛みはあったけど、切断する前の痛みより大分良かったよ」
この手を見せると、大抵は目を逸らすなり、憐憫の目を向けられる。だからいつも手袋で覆っていた。
それなのに、まじまじとチタンの筋を辿る彼女の視線には、そのどちらも感じられない。興味などまるでなさそうな、だけどどこか吸い付くような瞳に、心臓がドクドクと鳴る。
「三ヶ月……。たった三ヶ月の間に腕を失って、義手になって、」
「速いよね。数年前までは、適合する義手の製作に時間がかかってたみたいなんだけど。今は断端が綺麗になる前に、AIが適した腕の形状を検知してくれるんだよ。だから、製作過程がかなりスムーズになったんだって、先生が言って——」
「そうじゃない」
ギシギシと間接を動かした義手に、彼女の手が触れる。白い息は刺すように落とされ、よく回っていた舌がチクリと疼いた。
「その短期間で、思うように描けないから、自暴自棄になったの?だから、移植しようなんて思ったの?」
感覚がないせいで、判らなかった。彼女の手は義手に触れているのではない。強く、僕を攻め立てるように握りしめている。面倒を見てくれている祖母でさえ、これまで滅多に触れてこなかったのに。
「あの、臨未ちゃ——」
「まあ、とりあえずいいわ」
僕はとりあえず、と前置きされた言葉を反芻しながら、マフラーに埋まった美しい顔を見据えた。小ぶりな鼻先と唇がピンク色に染まっていて、先ほどの威厳が嘘のように愛らしい。
「これから、私の言う通りにしてほしいの」
コート越しの、胸元辺りに弾痕を残される。鋭利に尖った彼女の指は、簡単に心臓の位置を押し当てた。
*
静岡県西部のターミナル駅である浜松に訪れるのは、人生で三度目だ。
多くの楽器メーカーが集う“音楽の町”として有名なこの地には、楽譜をパッケージデザインのモチーフにした土産や、楽器博物館が駅前にあるということを、僕は知っている。駅から徒歩圏内にある大学のオープンキャンパスと、推薦入試のために訪れた際に知ったのだ。
すでに合格通知も貰っているので、春からは一時間半かけて通うことになる。だけどまさか、三度目がこんな形で訪れるなんて——人生は、何が起こるかわからない。
北口方面に歩く華奢な背を見失わないように、付いていく。スキニーに覆われた足は、迷いなく進んでいく。
改めて見ても、ちゃんとご飯を食べているのか心配になるくらいに、全体の線が細い。彼女に背負われている黒いリュックは、上半身を易々と覆い隠している。
「ここ、下るよ」
制服とは一転、襟の立った青のウィンドブレーカーに身を包んだ彼女は、スポーティーでも十分美少女だ。振り返った横顔にドキリとしながら頷くと、エスカレーターで地下へと潜った。
約二時間半前。
——これから、私の言う通りにしてほしいの。
そう言った臨未は、すぐに詳細を続けた。後輩であることを忘れてしまうような、短くも的確な指示に、抗う選択肢など無かった。
——すぐ家に帰って何着か下着を持ったら、駅の改札口に来て。……家の人には、私がうまく説明するから。
何も知らせてくれないのに、ばつが悪そうになる表情が少し可笑しかった。
何が起こるのか分からなかったのに、僕は大丈夫だと答えていた。そもそも、大抵家の人はいないのだ、と。小さなアパートに、祖母が週に二、三度行き来してくれるけれど、居なくても不審には思われないのだ、と。
家を空けると言われた訳ではないのに『下着を何着か』と告げられたせいで、勝手に口走っていた。
覚悟していたよりも、行き先は近場だったな、と今は思う。
出来る限りの下着と着替え、そして歯ブラシを詰め込んだリュックのショルダーに指を掛け、背負い直す。一度地下に潜ったのに、再びエスカレーターで浮上した地上には、バスが数台停まっていた。
「バスターミナル……?」
「そう。まだ時間あるから、ちょっとその辺座ってて」
彼女は近場のベンチを差して、僕を座らせた。浜松は三度目だけどバスに乗ったことはないので、この場所に来るのは初めてだ。
ドーナツ型になっている乗り場に沿って、緑色のバスが走っていく。
「うん……うん、そっか。体調は?大丈夫?」
撫でるような風に、臨未の声が乗ってやってくる。ベンチに座ったまま振り向くと、真後ろに居た彼女と目が合って、すぐに背を向けられた。
スマホを片手に、彼女はボリュームを落としながら通話を続ける。
「ごめんね、歩睦。礼実ちゃんにも連絡はしてるから。……うん。うん。何かあったら、すぐに教えて」
向こうから微かに聞こえてくる声は、幼く、男女の区別はつかない。……弟か、妹だろうか。
電話を切った彼女は腕時計を一瞥した後、もう一度スマホを耳に当てた。
「もしもし。……うん。ごめん、変なメッセージ送りつけて。……そう。香吏くんにしか頼めないから。訳は今度……うん、分かった」
胸が、何かに斬り付けられたようにズクンと痛む。次に漏れたのは、低い男の声だ。
「ありがとう。また連絡するから」
通話口に向かって、彼女は安堵の息を吐く。それが“カガリくん”に向けられたものだと思うと、斬り付けられた痕が妙に疼いた。