「気分爛々♪ 今日もハッピー♪ 私の瞳はカラフルな世界を見せてくれるのさ~」

 安心安全快適な電動自転車をご機嫌に漕ぐ聖花は、明るいテンポのオリジナルソングを歌う。聖花がこの歌を口ずさむ時は、決まって心が滅入っている時だった。


『……一人でいる時くらい、仮面をかぶるのは止めたらどうだ?』

 それを瞬時に見抜く白は少しの間を置いて言った。


「ぇッ⁉」

 白の言葉に聖花の心臓がドクリと跳ね、思わずペダルを漕ぐ足が止まる。
 耳が赤く色づいているのは、白の存在を忘れて歌ってしまったことへの羞恥心。瞳が動揺で揺らぐのは、真意を突いた白の言葉にだろう。


「な、なんで私が仮面を被ってると思われはるんですか?」

 聖花は電動自転車を大通りの隅に寄せ、どもりながら問う。


『この状況で気分爛々などと思う神経があるのならば逆に関心するが。それに、“私の瞳はカラフルな世界を見せてくれる”という言葉。いや、歌詞と言えばいいのか? そのフレーズと子供じみた曲調からして、幼い碧海聖花が作ったものなのだろう。それは自身を癒すものであり、負の顔を隠すための仮面。笑顔になるためのおまじない。といったところか?
 その瞳は格好の餌食だったことだろうからな。子供は思ったことをすぐ口にする。そこに良いも悪いもない。そして、純粋無垢が故に大人の言葉よく聞いている。両親や周りの大人が発す言葉を聞き、碧海聖花から離れてゆく者もいたのだろう。赤い瞳が故に、全て赤色の世界に見えているなどと思われ、あーだこーだと言われてきたのだろう?』


「ッ……」
 言葉をつまらせる聖花は苦悶するかのように下唇を噛み、電動自転車のハンドルを握る手に力を籠める。


『図星か。人の世界もこちらと変わらぬということか。なぜ人は同じ場所へいたがるのだろうな? 一般的と言う集団の枠から少しでも外れようものならば、目の敵とばかりに叩く。すぐに排除しようとする。そもそも、“一般”や“普通”とは誰が決めたモノなのだ?』


「それは……社会の常識とか、社会的一般論に基づいたり……?」


『ハッ。社会的一般論か』

 聖花の答えに対し、白は鼻で笑う。聖花の脳裏では、例のごとくアンティークチェアにふんぞり返るように座る白の映像が浮かんだ。


「いつだって社会的常識は社会が産み出すんです。社会=私達が作り出している。ということです」


『ほぉ。それが碧海聖花の言い分か』
「言い分ってわけじゃ……」
 一度は強く意見を述べてみる聖花だが、白の言葉にすぐに心が揺らぐ。


『じゃぁ聞くが。(みな)で作ったその社会的常識とやらで、それぞれの個性を排除しようとするのは何故だ? 自分の色を出せぬ世界が産み落とされたのは何故だ?』


「それは……」
 答えを見失う聖花に対し、白は言葉を投げかけ続ける。


『そもそも社会的一般論がなんだという。普通も一般も時と共に足早で変化してゆく。永遠には続かぬ“普通”も“一般”も無意味とは思わないのか? 本来この世には絶対的な普通定義も一般定義も存在しないはずだ』


「……」
 白の言葉に聖花はとうとう言葉を失った。もはやぐうの音も出ない聖花を気にすることなく、白は話を続ける。


『碧海聖花のその瞳を気持ち悪いと判断する者もいるだろう。だが同時に、その瞳を美しいと判断する者もいる。美しさと可愛さは数値化できないものだ。目の前の現実を直に受け止めるほど自分が滅入るだけだ。無意味なエネルギー消費にしかならない。
そちらの世界では美の黄金比なるものが存在する。と耳にしたことがある。だがそれは所詮、メディアが勝手に数値化しただけにしかすぎない。一昔前と比べれば、令和の美が不格好と言うこともある。
 国によっては、日本で受け入れられている美が受け入れられず、受け入れられていない美が美しいと受け入れられる。その逆もまた同じこと。美しさの基準は国によって変化する。時代によっては大きく移り変わることだろう。
そちらの世界で生きる者達はメディアに支配され、翻弄され、自分を見失っている。世に絶対的良いも悪いもない。高い視点から見れば、悪だと思っていたものが天へと変わることもある。
 己が美しいと思えば美しい。己が可愛いと思えば可愛い。心の持ちようで世界はいつだって優しく見えてくる。他者に惑わされ過ぎるな。他者の色に染まっては、自分の色がなくなってしまうぞ』


「……昨夜も仰っていましたよね。“自分軸”と。貴方の言う自分軸ってなんなんですか? 他者をシャットアウトして、我が儘に生きろってことですか?」

 聖花の口調に苛立ちが込められる。それは、白の言葉を理解できないゆえの歯がゆさからきているのかもしれない。


『時期が来れば分かるだろう。私は鍵を与えるが真実は与えない。それを掴むのは本人でないと意味がない』


「……」
 白の返答に聖花は下唇を噛み締める。不機嫌オーラ満載だ。
 二人の間には沈黙が流れ、大通りの交差点を走る車の走行音や、通行者の声だけが聖花の耳に響く。


「猫ちゃんがッ!」
 セーラー服を着た少女が叫ぶ。
 聖花は反射的に少女の視線の先に目を向けた。
 大通りの交差点。赤信号にも関わらず猫が優雅な足取りで歩いていた。


「あかんッ!」
 聖花は勢いよく地を蹴って走り出す。電動自転車が大きな音を立てて地面に叩きつけられる。
 交差点。聖花から見て左側から大型トラックが通常走行で走ってくる。猫に気づいている様子もない。
 聖花は走りながら右手を猫へ伸ばす。黒猫の尻尾が指先に触れるが、猫は俊敏に交差点を渡り切り、店と店の間に消えてしまった。


「嘘っ」
 聖花は勢い余って盛大にこける。地面と近くなったことでトラック運転手からは見えない。多数の悲鳴が響き渡る。


『馬鹿かッ』

 白が舌打ち交じりに言った直後に、『封』と唱えた。透明な光に包まれた聖花を抱きかかえるように地を蹴って転がる男性が一人。


 異変に気がついた運転手はハンドルを左へ切りながら、めーいっぱいブレーキを踏む。
 強烈なブレーキ音。路上にいた人達は悲鳴を上げながら左右に走り逃げる。各々に散らばる八人程の通行者達を轢くことも、歩道に乗り上げることもなく、トラックは止まった。


「バッ、バカヤローッ! 危ねーだろーがッ‼」

 灰色の作業着を着た三十代程の男性が運転席の窓から顔を出し、恐怖に震えた声音で叫ぶ。その顔は地獄を見たかのように血色を失っていた。


「すみません」

 地面に転がるようにしてトラックをよけた男性はスッと立ち上がり、運転手に頭を下げる。横たわっていた聖花は上半身を起こし、スーツ姿の男性の背中を見上げた。まだ状況が呑み込めていないのか、目を白黒させている。聖花の身体にはかすり傷一つついていなかった。


「気をつけーッ‼」

 運転手はそう叫び、トラックで目的地へと走り去っていった。刹那の沈黙が流れる。
 聖花を守るようにして立っていた男性は深く息を吐くと、身体全体で聖花の方へ振り向いた。そして、スッと右手を差し伸べた。







「お怪我はありませんか? ……碧海聖花さん」
「く、黒崎……先生?」
 聖花は声を絞り出す。少しの間を置き、差し伸ばされた手の平にそっと自分の指先を乗せた。


「はい。黒崎玄音です。数時間前にお会いしましたね。覚えていて頂けていたようで嬉しいです。立てますか?」

 黒崎は微笑み問いかける。聖花はコクリと頷き、黒崎の力を借りながら立ち上がる。微かに足が震えていた。


「お怪我はありませんか? 怖かったですね」
 黒崎は聖花の服や腕についた砂埃を、無地の漆黒のハンカチで優しく払い落とす。直接手で払わないところに、黒崎の紳士さを感じさせた。


「だ、大丈夫です。ありがとうございました。黒崎先生のおかげで怪我もな……⁉」

 視線を黒崎に合わせた聖花は一瞬言葉を失う。聖花の視線は黒崎の両眼を捉えていた。


「あぁ。先程でコンタクトを落としてしまったようですね」

 苦笑いしながら左手で左目を隠す。


「ぁ! ご、ごめんなさいッ」
 聖花は慌てて頭を下げる。両耳が赤く色づく。それは、自分がした行いへの怒りと羞恥心。
(自分がされて嫌なことは相手にはしーひんって決めてたのに。それやのに、自分が一番されて嫌なことをしてしもうた)


「いえ。どうかお気になさらず。似て非なる世界で生きているではありませんか。といっても、片側がコンタクトで黒くなっているので、気味悪さが目立っていますよね?」


「気味悪いなんて! その、驚いただけで。先程お会いした時とは違いましたので」
 聖花はがぶりを振り、慌てて答える。


「それは驚きますよね。大丈夫です。私は気にしていません。それに、聖花さんとは似たような色をしていますしね」

 黒崎は目を細め、自分の左目の下に人差し指をそっと置く。


「ぇ? ぁ、そ、そうですね」

 戸惑う聖花は苦笑い交じりに相槌を打つ。瞳のことを言われると心が揺れ動くのは、幼少期の頃から変わらない。


「碧海聖花さん、お家は何処ですか? 私が送りますよ」
『断れ』
「⁉」
 聖花が答える前に白から指示が入る。


「ぁ、えっと、ありがとうございます。ですが、お気持ちだけで大丈夫です。一人で帰れますので」
 聖花はしどろもどろになりながらも、申し訳なさそうに断った。


「そうですか? どうにも危なっかしいのですが……」
 黒崎はしょんぼり肩を落としながら言う。


「大丈夫です。普段は道路に飛び出したりしませんし。先程のはイレギュラーと言いますか……。本当にすみません。助けて下さり、本当にありがとうございました」
 聖花は深々と頭を下げる。


「そうですか? では、その言葉を信じますね」
 黒崎はそう言って微笑むと、じゃぁまた。と、聖花に背を向けて歩き出す。聖花はその背中に会釈をし、元の場所へと戻る。



「自転車!」
 歩行者道に転がった黒の電動自転車を起こし、問題がないか点検する。


「こ、壊れてたらどないしょぉ」
「聖花!」
 不安げに電動自転車を確認していた聖花を呼ぶ女性の声。
 聖花は反射的に顔を上げ、声がした方に視線を向ける。


「ぁ」
 桜色の電動自転車で自分の傍による響子と目が合い、聖花は安堵の微笑みを浮かべた。
「お母さ~ん」
 聖花は響子に向けて大きく手を振る。
「お母さ~ん! やないわよ! なんで連絡してくれへんかったんよ? 学校出るときは連絡する約束やったやないの。忘れてしもうたん? お母さん心配になって、ここまできてしもたやないの」
「ぁ、忘れ取った。かんにんね」
 聖花は面目なさそうに言って、ペコリと頭を下げる。
 本日は電動自転車の洗浄に気がゆき、ルーティンとなっていた母への連絡が記憶から抜け落ちてしまったようだ。だが聖花にとって、数分前の危機を響子に見られずに済んだことが不幸中の幸いだと感じていた。
 あの現場に居合わせた響子が取る言動や精神状態も分からない。聖花にとって両親のことの方が、自分の命よりも気がかりなのだから。


「怪我とかしてへんの? 危ない目にあわんかったん?」
 電動自転車からおりた響子は聖花の両腕を掴み、怪我はしていないかと安否を確認する。


「ぁ、うん」
 聖花はどこかぎこちなく頷きながら作り笑顔を見せる。


「……今、目逸らした。また嘘ついてるんとちゃう? お母さんにはあんたの嘘なんてすぐに見破られるんよ。大体、なんでそんなに電動自転車を確認してたんよ?」
 響子はどこか咎めるような口調で言いながら聖花の電動自転車を指さす。


「ぁ、えっと……不注意でこけそうになってしもうて、電動自転車から飛び降りるようにしたから、壊れへんかったやろか? ……という図でありました」
「……そんな図はいらへんけどね。お願いやから気をつけてーや」
 響子は苦笑いしながら言った。


「大体、木刀も持っていかんと学校に行って。私が進めたスタンガンも断る……」
「わー。わーっ」
 聖花は頭上で両手を振りながら騒ぐ。木刀やらスタンガンやらの物騒なワードを路上にいる人達に聴かれたくないのだろう。それでなくとも、先程の一件で注目を集めてしまったのだから。


「お母さん。迎えに来てくれてありがとう。電動自転車も無事みたいやし、もう帰ろう」
 と言いながら電動自転車に跨る聖花は響子の先頭に回り、肩越しに振り向く。

「もぉ」
 不服気に息を溢す響子はすぐ柔らかな笑みを浮かべ、先に走り出す娘の後を追いかけるのだった。
 その二人の姿を遠目で眺めていたスーツ姿の男性は、不敵な笑みを浮かべる。



「碧海聖花――その優しさが仇となるだろう」
 男性はぼそりと呟き、人並みに紛れて姿を消してゆく――。