あやかし白狐~恭稲探偵事務所、真実の事件ファイル~ I

「き、きよかぁ」
 涙目の響子は震えた声で聖花の名前を呼ぶ。


「聖花、何してたん?」
 愛莉はいつもより低い声で問いかける。
「ぁ、愛莉こそ、何してるん?」
 聖花は無意識に右手で左手首を掴む。

「ん~……人質取ってる?」
 愛莉はサイコパスな笑顔を浮かべながら疑問形で答える。その瞳には愛莉の優しさも愛情といった温かいものはなく、肌と心が凍えるほど冷え切っていた。
「ッ」
 息を飲む聖花に対し、愛莉は追い打ちをかけてくる。


「聖花、おいで? あんたの大切なお母さんを殺されたくあらへんやろ?」
「ぁ、あかんッ。聖花逃げて」
 ガッ!
「ひッ‼」
 響子の喉が恐怖で鳴き声を上げる。
 愛莉はなんの躊躇もなく響子の顔の近くにナイフを振り落としたのだ。響子の血液が流れることはなかったもものの、響子の髪の毛が何本か切れる。

「やめてッ!」
 聖花は悲鳴のように声を上げる。

「うん。ええよ。聖花が大人しくこっちにきてくれたら……やけどね」
 と、不気味な笑みを浮かべる。愛莉は次の一手とばかりに、右腰付近についているポケットに左手を突っ込み、同じ型の小型ナイフを取り出した。


「ぁ、あかん……やめて。逃げて」
 響子は声を振り絞るようにして聖花を止め、愛莉の制服の腹部を両手で掴む。だが恐怖でカタカタと震える両手の力はなく、そっと添えるような形となってしまう。
 そんな微力な抵抗を気にもとめない愛莉は、姫に手を差し伸べる王子のように聖花へ手を差し伸べる。
 こうなってしまえば聖花の答えは一択となる。
 今の聖花が唯一頼れる雅博はこの場にいない。例え助けを求め叫んだとて、雅博に声が届くとは限らない。愛莉の手中に響子がいる今、雅博に助けを求める行為は危険すぎる。

 いつも助けてくれていた白は静観でもしているかのように、無反応を突き通していた。
 誰も助けてはくれないのだと、諦め混じりの重たい息を吐く聖花は、ゆっくりと愛莉に歩み寄ってゆく。



 十七時五十七分。

 聖花は拳を固く握りしめ、ジリジリと歩み寄る。
 愛莉は手を伸ばせば届く距離まで歩み寄った聖花に、まるで飼い犬に待てでもするかのように左掌を突き出す。


「?」
 呼んだのはそちらじゃないかと、怪訝な顔をしながら聖花は足を止める。
「しゃがんで」
 人差し指をフローリングを差すように下げて指示を出してくる愛莉の要望通り、聖花は両膝をフローリングにつける。
「いい子」
 愛莉はドキリとするほど優しい微笑みを浮かべたかと思うと、聖花の左腕を思いっきり引っ張り、聖花の肩口に蹲るようにして抱きしめる。その際、例のお線香の香りが聖花の鼻腔を擽ることはなかった。
 聖花はそのことにホッとした。本物の愛莉が敵ではなかったことが分かったからだ。
 それと同時に、傀儡であることを見抜くことが出来ず、傀儡愛莉を招き入れてしまった自分を悔やまずにはいられない。


「あんた、人非ざる力を借りてるやろ?」
「ぇ?」
 耳元で低く囁かれる言葉に戸惑う。
 動揺する聖花の首元から鎖骨へと指先を這わせた傀儡愛莉は、左手を勢いよく聖花から離す。


「ぁ!」
 傀儡愛莉の指先に引っかかったネックレスのチェーンが勢いよく飛び散る。
 聖花の首から外れる際にネックレスの力が作動したことにより、聖花の首元がミミズ腫れのように色づくことはなかった。


「その顔、上手くいったみたいやね」
 傀儡愛莉は手に引っかったチェーンを落とすように掌を開ける。目には見えないアイテム壊しに成功した傀儡愛莉は、なんとも満足そうな笑みを見せる。


「ッ」
 唯一とも言える盾を無くした聖花は、不安と恐怖から指先を自身の首元に当てる。


「聖花、お母さんを殺されたくないよなぁ?」
 傀儡愛莉の物騒な問いに聖花の心臓が跳ね上がる。激しく頷く聖花に対し、傀儡愛莉は持っていたナイフを床に滑らせるようにして投げ、どこか勝ち誇ったような笑みを浮かべる。


「?」
 傀儡愛莉の意図が汲み取れず、聖花は傀儡愛莉に瞳で問う。

「それで自分の命の終止符を打って」
 傀儡愛莉は冷淡な口調でとんでもないことを言い放つ。その瞳は氷のように冷え切っており、とてもじゃないが冗談などとは思えない。

「ぇ?」
 思わぬことに聖花はますます戸惑う。

「駄目ッ!」
 戸惑う聖花に、響子は悲鳴交じりに叫ぶ。
 苛立ちを露わにする傀儡愛莉は、五月蠅いッ! と声を荒げた。

「ッ!」
 肘をフローリングに立てて上半身を起こそうとしていた響子の首を両手で包み込むように抑えた。それにより、少しだけ浮き上がっていた響子の身体はフローリングにピッタリと密着する。

「ゔっ!」
 苦痛に顔を歪める響子は小さな呻き声をあげる。

「やめてッ! お母さんには何もせんといて!」
 全身の血の気が一気に失われるかのように体温を奪われる聖花は、悲鳴交じりに叫ぶ。

「なら、あんたが今せなあかんことはわかってるよな?」
 勝ち誇ったかのように意地が悪い笑みを口端に浮かべた傀儡愛莉は、優しい口調で問いながら首を傾ける。


「私は貴方の要望を組む。そのかわり、両親や友人。私の大切な人達には、指一本傷つけんといて!」
 聖花は意志が強い瞳で傀儡愛莉を睨み据える。


「ふーん。あんたはどこまでも自分の命より、他者の命のほうが大切やねんな」

 この状態に陥ってもなお、自らの命より大切な人達の命を選択する聖花に対し、傀儡愛莉はどこか不服そうに言う。


「私の要望を飲むならその手を離して。お母さんを開放して! お母さんは何も関係あらへんやないの!」

「この状況で私に指図できるとか……えらい強ぉなったもんやな」
 傀儡愛莉は、意外だ。とでも言いたげにビー玉のような瞳をさらに大きくさせた。


「早くお母さんから手を離して! そこからさっさとどいて」

 早く聖花は胸の前にやった拳を開きながら肩を後ろにスイングするかのように、どいてくれとジェスチャーをする。


「ええよ。せやけど、ここからはどかれへん。あんたの命の灯が消えることを見届けてからやないとな」

 傀儡愛莉は余裕ある口調でそう言いながら響子の首から両手を離し、お手上げポーズを取る。


「今、あんたの要望を全て飲んしまうんは安心でけへん。口先だけならなんとでも言える」
「そ、そっちやって」
 聖花はせめてもの抵抗をするかのように言い返す。

「せや。あんたが自ら命の灯を消したとしても、私があんたの要望を飲むとは限らへん。せやけど、あんたが今その行動に移さへんと、私はあんたの目の前でこの人を殺める。私の言葉を信じて灯を消してしまうか、自分の命を救うことを選ぶか――あんたはどっちの道を選ぶ?」

「ぁ、か……へん……ッ……きよ、かぁ」
 意識が朦朧としているなかでも響子は娘を想い、掠れた声で言葉を紡ぐ。

「私は……」
 聖花は意を決したかのように手を伸ばし、ナイフを手に取る。

「私は?」
 傀儡愛莉は聖花の次の言葉を促す。


「あんたを信じる」

 聖花は覚悟が決まったかのように、傀儡愛莉を射抜くような瞳で見つめながら、力強い口調で言い切った。


『フッ』
 馬鹿にしたように鼻で笑う音が聖花の左耳に届く。

「ぇ?」
 耳馴染みのある音に聖花の身体がピタリと止まる。まるで挙動不審な小動物かのように、聖花の視線が定まらない。
『よく“信じる”などと言えたものだな』
「く、恭稲……さん?」
 なぜ今になって? という思いに駆られる聖花だが、その言葉はグッと呑み込んだ。


『また、自らの命より他者の命を選ぶのか?』

 白の問いに聖花は何も答えない。


『昨日痛い目に合っているのにも関わらず、また同じ選択をするとは……悲惨なほどに学習能力がないな』

 白は溜息交じりに、哀れむような口調でそう言った。


「なっ」

『仮にもし今、碧海聖花がこの場で命を落としたとしよう。だが果たしてそれで、大切な人を守れたというのか? 自分が世界と分別してしまえば最後、何かをすることはおろか、何かを伝えることすらも不可能となる。永遠にだ。そのことを理解しているのか? そのような危険を犯し、不透明な言葉や相手を信じるほど、馬鹿げたものはない』


「なら誰をッ! 何を信じろと言いはるんです? この状況で私にどうしろって言いはられるんですかッ⁉」


『何も、誰も、信じるな』

「は?」
 聖花は白の思わぬ返答に、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をする。


『信じたければ信じて構わない。だが、最後の最後に信じるべきは自分だ。物でも人でもモノでもない。本来であれば、どんなに時が経とうとも、自分だけが自分を裏切らず、自分だけが自分を愛し続けることが出来る。自分だけが自分で望んだ世界を創作(クリエイト)でき、自分だけが自分を幸せにできる存在なのだ。ただし、それには条件が必要だ。今の碧海聖花には、その条件が揃っていない』


「条件ってなんですか? 言っている意味が分かりません」

 焦って答えを求めるかのように、聖花は頭を左右に振る。


『自ら考えろ。すぐ他者へと答えを求めるな。例えそれで扉の鍵を得たとしても、その次にはまた、違う鍵穴のついた扉が現れる。人生を歩み続けるということは、鍵のかかった扉を閉めては開けてを繰り返すようなモノだ。その度に他者から得た鍵で扉を開けていたら、碧海聖花本来の人生を歩むことなど出来ない』

「ッ」
 正論を突き返されてぐうの音も出ない聖花は、悔し気に下唇を噛み締める。


『自分の人生を、運や他者に頼り切るな。投げやりになるな。人は自分の人生を創作(クリエイト)できる。選びたい道を選べ。必要なのは意図と覚悟と決断。そして、今を生きることだ。向き合うことを恐れるな。戦いから逃げるな。どんな人生の波に抗おうとも、元を正さねば、何も変わりはしない。
 碧海聖花。今自ら命を絶つことが自分の正解か不正解かを考えろ。それとも、本気で今自分の人生を全て投げ出す気なのか? この世界を生きていたくはないのか? 碧海聖花の望みは? 今の碧海聖花が心から創作(クリエイト)したい未来はなんだ?』


「……わ、私はッ」
 聖花はナイフの柄を両手で握りしめる。


「私は、生きたい! 大切な人達と生きてゆきたいです!」

 そう宣言した聖花はナイフの刃先を傀儡愛莉に向ける。
 先程まで不安や恐怖や戸惑いの色で揺れていた瞳が、傀儡愛莉一点に絞られる。


「私は生きる。今も、これからも。そして、大切な人達も守る……貴方の要望には応えない。私は貴方を信じないッ」

 聖花は毅然とした態度でそう断言した。


「ふ~ん。それがあんたの答え?」
 傀儡愛莉はどこか興味なさげに問う。
 聖花深く頷き、ゆっくりと立ち上がる。



 十八時――。

「まぁ、合格点と言えば合格点か」

 傀儡愛莉はそう言って小さく頷く。その瞳には先程までの氷のように凍てつくものはなく、春のような優しい温かさが宿っていた。
 傀儡愛莉と響子は灰色の粒子となり、跡形もなく消えてゆく。


「え⁉」

 驚異する聖花は何事だと視線をさ迷わせ、怯える小動物顔負けにオロオロする。何が起きているのか皆目見当がつかない。


『少しは落ち着け。視線が騒がしい』
「せやかて、二人が灰に……ぇ、何が起こったんですか?」

『守里愛莉はもちろん、碧海響子も傀儡だった。ただそれだけのことだ』
「そ、それだけのことって……。傀儡だとしても、なんで突然灰になったんですか?」


『突然ではない。今回の傀儡はこちらが事前に用意していたものであり、十八時になれば二体は灰になるように設定していた』
「どうしてそんな設定を?」
 聖花は狐に抓まれたような顔をして問う。


『その必要性があったからだ。このことを知った奴は……』

「聖花!」
 聖花が答えを知ることを遮るかのように、雅博がドタバタと音を立てながら、転がるようにリビングに入ってくる。

「お父さん!」
 父の姿を見た聖花は安堵したように身体から力みを手放す。


『油断するな! 飛び退け』

「ぇ?」
 我が子の無事を安堵する雅博は娘を抱きしめる――のではなく、持っていた木刀を聖花に向って振り落とす。


「‼」
 白の忠告によって、聖花の身体は瞬時に木刀から飛び退く。が、滑り止めのついていないスリッパとフローリングの相性が悪くバランスを崩し、左膝をついてしまう。


「ぉ、お父さん?」

 なんの真似? とでも言うように苦笑いを浮かべる聖花の瞳が動揺で揺れ動く。


「ほんまに父親やと思ってるんやな」
 憐憫の眼差しで聖花を見る雅博は嘲笑う。

「ぇ?」
 様子の可笑しい雅博の姿に聖花は戸惑い、目を白黒させる。


「それよりも、聖花は今誰と話してたんや?」
「だ、誰って……」
 冷徹な眼差しを向けながら、苛立ちが滲む声音で問うてくる。聖花はそんな雅博の言葉に上手く答えられない。秘密を抱えるほど、出来る言動も限られてくるのだろう。


「隠さんでもええやん。もしかして脅されてるんか? 大丈夫やさかい。俺にゆーてみ」
 口元に笑みを浮かべながら優しい口調で話す雅博の瞳には、いつもの温かさが感じ取れない。


『面倒な奴だな』

 小さな息を溢す白は例のごとく、白狐ストラップを自身の姿へと変化させた。


「!」
 聖花の瞳には、繊細ながらも威厳と頼りがいのあるスーツ姿の白の背中が映る。

「なっ⁉」
 いきなりのことに驚愕する雅博は足を止める。
 白は脇下まで伸ばされた白髪をサラリと揺らし、肩越しに聖花を見る。


「く……とう、さん?」

 どこまでも美しく整った白の顔に、まだ見慣れていない聖花は息を飲む。驚きで涙は止まってしまったようだ。


「いつ見てもあほ面をしているな。碧海聖花。もう少し聡明な顔は出来ないのか?」

 青みがかかった紫色に、透明感のあるバイオレット・ゾイサイトを彷彿とさせる瞳が、聖花を捉える。形の良い薄い唇と切れ長の目元が微笑を浮かべる姿は、どこか怪しげだった。

「ぁ、ああ、ああんた、だっ、誰やねん? どど、どっから出てきたんや⁉」
 腰を抜かして尻もちをつく雅博は、カタカタと震える指で白を指差す。
 白はそんな雅博を呆れるかのように小さな息を吐く。そんな白の姿にハッとした雅博がまた口を開く。


「分かったで! あんたがうちの大事な娘を狙っていたんやろ?」
 雅博は恨めし気な瞳で白を睨む。それに対し白は、「とんだ猿芝居だな」と、興醒めしたような目で雅博を流し見る。


「ぉ、お父さん! この人はちゃうねん」
「聖花は黙っときぃ!」
 あらぬ誤解に焦る聖花の説明を拒むように雅博は声を上げる。その声には苛立ちと焦りが含まれていた。

「ッ⁉」
 これまで雅博から声を荒げられたことのない聖花は、身体をビクリと震わせる。恐怖で何も言い返せない。


「よくそんな台詞が言えたものだな。白々しい。碧海聖花の命を狙っていたのは其方《そなた》のほうだろう?」


「ぇ? 何を……言ってはるんですか?」
 聖花は怪訝な顔で白の背中を見つめる。零れた声は動揺によって激しく揺れ動く。


「ふ~ん。お見通しってわけか?」
「当たり前だ」
 聖花はクエスチョンマークを頭上に浮かべることしかできない。

「ということは、俺の邪魔してたんはあんたやったってわけか」
 雅博は合点がいったとばかりに話す。

「ぇ?」
 雅博の言葉に聖花の心臓がドクリと跳ねる。そうであって欲しくないという思うのに、聖花の脳内はそればかりで埋め尽くされる。
 一度生唾を呑み込んだ聖花は意を決し、「ぉ、お父さん? なんの話をしてるん?」と、答えを求めた。


「頭の回転が悪いこって。挙句に聡明さの欠片もあらへん。まぁ、ええけど。俺はな、あの日からちょくちょく、手を変え品を変えやってきたんや――せやのに、なぜか知らんけど邪魔されんねん。まぁ、お前の精神力の図太さもあるんやろーけど」

「ま、まって! ちょぉ待ってーな」
 容量がついて行かない聖花は自身を落ち着かせるために、両掌を突き出し、話を制止させる。


「ぉ、お父さん……さっきから、何を言ってるん?」
「何をって……文句?」
「なんの?」
「お前がまだこの世界にいることへの?」
 雅博は小首を傾げながら、さも当然とばかりな口調で言った。

「ッ! ぉ、お父さん……やったん?」
 精神的な打撃を受ける聖花の呼吸が浅くなる。質問するのにも言葉がつまり、スムーズに言葉が出てこない。瞳にはまた涙が滲みだす。


「碧海聖花。目の前の男へとまともに耳をかすな」

 白は聖花の心を庇うかのように凛とした声で言った。


「犯人が俺やったらどないするん? 親子の縁を切るんか? 大体、なんでお前が白狐と繋がりがあるねん? どこでどう繋がったんや?」

 雅博の言葉に呆然とする聖花は一言も発せない。世界の全てを遮断するかのように、フローリングの一点をぼんやり見つめ続ける。頬から伝う涙がフローリングにシミを作った。


「其方に答える理由はない。其方と話すだけ時間とエネルギーの無駄だ」

「さいですか。まぁ、俺もあんたと仲良うするつもりもなければ、興味もあらへんけどな」
 聖花の代わりに答えるかのような白の言葉に対し、雅博はさも興味なさげに言いながら、左小指で左耳を穿る。


「なら、この場から去るか?」

「ありえへんやろ。こちとら時間があらへんねん。本日の深夜零時までに、碧海聖花を朽ちらせなあかへんのや」
 雅博は小指についた粉のような耳垢をふぅ~っと吹き飛ばす。


「⁉」
 いきなり耳に飛び込んでくる物騒な言葉に聖花は目を剥く。


「其方の命と引き換えに……だろう? 駒の命は儚いモノだな」

「五月蠅い!」
 憫笑《びんしょう》する白への腹正しさで眉尻の血管を浮かばせる雅博は、持っていた木刀を白に向って投げつける。
 白はその木刀をいとも簡単にキャッチした。避けることも容易かったが、後ろに聖花がいてはそうはいかないだろう。

 雅博はスリムパンツの左ポケットから小型ナイフを取り出し、二人に見せつけるかのようにしてレザーカバーからナイフの刃をだす。
 傀儡愛莉が所持していた折り畳み式ナイフは、パンケーキナイフのように細身であったが、こちらは包丁のように太い。木製の茎の部分は指にフィットするように波打っており、峰の部分がノコギリ状となっていた。


「そのような陳腐な物で、この私に戦いを挑もうとでも言うのか?」
「まさか。俺はお前と話しをするつもりも、無駄な戦いに時間を消費するつもりもあらへん」
 雅博は首を竦めながら答える。


「ならどうする?」
「お前は今、碧海聖花側にいるんやろ? せやったら……」
 雅博は二人に向けていた刃を自身の首元にむける。


「碧海聖花をこちらへ渡せ。もし渡さへんゆうなら、この命はないと思うんやな」
 その言葉通り、雅博が首に刃当てて腕を右に引いた時点で、雅博の命は危ぶまれるだろう。

「やめてっ!」
 蒼白する聖花は悲鳴のように叫ぶ。


「ふ~ん。聖花は俺の心配をしてくれるんやな。えっらい優しい子に育ったもんや。せやけど、俺の命を守るってことは、自分の命を捨てることになるってわかってるんか?」
「ッ!」
 聖花は言葉につまる。

「碧海聖花。どうしたい? 守里愛莉のときと同じように、自身の命と引き換えにして、目の前の男を救うつもりか?」
 白は正面を向いたまま問う。
 聖花は白の言葉にハッとする。


(恭稲さんはお父さんのことを一度も、“碧海雅博”とは言わず、“この男”とか、“其方”ってゆうてはる。恭稲さんはいつも人のことをフルネームで呼んではった。それに、守里愛莉の時の同じように……って言葉。まるで、同じことを二度も繰り返すな。って言う忠告のようや。もしかして――)
 聖花は白の背中越しに父親の姿を見つめる。

 その姿は、今朝温かい言葉をかけ、優しく抱きしめてくれた面影はどこにもなく、狂気じみた姿だった。
 ある一つの憶測が聖花の脳裏に浮かぶ。だが、それを証明する確証も確信もないのでは、聖花がどうすることもできない。


「碧海聖花、胸の内に秘めているだけでは相手に伝わらない」


――辛いなら辛いと言えばいい。怖いなら怖いと言えばいい。嫌なら嫌と言え。痛いなら痛いと言え。助けて欲しいなら助けて欲しいと言え。伝えなければ何も伝わらない。伝わらない想いは堂々巡りとなるだけで、いつまでも消化されないままだ。


 いつかの日、白に言われた忠告じみた言葉が聖花の脳裏に過る。

 聖花の想いはちゃんとある。だがそれを素直に言葉には出せなかった。契約を破った依頼者が言っていいのか、虫が良すぎる話ではないか……と、うじうじ虫になってしまうのだ。


「碧海聖花、質問を変えよう。私に、どうして欲しい?」

 白は振り返ることなく問う。その声は幼い子に問うかのようにゆっくりとした速度かつ、優しい声音だった。


「ッ」

 聖花は小さく息を飲む。白は聖花の答えを聞かなくとも分かっているのだ。分かっていてなお、聖花の口を開かせようとしていた。

 白は相手が求めていることを、先手先手で行うだけでは意味がないことに、それは時として相手を壊すことになり得ることを知っているのだ。


「――けて」

 項垂れる聖花は自身の震える両手を揺らぐ瞳で見つめながら、擦れた言葉を発す。


「……」

 声が小さいとばかりに、白は無反応を示す。


「た、す……けて」

 途切れ途切れになりながらも、聖花は絞り出すかのように言葉を発す。一度胸の内を言葉にしたことでブロックが外れたのか、聖花は肺に思いっきり息を吸い込んで叫ぶ。


「助けて下さいッ」
「誰を?」
 白はまだ言わせたりないのか、また違う言葉を促す。
「⁉」
 口に出せたことにホッとしていた聖花の身体がまた固くなる。


「碧海聖花。本当の望みの前には、遠慮も躊躇もプライドもリミッターも不要だ。それら全て、ただの足枷にしかならない」


「うっ」

 表層部分の自分でさえ、理解していなかった自分のことを言い当てられた聖花は、耳と胸が痛むとばかりに呻き声を溢す。


「いつまで偽りの望みを望み続けるつもりだ。いつまで、本質を押し殺して生きてゆくつもりなんだ?」

 その言葉に聖花は決心したとばかりに、白の背中を見る。シワ一つついていない上質なスーツの下に隠された骨格は細身であるのにもかかわらず、相手に有無を言わせないオーラに溢れていた。


「わ、私を、助けて下さい。私の、大切な人達を……守って下さいッ。私をこの事件から救って下さい!」

 最初は躊躇したように口にしていた聖花だったが、最後は叫ぶように本願を口にする。


「碧海聖花、私が碧海聖花の本願を叶えることは容易い。だが、碧海聖花は契約を破っている。忘れたとは言わせない」
 身体全体で振り向く白は聖花を見下ろす。


「なっ」
 白に縋った聖花は、まるで話が違うではないか。というように目を丸くさせて呆然とする。
「それは……」
 聖花は自身の浅はかさと甘さを悔いるように下唇を噛み締めた。


「それでも本願を望む覚悟はあるか?」
「ぇ?」

「なんの代償も覚悟も持たぬ者が、すんなり望みを叶えられると思っているのか? 光と闇。陰と陽。メリットとデメリット。その二面性を全て受け入れて初めて、叶えられる望みがある」

「⁉」
 白の言葉が聖花の胸に刺さる。
 聖花は今まで幾度となく願いを望んできた。

 あれになりたい。こうなったら嬉しい。こうだったら良かったのに。そう心の中でぼんやりと思うだけで、どの願いにも着手することなく、願い続けることもなかった。それはきっと――今までの願いは全て聖花の本願ではなかった。ということなのだろう。

 だが、今回ばかりは違う。
 蜘蛛の糸のように細長く垂らされたチャンスの糸を掴み切らねば、聖花は一生後悔することになる。


「私は、これまで通りの平穏な日々を願います。また平和な世界で笑える日々が来るのなら、私はどんな二面性も受け入れます」

「ならば、これまでの碧海聖花は全て捨ててもらおうか」


「え?」
 白の言葉の真意が分らない聖花は当惑する。
 二人に蚊帳の外とされている雅博は痺れを切らし、「さっきからな~にをコソコソしとんねん!」と声を荒げる。


「聖花! さっさとと俺んところにこんかい! せやないと、この命どうなるか分らんでッ」
 雅博は聖花を脅す。先程よりナイフの刃が首に密着し、ほんの少しでも動けば首の皮が捲れるだろう。

「やめて!」
 飛び上がるように立ち上がった聖花は、慌てて雅博の元へ駆け寄ろうとする――が、それは叶わなかった。白が聖花の右手首を掴んだからだ。
 聖花は白の体温の低さにビクリと肩を震わす。


「先程の答えは?」

「そ、それどころやないやないですかっ」
 蒼白して焦る聖花は、白の腕を振りほどこうと自身の腕を振りまくるが、ビクともしない。
 雅博はそれをイライラしながら眺めている。ここで自分が動いては勝ち目がないことを分かっているのだろう。


「碧海聖花は私に願いを望んだ。だが、その願いを自ら叶えに行こうとしている。それがどれだけ無意味なことを理解していないだろう?」

「無意味なんてことないです! だって、私が動かな……」

「それだ」
 白は聖花の言葉を遮るように声を出す。

「へ?」
 聖花は素っ頓狂な声を出し、得意なあほ面を晒す。白の指す“それ”がなんなのか全くもって分からないのだ。


「碧海聖花は信じる力が弱すぎる。弱いが故、すぐ一人で何とかしようと無意味な行動ばかり起こすのだ」


「信じるって……さっきは誰も信じるなって言っていたやないですか」
 話しが矛盾していると、聖花はがぶりを振る。


「そうだ。ただ無意味に信じるのでは馬鹿を見る。自分が一番信じるべきは、深く眠る自分だ。損得などの無意味な計算ばかり始める思考が動く表層部分の自分を信じ切ってはいけない。第六感というもう一人の自分を信じろ。そして、相手を信じることで自分がどうなろうと、それは自分の責任であるという考えを持て。碧海聖花。碧海聖花が今信じる対象はどこだ?」


「それは……」
 聖花は雅博と白を交互に見る。この状況では答えが決まっているようなものだ。


「これまでの私を捨てるとはどういうことなんですか?」


「いつ何時、どんなことが起きようとも、過去の出来事や固定概念、未来へ囚われることなく、“本質で今を生きる”ということだ」


「初めて、答えらしい答えを与えてくれはりましたね」
 聖花の身体からㇷッと緊張の糸が解ける。と同時に、聖花の目元と口元に柔らかさが宿った。


「本当の答えである“本質”は碧海聖花にしか分らぬことだがな」

「分かりました。努力します」
 何かが吹っ切れたように落ち着きを取り戻した聖花は、大きく力強く頷いた。


「努力が無駄にならないことを願っておくとしよう」

 そう言った白は、タップダンスをするようにフローリングでつま先を鳴らす。


「ん?」
「?」
 聖花と雅博は白の唐突な行動に不思議そうな顔をする。
 それは刹那のことで、すぐに雅博の断末魔のような叫び声が響き渡る。


「ぅゔゔわわわああああーッ! っぐ、がはっ!」
「ぉ、お父さんっ⁉」
 手から零れ落ちたナイフを気にもとめず、右手で胸を鷲掴みするかのように掴んだ雅博は、苦痛に耐えるように床で叫び転げる。異様なほどの苦しみかただ。
 雅博の元に駆け寄ろうとする聖花だが、白に手首を掴まれているためそれは出来ない。
「恭稲さん、お父さんに何かしたんですか?」


「私は、碧海雅博には何もしていない」


「え?」
 意味が分からないとばかりに、聖花は眉間に皺を寄せる。雅博に何もしていないなら、何故目の前の雅博があんなにも苦しんでいるとゆうのだ。
 白は雅博に視線をやれとばかりに、聖花の視線を顎で促した。
 先程から雅博の苦しい息遣いを背中で感じていた聖花は心底心配そうに視線を移す――が、そこにいたのは、雅博以外の男性の姿が若干名。


「な……ん、で?」
 困惑する聖花から掠れた声が零れる。無理もない。そこには、黒崎玄音の姿と、例のウィッグを被った智白の姿があったのだから。


「はぁ、はぁ、はぁ」
 玄音は片膝をつき、荒い息を繰り返す。相当苦しいらしい。


「なっ、なんや……ねっん? お前、何してん⁉」
「された本人が一番理解しているはずだと思うが? それをわざわざ聞くとはな」
 と、白はせせら笑う。


「碧海雅博へと憑依した貴方を器から押し出すため、術札を使いました。貴方に憑依されたままでは面倒ですからね」
 白の代わりにウィッグ姿の智白が口を開き、雅博の背中に張り付いている術札を回収する。

「くっそ!」
 玄音は舌打ちをし、フローリングに拳を打ち付ける。

「恨みたければ細部に渡るまで手掛けなかった自分を恨むのだな。些細なミスは後で致命傷となる」
 白は冷めた口調で言いながら、聖花の手首を開放する。。


「ぉ、お父さん! お父さん、お父さんは無事なんですかっ?」
 フローリングに倒れてからずっと気を失っている雅博に慌てて駆け寄る聖花は、雅博と白を交互に見る。


「嗚呼。碧海雅博にはかすり傷一つついていない。器として消耗したエネルギーが回復すれば元通りになる」


「よかったぁ。本当に……よかった」
 犯人が父親でなかったこと、父親が自分を恨んでいなかったこと、先程までの父親の言動は全て玄音からなるものであったこと。それらに心底安堵する聖花の瞳が溢れる。
 聖花は糸が切れたマリオネットのように、へなへなとその場にしゃがみ込んだ。


「いつからや?」
「送られてきたと言われる脅迫状と碧海聖花を見た時から、そちら側を視野に入れていた」
 ギロリと睨んでくる玄音を屁とも思わぬ白は淡々と答える。

「いつ、なんで俺やって分かってん?」
「質問が多いな」
 白はさも面倒そうに小さな息を溢す。


「この時期に赴任した教師など不信でしかない。其方もそれを感じたから、二年の教師に成り済ましたのだろう? 卒業間近のクラスに新任が充てられるなど、不可解すぎる。二年であれば、碧海聖花と接点を持つ生徒がいる可能性が高い、という甘い考えもあったのだろう?」

「それだけで俺をマークしてたんか? 俺はいっさいそいつに危害を加えてへんぞ。むしろ命の恩人や」
 黒崎はそう言いながらフラフラと立ち上がる。


「嗚呼。トラックから碧海聖花を助けたのは、碧海聖花の信頼を得るため。また、カラーコンタクトが外れていることに気づいておきながら、わざと本来の瞳をさらした。そうすることで、同じ悩みを持った仲間意識を持ってもらうため。警戒心を持たれていては、後に面倒だからな。何しろ其方は主の狛狗よろしく、命令に忠実であるはずだ。ならば、碧海聖花の命をその手で奪うわけにはいかないはず」

「⁉」
 図星をつかれた玄音は瞠目する。


「脅迫状には、“我 が 手 に 堕 ち て、朽 ち て ゆ け”と表記されていた。その真意は、其方の手により堕落させた碧海聖花の精神を朽ちさせることが目的であり、自らの手で殺めることではない。ということだ。その予告通り、其方の攻撃は碧海聖花の精神をすり減らすモノばかりだった」

「例えば?」
 玄音は胸の前で腕を組み、白の推理を試すかのようにして問う。


「朝刊取りは碧海聖花の役割だと知った其方は、自らの手で脅迫状をポストに入れた。其方の予想通り、碧海聖花は家族や友人にそれを隠し、ひとときの孤独の中で怯えることなった。嘘が下手だったようで、すぐ両親に知られたがな。
 だがそれは、其方にとって好都合だったはずだ。碧海響子の精神崩壊により、碧海聖花の精神が崩壊してゆくだけではなく、自身で身を守ろうとする自立心を作らせることが出来る。両親に心配をかけぬため一人戦う少女、だけであれば容易かったろうに」

「それで?」
 玄音はさらなる答えを求める。


「次に其方は碧海聖花と面識を持つため、その容姿をダシに使い、大半の生徒達の気を引くことに成功した。その目的は碧海聖花ではなく、守里愛莉を誘き寄せるため」
「ちょ、ちょっと待って下さい。愛莉は関係ないはずです」
 聖花は思わず立ち上がり、二人の話に割って入る。


「嗚呼。だが目的を果たすためには一番好都合な人物であったはずだ。碧海聖花の絶大な信頼を得ているだけで、利用価値は高い」
「そんなっ」
 聖花は白の話に下唇を噛み締め俯いた。


「其方は守里愛莉の傀儡を作るため、守里愛莉を監視し続けていた。その間の時間も無駄にはできないとばかりに、斎藤由香里を利用した」
「斎藤さんも傀儡だったんですか?」
 話が進むたび、聖花の疑問ばかりが増えてゆく。


「いや、洗脳だ。自身に気がある人間であれば、より洗脳にかかりやすいからな」


「そいつの言う通りや。あいつは確かに扱いやすかった。些細な視線の動きまで操ることが出来た最高の道具やったわ」
「視線って……」
 ランチ会の時に斎藤由香里から、化け物でも見たかのように視線を外された時の記憶が聖花の脳裏でよみがえる。


「せや。斎藤由香里はお前が出会ってからずっと、俺の支配下におった。その目のことで精神的に追い詰めてやるつもりやったけど、お前は俺が想像してるよりも図太かった。それに対し俺は、瞳に関しての精神的痛手は、場数を踏みすぎて慣れてしもうてるんやないかと考え、さらなる精神的な打撃に手を打った。それが、お前が大好きな守里愛莉やったってわけや」

「な、なんであのとき、愛莉を呼び出したんですか?」

「傀儡がいれば本体は邪魔になる。少し考えれば分かるやろ? お前はアホなんか」


――最後に誰かに名前呼ばれたから振り返ったんやけど、そこには誰もおらんくって。気味ぃ悪ぅなって急いで教室に返ろうとしたんよ。振り向いた瞬間、首に痛みが走って。


――そこからの記憶があらへんのよ。

 保健室で愛莉が言っていた言葉が聖花の耳奥で残像のように響く。



「あの時、愛莉は女性の声がしたと言っていましたけど、やっぱり愛莉に何かしたんは先生やったんですね?」

「さぁ~どやろうな」


「校長室へと呼びだしたのは傀儡。そして、守里愛莉を名を呼んだ声は斎藤由香里のものだろう。おそらく首の痛みは、長期持続性の睡眠針を刺された痛みだろうな」
 玄音の代わりに白が答える。
「なんでそう思うんや?」

「二限目は自習となったと西条春香が言っていた。二年の三限目を調べたところ語学だったようだな。とするならば、生徒達を教える役目は其方ではなくなる。よって、其方は二限目と三時限目に自由に時間を使用することが可能。その時間内に校長室へ出向き、細工することは容易いはずだ。場所が場所だ。他の教員も何故校長室へ行くんだ? と追及することもないだろう。
 守里愛莉本人と傀儡を入れ替えた時に調べさせてもらった。0.03mmほどの赤い斑点が首に出来ていた。そこから血が流れた形跡も、首に針が残っている形跡もなかった。後々面倒になっては困ると、体内に入り込むと溶ける性質を持つ針を使ったのだろう」


「なんで守里愛莉の隠し場所が分かってん?」
「質問の多い男だな」
 既に飽き飽きしているとばかりに肩を竦める白であるが、口を開く。


「守里愛莉を捜索するためにECを飛び出した碧海聖花に対し、斎藤由香里は精神的打撃を与えにきた。そこへさも碧海聖花を守るように、其方が割って入ってきた。ここが全ての決定打となった」
「どういうことや?」
 玄音は怪訝な顔で問う。


「其方の髪が左に流れていた」


「は?」
 玄音は思いも寄らぬ白の返答に素っ頓狂な声を出し、鳩が豆鉄砲を喰らったかのような顔をする。


「校内を走っていたのであれば、風は前からしか吹かなはずだ。前から吹く風であれば、前髪が左右に分かれる。だがあの時其方の長い前髪は左へと流れていた。それは風を左から受けていた証拠であり、外にいた証拠ともなる。それにあの時の其方は、平常体温より二℃ほど下がっていた。走ってきた割には汗も滲んでおらず、とても発汗で体温が下がったていたとは思えない」


「ちょ、ちょぉ待ちぃや。なんで俺の平熱を知ってんねん!」
 玄音は焦って話を止め、問いに問いを重ねる。


「それは求める真実を知ることには不要なことだ」


「あっそ。企業秘密ってわけですか。どうぞ、そのまま続けて下さい」
 白の返答にイラっとする玄音は掌を白に向け、話の続きを促す。そんな玄音に小さく肩を竦める白は口を開く。


「其方の体重は推測60kg前後。そこに人体の比熱、約0.83をかけた場合、熱容量は49.8kcalとなり、水が100ml蒸発するのと近い熱量となる。
 健康な人体であるなら100mlの汗をかけば、体温が一度上昇するのを防ぐつくりになっている。教師に化けていたくらいだ。そんなことくらいは知っているであろう?
 一般的であれば、約100mlの汗をかくためには、夏の炎天下で十分間歩くほどのエネルギー消費が必要となる。季節は十二月の末。校内はもちろん、外を十分走ったところでそれには満たないだろう。それらにより、長時間気温が低い場所にいたということになる」


「ほぉ。で? 俺が屋外にいたとして、なぜ守里愛莉の居場所が分かる?」
 左指先を顎に当てた玄音は感心したように息を溢すが、更なる答えを求める。


「靴の音だ」


「ただの靴の音で何が分かる?」

「其方の靴の音はいつもより雑音が響いていた。校内を歩き回ったことによりチリ埃等のゴミが付着している場合であれば、いつも通りの靴の音が響くはず。だがあの時の靴の音には、砂利が絡んでいるようだった。調べたところ、この校内で砂利がある場所といえば、グリーンのフェンスに覆われたグラウンド以外はない。とするならば、その周辺の道を歩いていたことになる。
 まだ完全下校時でもないグラウンド内に、気を失っている守里愛莉を一人置き去りにするわけがない。グラウンド周辺の道を歩くかつ、授業や部活でも使用しない場所といえば――プールということが導き出せる?」


「チッ! それで、居場所を突き止めた守里愛莉とさっきの傀儡を入れ替えたって訳か」
 玄音が忌々し気に舌打ちをうつ一方、呆気に取られている聖花は白の推理にポカンとする。その両者を遠巻きで満足そうに見ていた智白は、得意げな笑みを浮かべていた。


「守里愛莉の本体はどこへやってん? 守里愛莉は今日登校してへんかった」

「手中にある傀儡が本体であると其方に思いこませるには、守里愛莉を隠す必要性がある。学びの場にいないのは当然だろうな」

「愛莉に何かしたんですか? 愛莉は今どこにいるんですか?」
 聖花は焦ったように問う。


「そう目くじらを立てるな。ただこちら側が守里愛莉をかくまい、指示を出していただけのこと。居場所は教えられないが、碧海聖花に届いたメッセージアプリは、守里愛莉本人が送ったものだ。傷一つ負っていない」

「っふ、ふふふふふッ、あははははッ」
 右手で顔を覆った玄音は自嘲気味な笑みを溢したかと思えば、壊れたように高笑いを始める。


「傑作だ! まさか碧海聖花のバックにあんたがついとるとは思わんかったわ。とんだ誤算や」
 忌々しさと腹正しさが混ざり合うような口調で話す玄音は、鬱陶しそうに右手で前髪を掻き上げる。左下瞼にカラーコンタクトが付着し、玄音本来の瞳が姿を現していた。

「なんでやッ!」
 赤ワインを溶け込ませたような宝石、ロードライト・ガーネットを彷彿とさせる瞳が聖花を睨む。

「ッ」
 蛇に睨まれた蛙のように聖花は息を飲み、硬直してしまう。


「なんで人間として育ってきたはずのお前が、こいつらと繋がってんねん。どこでどう知り会うてん?」
「其方に答える義理はない」
 聖花が口を開く前に白が答える。


「白狐は口を挟むな! 大体、碧海聖花は――っぐ!」
「キャンキャン吠えるな」
 玄音の言葉を遮るようにそう言った白は、風のごとく軽やかに玄音に近づき、耳障りだ。と、鳩尾に右膝をクリーンヒットさせた。


「な……んで、やッ」
 苦し気に呻き、両膝をつく玄音は、冷めた目で見下ろしてくる白を上目遣いで睨む。

「私は其方の望む鍵を与えない。さっさとこの場を去れ。去らぬというのならば、命はないと思え」
 白は聖花が聞いたことのない冷徹な声音で忠告する。


「だ、れがこのまま……」
 歯ぎしりをする玄音はビジネススーツの内ポケットに手を突っ込む。
 聖花は、まさか! と目を見開く。
「引き下がるかッ!」
 勢いよく取り出した拳銃の銃口を白の顔へ向けようとするも、その銃口は白の左掌に包まれる。
「なっ!」
「撃ちたければ撃て。だが、其方が引き金を引けば、私も引かせてもらう」
 白はいつの間に取り出したのか、銀の百合をボディにあしらわせた拳銃を玄音の鼻先に突きつける。


「掌に弾丸が貫通したとしても致命傷にはならないが、鼻先を打たれた其方は……」

 白は妖艶な微笑を浮かべ、首を傾ける。

 言わずもがな、頭の頂点から背骨に沿って真っ直ぐ縦に体幹がある人間は、そこが最大の弱点となり、鼻先を真っ直ぐ狙うことで、即死の確率は圧倒的に高くなる。


 一方、掌に弾丸が貫通したとしても、致死量の血液が流れなければ死には至らない。そうかと言って、玄音が本来の姿へ戻れば、拳銃が扱えない丸腰状態となるだろう。
 圧倒的に玄音が不利であった。


「くっそ」
 玄音は歯ぎしりをして白を睨む。もちろん、白に何の効力もない。


「撃ちたきゃ撃ったらええわ。どうせこちとら遅かれ早かれ命はないんやからな」
 玄音はケッ! と捨て台詞のように言った。


「ほぉ。意外と物分かりがいい」
「うっさいわッ」
 パンッ!
 銃声音よりも軽くてヘルツの低い音が碧海家に響く。その直後、玄音は後ろに倒れ込む。

「ひっ!」
 聖花の喉が恐怖で鳴るが、悲鳴を叫ぶには至らない。智白に銃口を向けられているからだ。

「いい子ですね。貴方の大声で近隣が騒ぎだしては後々面倒ですからね。貴方はそのまま大人しくしていなさい」
 知白の言葉に慄然する聖花は、コクコクと激しく首を上下させた。
「……し、死んだんですか?」

「眠っているだけだ。私が誰彼見境なく殺生すると思うか?」
 白は怖気ながら問うてくる聖花に拳銃を見せながら、そう問い返す。
 その拳銃は普通の物とは異なり、銃口部分がメガネのようなガラスレンズに覆われていた。


「拳銃……じゃ、ない?」
 聖花は目にしたことのない武器に戸惑い顔で首を傾げる。


「嗚呼。これは麻酔銃だ」


「そんな麻酔銃なんて知りません。それに、死んでないにしても麻酔法に……」
「知らなくて当たり前だ。この麻酔銃は私達の世界にしか存在せず――」
 白は聖花の足首に銃口を向ける。
 パンッ!
 先程と同じ銃砲音が家中に響く。


「⁉」
 驚愕で言葉を失う聖花は、自分の足でしっかりと立っている。撃たれたはずであろう聖花の左足にかすり傷一つなく、糸くず一つついていなかった。

「この通り、あやかしにしか効力を持たない」
 白は少し首を竦め、麻酔銃をスーツの内ポケットにしまう。
 腰が抜けた聖花はへなへなとその場にしゃがみ込む。

「それに、なぜ故私がこちらの世界の常識を守らなければならない。郷に入れば郷に従え、などという化石的考えなどつまらないだけだ」


「か、化石的って……」
 そこに対して突っ込もうと一瞬考える聖花であったが、慌てて首を左右に振って考えを改める。


「先程あやかしって仰いましたよね? いったい黒崎先生はなんなんですか?」


「黒崎玄音は人の姿をした妖《よう》狐《こ》だ」


「妖狐、ってことは、恭稲さんのお仲間だったんで……⁉」
「白様とこのような物達を同類にするなど、一体何を考えているのですか! 失礼も鼻正しいッ」
 白が口を開くまでもなく、立腹する智白が聖花の声を掻き消すように声を荒げる。

「⁉」
 聖花はビクリと肩を震わす。脳裏に浮かぶデジャヴ。
 ヴァイオリンのA線のような柔らかな色香と共に、どこか熱を感じる声音に紳士的な口調。そして、白のこととなると瞬時にその声音は低い音となり、立腹する者。聖花が知っている中でそんな者はあの者だけだ。


「貴方、まさか……」

 智白は動揺する聖花に、「貴方がお察しの通り、智白ですけど何か問題でも?」と、言葉を返す。


「ぁ、ありません。なにも」

 智白の他を寄せ付けないオーラに怯む聖花は、小さく首を左右に振る。そしてそれ以上は何も言えなくなり、事の成り行きをただ見守ることしか出来なくなってしまった。


「智白。後処理は頼むぞ」
「かしこまりました」
 智白は左掌を胸に軽く当てて会釈をする。その姿はまるで、主に使える有能な執事のようである。
 仰向けで眠っている玄音を米俵のごとく軽々と左肩に担ぐ白は、颯爽とその場を後にした。

 その場に残された意識ある二人には沈黙が流れ、無言で睨み合うかのように視線を交わし合う――。



  †



「あの~……お話してもよろしいでしょうか?」
 そっと右手を挙手する聖花はおずおずと沈黙を破る。

「なんでしょう?」
 智白はフローリングに横たわっている雅博の両膝に右腕を差し込み、左手で両肩を支えるようにして抱え上げる。二人の身長差があまりないため、雅博のつま先はフローリング擦れ擦れだ。にもかかわらず、智白は重さを感じていない程涼しい顔で抱え歩く。


「お母さんはどこにいるのでしょう?」
「それなら――」
 智白は勝手知ったる様子で二階にある碧海夫婦の寝室に入る。


「お母さんっ」
 聖花はベッドで眠る響子に駆け寄る。

「安心なさい。ただ眠っているだけです。明日の朝には、何事もなかったかのように目を覚まします」
 落ち着きある口調でそう話す智白は、抱えていた雅博を響子の右側にあるダブルベッドにそっと寝かせた。


「汝、智の道筋、我に与えたし」

 雅博の額に右手の人差し指から中指の指先をそっと添えた智白は、聖花に届かぬ声で呪文を唱える。


「よかったぁ。っていつからお母さんはここで?」
 一瞬胸を撫で下ろした聖花だが、すぐに浮かんだ疑問を問う。


「本日の早朝、碧海家の前で貴方を護衛していた碧海響子に近づき、私が乗り移りました」
「の、乗り移った?」
「私が乗り移ったところで、心身共に危害が加わるわけではないので、どうぞご安心を」
 智白はギョッとする聖花にそう言葉を付け足す。
「そ、そうですか。で、乗り移ったお母さんはいつから傀儡へ?」
 ここで一々深く突っ込んでいては、話が前に進まなくなると、聖花は次の疑問を投げかける。


「貴方がシャワーを浴びているときです。朝食の準備と称し碧海響子を家の中へ、碧海雅博を外の護衛係として、夫婦のポジションを入れ替えました。私はその隙に寝室へとお邪魔をし、白様のデーターの元に碧海響子の傀儡を産み出し、本物はこちらへ寝かせました。
 碧海響子の身体から抜け出した私は、役目の時間までこちらの部屋で身を隠していたのですよ。黒崎も同時刻、外で護衛をしていた碧海雅博に乗り移ったようですね。失敗に終わった昨日の傀儡のみで勝負に挑むとは思えません」
 智白は流暢な口調で淡々と話す。


「は、はぁ……なるほどぉ」
 人間界ではありえないことばかりを聞かされる聖花は、どこか他人事のように相槌を打つ。目に見えない存在に対してはすぐ受け入れられる聖花だが、魂を乗り移るやら傀儡やらといった、物質化したファンタジーとなると、逆に現実味を持ちにくいのだろう。
 何はともあれ、両親が無事であったことに安堵する聖花の口元からは、朗らかな笑顔が零れる。

「ご機嫌になられているところに水を差すようですが、私が先程お伝えした言葉の意味を、貴方はちゃんと理解していますか?」
 と、安堵で全身の力を抜いていた聖花に、智白は呆れた視線を送りながら問う。

「ぇ?」
 聖花は智白の言葉の真意が分からずにキョトンとする。


「私は、“何事もなかったかのように”と、お伝えいたしました」
「はい。確かにそう聞きました。明日になれば元気に目覚める。ということですよね?」
「嗚呼、やはりそうですか」
 左手で顔を覆った智白は、お労しい。とでも言うように溜息を吐き、嘆くように首を左右に振った。
「?」
 聖花は訳が分からず、キョトンとした顔で智白を見上げる。


「貴方の都合のいいように私の言葉を変換しないでいただけますか」
「どういうことですか?」
 聖花の身体に緊張が走る。


「私が言った、“何事もなかったかのように”という言葉は、二人の記憶が無くなる。ということです」
「え⁉」
 ギョッとする聖花を気遣うことなく、智白は淡々と話を進める。


「全ての記憶がなくなるわけでありません。貴方の命を狙っていた者が人の子ではないということは、この世界では対処しきれないでしょう。それに、後々面倒なことになります。そのことから、十二月十三日の早朝から現在までの記憶を全て、こちら側で処理させて頂きました。今(こん)事件に深く関わった守里愛莉の記憶も操作させて頂きます。お三人共その期間の記憶は、平和な日常を過ごしていた。という認識になっています。くれぐれも貴方から余計なことを仰らないように」
 智白は釘をさすように強い口調で言う。


「な、なんでそんなことが出来るんですか?」
「私は、知恵に携わることへの力を持つ者。人の子の記憶操作など容易いのですよ」
 智白は、ふっ。とどこか得意げに口端を上げた。


「そんな……」
「そのようなショックを受けたような顔をして、どうなされたのですか? よくよく考えてもみなさい。貴方が命を狙われていた期間の記憶がないほうが、皆にとって良いはずでしょう? 特にご両親は、また同じことが繰り返されるのではないのか? と、不安の日々を過ごされることになるでしょう。もし貴方がそれでも構わない、と言うのでしたら記憶を元に戻しますけど――どうなさいますか?」
 正論と選択を突きつけられた聖花は、一度息を飲む。
 穏やかに眠っている両親に視線を向けた聖花は、一人納得するように小さく頷く。


「このままにしておいてください。もう両親が傷ついているところも、不安で怯えている姿も見ていたくはありません。両親にも愛莉にも、穏やかな笑顔溢れる日々をおくっていて欲しいですから」
「賢明な判断ですね」
 智白は小さく頷く。

「先程愛莉の記憶も操作した。と仰っていましたけど、愛莉は今どこへ?」
 聖花は物音を立てぬよう、そっと立ち上がって問う。


「守里愛莉に協力を頂くため、貴方を守るために必要なことだと説明をし、こちら側に有利な行動をとって頂きました。ちなみに、脅迫状などのことは面倒なので伝えていません。本日の零時まではとあるホテルの一室にてかくまい、ある者が護衛をしております。零時以降は家に送り届けますのでご安心を。守里愛莉の記憶については、黒崎に呼び出された以降から、家に送り届け切った間の記憶を全て消去いたします。本日トークアプリで行われたやり取りも同様です」

「そう、ですか。記憶の件についてはそちらへお任せします。愛莉のことも守って下さりありがとうございます」
 聖花は深々と感謝の会釈をした。

「いえ。お礼であれば白様に仰って下さい。私は白様のご指示通りに動いたまで、ですので」


「……ところで智白さん。私は今後どうすれば良いのでしょうか? 今まで通り普通に生活していてもいいのでしょうか?」
 犯人として炙り出された黒崎玄音は、白が何処かへ連れ去っていったものの、まだまだ不安が残るのだろう。

「私の口からは何も言えません。十二月二十日の深夜一時三十分。私と一緒に伏見稲荷大社へ来てもらいます。そこで、今後について白様からお話があるかと思いますので」


「……私、殺されるのでしょうか?」

 この世の終わりだ。と言うような表情をした聖花は重苦しい口調で問う。


「はい?」
 思わぬ問いに、智白は怪訝な顔をする。

「だって私、探偵事務所の契約を破ってしまっていますし」
 うじうじしょんぼり項垂れる聖花を見下ろす智白は、小さな溜息を吐く。


「そんなナメクジみたいに湿っぽくなさらないで頂けますか? 大体、白様が女子供を殺生するなどありえません。そもそも、依頼者の命を奪うなど考えられぬことです。私への不安を口にするのならまだしも、白様への不安を私に問うてもしょうのないこと。ナメクジになるなら、白様に直接お聞きなさい」

 智白は白に負けず劣らずな毒舌交じりで、聖花を叱咤するように言った。
 優しい言葉や安心へと導いてくれるような言葉一つでももらえるかと、淡い期待を抱いていた聖花は、あほ面を晒す。


「品も知性もない顔をしていないで、貴方のスマートフォンを貸して頂けますか?」
「な、何をしはるんですか?」
 我に返った聖花は身構える。


「悪いようにはいたしません。DMでのやり取りなどを抹消させて頂きます。もうすぐ契約期間も終わり、貴方にとっても不要なはずですよね?」
「そ、それはそうですけど――」
「信用できませんか? この私が椿の花びら一つも色気のない小娘一人に、一体何をしようというのでしょう? 私は貴方の個人情報など微塵も興味ありません。ぐずってないで早くなさい。私は暇ではないんです」
「は、はいっ」
 瞳が笑っていない微笑みに怯む聖花は、黒のスキニーパンツの左ポケットから、速やかにスマホを取り出した。


「ロック画面を」
「で、ですよね」
 聖花は慌ててロック画面にパスワードを入力し、スマホを使用できるようにする。その際、視られて恥ずかしい物はなかったかと、アプリの確認をサッとする。
ゲームにショッピング系アプリ、サブスク系アプリが三つ。トークアプリにお小遣いアプリ。と言った女子力の欠片もないものであった。


「まだですか?」
「ど、どうぞっ」
 智白の威圧感に焦る聖花は、お供えを捧げるかのようにスマホを差し出した。一度ならず二度までも智白に怒られたことが、少々トラウマとなっていた。
 聖花にとって、白は絶対的に逆らってはいけないと本能が叫ぶ者であるが、智白も同等であると心が叫ぶ者だった。


「ありがとうございます。では、失礼して――」
 智白は一言断りをいれてからスマホを手に取り、慣れた手つきで操作する。


「ではお返しいたします」
「ぇ、もう?」
 物の一分足らずで戻ってきたスマホに驚きつつ、智白の手からスマホを受け取ってポケットに直す。


「では、私もこれで失礼いたします。またお時間になれば迎えにきます。それまではご自由に過ごされていて下さい」
 と、智白は何事もなかったかのようにその場を後にした。
 残された聖花は脱力するように項垂れる。無理もない。ずっと気をはって戦っていたのだから。
 †

 十二月二十日の深夜一時五十八分。
 聖花は智白につれられるまま、伏見稲荷大社に訪れていた。
 桜門前。右には珠を咥えたお稲荷様。左側には鍵を咥えたお稲荷様の銅像が向かい合うようにして建てられていた。


「ここでなにを?」
 鍵を咥えたお稲荷様の銅像の前に立たされた聖花は、上半身だけで振り向き、後ろに立っている智白に問う。
「すぐに分かりますよ」
 深夜二時。それはもっとも目に見えぬ世界への扉が開く時間。
 ジジジッ。低音のさざ波立った機械音が辺りに響く。


「⁉」
 何事かと、聖花は持っていた木刀を身構える。

「そのような細い木材で私を倒せるとでも?」
 今となっては耳馴染み深き声が辺りに響く。その刹那、鍵を咥えるお稲荷様の銅像の前に白が姿を現す。

「ぇ?」
 粉雪のような肌。美しいEラインを作っている綺麗な鼻。形の酔い薄い唇。脇下まで伸ばされたハイレイヤーのウルフスタイルをベースの白髪。
 右目の下にある黒子が印象的な切れ長のアーモンドアイ。バイオレット・サファイアを彷彿とさせる瞳。余分な脂肪が何処にもない八頭身を質のいいスタイリッシュなスリムスーツが包み込む。いつ何時、何処で会ったとしても、その高貴さと威厳さ、独特の色香が消えることのない恭稲白が、高い位置で腕を組みながら凛と立っている。だが、そこに実体はない。


「恭稲さん?」
 聖花は目の前にいる半透明な白を訝し気な様子で見つめる。


「今貴方の目の前にいる白様は、R3ホログラムです。そこに実態はありませんが、リアルタイムで会話が成り立ちます」
「な、なんてハイテクな……」
 智白の説明に聖花は呆気にとられる。


『五、これらの条件を罰した場合、恭稲探偵事務所なりの対処をさせてもらう。そこに対し、依頼者の命の保証はない。求める鍵の受け取りを放棄したとみなし、鍵を与えるも与えないも恭稲探偵事務所側の権利とみなす』


「へ?」
 唐突な話に聖花の口から素っ頓狂な声が零れる。


『碧海聖花はこちらが提示した契約を破った。私に命を奪われようとも、真実の鍵を与えられなくとも不平不満は通らない。その覚悟は出来ているか?』


「やっぱり私、殺されるんですか?」
 眉根を下げる聖花は、悲痛と諦めが混じる声音で問う。


『何故そう思う? 私に命を奪って欲しいのか?』

「誰も命を奪って欲しいなんて言っていません。せやけどたった今命の保証はないって仰ったやないですか」
 聖花は少しムッとしたように答えた。


『そうか。安心しろ、今は生かしておいてやる』


「今は?」


『嗚呼。“今は”だ。碧海聖花が私達の存知や恭稲探偵事務所のことを口にした場合、または、こちらに妙な詮索をかけた場合は命の保証ない。自ら死ぬことも他者から命を奪われることも、許されないことだと肝に銘じておけ』

「ッ!」
 聖花は初めて向けられる白の冷徹な眼差しに息を縫む。美しい顔立ちも相まって、余計に恐ろしい。


『碧海聖花の命を脅かす者から一日二十四時間、身の回りを監視しながら命を守ることと並行し、命を脅かす者へと通じる鍵を与える。という契約内容を覚えているか?』

「はい」


『碧海聖花はしばらく私の監視下に置く。それと、命を脅かす者へと通じる鍵は渡さない』


「ど、どういうことですか?」
『質問は受け付けない。契約を破ったのはそちらだ。こちらがどう対応しようと口出しする資格はないはずだ』
「それはそうですけど……」
 それでも横暴すぎる。という本音をグッと呑み込む。


『横暴、傍若無人で結構。恨みたければ自分を恨むことだ。私には何の否もないからな』
「⁉」
 胸の内を読まれたかと目を見開く聖花に、白は話を続ける。


『安心しろ。碧海聖花の生活を縛るつもりも、監禁するつもりもない。碧海聖花はただ普通に日常を過ごしていればいい』


「今まで通り生活していてもいいと?」

『嗚呼。だが人は一秒ごとに変化する生き物だ。今まで通りの生活などどこにも存在しない。少なくとも、碧海聖花は恭稲探偵事務所を訪れ、私と縁(えにし)を繋いでしまった。知らなかった頃には戻れぬと思え』


「……私はもう命を狙われないんですか? 犯人は黒崎先生だったんですか?」


『先程、命を脅かす者へと通じる鍵は渡さない。と伝えたはずだが――記憶喪失にでもなったか?』


「なっていませんし、ボケてもいません! ただ……不安なんです」
『黒崎玄音という不安の芽は摘み取った。だが、碧海聖花がまた不安の種を育てれば、いずれその芽は花を咲かす。起きていないことをうじうじ考えるな。そんなうじうじ虫では生きにくいだろう』
「挙句にナメクジです」
 智白は聖花の背後から悪態をつく。


「ふ、二人して何なんですか一体! 私は虫じゃありませんし、ナメクジでもありませんッ」
 プリプリする聖花を白と智白が鼻で笑う。


『そうだ。それでいい』
「?」
 白の言葉の意味が分からぬ聖花は小首を傾げる。


『怒りたければ怒れ。嫌なら嫌と言えばいい。笑いたければ笑い、喜びたければ素直に喜べばいい。泣きたければ泣き、助けて欲しいなら声をあげる。そうやって感情の赴くまま、風の吹くまま、“今”を丁寧に生きていればいい。
 今がいい状態であろうと、悪い状態であろうと、今この瞬間が永遠に続くわけではない。今朝傍にいた者が、夜には自分の傍からいなくなる。そんなことが普通に起こる世界の中で我々は生きている。それはこちらの世界でも、そちらの世界でも変わらぬ事実だ』

 穏やかな口調でそう話す白は刹那、自嘲気味な笑みを口元に浮かべた。


「恭稲……さん?」
 その刹那の表情を見逃さなかった聖花は、白の顔を心配そうに覗き込むかのようにしながら名を呼ぶ。


『両耳についているピアス以外を智白に渡し、自分の世界へと戻れ。陽(ひ)が昇り切れば、新たな始まりが幕を開ける』
「……はい」
 先程の白の表情は気のせいだったのかも知れないと、自分を納得させる聖花は、言われるがままに貼るピアス以外のアイテムを智白に返却した。


『いいか、碧海聖花。どこでどんな生き方をしようと勝手だが、碧海聖花の命は私の手中の中だということは忘れるな』

 白はそう言い残し姿を消す。


 R3ホノグラムの光を失った銅像前は頼りない月明かりだけとなる。



「家まで送りますよ。満月に近いと言えども、夜道は夜道」
 智白の言う通り、月の約七十%が姿を現しているとはいえ、街灯もロクにない夜道。その上、皆が寝静まり住宅の明かりすらない闇夜だ。


「ぇ?」
「契約終了時間は、十二月 二十日 深夜二時四十三分。現時刻は深夜二時十分。まだ契約終了時刻になっていません」
「ぁ、なるほど。最後の最後まで守って頂けるのですね」
「それが白様の御意向です」
「恭稲さんの?」
「ほら、早く行きますよ。もしご両親が目を覚ましてしまっては面倒なことになります。私に余計な手間をかけさせないで下さい」
 智白は白に対しての雑談はしないとばかりに、闇夜を先に歩き出す。聖花はそんな智白の背中を慌てて追いかけるのだった。

 †

 無事に家まで送り届けられた聖花は、自室のベッドに盛大な溜息をつきながら、うつ伏せに倒れた。


「……ほんまに、これで終わったんやろか?」
 現実味のない一週間を過ごした聖花にとって、まだ心から安心感を得ることが出来なかった。それもそのはずだ。聖花にとってこの事件は謎が多すぎる。
 なぜ自分が命を狙われ、“呪われし血を持つ者”などと言われなければならないのか。
 なぜ、これまで面識がなかったはずの黒崎玄音に狙われなければならなかったのか。
 白につれさられた黒崎はどうなったのか。
 そもそもなぜ、自分があやかしの恨みをかってしまったのか――深く考えれば考えるほど、真実の扉が固く閉ざされていくようだった。


「……」
 聖花は何を思ったか、自分の枕と木刀を手に、両親の寝室へと足を向けた。

「まだ寝てる」
 二人はあれから目を覚まさない。夕飯も食べずに眠り続けている。
 聖花は持っていた木刀を響子のベッドサイドテーブルにそっと立てかけた。


「二人共ほんまに大丈夫なんやろか?」
 二人がこのまま目を覚まさなかったらどうしよう。という一抹の不安を抱える聖花は、響子の布団に潜り込む。
 響子の左隣に自分の枕を置いて横になる。
 ふわりと、響子愛用の柔軟剤の香りが聖花の鼻腔を擽る。その香りは、聖花が幼い頃から嗅いでいる母親の香りであり、心身共に安堵する香りだった。


「おやすみなさい」
 聖花は響子の背に抱き着くかのようにして、深い眠りにつくのだった――。

  †

 翌朝。
 十二月二十日。早朝六時。
 響子のベッドサイドテーブルにある目覚ましが控えめな音を立てる。


「ん?」
 目を覚ます響子はすぐ異変に気がつく。
 いつもは自分の部屋で眠っているはずの娘が、自分の身体にしがみつくかのようにして、スヤスヤ眠っているのだ。


「……ど、どないしたんやろ?」
「ん? どないした響子?」
 響子は目を擦りながら上半身をベッドから起こす雅博に向け、静かに。とでも言うように、自身の唇に人差し指を当てる。

「?」
 響子は不思議そうにする雅博に見せるかのように、聖花を指差す。
「どないしたん?」
 聖花に気づいた雅博は目を見開き、小声で話す。

「分からへん。怖い夢でもみたんやろか?」
「怖い夢って……もう高校を卒業しようかしてる子が母親のベッドに潜り込むかね?」
 不思議そうにそう言いながらベッドを抜け出す雅博は物音を立てぬように、クローゼットからビジネススーツのスラックスとYシャツ、肌着達を取り出してゆく。

「なんか、よっぽど怖かったんちゃう?」
「ホラーに強い方やのにな。まぁ、ええわ。今朝は俺が朝食作るから、聖花が起きるまで一緒におったりぃ」
「ええの?」
 響子はきょとんとするも、嬉しさを隠しきれていない。

「ええよええよ。簡単なもんしか作られへんけど」
 そう小声で話す雅博は着替えを持ち、寝室を後にした。
 残された響子は、穏やかな顔でスヤスヤ眠っている愛する娘の頭を優しく撫でた。それはまるで、聖母マリアのように温柔な笑顔だった。



「ん~……」
 夫婦が目覚めて十五分後に目を覚ました聖花は、肌寒さから逃れるように布団にもぐる。
「いやいや。あんたいつまで寝るつもりやの。まだ冬休みとちゃうんやで?」
 聖花の行動に対し、難儀な子やなぁとばかりにツッコミを入れる。
「ぇ?」
 耳馴染みのある声が頭上から響き、聖花は飛び起きる。ベッドに腰掛けて料理雑誌をパラパラと見ていた響子と視線が合う。


「なんで?」
「いや、それはこっちの台詞やと思うんやけど」
 聖花の反応に微苦笑を浮かべ、見ていた雑誌を片付ける。

「ぁ、そっか。せやせや」
 意識がハッキリしてきた聖花は今までのことを走馬灯のように思い出す。

「ところで聖花」
「な、なに?」
「あんたコレどないしたん?」
 と、ベッドサイドテーブルに立てかけていた木刀を手に取り、聖花に見せる。

「ぁ、ああ~これは――って、覚えてないん?」
「何を? あんたまだ寝ぼけてるん?」
 その返答で全てを理解した聖花は慌てて、「ううん。なんでもない。間違えた。気にせんといて」と、言い訳を言いながら木刀を手に取る。

「気にせんとってって言われても……木刀持ってきて、人の布団に潜っとったやなんて――どう考えても可笑し過ぎると思うんやけど」
「それは~」
 聖花は視線を泳がし、何かいい言い訳はないかと模索する。

「まぁええけど。おねしょせんくて良かったなぁ」
「え? なんでそうなるん⁉」
「それほど怖かったんやろ? まぁ、ええやん。愛莉ちゃんには秘密にしといたるから」
「……まぁ、せやね。そりゃまぁ、おおきに」
 ここで余計なことを言わぬほうが利口だと考えた聖花は、苦笑いしながらも渋々響子の言葉を受け入れる。


「お父さんが朝ごはん作ってくれてるから皆で食べよう? うちは先にリビング言ってるさかい」
 響子は穏やかな笑みを向け、スリッパの音をパタパタと響かせながらその場を後にした。
 聖花はそんな響子の背中を穏やかな笑みを浮かべながら見つめた。


「ほんまに、覚えてないんやね」
 聖花はホッとしたような、だけどもどこか寂しいような複雑な気分を抱えながら、着替えを取りに行くため、自室へと戻る



「本当に消されてる」
 聖花は昨日まであったアプリ、skyblueが消されていることに、少しの寂しさを感じた。

「愛莉はどうしてるやろ?」
 愛莉とのトークアプリを開くと、昨日の愛莉とのやり取りもしっかり消去されていた。


[愛莉~]
 聖花は愛莉を呼び掛けてみる。
 既読はすぐにつき、ほどなくして返信が届く。


[聖花おはよう]


[どないしたん? 朝から連絡してくるなんて珍しいやないの]


[どっか具合でも悪いんか?]
 聖花は愛莉の問いから推測して、愛莉の端末でも昨日のトークは抹消されているのだろうと気がつく。それでも聖花は、いつも通りの愛莉の返信に口元が緩む。


[愛莉おはよう]
[もう元気~]
[今日も学校行く。愛莉は?]
 と、連続送信する。


[元気でなにより]
[もちろん学校いくで]
 すぐに返信が届き、聖花は嬉しそうに笑みを浮かべる。


[迎えに行く!]
[ぇ? なんで? そんな早ううちに会いたいんか?]

[せやね。今、めっちゃ愛莉に会いたいわ]
[告白ですか(笑)? まぁええわ。じゃぁお迎え待ってます]

[はーい]
 聖花はご機嫌にトークアプリを閉じ、身支度を始めた。
 昨日の今日ではまだ安全面に安心感が持てないため、白に教えてもらったように愛車である電炉う自転車を洗浄してから、愛莉の家に向かう聖花であった。
  †

[ついたー]
 愛莉の五階建て鉄筋コンクリートマンションの下で電動自転車を止めた聖花は、愛莉にメッセージを送信する。


[今から下りる]
 とすぐに返信が届き、聖花はそわそわと落ち着かない様子で愛莉を待った。まるで彼氏彼女を待つそれのようだ。


「聖花、お待たせ」
 聖花はオートロック式のガラス扉から出てきた愛莉をじっと見る。

「ど、どないしたん? うちの顔になんかついてるか?」
 その熱い視線に戸惑う愛莉は、食べ物がつきでもしているのかと、自身の顔を触る。


「愛莉元気? どこか具合悪い所はあらへん?」
「はぁ? な、ないけど? どないしたんやいきなり」
「ならええねん」
 聖花は愛莉に駆け寄り、さりげなく香りを確認する。愛莉特有のお線香の香りが聖花の心を落ち着けた。


「うんうん。いつもの愛莉やね」
「……あんたはいつもとちゃうな。風邪でもひいたんとちゃうの?」
「風邪なんてひいてへんよ。元気元気! さっ、学校行こ~」
 乗ってきた電動自電車に跨った聖花は愛莉を待つ。


「はいはい」
 愛莉は桜色の電動自転車に跨る。
 二人は他愛のない会話を交わし合いながら、平和に登校するのだった。



 登校してからも聖花は、しばし心から安心できずにいた。


 聖花は安心感を求め、西条春香を探して一緒に昼食を取りながら、それとなく黒崎のことを探りを入れた。
 春香の話によれば、身内の不幸があったとのことで、今朝いきなり黒崎から退職届が送り届けられたらしい。
 その話しを聞いたことで、聖花はやっとピンっと張っていた糸を緩ませることが出来た。
 それにショックを受けたのは愛莉だった。


 学校唯一の美男子が去っていった~。私のオアシスが~。などと、何事もなかったように残念がる愛莉に対し、苦笑いするしかない聖花だった。
 聖花は黒崎玄音が退職したのにも関わらず、全く姿を現すことのない斎藤由香里のこともあり、記憶の一部を消滅させたことが本当なのだと実感する。
 もちろんここ一週間の出来事を聖花の口から話すことはなかった。あれは悪い夢をみたのだと思うことにしたのだ。


 両耳につけ続けている貼るピアスを除き、聖花に元の平和な生活が聖花に戻ってきたのだ。


 事件のことや白との出会いによって精神的な強さを手にした聖花は、以前よりも少しだけ胸をはっり、穏やかで幸せな日々を大切な人達と共に過ごしてゆくのだった――。
 二十××年十二月二十三日。
 深夜零時。
 

 本革と天然木が融合される高級感溢れるレザーチェアに長い足を持て余すように組み、余裕のある作りをした背もたれに深く背を預けている二十代後半ほどの青年が一人。


 青年はその右手に持つ一枚の写真をどこか慈しむように、だけどもどこか苦しそうに眺めていた。
 青年の背後にある大きな窓ガラス。開け放たれたウッドブラインドから差し込む月光が青年の濁り一つない白髪を輝かせる。


「白様、明かりもつけずに考え事ですか?」
 ヴァイオリンのD線からA線のような柔らかな色香と共に、どこか熱を感じる声音が恭稲探偵事務所に響く。

 白髪(はくはつ)には少しツヤやハリがない印象があるものの、それは白同様に年齢からなるものではない。
 真ん中分けセミロングにセットした五十代前半程の見目を持つ男性が、牛革で作られたA五サイズほどの白色が印象的なシステム手帳を手に白を見る。
シャープなフェイスラインに、少し煌めきが薄れたパープルスピネルを彷彿とさせる瞳。目尻や口元にほんのりある皺が年齢を感じさせるが、その整った顔立ちは人間離れをしており、白と並べば圧迫感や威圧感さえ与える――智白だ。


「事件をまとめてくれているのか?」
「えぇ。その後、黒崎玄音は?」
「さぁな。洗い浚い吐かせた後、一番近くの河川敷に捨ててきた」
「その結果?」
 智白は出入り口の壁に背を預け、システム手帳に万年筆で文字を綴ってゆく。最新デジタルを駆使する白に対し、智白はアナログ派だ。


「一応GPSもスーツの内ポケットに忍び込ませたが、何者かに壊されたようだ。黒崎本人が気づき壊したのか、それとも……」
「例の者の仕業か――。それで、何故碧海聖花の記憶も消されなかったのですか?」
 白は通常であれば、依頼者の事件を解決し、契約期間が終了した時点で、依頼者とその事件に巻き込まれた人物達が持つ一定期間の記憶を、一つ残らず消去していた。
 一度知ってしまえば、知らなかった頃には戻れない。何かの拍子で依頼者が口を滑らし、白達の存在が公にされてしまう危険性がある。
 恭稲探偵事務所へと繋ぐ暗号の答えがネットに出回らないのは、それが一番の要因だった。依頼者が契約を守っているわけではなく、白達が裏から手を回し、自ら守っていただけに過ぎない。


「碧海聖花は別だ」
「あの事件に、あの人に繋がっているかもしれないから――ですか?」
「さぁな」
 白はそれ以上の詮索は不要だとばかりに持っていた写真を手帳にしまう。

 そんな白に小さく肩を竦める智白は、高さ174cm、横幅95cm、奥行き50cm程の英国クラシックなブックショルフの前に歩み寄る。
 スーツの左ポケットから鍵を取り出した智白は、ガラス引戸書庫を開ける。
 下段にはワインレッド色のシステム手帳が十冊収納されており、上段には、智白が持つシステム手帳と同じ物が一冊置かれていた。
 恭稲探偵事務所は今年設立したばかりでありながら、依頼者は白が選びに選び抜いている。白の目的は事務所を経営させ、探偵として生き続けることでないのであれば、手掛けた事件数は多くないだろう。
 それでも探偵としてやってゆけるのは、天性のものと、下積みのような時代を経験してきたことが大きいだろう。


「碧海聖花はどうしますか?」
「あの者へ」
「かしこまりました。西条春香のほうはどうなされますか?」
「暫くは様子を見る」
「かしこまりました」
 白の指示を読み取った智白は、持っていたシステム手帳を上段に収納する。背表紙には、[恭稲探偵事務所、真実の事件ファイルⅠ]と、バイオレット色の文字で刻印されていた。




「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば――」

 闇夜に薄く差し込む月光の中、望月の歌を囁くように口ずさむ白の声が、どこか寂し気に恭稲探偵事へ響くのだった――。

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