「恭稲さん、お父さんに何かしたんですか?」


「私は、碧海雅博には何もしていない」


「え?」
 意味が分からないとばかりに、聖花は眉間に皺を寄せる。雅博に何もしていないなら、何故目の前の雅博があんなにも苦しんでいるとゆうのだ。
 白は雅博に視線をやれとばかりに、聖花の視線を顎で促した。
 先程から雅博の苦しい息遣いを背中で感じていた聖花は心底心配そうに視線を移す――が、そこにいたのは、雅博以外の男性の姿が若干名。


「な……ん、で?」
 困惑する聖花から掠れた声が零れる。無理もない。そこには、黒崎玄音の姿と、例のウィッグを被った智白の姿があったのだから。


「はぁ、はぁ、はぁ」
 玄音は片膝をつき、荒い息を繰り返す。相当苦しいらしい。


「なっ、なんや……ねっん? お前、何してん⁉」
「された本人が一番理解しているはずだと思うが? それをわざわざ聞くとはな」
 と、白はせせら笑う。


「碧海雅博へと憑依した貴方を器から押し出すため、術札を使いました。貴方に憑依されたままでは面倒ですからね」
 白の代わりにウィッグ姿の智白が口を開き、雅博の背中に張り付いている術札を回収する。

「くっそ!」
 玄音は舌打ちをし、フローリングに拳を打ち付ける。

「恨みたければ細部に渡るまで手掛けなかった自分を恨むのだな。些細なミスは後で致命傷となる」
 白は冷めた口調で言いながら、聖花の手首を開放する。。


「ぉ、お父さん! お父さん、お父さんは無事なんですかっ?」
 フローリングに倒れてからずっと気を失っている雅博に慌てて駆け寄る聖花は、雅博と白を交互に見る。


「嗚呼。碧海雅博にはかすり傷一つついていない。器として消耗したエネルギーが回復すれば元通りになる」


「よかったぁ。本当に……よかった」
 犯人が父親でなかったこと、父親が自分を恨んでいなかったこと、先程までの父親の言動は全て玄音からなるものであったこと。それらに心底安堵する聖花の瞳が溢れる。
 聖花は糸が切れたマリオネットのように、へなへなとその場にしゃがみ込んだ。


「いつからや?」
「送られてきたと言われる脅迫状と碧海聖花を見た時から、そちら側を視野に入れていた」
 ギロリと睨んでくる玄音を屁とも思わぬ白は淡々と答える。

「いつ、なんで俺やって分かってん?」
「質問が多いな」
 白はさも面倒そうに小さな息を溢す。


「この時期に赴任した教師など不信でしかない。其方もそれを感じたから、二年の教師に成り済ましたのだろう? 卒業間近のクラスに新任が充てられるなど、不可解すぎる。二年であれば、碧海聖花と接点を持つ生徒がいる可能性が高い、という甘い考えもあったのだろう?」

「それだけで俺をマークしてたんか? 俺はいっさいそいつに危害を加えてへんぞ。むしろ命の恩人や」
 黒崎はそう言いながらフラフラと立ち上がる。


「嗚呼。トラックから碧海聖花を助けたのは、碧海聖花の信頼を得るため。また、カラーコンタクトが外れていることに気づいておきながら、わざと本来の瞳をさらした。そうすることで、同じ悩みを持った仲間意識を持ってもらうため。警戒心を持たれていては、後に面倒だからな。何しろ其方は主の狛狗よろしく、命令に忠実であるはずだ。ならば、碧海聖花の命をその手で奪うわけにはいかないはず」

「⁉」
 図星をつかれた玄音は瞠目する。


「脅迫状には、“我 が 手 に 堕 ち て、朽 ち て ゆ け”と表記されていた。その真意は、其方の手により堕落させた碧海聖花の精神を朽ちさせることが目的であり、自らの手で殺めることではない。ということだ。その予告通り、其方の攻撃は碧海聖花の精神をすり減らすモノばかりだった」

「例えば?」
 玄音は胸の前で腕を組み、白の推理を試すかのようにして問う。


「朝刊取りは碧海聖花の役割だと知った其方は、自らの手で脅迫状をポストに入れた。其方の予想通り、碧海聖花は家族や友人にそれを隠し、ひとときの孤独の中で怯えることなった。嘘が下手だったようで、すぐ両親に知られたがな。
 だがそれは、其方にとって好都合だったはずだ。碧海響子の精神崩壊により、碧海聖花の精神が崩壊してゆくだけではなく、自身で身を守ろうとする自立心を作らせることが出来る。両親に心配をかけぬため一人戦う少女、だけであれば容易かったろうに」

「それで?」
 玄音はさらなる答えを求める。


「次に其方は碧海聖花と面識を持つため、その容姿をダシに使い、大半の生徒達の気を引くことに成功した。その目的は碧海聖花ではなく、守里愛莉を誘き寄せるため」
「ちょ、ちょっと待って下さい。愛莉は関係ないはずです」
 聖花は思わず立ち上がり、二人の話に割って入る。


「嗚呼。だが目的を果たすためには一番好都合な人物であったはずだ。碧海聖花の絶大な信頼を得ているだけで、利用価値は高い」
「そんなっ」
 聖花は白の話に下唇を噛み締め俯いた。


「其方は守里愛莉の傀儡を作るため、守里愛莉を監視し続けていた。その間の時間も無駄にはできないとばかりに、斎藤由香里を利用した」
「斎藤さんも傀儡だったんですか?」
 話が進むたび、聖花の疑問ばかりが増えてゆく。


「いや、洗脳だ。自身に気がある人間であれば、より洗脳にかかりやすいからな」


「そいつの言う通りや。あいつは確かに扱いやすかった。些細な視線の動きまで操ることが出来た最高の道具やったわ」
「視線って……」
 ランチ会の時に斎藤由香里から、化け物でも見たかのように視線を外された時の記憶が聖花の脳裏でよみがえる。


「せや。斎藤由香里はお前が出会ってからずっと、俺の支配下におった。その目のことで精神的に追い詰めてやるつもりやったけど、お前は俺が想像してるよりも図太かった。それに対し俺は、瞳に関しての精神的痛手は、場数を踏みすぎて慣れてしもうてるんやないかと考え、さらなる精神的な打撃に手を打った。それが、お前が大好きな守里愛莉やったってわけや」

「な、なんであのとき、愛莉を呼び出したんですか?」

「傀儡がいれば本体は邪魔になる。少し考えれば分かるやろ? お前はアホなんか」


――最後に誰かに名前呼ばれたから振り返ったんやけど、そこには誰もおらんくって。気味ぃ悪ぅなって急いで教室に返ろうとしたんよ。振り向いた瞬間、首に痛みが走って。


――そこからの記憶があらへんのよ。

 保健室で愛莉が言っていた言葉が聖花の耳奥で残像のように響く。



「あの時、愛莉は女性の声がしたと言っていましたけど、やっぱり愛莉に何かしたんは先生やったんですね?」

「さぁ~どやろうな」


「校長室へと呼びだしたのは傀儡。そして、守里愛莉を名を呼んだ声は斎藤由香里のものだろう。おそらく首の痛みは、長期持続性の睡眠針を刺された痛みだろうな」
 玄音の代わりに白が答える。
「なんでそう思うんや?」

「二限目は自習となったと西条春香が言っていた。二年の三限目を調べたところ語学だったようだな。とするならば、生徒達を教える役目は其方ではなくなる。よって、其方は二限目と三時限目に自由に時間を使用することが可能。その時間内に校長室へ出向き、細工することは容易いはずだ。場所が場所だ。他の教員も何故校長室へ行くんだ? と追及することもないだろう。
 守里愛莉本人と傀儡を入れ替えた時に調べさせてもらった。0.03mmほどの赤い斑点が首に出来ていた。そこから血が流れた形跡も、首に針が残っている形跡もなかった。後々面倒になっては困ると、体内に入り込むと溶ける性質を持つ針を使ったのだろう」


「なんで守里愛莉の隠し場所が分かってん?」
「質問の多い男だな」
 既に飽き飽きしているとばかりに肩を竦める白であるが、口を開く。


「守里愛莉を捜索するためにECを飛び出した碧海聖花に対し、斎藤由香里は精神的打撃を与えにきた。そこへさも碧海聖花を守るように、其方が割って入ってきた。ここが全ての決定打となった」
「どういうことや?」
 玄音は怪訝な顔で問う。


「其方の髪が左に流れていた」


「は?」
 玄音は思いも寄らぬ白の返答に素っ頓狂な声を出し、鳩が豆鉄砲を喰らったかのような顔をする。


「校内を走っていたのであれば、風は前からしか吹かなはずだ。前から吹く風であれば、前髪が左右に分かれる。だがあの時其方の長い前髪は左へと流れていた。それは風を左から受けていた証拠であり、外にいた証拠ともなる。それにあの時の其方は、平常体温より二℃ほど下がっていた。走ってきた割には汗も滲んでおらず、とても発汗で体温が下がったていたとは思えない」


「ちょ、ちょぉ待ちぃや。なんで俺の平熱を知ってんねん!」
 玄音は焦って話を止め、問いに問いを重ねる。


「それは求める真実を知ることには不要なことだ」


「あっそ。企業秘密ってわけですか。どうぞ、そのまま続けて下さい」
 白の返答にイラっとする玄音は掌を白に向け、話の続きを促す。そんな玄音に小さく肩を竦める白は口を開く。


「其方の体重は推測60kg前後。そこに人体の比熱、約0.83をかけた場合、熱容量は49.8kcalとなり、水が100ml蒸発するのと近い熱量となる。
 健康な人体であるなら100mlの汗をかけば、体温が一度上昇するのを防ぐつくりになっている。教師に化けていたくらいだ。そんなことくらいは知っているであろう?
 一般的であれば、約100mlの汗をかくためには、夏の炎天下で十分間歩くほどのエネルギー消費が必要となる。季節は十二月の末。校内はもちろん、外を十分走ったところでそれには満たないだろう。それらにより、長時間気温が低い場所にいたということになる」


「ほぉ。で? 俺が屋外にいたとして、なぜ守里愛莉の居場所が分かる?」
 左指先を顎に当てた玄音は感心したように息を溢すが、更なる答えを求める。


「靴の音だ」


「ただの靴の音で何が分かる?」

「其方の靴の音はいつもより雑音が響いていた。校内を歩き回ったことによりチリ埃等のゴミが付着している場合であれば、いつも通りの靴の音が響くはず。だがあの時の靴の音には、砂利が絡んでいるようだった。調べたところ、この校内で砂利がある場所といえば、グリーンのフェンスに覆われたグラウンド以外はない。とするならば、その周辺の道を歩いていたことになる。
 まだ完全下校時でもないグラウンド内に、気を失っている守里愛莉を一人置き去りにするわけがない。グラウンド周辺の道を歩くかつ、授業や部活でも使用しない場所といえば――プールということが導き出せる?」


「チッ! それで、居場所を突き止めた守里愛莉とさっきの傀儡を入れ替えたって訳か」
 玄音が忌々し気に舌打ちをうつ一方、呆気に取られている聖花は白の推理にポカンとする。その両者を遠巻きで満足そうに見ていた智白は、得意げな笑みを浮かべていた。


「守里愛莉の本体はどこへやってん? 守里愛莉は今日登校してへんかった」

「手中にある傀儡が本体であると其方に思いこませるには、守里愛莉を隠す必要性がある。学びの場にいないのは当然だろうな」

「愛莉に何かしたんですか? 愛莉は今どこにいるんですか?」
 聖花は焦ったように問う。


「そう目くじらを立てるな。ただこちら側が守里愛莉をかくまい、指示を出していただけのこと。居場所は教えられないが、碧海聖花に届いたメッセージアプリは、守里愛莉本人が送ったものだ。傷一つ負っていない」

「っふ、ふふふふふッ、あははははッ」
 右手で顔を覆った玄音は自嘲気味な笑みを溢したかと思えば、壊れたように高笑いを始める。


「傑作だ! まさか碧海聖花のバックにあんたがついとるとは思わんかったわ。とんだ誤算や」
 忌々しさと腹正しさが混ざり合うような口調で話す玄音は、鬱陶しそうに右手で前髪を掻き上げる。左下瞼にカラーコンタクトが付着し、玄音本来の瞳が姿を現していた。

「なんでやッ!」
 赤ワインを溶け込ませたような宝石、ロードライト・ガーネットを彷彿とさせる瞳が聖花を睨む。

「ッ」
 蛇に睨まれた蛙のように聖花は息を飲み、硬直してしまう。


「なんで人間として育ってきたはずのお前が、こいつらと繋がってんねん。どこでどう知り会うてん?」
「其方に答える義理はない」
 聖花が口を開く前に白が答える。


「白狐は口を挟むな! 大体、碧海聖花は――っぐ!」
「キャンキャン吠えるな」
 玄音の言葉を遮るようにそう言った白は、風のごとく軽やかに玄音に近づき、耳障りだ。と、鳩尾に右膝をクリーンヒットさせた。


「な……んで、やッ」
 苦し気に呻き、両膝をつく玄音は、冷めた目で見下ろしてくる白を上目遣いで睨む。

「私は其方の望む鍵を与えない。さっさとこの場を去れ。去らぬというのならば、命はないと思え」
 白は聖花が聞いたことのない冷徹な声音で忠告する。


「だ、れがこのまま……」
 歯ぎしりをする玄音はビジネススーツの内ポケットに手を突っ込む。
 聖花は、まさか! と目を見開く。
「引き下がるかッ!」
 勢いよく取り出した拳銃の銃口を白の顔へ向けようとするも、その銃口は白の左掌に包まれる。
「なっ!」
「撃ちたければ撃て。だが、其方が引き金を引けば、私も引かせてもらう」
 白はいつの間に取り出したのか、銀の百合をボディにあしらわせた拳銃を玄音の鼻先に突きつける。


「掌に弾丸が貫通したとしても致命傷にはならないが、鼻先を打たれた其方は……」

 白は妖艶な微笑を浮かべ、首を傾ける。

 言わずもがな、頭の頂点から背骨に沿って真っ直ぐ縦に体幹がある人間は、そこが最大の弱点となり、鼻先を真っ直ぐ狙うことで、即死の確率は圧倒的に高くなる。


 一方、掌に弾丸が貫通したとしても、致死量の血液が流れなければ死には至らない。そうかと言って、玄音が本来の姿へ戻れば、拳銃が扱えない丸腰状態となるだろう。
 圧倒的に玄音が不利であった。


「くっそ」
 玄音は歯ぎしりをして白を睨む。もちろん、白に何の効力もない。


「撃ちたきゃ撃ったらええわ。どうせこちとら遅かれ早かれ命はないんやからな」
 玄音はケッ! と捨て台詞のように言った。


「ほぉ。意外と物分かりがいい」
「うっさいわッ」
 パンッ!
 銃声音よりも軽くてヘルツの低い音が碧海家に響く。その直後、玄音は後ろに倒れ込む。

「ひっ!」
 聖花の喉が恐怖で鳴るが、悲鳴を叫ぶには至らない。智白に銃口を向けられているからだ。

「いい子ですね。貴方の大声で近隣が騒ぎだしては後々面倒ですからね。貴方はそのまま大人しくしていなさい」
 知白の言葉に慄然する聖花は、コクコクと激しく首を上下させた。
「……し、死んだんですか?」

「眠っているだけだ。私が誰彼見境なく殺生すると思うか?」
 白は怖気ながら問うてくる聖花に拳銃を見せながら、そう問い返す。
 その拳銃は普通の物とは異なり、銃口部分がメガネのようなガラスレンズに覆われていた。


「拳銃……じゃ、ない?」
 聖花は目にしたことのない武器に戸惑い顔で首を傾げる。


「嗚呼。これは麻酔銃だ」


「そんな麻酔銃なんて知りません。それに、死んでないにしても麻酔法に……」
「知らなくて当たり前だ。この麻酔銃は私達の世界にしか存在せず――」
 白は聖花の足首に銃口を向ける。
 パンッ!
 先程と同じ銃砲音が家中に響く。


「⁉」
 驚愕で言葉を失う聖花は、自分の足でしっかりと立っている。撃たれたはずであろう聖花の左足にかすり傷一つなく、糸くず一つついていなかった。

「この通り、あやかしにしか効力を持たない」
 白は少し首を竦め、麻酔銃をスーツの内ポケットにしまう。
 腰が抜けた聖花はへなへなとその場にしゃがみ込む。

「それに、なぜ故私がこちらの世界の常識を守らなければならない。郷に入れば郷に従え、などという化石的考えなどつまらないだけだ」


「か、化石的って……」
 そこに対して突っ込もうと一瞬考える聖花であったが、慌てて首を左右に振って考えを改める。


「先程あやかしって仰いましたよね? いったい黒崎先生はなんなんですか?」


「黒崎玄音は人の姿をした妖《よう》狐《こ》だ」


「妖狐、ってことは、恭稲さんのお仲間だったんで……⁉」
「白様とこのような物達を同類にするなど、一体何を考えているのですか! 失礼も鼻正しいッ」
 白が口を開くまでもなく、立腹する智白が聖花の声を掻き消すように声を荒げる。

「⁉」
 聖花はビクリと肩を震わす。脳裏に浮かぶデジャヴ。
 ヴァイオリンのA線のような柔らかな色香と共に、どこか熱を感じる声音に紳士的な口調。そして、白のこととなると瞬時にその声音は低い音となり、立腹する者。聖花が知っている中でそんな者はあの者だけだ。


「貴方、まさか……」

 智白は動揺する聖花に、「貴方がお察しの通り、智白ですけど何か問題でも?」と、言葉を返す。


「ぁ、ありません。なにも」

 智白の他を寄せ付けないオーラに怯む聖花は、小さく首を左右に振る。そしてそれ以上は何も言えなくなり、事の成り行きをただ見守ることしか出来なくなってしまった。


「智白。後処理は頼むぞ」
「かしこまりました」
 智白は左掌を胸に軽く当てて会釈をする。その姿はまるで、主に使える有能な執事のようである。
 仰向けで眠っている玄音を米俵のごとく軽々と左肩に担ぐ白は、颯爽とその場を後にした。

 その場に残された意識ある二人には沈黙が流れ、無言で睨み合うかのように視線を交わし合う――。



  †



「あの~……お話してもよろしいでしょうか?」
 そっと右手を挙手する聖花はおずおずと沈黙を破る。

「なんでしょう?」
 智白はフローリングに横たわっている雅博の両膝に右腕を差し込み、左手で両肩を支えるようにして抱え上げる。二人の身長差があまりないため、雅博のつま先はフローリング擦れ擦れだ。にもかかわらず、智白は重さを感じていない程涼しい顔で抱え歩く。


「お母さんはどこにいるのでしょう?」
「それなら――」
 智白は勝手知ったる様子で二階にある碧海夫婦の寝室に入る。


「お母さんっ」
 聖花はベッドで眠る響子に駆け寄る。

「安心なさい。ただ眠っているだけです。明日の朝には、何事もなかったかのように目を覚まします」
 落ち着きある口調でそう話す智白は、抱えていた雅博を響子の右側にあるダブルベッドにそっと寝かせた。


「汝、智の道筋、我に与えたし」

 雅博の額に右手の人差し指から中指の指先をそっと添えた智白は、聖花に届かぬ声で呪文を唱える。


「よかったぁ。っていつからお母さんはここで?」
 一瞬胸を撫で下ろした聖花だが、すぐに浮かんだ疑問を問う。


「本日の早朝、碧海家の前で貴方を護衛していた碧海響子に近づき、私が乗り移りました」
「の、乗り移った?」
「私が乗り移ったところで、心身共に危害が加わるわけではないので、どうぞご安心を」
 智白はギョッとする聖花にそう言葉を付け足す。
「そ、そうですか。で、乗り移ったお母さんはいつから傀儡へ?」
 ここで一々深く突っ込んでいては、話が前に進まなくなると、聖花は次の疑問を投げかける。


「貴方がシャワーを浴びているときです。朝食の準備と称し碧海響子を家の中へ、碧海雅博を外の護衛係として、夫婦のポジションを入れ替えました。私はその隙に寝室へとお邪魔をし、白様のデーターの元に碧海響子の傀儡を産み出し、本物はこちらへ寝かせました。
 碧海響子の身体から抜け出した私は、役目の時間までこちらの部屋で身を隠していたのですよ。黒崎も同時刻、外で護衛をしていた碧海雅博に乗り移ったようですね。失敗に終わった昨日の傀儡のみで勝負に挑むとは思えません」
 智白は流暢な口調で淡々と話す。


「は、はぁ……なるほどぉ」
 人間界ではありえないことばかりを聞かされる聖花は、どこか他人事のように相槌を打つ。目に見えない存在に対してはすぐ受け入れられる聖花だが、魂を乗り移るやら傀儡やらといった、物質化したファンタジーとなると、逆に現実味を持ちにくいのだろう。
 何はともあれ、両親が無事であったことに安堵する聖花の口元からは、朗らかな笑顔が零れる。

「ご機嫌になられているところに水を差すようですが、私が先程お伝えした言葉の意味を、貴方はちゃんと理解していますか?」
 と、安堵で全身の力を抜いていた聖花に、智白は呆れた視線を送りながら問う。

「ぇ?」
 聖花は智白の言葉の真意が分からずにキョトンとする。


「私は、“何事もなかったかのように”と、お伝えいたしました」
「はい。確かにそう聞きました。明日になれば元気に目覚める。ということですよね?」
「嗚呼、やはりそうですか」
 左手で顔を覆った智白は、お労しい。とでも言うように溜息を吐き、嘆くように首を左右に振った。
「?」
 聖花は訳が分からず、キョトンとした顔で智白を見上げる。


「貴方の都合のいいように私の言葉を変換しないでいただけますか」
「どういうことですか?」
 聖花の身体に緊張が走る。


「私が言った、“何事もなかったかのように”という言葉は、二人の記憶が無くなる。ということです」
「え⁉」
 ギョッとする聖花を気遣うことなく、智白は淡々と話を進める。


「全ての記憶がなくなるわけでありません。貴方の命を狙っていた者が人の子ではないということは、この世界では対処しきれないでしょう。それに、後々面倒なことになります。そのことから、十二月十三日の早朝から現在までの記憶を全て、こちら側で処理させて頂きました。今(こん)事件に深く関わった守里愛莉の記憶も操作させて頂きます。お三人共その期間の記憶は、平和な日常を過ごしていた。という認識になっています。くれぐれも貴方から余計なことを仰らないように」
 智白は釘をさすように強い口調で言う。


「な、なんでそんなことが出来るんですか?」
「私は、知恵に携わることへの力を持つ者。人の子の記憶操作など容易いのですよ」
 智白は、ふっ。とどこか得意げに口端を上げた。


「そんな……」
「そのようなショックを受けたような顔をして、どうなされたのですか? よくよく考えてもみなさい。貴方が命を狙われていた期間の記憶がないほうが、皆にとって良いはずでしょう? 特にご両親は、また同じことが繰り返されるのではないのか? と、不安の日々を過ごされることになるでしょう。もし貴方がそれでも構わない、と言うのでしたら記憶を元に戻しますけど――どうなさいますか?」
 正論と選択を突きつけられた聖花は、一度息を飲む。
 穏やかに眠っている両親に視線を向けた聖花は、一人納得するように小さく頷く。


「このままにしておいてください。もう両親が傷ついているところも、不安で怯えている姿も見ていたくはありません。両親にも愛莉にも、穏やかな笑顔溢れる日々をおくっていて欲しいですから」
「賢明な判断ですね」
 智白は小さく頷く。

「先程愛莉の記憶も操作した。と仰っていましたけど、愛莉は今どこへ?」
 聖花は物音を立てぬよう、そっと立ち上がって問う。


「守里愛莉に協力を頂くため、貴方を守るために必要なことだと説明をし、こちら側に有利な行動をとって頂きました。ちなみに、脅迫状などのことは面倒なので伝えていません。本日の零時まではとあるホテルの一室にてかくまい、ある者が護衛をしております。零時以降は家に送り届けますのでご安心を。守里愛莉の記憶については、黒崎に呼び出された以降から、家に送り届け切った間の記憶を全て消去いたします。本日トークアプリで行われたやり取りも同様です」

「そう、ですか。記憶の件についてはそちらへお任せします。愛莉のことも守って下さりありがとうございます」
 聖花は深々と感謝の会釈をした。

「いえ。お礼であれば白様に仰って下さい。私は白様のご指示通りに動いたまで、ですので」


「……ところで智白さん。私は今後どうすれば良いのでしょうか? 今まで通り普通に生活していてもいいのでしょうか?」
 犯人として炙り出された黒崎玄音は、白が何処かへ連れ去っていったものの、まだまだ不安が残るのだろう。

「私の口からは何も言えません。十二月二十日の深夜一時三十分。私と一緒に伏見稲荷大社へ来てもらいます。そこで、今後について白様からお話があるかと思いますので」


「……私、殺されるのでしょうか?」

 この世の終わりだ。と言うような表情をした聖花は重苦しい口調で問う。


「はい?」
 思わぬ問いに、智白は怪訝な顔をする。

「だって私、探偵事務所の契約を破ってしまっていますし」
 うじうじしょんぼり項垂れる聖花を見下ろす智白は、小さな溜息を吐く。


「そんなナメクジみたいに湿っぽくなさらないで頂けますか? 大体、白様が女子供を殺生するなどありえません。そもそも、依頼者の命を奪うなど考えられぬことです。私への不安を口にするのならまだしも、白様への不安を私に問うてもしょうのないこと。ナメクジになるなら、白様に直接お聞きなさい」

 智白は白に負けず劣らずな毒舌交じりで、聖花を叱咤するように言った。
 優しい言葉や安心へと導いてくれるような言葉一つでももらえるかと、淡い期待を抱いていた聖花は、あほ面を晒す。


「品も知性もない顔をしていないで、貴方のスマートフォンを貸して頂けますか?」
「な、何をしはるんですか?」
 我に返った聖花は身構える。


「悪いようにはいたしません。DMでのやり取りなどを抹消させて頂きます。もうすぐ契約期間も終わり、貴方にとっても不要なはずですよね?」
「そ、それはそうですけど――」
「信用できませんか? この私が椿の花びら一つも色気のない小娘一人に、一体何をしようというのでしょう? 私は貴方の個人情報など微塵も興味ありません。ぐずってないで早くなさい。私は暇ではないんです」
「は、はいっ」
 瞳が笑っていない微笑みに怯む聖花は、黒のスキニーパンツの左ポケットから、速やかにスマホを取り出した。


「ロック画面を」
「で、ですよね」
 聖花は慌ててロック画面にパスワードを入力し、スマホを使用できるようにする。その際、視られて恥ずかしい物はなかったかと、アプリの確認をサッとする。
ゲームにショッピング系アプリ、サブスク系アプリが三つ。トークアプリにお小遣いアプリ。と言った女子力の欠片もないものであった。


「まだですか?」
「ど、どうぞっ」
 智白の威圧感に焦る聖花は、お供えを捧げるかのようにスマホを差し出した。一度ならず二度までも智白に怒られたことが、少々トラウマとなっていた。
 聖花にとって、白は絶対的に逆らってはいけないと本能が叫ぶ者であるが、智白も同等であると心が叫ぶ者だった。


「ありがとうございます。では、失礼して――」
 智白は一言断りをいれてからスマホを手に取り、慣れた手つきで操作する。


「ではお返しいたします」
「ぇ、もう?」
 物の一分足らずで戻ってきたスマホに驚きつつ、智白の手からスマホを受け取ってポケットに直す。


「では、私もこれで失礼いたします。またお時間になれば迎えにきます。それまではご自由に過ごされていて下さい」
 と、智白は何事もなかったかのようにその場を後にした。
 残された聖花は脱力するように項垂れる。無理もない。ずっと気をはって戦っていたのだから。