『俺、美月との約束守れなかったわ』
 電話の向こうで、樹はそう言って微かに笑った。
 どの道に進もうか決めかねている、と言っていた樹は結局声優になる道を選んだ。卒業後の進路は樹が養成所で私が私大の文学部。お互い順調に夢に向かって進んでいるはずだった。それなのに、一体どうしてこうなってしまったのだろうか。
『この歳になってもまだ主役の一つもやったことなくて、生活のためにバイトもやめられなくてさ。この先ずっとこうやって生きていくのは苦しいかもって思っちゃったんだよなぁ……』
 樹は、そんな普通の人のようなことを言った。良くも悪くも≪普通の人≫だった樹が、今度こそ本当に普通になってしまった。私は、何と言葉を返せばいいのかも分からないままにそんなことを思った。
『あの頃の美月に言ったら怒られそうなほどつまんねえこと言ってるだろ。自覚はあるよ』
 そう言ってから、樹はでも、と言葉を続ける。
『やれることをやりきったからかな。そんなに後悔はないんだ』
 樹の言葉に、あの日の燃えるような熱さはない。そこにはただ凪のような静けさだけがあった。
『……美月は?』
 私がぼんやりとそんなことを考えていると、樹はぽつりとそう口を開く。
『美月は、ちゃんと小説書いてるか?』
「それ、は……」
 答えは否だった。
 書くのをやめたのは、樹のことをバカにできないくらいにありきたりな理由。社会人になって、忙しくなって、書いている時間も気力も熱意もなくなってしまったのだという、そんなくだらない理由だ。
『俺はもう役者の道から卒業するけどさ、美月の道はまだ始まってさえいないんじゃねえの?』
 樹はそう言った。それはきっと、夢の道を中退してしまった私に対するエールだった。
『諦めることを諦めろよ。それでちゃんと夢の果てを見てこいよ』
 樹は夢の果てを見たのだろうか。それは一体どんな景色だったのだろうか。そう考えて、けれどそれは私が自分の力で見なければならない景色なのだ、と思い直す。
「私、樹がやめちゃったの結構ショックだったな」
『だろうな。でも俺だって美月がもう書いてないって知ったときショックだったよ』
「ははっ、じゃあお互い様だ」
 私が道を外れている間に、樹はもう役者の道から卒業してしまった。だから、あの日の約束はもう二度と叶えられない。――叶えられないのだとしても。
 数年ぶりに、自分の心が熱く燃えているのを感じる。それは、あの日に比べたら小さな火なのかもしれなかった。けれど、確かに私の胸の内に宿った炎だった。
「樹が卒業なら、私は再入学かな」
 ぽつりとそう呟く。
「私も夢の果てを見てくるからさ、それまでそこで待っててよ」
『なんで俺と同じところに戻ってくる前提なんだよ。美月は作品が映像化するくらい人気の作家になるんだろ』
 私の言葉に、樹は呆れたように笑った。その笑い声が、あの日私を励ましてくれた樹の笑い声と重なる。
 それは、何よりも私の背を押す追い風になった。