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 それからというもの、律は烈とはいい生徒と教師の関係を維持してきた。
 小テストの成績で満点を取り、定期テストの際にいい成績を取れば、皆の前で褒められるから、それで満足しようと思ったのだ。
 時にはわからない問題を直接烈に聞きに行くこともあり、烈はそのときも教師の言葉のままだった。

「りっちゃんさあ。もしかして、烈先生のこと好き?」
「えっ?」

 律は二年生に進学しても、できる限り気付かれないようにしようとしていたので、唐突に露美に指摘されて、激しく狼狽えた。律はそもそも秘密は黙り込むことであり、嘘をつくのは苦手であった。
 それを知ってか知らずか、露美は「だってさあ」と続けた。

「理由を付けては職員室に行きたがるし」
「それは授業を聞きに行って……」
「でもりっちゃん成績優秀過ぎて、先生にいちいち聞きに行く必要ないじゃん。大学の進路相談だったらわかるけど。でも私たち、まだ学科選択できる立場でもないし」

 一応二年生に進学したら、進学希望ごとにクラス分けはされる。
 大学の理系学部希望なら前半クラス、文系学部希望なら後半クラスと。ふたりは理系クラスに入れられ、前よりも理系教科中心の授業割りにはなったものの、それを理由に職員室に行く口実が増えたくらいにしか、律は思ってもいなかった。
 だからこそ、高校からの友達の露美に突っ込まれるとは思ってもいなかったため、律はひやひやしていた。しかし露美は「まあ、いいんじゃないの?」と言う。

「えっ? でも、先生は私のことなんとも思ってないよ?」
「そりゃね。先生が生徒に色目使ったらいろいろ問題あるとは思うけど、生徒が先生を勝手に好きなのは問題なくない?」
「そうなのかな……」
「だってりっちゃん。烈先生にいい生徒ですアピールより上のこと全くしてないのに、咎めることもなくない?」
「うん……そう、なのかな」
「まあ、烈先生無茶苦茶厳しいからね。ちょっと色目使った子たちからは反感食らってるみたいだけど、それ以外の生徒からは概ね人気みたいだから。競争率高そうだけど頑張れ」
「それ応援されてるのかな……」
「してるしてる。頑張れー」

 露美からやる気のあるのかないのかわからないエールを送られつつも、律はなんとかその日の授業も終えた。
 進路については、「律の成績なら大丈夫じゃない?」と言われ、薬学部に入れるように頑張るつもりだ。そこでますます授業は難しくなっていったが、律はそれもなんとかこなしていった。
 しかし烈と話がしたい、勉強が難しいから頑張らないといけない。頑張り過ぎがいけなかったのか、その日はふらふらとしていたものの、その日の選択授業のためにも人気のない廊下を突っ切らないといけなかった。

「あれ、大丈夫かな?」
「烈先生……」
「顔色悪いけど。このまま授業受けに行って平気?」

 烈が本当に珍しく律を心配そうに、しかも距離が近くなっているのにドキリとする。

(烈くん、こんなに距離近いのいつ振りだろう……)

 そう素直にドキドキとするものの、気のせいかドキドキとする鼓動が激しい。

(あれ……?)

「ああっ!」

 烈の悲鳴と一緒に、律の視界は暗転してしまった。
 暗転してから、律は走馬灯のように夢を見ていた。
 小さい頃から瑠希におちょくられてワンワン泣いていたのを、烈に慰められていた夢。烈が中学生になったのをドキドキしながら隣から見ていた夢。中学校の制服の女の子と寄り添っているのにショックを受けて逃げ出した夢。
 折角高校で再会できたのに、生徒と教師になってしまい、どうしようもない現状。

(同い年だったらよかったのに。瑠希ちゃんと烈くんの立場が反対だったらよかったのに)

 瑠希に幼馴染甲斐のないことを思いながら、律は考える。

(優しかったけど、それは誰に対してもなんだよね。今の烈先生だって、いい子にしていたら褒めてくれるし笑ってくれるけど……それはいい生徒だからであって、私だからじゃないし。頑張ってきたのに、倒れちゃって……あぁあ。あれ? そういえば今、私はどこにいるんだろう)

 目が覚めたとき、ツンと薬とアルコールの匂いがして、辺り一面真っ白なことに気が付いた。カーテンの閉め切られた保健室である。

「ああ、目が覚めましたか? 貧血ですよ」
「貧血……私、月のものはもう終わりましたけど」
「思春期だったら、考え過ぎてもなることはありますよ。勉強し過ぎもそうですけど、悩み過ぎも貧血になりますよ」

 保健室の先生にやんわりと注意され、貧血用に鉄分入りの飴をもらった。

「あの……私廊下で倒れたんですけど……どうやって」
「ああ、大丈夫かい?」

 突然保健室がガラリと開いたかと思ったら、烈が入ってきたのに「まさか」と律は思った。でもよくよく考えたら、人気がなくって女子校で倒れたとなったら、授業を受けに行く女子生徒ではまず運べず、女教師でも気絶した生徒を運ぶには無理があるのだ。となったら。
 保健室の先生がニコニコと笑う。

「慌てて先生が運んでくれたんですよ」
「ご迷惑おかけしました。担任と親御さんには許可を取ったから、今日はもう下校しなさい」
「えっと……残りの授業は」
「今は考えなくていいから」

 烈が本当に珍しく慌てているのに、律は少しだけ胸が疼いた。

(それが生徒が目の前で倒れたからじゃなくって、私が倒れたからだったらいいのに)

 ただ誰に対しても優しい教師が、そんな依怙贔屓をするとも思えず、そのことはなるべく律は考えないようにした。
 いつかのときと同じく、車に乗せられるとそのまま運ばれる。

「駅まででいいですよ」
「いや、このまま家まで送らせてほしい」
「でも……先生困りませんか? 授業は?」
「先生の次の授業は、午後からだから大丈夫……保健室の先生が言っていたけど、勉強し過ぎだって。大丈夫か?」

 烈は運転をしたまま、隣に座る律のほうに目もくれない。そのことを寂しいと思えばいいのか、気を抜けた緩みそうになる口元を見られなくてよかったとほっとすればいいのか、律にはわからなかった。
 ただ、流れていく車窓を見ながら答えた。

「勉強し過ぎってほど、勉強してないですよ」
「でも成績は優秀だろう? 担任も褒めていたよ。薬学部までストレートで行けそうだって」
「大袈裟ですよ……ただ、早く大人にならなきゃと思っただけです」

 大人にならないと、烈の隣に立てない。生徒と教師のままだと、どうにもならない。
 幼い頃からずっと好きな気持ちは、すっかりとぐずついて枝から落ち、地面で形を無くした柿の美のようになってしまっている。もうみっともなくて、人に見せられるものではなくなってしまったし、それでも甘い匂いが自分の中を激しく揺すぶり、なかったことになんてさせてはくれなかった。
 車は駅を通過して、律のよく知る住宅街まで突っ切ると、家の前で降ろされた。

「今日は一日安静にしてなさい。明日からまた、頑張ればいいんだから。肉でも食べてちゃんと休みなさい。それじゃあ」
「先生……送ってくれてありがとうございます」

 烈はそれに会釈で返すと、元来た道を走っていった。
 それを見送りながら、律はくすくす笑い、そして目尻から涙を溢した。
 心配されても傷付いて、心配されなくってもきっと傷付く。すっかりと取扱注意物になった自分の気持ちがどこまでも面倒臭く、諦められたらよかったのにとだけ思った。
 しかし既に人生の半分以上片思いしているので、諦めることすら既に諦めている自分がいた。

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 そんなこんなで、律は最後の高校生活を迎える年となった。
 一学期の時点でエスカレーター式の大学の薬学部への進学が決まり、肩の荷が降りた。それからは最後の高校生活を大事にさえしていればよかったが。
 今まで担任を持っていなかった烈が、副担任として律のクラスの担当になったのだった。
 そして、理系クラスは比較的外部受験の生徒が多く、必然的に内部進学生が大がかりな係や委員活動をすることとなり、律は何故か卒業文集係になってしまった。
 受験生たちに「暇なときでいいから、原稿用紙一枚でいいから」と説得して卒業文集に乗せる文章を回収し、自分も原稿を書く。
 印刷所に持っていくために、印刷所に出せるように表紙やらレイアウトやらまで考えなくてはいけなく、他のクラスの卒業文集係と額を寄せ合いながら考えていた。
 なによりも、卒業文集係の監督に、烈が回されたのだから律からしてみれば歯がゆかった。

(……なんにもないのに、どうしてずっと烈くんのことを意識しないといけないんだろう)

 もう最後の一年くらいは、烈のことを考えずに過ごしたかったら、視界の端にずっといるのだから、どうしても彼とのことを考えない日は生まれなかった。
 卒業したら楽になるんだろうか。卒業したらもうこの気持ちは捨てられるんだろうか。卒業してもずっと忘れられなくって恋をし続けるのは、きっとしんどいだろう。
 幸いと言っていいのか、大学は男女共学だったため、運がよかったら大学で彼氏ができることもあるが、そんな単純なものなんだろうか。
 律の気持ちは、ずっとぐるぐると、吐き気がするほどの渦巻いていた。
 春先から始まった卒業文集づくりは、途中から卒業アルバムづくりと並行して行われ、最後にいよいよ係の皆で卒業文集を印刷所に提出する運びとなった。
 律は自分の書いた当たり障りのない文章を、ずっと迷っていた。本当はもう一枚書いてあったが、それを出すことはどうしてもできず、結局はそれを卒業文集として出すことはしなかった。

「皆、長いことお疲れ様。あとは卒業式になったら皆に配るから、楽しみに待ってなさい」

 ほとんどの子はノルマのように達成するもので、卒業アルバムや卒業文集に意味を見出さない。しかし律にとってはお腹が痛くなるほど悩んだものだった。
 その中で「どうかしたかい?」と烈から声をかけられた。それに律は「あ……」と声を上げる。

「卒業文集、提出しましたけど……私の文章、ちょっと納得いかなかったんで」
「ふうん。なら、それは卒業式に出せばいいんじゃないかな」
「えっと……?」

 副担任として、卒業文集係の監督として、それなら律は烈と普通に話をすることができた。律が烈に恋をしていることなんて、学校では露美しか知らず、立場上告白が全くできないことを知っているために全部「ふうん」で通してくれていた。
 その中で、律は烈との他愛ない会話で、ずっと恋をし続けているのに気付いていた。
 彼が優しいのは先生と生徒の関係だからだ。彼は自分を特別扱いしていない。立場上告白したら、迷惑なのは烈のほう。何度も何度も言い訳を重ねても、結局恋することだけは止められなかった。
 だから、その言葉を聞いたら期待してしまった。

「卒業式に、君の書いた文章が読んでみたいな」

 その言葉で、また勝手に浮き足立ち、「卒業式まで烈くんは覚えてないかもしれない」とへこんで寝込む。あまりにもこの三年間で繰り返した浮き沈みをこのときも続けたのだ。

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 その年の桜は例年よりも早く、卒業式シーズンに桜が咲いたのは奇跡に等しかった。
 お別れになる制服を眺めながら、律は卒業証書を手に、烈を探した。
 生徒たちは泣きながら、最後に「先生のスーツの第二ボタンをください!」と無茶振りをしては、烈に断られていた。三年生が卒業したあとも学校に残るほうがスーツのボタンをむしられたらたまったものではない。

「あ、あの」
「うん? 卒業おめでとう」
「……ありがとうございます」
「それで、卒業文集だけれど」
「はい」
「今日、実家に帰るんだ。隣の家」
「えっ?」
「聞かせてもらえるかな?」

 律はそこでポロリと涙を溢した。
 もう覚えていないと思っていた。もう自分はただの生徒にしか見られてないと思っていた。卒業したらふつりと縁が切れるものなんだと諦めようとしていた。だが諦めきれるほど後生大事に抱えていた気持ちでもなかった。
 制服を脱いだあとにも、続きがある。
 そのことに律はひどく安堵したのであった。

<了>