夏織が最後に残した言葉に俺は救われた。これは二人だけの儚い夏の物語で、物語の始まりは蝉がうるさい夏の始まりからだった。
七月二十日。
梅雨も明け蝉が鳴き始めた頃、やっと夏らしい天気が続いて気分も晴れていた。
「おーい、蓮起きなさいよ。遅刻するわよ」
「あいあい。起きた起きた」
毎朝忘れもせず起こしてくる母親に適当な返事をする。あくびをしながら気怠さを音にするようにドシンドシンと階段を降りた。
「あんた何回起こせば起きるのよ」
「百回」
「寝ぼけたこと言ってないでほら顔を洗ってご飯とっとと食べちゃいなさい」
「あいあい」また適当な返事をして洗面台へ向かう。髪の毛が習字のはらいのようにあちこち跳ねている。鏡越しに映る冴えない顔を冷たい水で叩き起こす。冷たい水で顔を起こしても冴えないのは変わらないのだが。跳ねた髪を濡らして歯を磨いた。
「それにしてもなんであんな夢を見たんだろうか……」
今朝見た夢が十数年前にあった出来事で、忘れかけていた事を想い出している。リビングに戻り椅子に座って、すでに並べられたご飯を食べる。
「いただきまーす」
朝はまず味噌汁から。一口飲むと身体中に染み渡る味噌のパワーに浸る。
「赤味噌の味噌汁が世界一うまいわ」
「コマーシャルかよ」
「はい。あなたこれ」
母さんが父さんにお弁当を渡す。愛妻弁当。少し憧れる。
「蓮は今日で終業式なんだよね。ここに弁当置いとくね」
「ああそうだよ」
「最後の夏休みだからって浮かれて遊んでんなよ」
「わかってるって。父さん今日は少し早いんだね」
「いやいつも通りだよ」
「はやく食べてとっとと学校に行きなさいよ。遅刻するわよ」
「遅刻遅刻うるさいな……ってもうこんな時間!? なんでもっと早く起こしてくれなかったんだよ」
「何回も起こしました。あんたが起きるの遅いんでしょうが」
朝の時間の流れはいつも早い。目玉焼きは醤油をつける派だが、そのまま食べ、ご飯をかき込む。味噌汁は飲み物のように飲み込んだ。
「ごちそんさん!」
急いで二階に上がり、三分で着替えた。制服のネクタイを結びながら、次はドタバタと階段を降りた。
「いってきまーす」
母の呼び止める声を裏に家を後にした。
駐輪場にはたくさんの自転車が無造作に止められている。この時間になると駐輪場がこれでもかってくらい埋まっていて、止める場所がない。といっても駐輪場が満席なのはいつもの事だが、俺はガラガラに空いてるスポットを知っている。
「おいこら二階堂、またお前ここに止めてんのか」
俺が自転車のスタンドを下ろしたのは教員用の駐輪場だ。そしてこの先生も毎朝忘れもせず俺を止めてくる。
「すんませーん! 遅刻するんで今日も許してください」
急ぎ足で逃げて、下駄箱へ向かう。今学期も生徒指導部の鬼頭から逃れられた。靴を履き替え、二組の教室へ向かった。
「相変わらず遅いな蓮」
教室に入り隣の席の俊介が言った。
「うるせーなー。てか今日からサーキットをやってから始まるのか」
俊介は俺と同じサッカー部で保育園の頃からの幼馴染だ。俺ら三年生の代は春過ぎの試合に負け、引退は夏休み中と決まっており、サーキットという体力作りのメニューはやらなくていいのだが、サーキットがあるおかげでシュート練の時間が短くなるため、暇つぶしで部活に行ってる俺らにとってはつまらない時間となる。
「早川のやろう、いつか絶対俺の蹴りくらわせてやる」
監督の愚痴を言いながら、いつもとは少し違う日程の学校が始まった。
今年度からコロナの制限が少なくなってきたせいで、終業式は体育館で行われ、高校に入ってから初めて体育館で全校生徒が集まった式となる。
廊下に整列して放送に従い移動するのだが、俺と俊介はサボるためトイレに逃げ込んだ。
「ほんといつぶりだ? 中学ぶりだよな」
「ああ。集会サボってたのバレて怒られたな」
「懐かしいなあ。あの時怒ってたやつ誰だっけ」
「うわ……忘れたなあ」
「最近中学の想い出とか思い出し辛いよな」
「わかる。歳取った感じする」
「俺らまだ十八なのにな……蓮はまだ十七だけどな」
「ちょっと親の交尾が早かっただけだろ」
「蓮くんこわーい」
「そう教えてくれたのは俊介だろ」
「ああ俺だったか」
「てか蝉っていいなー。なんだか夏を感じる」
トイレ内にある窓から聞こえる夏の代名詞に懐かしさと夏の始まりを感じている。
「あいつら本当は一週間以上生きるらしいよ」
「まじかよ。まぁそりゃ長生きするやつもいるか」
「そういえば今年も納涼祭りやるらしいぞ」
「あー。あれいつやるの?」
「お盆前だったよ。また俺ら二人で行く?」
「いやー。また今度考えよう。今年の花火はしょぼくないよな?」
「去年ほどしょぼくはないんじゃない?」
地元の公園で納涼祭りという名のお祭りに花火が上がるのだが、コロナの制限があったため一昨年は打ち上げ中止、去年はしょぼい花火となっていた。お祭りなど小学生の頃は楽しくはしゃげたが大人になってしまったのか、しょぼい花火のせいなのか年々面白さを感じなくなっていた。
「蓮は進学だっけ?」
「ああ。テキトーに地元の大学にしとこーかな」
「ふーん……」
将来の夢は何もない。ていうか明日すら見えない。今まで本気になったものはサッカーしかなく、それも高校に入ってから現実を知り、何も夢を描けなくなった。机で夢をけずられるとはこのことだろう。
「なあ俊介」
「なんだよ」
「関係ないけど同じクラスの清水夏織って知ってるか?」
「まぁそりゃ同じクラスだし知ってるわ。大人しくて頭の良い子やろ?」
「そうそう。顔も悪くないからって裏でモテてるらしいよ」
「ソフトテニス部だっけ? テニス部のやつから人気だとは知ってたけど、それがどうしたんだよ」
「いや別にこれといった話はないんだけど」
「なんだよ。蓮から女の子の話するなんて珍しいじゃんか」
「やっぱなんもない」
「おい。そこまで言ったなら言えよ」
「まぁ、昔あった話を今朝夢で見たんだ……」
――俺がまだひらがなも書けなかった保育園の頃の話だ。
当時母さんは近所のお弁当屋さんで毎日働いており、平日俺を保育園に送った後仕事をして、仕事が終わる頃に俺を迎えに来てた。父さんは何をしてたのか家には全く帰ってこなかった。
土日や祝日は保育園がやっていなかったため、母さんも父さんもいないので俺は一人家でお留守番をしていた。退屈になっても幸いな事に、当時俺の住んでいた団地の真隣に公園があり、よく遊びに行っていた。
縄跳びをしたり、地面に落書きしたり、ブランコに乗ったり、鉄棒をやったりと一人で遊べる事はほとんど遊び終えたある時そこで二匹の野良猫を見つけた。
一匹は母親で片目には傷を負い目が開かなくなっていた。母猫に首を咥えられているもう一匹は、まだ小さくみゃーみゃーと鳴いていた。母猫は俺に気づいて少し警戒していたが、よく見ると足も怪我を負っていて足を引きずりながらフラフラと茂みから顔を出して来た。母猫は咥えてた子猫を優しく下ろし、そのまま母猫はど足を引きずりながらどこかへ行ってしまった。
俺はガキのくせして謎の勘が働き、天敵に襲われた母猫は小さい子猫だけでも守るため、咥えたまま逃げて来たのではないかと。そして自分の怪我の状態からして子供を育てれないので人間に預けてきたんだと思い、その日から子猫を育てる事が始まってしまった。
この団地にはペット禁止の張り紙が至る所に貼ってあるので、家には持って帰れなかった。そのためタンスの中にある母さんの小銭貯金から数枚小銭を盗み、スーパーで猫用の餌を買った。それから母さんには内緒で保育園に行く前と帰ってきてからも子猫に会いに行き、世話をしてやった。
ダンボールにタオルを入れ子猫の家を作ってやったり、家から小さい茶碗を持ってきて、そこにご飯を入れたり水を入れたりと毎日毎日世話をした。
子猫を預けられてから一ヶ月が経った時、いつもと変わらない土曜日で、その日も飽きずに子猫と遊んでいた。公園に生えてた雑草を持っていくと、子猫は無邪気にじゃれてきた。そんな姿に見惚れていると、後ろから「なにしてるの」と声がした。母さんの声ではなかったが、団地の人に猫を飼っている事がバレて怒られるんじゃないかと思い、すぐに子猫を腹の中に入れた。
「い、いーや。一人で遊んでました」
ゆっくり振り返るとそこには俺と同い年くらいの女の子がいた。大人の人じゃなくてよかった……と俺は少し安心して子猫を腹から出した。
「い、言うなよ! 誰にも」
「かおりはここに住んでないよ」
「そ、そうなのか。かおりって名前なの?」
「そう。私の名前はかおり。あなたは?」
「俺はにかいどうれん。れんって名前」
「れんくん、かおりも猫ちゃんと遊びたい」
「いいけど……」
俺は子猫のことを誰にも知られたくなかったし、俺と子猫二人だけの世界を邪魔されるのが嫌だった。しかしここで断ったら気を悪くしたかおりが大人にチクる可能性もある。
「……少し遊んだら帰れよ」
「うん! わかった!」
「ねーねー。この猫ちゃんはなんて名前なの?」
「名前か……。名前はミャーコだよ」
「えー! 可愛い名前ー!」
正直名前なんて決めてなかったけど、育てておいて決めてないなんて恥ずかしくて言えなかった。
そんなことも知らずにかおりは「ミャーコこっちにおいで」と無邪気に言っているので、俺もそのままかおりと同じように無邪気にミャーコと名前を呼んだ。
夢中になって遊んでいて、ふと我に帰ると日が暮れ始めていて青空が少しオレンジ色に黄ばんできた。
「俺、そろそろ家に帰るよ」
「あー! 楽しかった」
「遊んでくれてありがとうな」
「ううん。こちらこそ! また来てもいい?」
「うん。毎日いるからいつでも来ていいよ」
俺もかおりとミャーコ三人で遊ぶのが初めは違和感を感じ警戒もしていたが思ったより楽しかった。それからかおりは毎日来た。その度にいろんな話をした。
「かおりはどこの保育園?」
「かおりは幼稚園なの」
「家はどこらへん?」
「すぐそこのアパート!」
「お父さんはいるのか?」
「ううん。かおりのお父さんお仕事で遠くに行っちゃった」
俺のお母さんのようにきっとかおりのお母さんも嘘をついているんだろうと思った。
「俺のお父さんも遠くに行っちゃったんだ」
「じゃあ一緒だね」
「きっともう会えないんだ」
「かおりもそんな気がする」
二人とも会った回数も少ないがお父さんを想い出した。かおりが悲しい顔を浮かべたので違う話をした。
「俺の友達にしゅんすけってやつがいるんだけど、幼稚園でいっつもサッカーしてるんだ。たまに砂場ででっかい山を作って穴を掘って水を通したりしてる」
「へー! 楽しそうだね」
「かおりは友達はいるのか?」
「ううん。れんくんだけ」
「俺だけか……」
「うん! れんくんだいすき」
ミャーコもかおりも独り占めした気分だった。たまには団地の公園を出て二人で街を歩いたりもした。
「ミャーコ重くないか?」
「うん! まだ小さいから大丈夫!」
「そっか。あの電柱まで行ったら俺が持つよ」
「わかった!」
電柱まで歩いて交代した時ミャーコの体の暖かさと重さを感じた。まだまだ子猫だが出会った頃よりは少し大きくなっている。
「次はあの三つ目の電柱で交代な」
「わかった!」
気を使うまで気づかなかったが結構疲れる。交代ばんこでミャーコ持ちながら歩くとある公園に着いた。
「ついたついた」
「うわー! 何この遊具!」
「これはターザン」
「ターザン?」
「この階段を上がって、ヒモだけを掴んでいると下まで降りてくるんだよ。だからこの公園はターザン公園だ」
「やってみる! ちょっとミャーコ持ってて」
ミャーコを抱き抱えながら、かおりを見守る。
「ここ高いね! 行くよー!」
「手を離すなよ!」
かおりは勢いよく飛び出し、最後まで手を離さずにいた。
「わー! おもしろい! もう一回やる!」
そう言いながらかおりは十回はやっていただろう。
「次! 俺もやりたいから交代ね!」
お昼も食べずに丸一日遊んだ。今日もまた終わる。
「最近れんくんとミャーコとずっといるから楽しい」
「俺と会うまではなにしてたの?」
「うーん。幼稚園はたまにしか行ってなくて、いっつもお家で塗り絵したりお人形さんと遊んでた」
「そっか。今度しゅんすけも呼んでサッカーしようぜ」
「うん!」
「じゃあな」
「また明日ねー!」
かおりとミャーコと遊ぶ毎日。なんだか時間の流れが早くなった気がする。俺の中で何かが変わった気がした。そしてさらに何かが変わったのはその二日後あたりだった。
「どうして泣いてんだよ」
「かおり……ママに怒られた」
「なにしたんだよ」
「かおり……毎日遊んでるから」
「そっかー。子供は遊ぶのがしごとなのに」
「それでね……かおりママに話したの」
「え! ミャーコの事言ったのか!」
「ごめんなさい……。ママにわかってもらえると思ったの」
「そ、そしたらなんて?」
「考えとくって言われた」
「ん、ん? それはかおりの家でミャーコを飼えるかもしれないってことか?」
「そう」
しゃっくりをしたり、鼻水を啜ったり、涙を隠すよう目を擦ったり下を向きながら話しているかおり。ミャーコをかおりに奪われちゃうかもしれない。
「じ、実はな、俺の家でミャーコ飼えるかもしれなくてさ!」
「そうなの!」
かおりは急に顔を見せて喜んだ。なんだか悪い事した気分だ。
「よかった! これでミャーコのお家もちゃんとできるんだ」
「う、うん……」
そのままかおりを慰めて日が暮れるまで遊んだ。家に帰ってから一応お母さんにミャーコの事話してみた。
もちろん団地はペット禁止だからダメです。と当然の返答が返ってきて、しかもちょっと怒られた。
ブルーな気分のまま次の日もミャーコに会いに行くと、かおりが先に居た。
「あ! れんくん!」
「よ、よう」
「あのね、かおり、ママに良いよって言われた!」
「ミャーコを家で飼うこと?」
「そう! でもれんくんのお家で飼うもんね」
「い、いやそれがさ。お母さんにやっぱりダメって言われたんだ」
「そうなの! って事はかおりのお家にミャーコが来るの!」
「そ、そーゆー事だ」
かおりはミャーコを持ち上げ、「やったニャーン」と言っている。俺がブルーな気分なのも知らずに。
「じゃあ、さっそくミャーコをお家に持っていくね! ママが保健所ってところに持っていってお注射を打つんだって!」
「そ、そうなのか」
「ミャーコはかおりと一緒に寝ようね」
羨ましくて羨ましくて、とにかく悔しかった。それでも八つ当たりはせず自分の家では飼えない現実を恨んだ。
「最後に抱っこしていいか?」
「うん! いいよ!」
かおりがミャーコを俺の腕の中に入れた。母猫から預けられた時はあんなに小さかったのに。たった一ヶ月と少し経つだけでこんなにも成長したんだ。
優しく頬を寄せると、ミャーコはぐるぐると何か喋っているようだった。きっとさようならと別れを告げてるんだ。
「ばいばい。ミャーコ」
かおりにミャーコを渡すと、かおりはまたねと言いながらミャーコを抱えて去っていった。かおりの肩からミャーコがこちらを見ている。
「ああ。行かないで……ミャーコ……」
手を伸ばそうとしたけど、届かないのはわかっている。ゆっくりと手を下ろし、目を擦った――。
「まぁそんな感じでミャーコとかおりがいたんだけどさ」
「お前、泣いてんのか?」
俊介に言われ、ふと気がつくと頬に涙があった。
「な、泣いてねーし」
「まぁ感動する話だよなあ」
「まぁそれで幼稚園の頃かおりって子の話したの覚えてない?」
「いや全く覚えてないわ。猫を内緒で飼ってるのは聞いたことある気がするんだけどな」
「そうか……」
「んでその話がなんなんだよ」
「メールでクラスのグループあるじゃん? 清水のアイコンがさ、ほら猫じゃんか」
俊介はスマホを取り出し、猫を確認した。
「うお! ほんとじゃんか!」
「その猫、ミャーコに似てるんだよな」
「ま、まさかそんな偶然あるか?」
「いや、今日聞いてみようと思って」
その瞬間トイレの扉が開いた。振り返ると同時に鬼頭の怒鳴り声がトイレに響いた。
「はあ。やっと終わったぜ。鬼頭のやつ長々と」
鬼頭に俊介と長々説教され、途中で廊下の方で終業式が終わったのか、ぞろぞろと帰って来ていた。視線を多く感じ、切りをつけようとしたのか鬼頭には「お前らロクな大人になんねーぞ」と捨て台詞を吐かれ教室に戻された。通知表を受け取り、静かに席についた。
清水夏織……。彼女は本当にあの頃のかおりなのか。あの頃のかおりは髪の毛を結んでいたが、清水の髪型はボブというやつだ。
彼女の方を見て、あの頃のかおりと顔を比べる。クラスメイトと通知表を見せ合いながら笑っている。なんだか笑った顔が似て……。
「おーい! 蓮! 見てくれよこの通知表」
いきなり飛びかかって来た俊介の通知表には数字の二がずらりと並んでいた。
「蓮、これスロットだったら大当たりだぞ」
「俊介はバカだな」
「んでそういう蓮はどうなんだよ」
「じゃじゃーん」
ずらりと並ぶ二と三の数字。俊介はほぼ俺と同じじゃんか! と笑ってくれやがった。
「俊介は数字も読めないアホだったか〜」
「変わんねーよ! それよりお前の愛しの清水ちゃんはどうなんよ」
「はぁ!? 愛しってなんだよ!」
「そう言いながらさっき見惚れてたじゃねーか」
「は、おま、あれは……」
「わかったわかった。早く聞きにいけよ」
俊介は呑気に口笛吹きながら席についた。帰りのSTが始まり、チャイムで解散だと担任が言ったと同時にチャイムがなった。
清水に声をかけようと思ったが、すぐに部活の用意を持って教室から出ていってしまった。
「あーあ。行っちゃったな」
「清水ってどこで昼飯食ってんのかな」
「さぁ。ソフトテニスのやつらと集まってんじゃない?」
午前授業の日は昼飯を食べた後に部活を行う。各自家からお弁当を持ってきたりコンビニで買うものもいる。
「あー!」
「なんだよ、どこで食ってんのかわかったか?」
「弁当忘れた……」
「なんだよ。そんな事かよ」
「俺財布も忘れてさ……五百円貸してくんね?」
「んだー! だりーな。六百円で返せよ」
「わりいわりい。それとコンビニ着いてきてくんね?」
「はぁ? 俺だって暇じゃないんだぞ?」
「お願い! 七百円にして返す!」
「よし、行くか」
俊介と校門を出てすぐにあるコンビニには行かず、少し離れた場所にあるコンビニへ行った。おにぎりとカップ麺を買い、教室に戻ろうとしたが、行き道にある公園で飯を食べる事にした。
「あそこ角を曲がったら公園だ」
「はあ、なんで暑いところで飯を食わなきゃ行けねーんだ」
「たまには他のとこでもいいだろ」
「はいはい。青春を感じろってやつね」
角を曲がって公園の入り口に着いた時、同じ制服を着た女子生徒がいた。
「蓮ってやつは本当に……」
「しっ! ちょ黙れ」
「な、なんだよ急に」
俺と俊介は草むらに隠れて様子を伺う。
「ベンチ見てみろよ」
「うわ。先客いるじゃねーか……っておい」
俺と俊介は顔を見合わせた。あれは清水だ。
「おい、お前行ってこいよ」
「なんでだよ。蓮が行けよ。俺は清水に用事はねえよ」
「勇気ねえよ……」
しかし絶好のチャンスだ。普段、清水の周りにはクラスメイトやら部活のやつやら色々いたりするので、二人きりで聞けるのは今しかない。
「俊介、押すなってバカ」
「いけいけいけいけ!」
押し出された俺はカップ麺を片手に公園の入り口の前に立っていた。日陰のベンチから視線を感じる。俊介の方を見てみると、背中を見せて遠くへ行っていた。
ベンチの方に目をやると清水と目が合った。少し沈黙を挟んだあと、先に声を出したのは俺だった。
「あ、暑いな〜。どっか日陰ないかな」
「二階堂くん……?」
「あ、そうそう。同じクラスの」
長年女の子と絡みが少なかった身なので、うまく話せない。
「横座る? 暑いよね」
「あ、ああ」
首に手を当てながら一つしかないベンチに座った。座ったはいいものの、清水は黙々とコンビニのサンドイッチを食べすすめている。
「あ、清水って弁当じゃないんだな」
「今日はたまたまお弁当を忘れちゃって」
「おお、俺と一緒じゃん」
「二階堂くんもなんだ」
お互い何話していいかわからなくて、また沈黙がやってきた。昔の話を聞きたいが、そんなのもどう話を切り込んでいいかもわからない。それでも今がチャンス。これを逃すまいと息を吸って勇気を入れた。
『あのさ』
ここにきてまさかの被ってしまった。
「ああごめん」
「私もごめん。なんだった?」
「ああ。大した話じゃないからそっち先言ってよ」
「私も大した事じゃないんだけど、わたし猫飼ってるの」
「ああ。メールのアイコンかなんかにしてるよね」
「そう。名前なんだと思う?」
そうだったのか。やっぱりあの時のかおりは清水だったのか。きっと清水も俺と同じ事を聞こうとしていたんだ。
「んー。にゃんにゃんとか?」
「なんでよもう」
お互い昔の事を覚えていた事をここで認識した。
「あの猫は小さい頃、公園で一緒に育ててた私と同い年の子がいて、噂によれば同じクラスだとか……」
「んー、きっとそれはその子もずっと気になってたんだろうな」
「私は高校入って部活を何にしようか迷ってた時、たまたま見つけて、まさかって思ったから気づいてもらえるようミャーコをメールのアイコンにしてたのに」
「その時すぐ声をかけてくれればよかったのに」
「聞いたことあるかもしれないけれど、二階堂くん裏ではすごいモテてるんだよ」
「ええ、こんな俺が……。またまた」
「本当だよ。爽やかでちょっとヤンチャで、サッカー部のくせに、女の子と全く話さないのがまたギャップで」
本当にそんな噂があったのかよ。少し照れながらも反抗してやった。
「そう言うんだったら、清水だってモテてるじゃん」
「え? うそ?」
「本当だわ。まぁ俺は三年になってからその噂を聞いたけど。俺もそこから清水の名前がひっかかって、メールのアイコン見たらミャーコに似たやつがいるし」
「私ずっと待ってたんだよ! 三年になってからやっと同じクラスになったけど、噂通り二階堂くんは女の子と話なんかしてないし」
「話しかけてくれれば、もっと早く気づいたのに」
「他の女の子たちに睨まれちゃうよ。今も一緒にご飯食べてるなんて噂が広まったら、みんなに勘違いされちゃうよ」
「女子から人気があったなんて。はあ……高校生のうちに青春したかったな」
「そんな事言ったら私もだよ。二階堂くんの話が本当なら、青春しとけばよかったかも」
お互い笑い合いながら、だいぶ慣れてきた。本当にあの頃のかおりだったんだ。同じ高校だったなんて。
「私、小学校に上がると同時に、両親が再婚して引っ越ししちゃってさ。隣の学区移っちゃって、何回かターザン公園に行ったり、あの団地に寄ったりしたんだけど、二階堂くんの姿なかったから」
「そうだったのか。俺もその頃らへんにお母さんが再婚して引越ししたんだ。ターザン公園からは少し離れたけど、同じ学区だよ」
「そうなんだ……。私たちなんだか似てるね」
「どこかだよ」
「えー! だって親が再婚して引っ越しをしたり、ずっとこの話をしたかったり、ミャーコが好きだったり」
「まぁ境遇は似てるな」
「でしょでしょ。ってそのカップ麺伸びてんじゃない?」
「あ! 忘れてた」
伸びきったコンビニのカップ麺。蓋を開けてみると、汁のないラーメンらしきものができていた。ラーメンらしきものを頬張りながら、あの頃の話をした。
「ミャーコ大きくなった?」
「うん。もうすっかりおばさんだよ。私の部屋にずっといる」
「あの写真見る限り本当に大きくなったんだね」
「うん。ずっと御礼を言いたかったの。あの時猫を譲ってくれた事。あと遊んでくれたの嬉しくて」
「いやいや、どーせ俺の家では飼えなかったし、俺の暇つぶしに付き合ってくれてこちらこそありがとうだよ」
「御礼したいし、今度私の家来る?」
ドキッと胸に何かが刺さった。初めて女の子から誘われた。
「いやいや、そんなんしなくてもいいよ」
「そんなー! ずっとミャーコと待ってたんだよ!」
「いや俺女の子と遊んだ事ないし……」
「そんな事言ったら私もだよ! 蓮くんの事ずっと探して、待ってたんだもん」
「清水って……彼氏とかいた事ないの?」
「ないよ! だから私の家来る? なんて初めて言ったし、すっごい勇気振り絞って言ったもん」
「お互いウブだな」
「そうだよ。明日部活行く?」
「一応行くよ」
「じゃあその後来てよ」
「いやいや汗臭いし……」
「大丈夫だって! 私も太陽の下で運動してる者同士だし」
遠慮する俺にぐいぐいと家に誘ってくる清水。そんないざこざをカップ麺とおにぎりを食べ終わるまで繰り返していた。
「もーう。やっと会えて話せたのに、もう部活始まっちゃうじゃん。明日校門のところで待ってるからね」
「じゃあ行けたら行くよ」
「来てよね! じゃあ私先行くね。みんなに見られちゃうとめんどくさいし」
「おう。また……」
ゴミの入った袋を持ったまま歩き去っていく。清水も緊張してたのか俺のおにぎりのゴミまで気づかずに自分のゴミ袋に入れていた。俺は清水の背中を見ていた。公園を出て見えなくなるまで。甘い女の子の匂いを残して。
公園で余韻に浸っていて我に帰る頃には部活が始まっていた。
「はいはいー。遅刻ですよ。一体何してたんですか?」
「なんでもいいだろ。そういえばあの話できたぜ」
「まじかよ! どうだった?」
「あの頃のかおりで間違いなかったよ」
「うおー! 夏に負けない暑さですな」
「なにがヒューヒューだよ。ていうか俺が女の子からモテるって知ってたか?」
俊介は俺とは真逆に女の子とよく会話をしている。
「うん。よく聞くよ」
「え! 嘘だろ! なんで教えてくれなかったんだよ」
「そりゃー、蓮が女の子に興味を持ったら教えようと思ってたよ。俺みたいに女の子と出会い別れを繰り返してほしくないから、厳選してやろうと思って」
「ざけんなよー。俺の青春を返せ」
俊介に少し強めにパスをしてやった。
アップのパス練を終えると後輩たちはサーキットの準備をしている。俺と俊介はサーキットが終わるまでロングパスをやる事にした。
明日清水の家に行くのか……。考えるだけで胸が熱くなる。それと視線がソフトテニス部の方に行ってしまう。ソフトテニス部の三年も引退が決まっているので三年はラリーをしている。
清水を目で探していると、日陰で休むツインテールの子と目が合い、ツインテールの子は横にいた友達に足をドタバタさせながら何か話しかけている。釣られた後の魚かよと思いながら、俊介にボールを返す。清水はどこだと探していると「ごめーん! 力んだわ!」と俊介の叫び声が聞こえた。よりによってソフトテニス部のコートの方にボールが飛んでいってしまった。
「くそ……。俊介の野郎ただえさえ清水の事が気になってんのに、コートの方にボールを飛ばすなんて」
だるそうに小走りですいませーんと謝りながらコートに入ると、誰かがボールを持ってきてくれている。太陽が眩しくて誰が来ているのかわかんないけど、目を細めて気怠そうに待った。
「はい!」
「誰か知らんけどさんきゅーな」
「さっきぶりだね」
手で目の日陰を作り、目を開けてみるとそこにいたのは清水だった。
「ばか。なんで清水が持ってくんだよ」
「なんでよ。たまたま私の近くに飛んできたんだもん」
「ああそうか。さんきゅーな」
「二階堂くんたちは走らないの?」
「ああ。もう引退だからな」
「私たちと一緒だね。でも部活以外する事ないからな〜」
「だよなー。夏休みの予定なんもないし」
「私も」
ボールを手渡しで受け取ると、ソフテニの方から女子の声が上がった。
「なんだよあいつら」
「二階堂くんのファンだよ」
「ファン?」
「爽やかな汗を流す二階堂くんを見てる子たち」
「汚い汗しか流してないけどな」
「二階堂くんにとっては汚いかもね」
「あいつらに言っとけよ。二階堂ってやつは女子と全く話せないウブなやつだって」
「私も男子と話せないウブだからそんなん言えないや。そろそろ戻るね。あの子たちに殺されちゃう」
「はは。そりゃ見ものだな」
また甘い匂いを残して、去って行った。
「おーい! 蓮なにしてんだよー!」
遠くで俊介がこちらを見ている。
「はいはい。今行きますよ」
ボールを蹴るたび、ツインテールの女の子が声を上げるのでやりづらかった。部活中も何度か清水と目が合い笑いかけてきたので色々とやりづらかった日だった。
部活は終わり、いつも通り蓮と自転車で帰るため駐輪場に向かった。
「はあ、ついに蓮にも彼女ができるのか」
「は? どーゆー事だよ」
「だーかーらー、清水ちゃんじゃねーかよ」
「なんで彼女ってなるんだよ」
「お前ら部活中ずっと笑いながら見合ってたじゃねーかよ」
「はっ、あれは思い出し笑いしてただけだよ」
「はぁー。羨ましいなあ……。俺もそんなドラマみたいな恋愛してー」
「いや俊介だってたくさん恋愛してんじゃんか」
「いやいや、俺のはありきたりすぎる」
「ありきたりって……」
「さっきの話聞く限り、清水は多分お前の事好きなんだよ」
「はぁ? どこでそうなったんだよ」
「ミャーコとずっと待ってた! ってそんなん告白だろ」
「いやそれはまた別でしょ……」
「はぁー。蓮は鈍感だな」
「清水とはそんなんじゃないって……」
教員の駐輪場に着くと、鬼頭のやろうがいた。
「はーい。部活お疲れさん」
「ありがとーうございまーす」
「たく、お前らと来たら集会はサボるわ。決められた場所にチャリは止められんわ。早く卒業してくれ」
「俊介もそこに止めたんか?」
「当たり前だろ」
教員用の駐輪場の横のスペースに申し訳なさそうに止めてあった。
「俊介はいつもちゃんとしたとこ止めてたじゃんか」
「いやなんか蓮の真似したらモテるかなって」
「なんだそれ」
「次ここに止めてるの見かけたらパンクさせて返すからな」
「被害届だけ出して戦いますね」
「本当にお前らは屁理屈ばっか……。早く帰れ」
「言われずとも帰りますよ。お疲れ様でーす」
チャリに跨り、漕ぎ始めると鬼頭が校内でチャリに乗るな! と怒鳴っていたが、振り帰らず校門を出た。
「もう五時かー」
コロナの制限が少なくなり、部活の活動時間も増えて、コロナがなかった頃のような生活に戻ってきている。
「夏休みの季節になったなー」
「なあ俊介、記念にどっか行かね?」
「高校最後の夏休みだし、いいよ」
「温泉行こうぜ」
「飯じゃないんかーい」
チャリの行き先を自宅方面から温泉にする事にした。
「夏の星座にぶら下がって〜」
なんの歌だかわからないが、俊介は最近流行ってると言いながら歌っていた。
温泉に着くと、靴を下駄箱に入れ、受付を済ますと、俊介は自販機で牛乳を買った。俊介は変わっており、風呂に入る前と風呂に入った後に牛乳を飲む。味が変わる様子を口の中で楽しみたいらしい。
「さーて入りますか」
牛乳瓶を指定場所に置き、颯爽と服を脱ぎ始めた。
「なあ、俊介」
「なんだよ。」
「今年は夏が過ぎるのが早い気がする」
「なんだよ。まだ始まったばっかじゃないか。夏が懐かしいってか?」
「ほらな。もう寒いもん」
水風呂よりも冷たい俊介のダジャレをかけ湯で流した。先に体を洗い、さっそく露天風呂の方に進む。小さな露天風呂だがそれもまた良い。
「ああ」と声を出しながら俊介はお湯に浸かる。
俺も続いて「ふう」と言いながらお湯に浸かった。
「あったけえな」
「蓮、どーするんよ」
「どーするってなにを?」
「お前のだーーいすきな清水ちゃんだよ」
「どうするっていったって」
「とりあえず明日は清水ちゃんの家行くんだろ?」
「まぁ行く気ではいるけど」
「高校三年になってやっと卒業だな」
「お家に行くイコールヤルってことなのかよ」
「いや初めては違うかもなあ」
「なあ一応教えてくれないか」
俊介は笑いながら返事して、色々と教えてくれた。キスの仕方からベッドインの仕方からパンツの脱ぎ方まで。
「俺無理かも……」
「まぁ最初は怖いよな」
「いやいやそれもあるけど、なんだかそーゆー関係になりたくない」
「今のうちにしとけば良いと思うけどなあ」
「そーゆーのって時間を掛けてするんじゃないの? 体を重ねるってそんな軽いもんなの」
「人によるなあ。蓮は慎重タイプや」
「慎重だとかそーゆーのじゃなくて……」
「まぁまぁ。俺もそっちの考えだったらもっとまともな恋愛できたんかな」
「まだまだこれからでしょ」
「そうだな」
俊介も俊介で色々と考え込んだ顔をしていた。湯船を出て椅子に腰をかけると、やがて睡魔が襲ってきた。
裸で寝てしまったら風邪をひいてしまう。それでも良いから今すぐ寝たい、葛藤していたが睡魔に押しつぶされ、目を閉じた。
――目を閉じると清水がいた。正確にいうとあの頃の清水だ。俺がかおりと呼んでいた時期。
「れんくん、かおりの事好き?」
「ん!? いきなりなんだよ」
「この前お家でママとドラマ見てたの」
「うん」
「それでね、ドラマの女の人が、本当に私の事好き?って言ってたのを見て真似したの」
「なんだよ、びっくりした」
「なんでびっくりしたの?」
「え? いや、それはその……」
かおりはそっぽを向く俺の顔を覗き込むようにして顔を近づけた。
「ち、ちかいよ……」
「好きな人同士はチューをするんだよ」
「だ、だからなんだよ……」
「れんくん、かおりのこと好き?」
「……す、すきかも」
「かおりもれんくんが好き」
かおりは目を閉じ口をとんがらせて、俺の口へ目掛けてやってきた。俺もゆっくりと目を――。
「うわあああああ」
「ど、どうしたんだよいきなり大声出して」
「え、あ、しゅ、んすけ?」
俺の大声に驚いている俊介が目の前にいる。
「か、かおりは?」
「何寝ぼけてんだよ」
「あっ……夢か……」
落ちたタオルを拾い上げ腰に巻いた。それにしても一体何だったんだ。夢だったけれど本当に昔合った出来事な気がした。