一週間ぶりの外だった。まだ暑さが残っているが、乾いた心地の良い風が吹き抜けて、季節の移ろいを感じる。おかげで少し気分が落ち着いた。久しぶりに見た外の景色は眩しく、暗闇に慣れていた僕には刺激が強くて上手く目が開かなかった。
 少し歩くと公園が見えてきた。小さな滑り台と茶色いブランコくらいしか遊具が無い寂れた公園だ。僕が幼い頃からある公園だが、入ったことは一度もない。
 足を踏み入れてみたが、やはり遊んでいる子どもなんていなかった。周りを囲んでいる木々が公園を覆っているせいで、昼間なのに薄暗い。これでは人が寄り付かなくても無理ない。
 ふと視線を横に向けると、奥のベンチで誰かが座っているのが見えた。誰もいないと思い込んでいたので、突然目に飛び込んできた人影に反射的に驚いた。
 人影の正体はどうやら男性で、うたた寝をしているようだった。三十代くらいのサラリーマンと思しき男。よれよれのスーツに、不自然なほど左に曲がったネクタイ、目にかかるほどの長い前髪、剃り残しの多い青髭、泥で汚れた靴など、外見から滲み出るだらしなさが、彼が「ダメ人間」であるという印象を抱かせた。品性の欠片などまるで感じない。
 そんなクズみたいな人間が、あんなにも満たされた顔で居眠りをしていることに、僕は無性に憤りを感じた。どこの誰かも知らない相手だというのに、もはや蔑んでさえいた。
 男に軽蔑の視線を向けていた時だった。彼の目が突然開かれた。驚いて逸らそうとしたが、それよりも先に彼と目が合ってしまった。目覚めて数瞬だというのに、彼の双眸は見開かれていた。
 早く立ち去ろう。そう思っているのに、何故か僕は彼から目が離せなかった。

「すみません」

 男は意外にも太く、通った声をしていた。周囲には誰もおらず、呼びかけられているのが僕だということはすぐに理解できた。近寄りたくはなかったが、無視して立ち去るのも気が引けて、結局彼のほうに向かった。
 男の前に立って気づいた。彼は涙を流していた。左目の縁から一筋だけ流れる雫の跡があったのだ。

「……何でしょうか」

「申し訳ないのですが、ティッシュを貸してくれませんか」

「返してくれるんですか」

「望むのでしたら」

「……まさか、冗談です」

「こちらも冗談ですよ。日本語というのは難しいですね」彼は苦笑しながら言った。「『ティッシュをくれませんか』だと、なんだか図々しい人間に思われる。でも『貸してくれませんか』なら遠慮がちに聞こえる。本来なら正しい使い方ではないのでしょうが、社交的に接しようとすると後者を選ばざるを得ない。人同士が真に意思の疎通を行うためには、きっと言葉という道具はあまりに不完全なのかもしれませんね」

 彼はそう言って、一人嘆いているようだった。見た時から怪しいとは思っていたが、明らかに変な人間であると確信した。よりにもよって何故こんな人間と出くわしてしまったのだろうか。

「……すみません。持ってません」

「そうですか。それは残念です」

 男は大きく背伸びをし、素手で目元を擦った。擦り終えて二、三回眼を瞬かせた後で、彼は僕の顔をまじまじと見た。

「何です?」

「こんなところで何をしているのか。そんな顔をしていますね?」

「いえ、別にそんなこと……」

「いいんですよ。私もあなたの立場ならそう思うはずです。大の大人がこんな公園でなに寝てるんだ、とね」彼は自嘲気味にそう言った。

「……まあ、思いましたよ、少しは。何故なんです?」

 すると彼は、よくぞ訊いてくれたと言わんばかりに、にっこりと微笑んだ。訊かなければよかったと後悔した時にはもう、彼は答え始めていた。

「長くはなってしまいますが、もしよろしければ私の話を聞いてくれませんか? いえ、あなたは聞くべきです。私なら、今のあなたをきっと救えるはずですから」

 救える? 僕はその言葉を聞いて、彼に対する呆れは最高潮に達した。堕落している人間が何を傲慢なことを言うのだろうか。
 けれど、僕の体は動こうとしなかった。それにどういうわけか、僕のほうもそこまで言うのなら聞いてやろうという気になっていた。救いを求めたわけじゃない。聞いた後に、ろくでもない話だと、鼻で嘲笑ってやろうと思ったからだった。
 僕が去らないのを了承と見なした彼は、深呼吸をして、それから訥々と話し始めた。

「私ね、最近よく夢を見るんですよ。毎晩毎晩同じ夢を。まあ、取り留めもない内容なんですけどね。その夢の中で、私は鳥になって大空を飛んでいるんです。分厚い雲のずっと上、空と宇宙の狭間をアクロバティックに飛んでいるんですよ。無論私の他には誰もいません。一人で、いや、この場合は一羽でしょうか。……まあいい。どちらにしろ、孤独に飛んでいるのです。宙返りをしてみたり、体を捻って回転してみたり、昔見た空自の航空ショーで戦闘機がやっていた奇抜な飛び方もやってみました。もちろん一度も空を飛んだことなどありません。ですが不思議と私の肢体は、私の思うままに動くんです。まるでずっと前から、空の飛び方を知っているかのように。それはまさしく――子どもの頃から思い描いていた自由そのものでした。そうです。私は夢の中で、ようやく本物の自由を手に入れた気がしたのです。そうやってしばらく飛行を続けて、私は自由を堪能しました。しかし、だんだんと私の心の中に、ある衝動が芽生え始めるのです。毎晩、何故だか決まって私は、落下してみたいという衝動に駆られてしまうのです。そしてその衝動のままに、羽をたたみ、速度を落として急降下していきました。無抵抗な状態で、ただただ落ちていくんです。これがね、あなたには理解し難いかもしれませんが、たまらなく気持ちが良いんですよ。恐怖なんてものは微塵も感じません。猛スピードで雲を突き抜けていく時の感覚、空気を切り裂く音、迫ってくる地上、現実、死……あれはとてもいいものですよ、本当に。徐々に地面が、すなわち死が迫って来る。落下という行為は、我々人間にとって最も鮮明に死への直結を想起させるものですからね。かえって他に何も思う必要なんてないんですよ。あれほど満ち足りた感覚を味わったのは、初めてのことでした。そして、地面に叩きつけられて、ようやく目を覚ますんです。全身汗だくでした」

 一段落話し終えた彼は天を仰いだ。両目を閉じ、そして続ける。

「私は特別、空や鳥といったものに思い入れがあったわけではありません。まして自殺を考えたことも、憶えている限りでは一度もありません。ですが、いえ、だからこそこの夢は、私に何かを伝えようとしているのではないかと思えてならなかったのです。あるいは警告と捉えてもいいのかもしれません。証拠に、夢の中の記憶も鮮明なままです」

 僕はいつの間にか彼の話に耳を傾けて聴いていた。夢の話なんて、この世で一番どうしようもないものだと思っていたはずなのに。

「どうして毎晩同じ夢を見るのだろうと、私は考えました。そして、とうとう思い出したのです。あの夢を見るようになったのは、他でもないこのベンチで一夜を明かした日からだということに」

「きっかけがあったんですか」

「ええ、そうです。私が初めてここで眠ってしまったのは、今から三か月前のことです。とても蒸し暑い夜でした。仕事を終えた私は、そのまま近くの居酒屋へ一人で行きました。そこでしばらく飲んで、帰ろうと店を出て電車に乗ったところまでの記憶はあるのですが、その先自分がどうやってこの公園に辿り着いたのかは未だに思い出せません。気付いた時にはここで朝を迎えていました。……しかしここで肝心になってくるのは、このベンチで眠ってしまったことに、何か特別な意味があるわけではないということなのです」

「どういう意味ですか」

「……実はその日、私はこのベンチにある落とし物をしてしまったんです。とても大切な、大切なものでした。それなのに、ここで眠った私は、それを落としてしまったということを今日に至るまで忘れていたのです。それがないことに違和感を覚えることすらなく、普通の生活を送っていたのです。考えるだけでゾッとしますよ」

「いったい何を落としたんです?」

 男は懐から封筒を取り出し、僕に手渡した。すでに封は切られてある。中を覗いてみると、一枚の紙が入っているのが見えた。

「手紙、ですか」

「そうです。私の妻からの手紙でした。きっと、この手紙を落としてしまったことが、私が夢に取り憑かれるようになった原因なのです」

「拝見しても?」

「かまいません」

 僕は封筒の中から、二折になっている紙を取り出して広げた。そこには、驚くほど綺麗で整った文字が並んでいた。
 その手紙にはこう書かれてあった。