私はその背中をじっと見つめて想いに耽る。彼にはこの先、どんな人生が待ち受けているのだろうか。
そして、私は彼の期待に恥じない人生を歩んでいけるのだろうか。そんなことを考えていると、彼は2、3歩歩いたあとに、何故か引き返してきた。
「ああ、そうだ、雨宮。……いや、雨宮初段。
最後に一言だけ言ってもいいですか? やっぱりこれだけは伝えておこうかなって」
「は、はい……。なんでしょうか……? なんでも言ってください」
一体なんだろう。わざわざ戻ってきてまで伝えたいことって?
だけど、私は彼がなんと言おうとも、その言葉を深く深く心に刻みつけようと思った。
それがきっと彼に対しての最大の敬意であり、賞賛であったからだ。だから、私は彼のどんな言葉も受け入れるのだ――。
「俺の名字、岡田じゃなくて岡林です」
「えっ!!???」
新幹線に乗るといつも思う。この乗客たちにも、それぞれの人生があり、それぞれ別の目的で生きているのだということを。
それぞれ別の理由があって新幹線に乗った人々が、同じ時間、同じ空間を共有していると思うと不思議な気持ちになる。
それからこうも思う。――静岡は長過ぎる。いつまで経っても静岡だ。でも、これだけ長いからこそ余暇を楽しむ時間があるわけで……。
「なんかかさちゃん、変なこと考えてない?」
「……なんで分かるの?」
「遠い目をしていたから」
こほん。移動時間って訳分かんないこと考えてしまいがちよね。
しかし、それをさきちゃんに悟られるなんて。随分と疲れが溜まっているのかもしれない。
ともかく私とさきちゃんは公民館で私服に着替え直し、今は大阪から東京へ帰る途中だ。――茂美をひとり大阪に置いて。
「それにしても、茂美も意外と元気っ子よね。
あいつだって疲れてるでしょうに、ついでだから一泊して大阪観光していくって」
「私も明日の対局がなければ、一緒に残ったんだけどね」
「若いっていいわねえ……」
「同い年だよ、かさちゃん!」
でも、これから先、関西での対局なんていくらでもあるでしょうに、わざわざ観光していく気にはなれないわ。
年寄りの発想なのかしらね、これ。そんなこと言いながら、一度も観光せずに人生終了しそうよね。
「私はイベントだけでも十分楽しめたわ。
なんとかお客さんも数人来てくれて、いろんな打ち手と打ったことで、カメレオン戦法の研究にもなったし」
「かさちゃん、最近それよく言ってるけどさ。
カメレオンって名称どうにかならない?」
「じゃあ、井の中の蛙大海を知らず戦法で」
「カメレオンでいいです」
カメレオンみたいに相手の棋風に合わせて自分の色を変え、気配を消して相手を捉える。いい名称だと思うけれど。
「それに私、運命の人とも再会できたから」
「え、何それ。変な男の人に引っかからないでよ、かさちゃん?」
「大丈夫よ、その人彼女いるから」
「余計駄目だよ!?」
何よ、さっきからツッコミばかりね。私、そんなに変なこと言ってるかしら。
「まあ、詳しくはあとで話すわ。今はまだ、余韻に浸っていたいの。
それくらい今日は熱い日だったのよ」
「よく分からないけど、かさちゃんが心から楽しめたのならよかったよ。
ねえ、知ってる? プロになると楽しいことがいっぱいあるんだよ?
プロになることはゴールじゃない。むしろそこからスタートなんだよ。
だからさ、これからいっぱい楽しもうね、かさちゃん」
左隣に座るさきちゃんの頭が、こつんと私の頭に当たる。
寄り添うように私にもたれかかってくるさきちゃんが愛おしい。
「そうね。私には、あなたからタイトルを奪取するという楽しみもあるしね」
「だったら、私には、それを阻止するという楽しみがあるよ」
「楽しみがいっぱいね」
「ね」
肩の荷が下りたのは、私も同じだ。少なくともこれからはもう苦しみながら碁を打つ必要はない。
ただ、もちろんそれは、勝ち負けにはこだわらないという意味ではない。
一手一手の重さに悶え苦しむのではなく、むしろそれを楽しんでいけるという意味だ。
そんな茨道のようでいて案外愉快な道を、私は歩き出した。その先には"さき"がいて、その横には"さきちゃん"がいる。
それに、私がそんな道を進むのを応援してくれる人だっているのだ。だからこそ私は全力で楽しまなくちゃいけない。
だって、囲碁を打つのってとっても楽しいんだから。それを忘れたら、私はプロ失格だ。
楽しみながらも真剣な気持ちも忘れない。矛盾しているようにも思えるけど、それこそが道を歩むということだ。
そして、そんな道があることを示すのはプロとしての役目でもあり――。
「すー……、すー……」
「さきちゃん?」
彼女は私にもたれかかったまま、いつの間にか寝息を立てていた。
今日はたくさんのお客さんに囲まれて、誰よりも忙しかったものね。無理もないわ。
彼女を労うように、私のほうからもそっと頭を寄せる。
「かさちゃん……、すき……」
むにゃむにゃとさきちゃんはそんな寝言を言ってくれた。
照れ臭くなるけど、嬉しい。だって、私も同じ気持ちだから。
「ふふっ、私も大好きよ、さきちゃん……」
そうして私たちは寄り添いながら、東京へ戻る。すべての始まりである、あの東京という町に――。
「焼き食べたい……」
「あ゛あ゛っ!?」
そして、私は彼の期待に恥じない人生を歩んでいけるのだろうか。そんなことを考えていると、彼は2、3歩歩いたあとに、何故か引き返してきた。
「ああ、そうだ、雨宮。……いや、雨宮初段。
最後に一言だけ言ってもいいですか? やっぱりこれだけは伝えておこうかなって」
「は、はい……。なんでしょうか……? なんでも言ってください」
一体なんだろう。わざわざ戻ってきてまで伝えたいことって?
だけど、私は彼がなんと言おうとも、その言葉を深く深く心に刻みつけようと思った。
それがきっと彼に対しての最大の敬意であり、賞賛であったからだ。だから、私は彼のどんな言葉も受け入れるのだ――。
「俺の名字、岡田じゃなくて岡林です」
「えっ!!???」
新幹線に乗るといつも思う。この乗客たちにも、それぞれの人生があり、それぞれ別の目的で生きているのだということを。
それぞれ別の理由があって新幹線に乗った人々が、同じ時間、同じ空間を共有していると思うと不思議な気持ちになる。
それからこうも思う。――静岡は長過ぎる。いつまで経っても静岡だ。でも、これだけ長いからこそ余暇を楽しむ時間があるわけで……。
「なんかかさちゃん、変なこと考えてない?」
「……なんで分かるの?」
「遠い目をしていたから」
こほん。移動時間って訳分かんないこと考えてしまいがちよね。
しかし、それをさきちゃんに悟られるなんて。随分と疲れが溜まっているのかもしれない。
ともかく私とさきちゃんは公民館で私服に着替え直し、今は大阪から東京へ帰る途中だ。――茂美をひとり大阪に置いて。
「それにしても、茂美も意外と元気っ子よね。
あいつだって疲れてるでしょうに、ついでだから一泊して大阪観光していくって」
「私も明日の対局がなければ、一緒に残ったんだけどね」
「若いっていいわねえ……」
「同い年だよ、かさちゃん!」
でも、これから先、関西での対局なんていくらでもあるでしょうに、わざわざ観光していく気にはなれないわ。
年寄りの発想なのかしらね、これ。そんなこと言いながら、一度も観光せずに人生終了しそうよね。
「私はイベントだけでも十分楽しめたわ。
なんとかお客さんも数人来てくれて、いろんな打ち手と打ったことで、カメレオン戦法の研究にもなったし」
「かさちゃん、最近それよく言ってるけどさ。
カメレオンって名称どうにかならない?」
「じゃあ、井の中の蛙大海を知らず戦法で」
「カメレオンでいいです」
カメレオンみたいに相手の棋風に合わせて自分の色を変え、気配を消して相手を捉える。いい名称だと思うけれど。
「それに私、運命の人とも再会できたから」
「え、何それ。変な男の人に引っかからないでよ、かさちゃん?」
「大丈夫よ、その人彼女いるから」
「余計駄目だよ!?」
何よ、さっきからツッコミばかりね。私、そんなに変なこと言ってるかしら。
「まあ、詳しくはあとで話すわ。今はまだ、余韻に浸っていたいの。
それくらい今日は熱い日だったのよ」
「よく分からないけど、かさちゃんが心から楽しめたのならよかったよ。
ねえ、知ってる? プロになると楽しいことがいっぱいあるんだよ?
プロになることはゴールじゃない。むしろそこからスタートなんだよ。
だからさ、これからいっぱい楽しもうね、かさちゃん」
左隣に座るさきちゃんの頭が、こつんと私の頭に当たる。
寄り添うように私にもたれかかってくるさきちゃんが愛おしい。
「そうね。私には、あなたからタイトルを奪取するという楽しみもあるしね」
「だったら、私には、それを阻止するという楽しみがあるよ」
「楽しみがいっぱいね」
「ね」
肩の荷が下りたのは、私も同じだ。少なくともこれからはもう苦しみながら碁を打つ必要はない。
ただ、もちろんそれは、勝ち負けにはこだわらないという意味ではない。
一手一手の重さに悶え苦しむのではなく、むしろそれを楽しんでいけるという意味だ。
そんな茨道のようでいて案外愉快な道を、私は歩き出した。その先には"さき"がいて、その横には"さきちゃん"がいる。
それに、私がそんな道を進むのを応援してくれる人だっているのだ。だからこそ私は全力で楽しまなくちゃいけない。
だって、囲碁を打つのってとっても楽しいんだから。それを忘れたら、私はプロ失格だ。
楽しみながらも真剣な気持ちも忘れない。矛盾しているようにも思えるけど、それこそが道を歩むということだ。
そして、そんな道があることを示すのはプロとしての役目でもあり――。
「すー……、すー……」
「さきちゃん?」
彼女は私にもたれかかったまま、いつの間にか寝息を立てていた。
今日はたくさんのお客さんに囲まれて、誰よりも忙しかったものね。無理もないわ。
彼女を労うように、私のほうからもそっと頭を寄せる。
「かさちゃん……、すき……」
むにゃむにゃとさきちゃんはそんな寝言を言ってくれた。
照れ臭くなるけど、嬉しい。だって、私も同じ気持ちだから。
「ふふっ、私も大好きよ、さきちゃん……」
そうして私たちは寄り添いながら、東京へ戻る。すべての始まりである、あの東京という町に――。
「焼き食べたい……」
「あ゛あ゛っ!?」