なのに、私は大好きな親友へのメッセージひとつ送れず、スマホを見つめては溜息を吐くばかりの日々を過ごしていた。
『かさちゃん、プロ試験頑張ってね』
かさちゃんはもう頑張っているのに。そんなメッセージをしたって負担になるだけじゃないだろうか。
『今度一緒にご飯でも行かない?』
なんだか無駄に気を遣ってるみたいで、かさちゃんは気を悪くしないだろうか。
それに、かさちゃんの大切な時間を、今は奪いたくない。
私は進学しなかったけど、かさちゃんは高校にも行っているから、ただでさえ時間は貴重だ。
『プロなんて、別にもう諦めてもいいんだよ』
駄目駄目! 絶対にこれは駄目!!
私がかさちゃんに、一緒にプロになろうって誘ったのに、それを反故にするようなことなんて言えるわけがない。
結局、私がかさちゃんにかけられる言葉なんて、ひとつもない。
でも、だったら私は一体どうすればいいのだろうか。
「そんなの簡単だぜ、私! 言葉で駄目なら態度で示せばいいのさ!」
え!? 悪魔の私!?
「いけません、私。悪魔の言うことに耳を貸してはいけませんよ」
天使も出てきた!!
「とにかくよぉ、直接会って抱きしめてやればいいんじゃねえの?」
う、悪魔のくせに意外とまともなアドバイスだ。
「抱きしめるだけでは駄目ですよ。そっと彼女の唇に口づけをしてあげるのです」
できるか!!
……はあ、何考えてんだろ、私。馬鹿馬鹿しい。
それに直接会いに行くことだって、そう簡単にできることじゃない。
もしも彼女が私に対して、拒絶の目を向けたのなら。きっと私は何もできなくなってしまうだろう。
第一、これはかさちゃんが自分で乗り越えないといけない壁なんだ。
私が何かを言ったりしたりしたとしても、所詮慰めにしかならない。
それどころか、むしろ負担を増やしてしまうかもしれない。結局、私には待つことしかできないのだ。
私はスマホに打ちかけたメッセージを消して、もう一度溜息を吐く。それからエレベーターを降りて歩き出す。
「一体どこで間違えちゃったのかなあ」
日本棋院の控室の扉に手をかけながら、ひとり呟く。
私は、こんな未来を望んだわけじゃ――、
「よぉ、女流四冠がなんの反省会してんだ?」
と、その声とともに、私の背中が「ばしーん!」と叩かれる。
その勢いに押されて扉が開き、私はよろけそうになってしまった。
「うひゃあ!? な、何するんですか!?」
「なんだよ、大袈裟だな。軽く気合を入れてやっただけだろ」
「よ、横山先生……、自分の筋肉量を考えてください」
うぅ……、背中がひりひりと痛いよぅ。
横山矩夫八段。囲碁棋士らしからぬワイルドな髭とマッチョな肉体を兼ね備えている彼は、かさちゃんのお師匠様だ。
院生師範の大林学先生にとっては同じ高校のふたつ上の先輩だったそうで、その縁で院生のかさちゃんが紹介されたらしい。
YouTubeやInstagramでは何故か囲碁の話はほとんどせずに、トレーニングメニューの公開や鍛え上げた筋肉の自慢をしている。
いわば"変わり者"なのだが、各種リーグ入りやNHK杯での優勝経験もある実力者で、兄貴肌なところもあるためか彼を慕う棋士も多い。
かく言う私も、彼にはお父さんのような雰囲気を感じることもあって、ときどき甘えたくなる。……デリカシーがないのが玉に瑕だけど。
「何言ってんだ。棋士は体力勝負だぜ?
早川も若いうちはまだいいかもしれないが、今のうちから鍛えておかないとな。
そんなんじゃ10年、20年戦える棋士にはなれねえぞ」
「にしても、今のはセクハラでパワハラです!
……あと、なんかお酒臭いんでアルハラとスメハラで横山先生も四冠達成ですね。そんなんで今日の対局戦えるんですか?」
控室に入りながら、そう訊ねると横山先生はアルコール臭のする息をしながら、心底意外そうな顔をした。
「あ? それこそ何言ってんだ。今日戦うのはお前だろ?
女性初、史上最年少の名人戦リーグ入りを賭けた戦いの応援に来てやったんじゃねえか。ちょっと前祝いの酒を飲み過ぎたがな。
……ああ、言っておくが、飲酒運転はしてねえからな! 今日はちゃんとタクシーを――」
「名人戦、リーグ入り……」
そうだ、私は今日名人戦リーグ入りを賭けた手合を、末森八段という男性の棋士と戦う。
マスコミも出版社も棋界の人々も囲碁ファンの皆さんも、誰もが私の動向に注目している。
応援してくれるみんなのためにも、気合を入れて頑張らないと……。そうは思うけれど……。
「なんだなんだ、他人事みたいな顔しやがって。
さっきも負けた碁の振り返りでもしてたのかもしれねえが、道は前にしか続いていなんだぜ?
余所見なんかしてたら、あっという間に他の奴らに追い抜かれちまうぞ」
「あはは……、そうですよね。余計なことは考えないようにしないと」
私と横山先生は控室の椅子に向き合うように座りながら、そんなことを話した。
でも、私はかさちゃんとのことを『余計なこと』だなんて切り捨てたくはない……。
私の大好きな親友が、もう何年もプロになれなくて、今もなおその苦しみの道にいる。
私にできることなんて何ひとつないのかもしれないけれど、せめて想いを馳せることだけは許されて欲しい。
がちゃり。そのとき再び控室の扉が開いた。
私の今日の対局相手である末森八段が入ってきたのだ。
「……おや、これは横山先生。おはようございます」
「おう、末森。昨日はよく眠れたか?」
「お、おはようございます、末森先生! 本日はよろしくお願いします!!」
「ああ」
末森八段は短くそう応えると、すぐに荷物だけ置いてどこかに行ってしまった。
なんか最初から最後まで横山先生のほうを見ていて、私とは目を合わせてくれなかったような……。
「おうおう、嫌だねえ。相変わらず仏頂面しやがって。
しかしまあ、あいつにも7年ぶり2度目の名人戦リーグ入りがかかってるんだ。
とりま勘弁してやってくれ。もちろん盤上ではボコボコにしてやって構わねえけどな」
「あ、はい。もちろんです」
棋士はいつだってプレッシャーとの戦いだ。末森八段の顔が怖くなってしまうのも仕方がないことだろう。
そこには私みたいな子供に負けたくないという気持ちもあるのかもしれないけれど。
「にしても、お前も辛気臭い顔してんな。タバコでも吸うか?」
「未成年に喫煙を勧めないでください。あと棋院は基本的に禁煙です」
「冗談だよ、雨宮みたいなこと言いやがって」
……嘘だ。胸元からタバコを取り出したときの顔は冗談じゃなかったぞ。横山先生は残念そうにタバコをしまう。
でも、ありがたいことに横山先生と話をしていると、いつも気持ちが落ち着いてくる。
いつもふざけたことばかり言ってきてツッコミに回らざるを得ないからかもしれない。
こういうときは、大林先生のような真面目な人より、おちゃらけた横山先生のほうが助かる。
「雨宮……、かさちゃんは元気ですか?」
「他人みたいな言い方するんだな。小学生の頃からの親友なんだろ?」
『かさちゃん、プロ試験頑張ってね』
かさちゃんはもう頑張っているのに。そんなメッセージをしたって負担になるだけじゃないだろうか。
『今度一緒にご飯でも行かない?』
なんだか無駄に気を遣ってるみたいで、かさちゃんは気を悪くしないだろうか。
それに、かさちゃんの大切な時間を、今は奪いたくない。
私は進学しなかったけど、かさちゃんは高校にも行っているから、ただでさえ時間は貴重だ。
『プロなんて、別にもう諦めてもいいんだよ』
駄目駄目! 絶対にこれは駄目!!
私がかさちゃんに、一緒にプロになろうって誘ったのに、それを反故にするようなことなんて言えるわけがない。
結局、私がかさちゃんにかけられる言葉なんて、ひとつもない。
でも、だったら私は一体どうすればいいのだろうか。
「そんなの簡単だぜ、私! 言葉で駄目なら態度で示せばいいのさ!」
え!? 悪魔の私!?
「いけません、私。悪魔の言うことに耳を貸してはいけませんよ」
天使も出てきた!!
「とにかくよぉ、直接会って抱きしめてやればいいんじゃねえの?」
う、悪魔のくせに意外とまともなアドバイスだ。
「抱きしめるだけでは駄目ですよ。そっと彼女の唇に口づけをしてあげるのです」
できるか!!
……はあ、何考えてんだろ、私。馬鹿馬鹿しい。
それに直接会いに行くことだって、そう簡単にできることじゃない。
もしも彼女が私に対して、拒絶の目を向けたのなら。きっと私は何もできなくなってしまうだろう。
第一、これはかさちゃんが自分で乗り越えないといけない壁なんだ。
私が何かを言ったりしたりしたとしても、所詮慰めにしかならない。
それどころか、むしろ負担を増やしてしまうかもしれない。結局、私には待つことしかできないのだ。
私はスマホに打ちかけたメッセージを消して、もう一度溜息を吐く。それからエレベーターを降りて歩き出す。
「一体どこで間違えちゃったのかなあ」
日本棋院の控室の扉に手をかけながら、ひとり呟く。
私は、こんな未来を望んだわけじゃ――、
「よぉ、女流四冠がなんの反省会してんだ?」
と、その声とともに、私の背中が「ばしーん!」と叩かれる。
その勢いに押されて扉が開き、私はよろけそうになってしまった。
「うひゃあ!? な、何するんですか!?」
「なんだよ、大袈裟だな。軽く気合を入れてやっただけだろ」
「よ、横山先生……、自分の筋肉量を考えてください」
うぅ……、背中がひりひりと痛いよぅ。
横山矩夫八段。囲碁棋士らしからぬワイルドな髭とマッチョな肉体を兼ね備えている彼は、かさちゃんのお師匠様だ。
院生師範の大林学先生にとっては同じ高校のふたつ上の先輩だったそうで、その縁で院生のかさちゃんが紹介されたらしい。
YouTubeやInstagramでは何故か囲碁の話はほとんどせずに、トレーニングメニューの公開や鍛え上げた筋肉の自慢をしている。
いわば"変わり者"なのだが、各種リーグ入りやNHK杯での優勝経験もある実力者で、兄貴肌なところもあるためか彼を慕う棋士も多い。
かく言う私も、彼にはお父さんのような雰囲気を感じることもあって、ときどき甘えたくなる。……デリカシーがないのが玉に瑕だけど。
「何言ってんだ。棋士は体力勝負だぜ?
早川も若いうちはまだいいかもしれないが、今のうちから鍛えておかないとな。
そんなんじゃ10年、20年戦える棋士にはなれねえぞ」
「にしても、今のはセクハラでパワハラです!
……あと、なんかお酒臭いんでアルハラとスメハラで横山先生も四冠達成ですね。そんなんで今日の対局戦えるんですか?」
控室に入りながら、そう訊ねると横山先生はアルコール臭のする息をしながら、心底意外そうな顔をした。
「あ? それこそ何言ってんだ。今日戦うのはお前だろ?
女性初、史上最年少の名人戦リーグ入りを賭けた戦いの応援に来てやったんじゃねえか。ちょっと前祝いの酒を飲み過ぎたがな。
……ああ、言っておくが、飲酒運転はしてねえからな! 今日はちゃんとタクシーを――」
「名人戦、リーグ入り……」
そうだ、私は今日名人戦リーグ入りを賭けた手合を、末森八段という男性の棋士と戦う。
マスコミも出版社も棋界の人々も囲碁ファンの皆さんも、誰もが私の動向に注目している。
応援してくれるみんなのためにも、気合を入れて頑張らないと……。そうは思うけれど……。
「なんだなんだ、他人事みたいな顔しやがって。
さっきも負けた碁の振り返りでもしてたのかもしれねえが、道は前にしか続いていなんだぜ?
余所見なんかしてたら、あっという間に他の奴らに追い抜かれちまうぞ」
「あはは……、そうですよね。余計なことは考えないようにしないと」
私と横山先生は控室の椅子に向き合うように座りながら、そんなことを話した。
でも、私はかさちゃんとのことを『余計なこと』だなんて切り捨てたくはない……。
私の大好きな親友が、もう何年もプロになれなくて、今もなおその苦しみの道にいる。
私にできることなんて何ひとつないのかもしれないけれど、せめて想いを馳せることだけは許されて欲しい。
がちゃり。そのとき再び控室の扉が開いた。
私の今日の対局相手である末森八段が入ってきたのだ。
「……おや、これは横山先生。おはようございます」
「おう、末森。昨日はよく眠れたか?」
「お、おはようございます、末森先生! 本日はよろしくお願いします!!」
「ああ」
末森八段は短くそう応えると、すぐに荷物だけ置いてどこかに行ってしまった。
なんか最初から最後まで横山先生のほうを見ていて、私とは目を合わせてくれなかったような……。
「おうおう、嫌だねえ。相変わらず仏頂面しやがって。
しかしまあ、あいつにも7年ぶり2度目の名人戦リーグ入りがかかってるんだ。
とりま勘弁してやってくれ。もちろん盤上ではボコボコにしてやって構わねえけどな」
「あ、はい。もちろんです」
棋士はいつだってプレッシャーとの戦いだ。末森八段の顔が怖くなってしまうのも仕方がないことだろう。
そこには私みたいな子供に負けたくないという気持ちもあるのかもしれないけれど。
「にしても、お前も辛気臭い顔してんな。タバコでも吸うか?」
「未成年に喫煙を勧めないでください。あと棋院は基本的に禁煙です」
「冗談だよ、雨宮みたいなこと言いやがって」
……嘘だ。胸元からタバコを取り出したときの顔は冗談じゃなかったぞ。横山先生は残念そうにタバコをしまう。
でも、ありがたいことに横山先生と話をしていると、いつも気持ちが落ち着いてくる。
いつもふざけたことばかり言ってきてツッコミに回らざるを得ないからかもしれない。
こういうときは、大林先生のような真面目な人より、おちゃらけた横山先生のほうが助かる。
「雨宮……、かさちゃんは元気ですか?」
「他人みたいな言い方するんだな。小学生の頃からの親友なんだろ?」