色めき立つギャラリーに気圧されてか、さきちゃんは言葉に詰まりながら答えた。
「あ、えーっと、私の、友達です……」
 なんでよ、違うでしょ。
「親友でしょ、さきちゃん」
 私の中に彼女へのわだかまりはもう何もない。……と言えば嘘になるが、なんだかすっきりした気分だった。
 勝ち負けなんて別にもうどうでもよかった。私の一手一手に彼女が本気で応えてくれたこと、それが何よりも嬉しかった。
 だけど、それにしても……、盤上に目を落としながら、私は呟いた。

「酷い碁ね。……本当に酷い」
「あはは……、いやあ、プロとしてお恥ずかしい……」
「あんたのこと言ってんじゃないわよ」
 本当に、この子は妙なところが抜けてるんだから。私はこの碁の中に自分自身を見たのだ。
「こんな風にもがいて、もがいて、もがき続けて……。
 それでも結局あと一歩が届かなかった。その一歩の差は小さいように見えて、とても大きい。
 ほんの少し足を大きく開いたくらいでは、きっと届かないくらいに」
 さきちゃんはその言葉にフォローするように言ってくれた。

「あのさ、かさちゃん……。なんて言ったらいいか分からないけど……。
 その一歩は絶対に届かないってほど大きな一歩ではないんじゃないかな」
「そうね……。夜空の星にだって手を伸ばせば届くかもしれないものね。
 それに、私小学生の頃に比べたら大きくなったと思わない?」
 さきちゃんは少し驚いたような、それでいて嬉しそうな顔をしてから、こう返してくれた。
「……はあ? そりゃ当たり前だよ。
 さっきから何言ってんのさ、かさちゃん」
「なんで分からないのかしら。
 だから大きくなったから、星に手が届くかもしれないって話でしょ」
 そんな言葉を交わすと、私たちは顔を見合わせて笑い合った。
 そして次の瞬間、背後からぱちぱちと別の拍手の音が聞こえてきた。


「素晴らしい碁だったね、かさねくん、さきくん」
 そこにいたのは、大林先生だった。その脇には何か新聞を挟んでいた。
「せ、先生……! いたんですか……!?」
「す、すみません……、全然気付かなくて」
 背後の死角だった私はともかく、さきちゃんは大林先生と向かい合う形になっていたはずだから気付いてもよさそうなものだけど。
 ……なんて意地悪なことを言うのはやめておこう。お互いそれだけ盤上の戦いに集中していたということだ。

「大林先生も対局が終わったところですか?」と私が訊ねる。
「ああ、そのあとすぐ君を探しに来たんだが、もう君は研修部屋にいなくってね。
 それで念のために他の階も見て回っていたら、ここでさきくんと打っている姿を見かけたというわけさ」
「……何か御用でしたか? 私がプロを諦めるという話の続き?」
「へっ!? かさちゃん、それ本気!?」
 私はなんでもないことのように言ったつもりだけど、さすがにさきちゃんも驚くか。
 それはつまり大林先生は私が打ち明けた意向を誰にも話さないでいてくれたということだ。本当に誠実な人だ。

「……そうだと言っても間違いではないが、その前に見て欲しいものがある。
 せめて君にはこの記事を読んでから決断をして欲しかったのさ」
 大林先生はそう言って、脇に挟んでいた新聞を私に手渡してきた。それは先月の日付の週刊碁だった。
 『早川女流四冠、女性初の名人戦リーグ入り決定!』という大々的な見出しが目に付く。

「この記事が何か? 棋譜のところは見てますけど」
「見て欲しいのはそこじゃない。局後のインタビュー記事のところさ」
「え、あ、大林先生、それは――」
 何故かさきちゃんが焦り出す。……一体なんだろう?
 大林先生が私に見て欲しいと言い、さきちゃんが私に見て欲しくないと思うような記事って?
 私は立ち上がり、暴れ始めたさきちゃんから距離を取って、その記事に目を通していく。
 最初に書かれているのは、碁の内容に関する感想でしかない。なんの変哲もないインタビューに見える。
 だけど、途中からは名人戦リーグ入りを決めたことについての感想を求める内容になっていた。


『ところで、これで名実ともにトップ棋士の仲間入りと言えるところまで来たわけですが、何か今後の目標とする棋士や棋戦などはありますか?』
『いえ……! 私なんてまだまだ未熟者で。プロ棋士の方は全員が目標です。
 棋戦も……、がむしゃらに頑張ってきただけなので、特にどれがどうというのは……』
『それでは質問を変えましょう。何か今後夢として叶えたいことはありますか?』
『夢……、夢ですか……。ずっとずっと今より強くなりたいという気持ちだけは持っています。
 ……でも、夢というのは違うかもしれませんけど、ひとつだけ私が望んでいることを言ってもいいですか?』
『ええ、どうぞ』
『私、幼馴染で大好きな親友がいるんです。碁を始めたのもその子と一緒のタイミングで。
 その子はまだプロになれなくて、ずっと院生をやっているんですけど、それでも私ずっと待ってるんです。
 いつか、いつの日か、彼女と同じプロ棋士として対局すること、それが私の叶えたい一番の望みです!』


「読まないでーーーっ!!!」
 さきちゃんが顔を真っ赤にしながら叫ぶ。しかし時すでに遅しだ。
 私はもうその記事をすべて読み終えていた。確かにこれは赤面するのも仕方ない。
 というか、ヤバい。めちゃくちゃにやけてきた……。私もこんな顔、さきちゃんに見られたくない……。
 嬉しい嬉しい嬉しい……! そんな気持ちを背を向けて誤魔化すことにする。
「ち、違うんだよ、かさちゃん……! いや、なんにも違わないけど!
 それはちょっと熱戦のあとで興奮して、ちょっと臭いこと言っちゃったみたいな感じで!」
「いいじゃない、さきちゃん。あなたの気持ち、ちゃんと伝わったわよ」
「うぅううううぅう、でも恥ずかしいよぉ……」
 まったくもう。素直なんだか恥ずかしがり屋なんだか。
 私は振り返り、彼女の身体を優しく抱き寄せた。

「うわっ!? かさちゃん!?」
 そして、私は彼女にだけ聞こえるように言った。
「さっきのあれね、確かに全部本心よ?
 でも私はあなたと出会って、仲良くなれたことには、なんの後悔もないよ。
 私はあなたと出会えて本当に良かった……!」
「か、かさちゃん……。さすがに恥ずかし過ぎぃ……」
「言ってる私が一番恥ずかしいのよ!? 我慢しなさい!」
 ギャラリーがいるのも忘れてしばらく抱き締め合ったあと、私たちはそっと身体を引き離した。
 それを見届け終わったとでもいうように、大林先生が口を開いた。

「かさねくん、あえてもう一度訊こう。
 君は本当に本気でプロを諦めるつもりなのかい?」
 私はすぐに返事ができず、さきちゃんの顔を見た。それから微笑ましそうに見ているギャラリーの人たちの顔も。
 そしてもちろん大林先生の顔も。みんなみんな、私を待っていた。私が人生の決断をする、その瞬間を――。
「嫌ですね、先生。そんなの、決まってるじゃないですか……」
 そう言って私は大きく息を吸い込み、そこにいる誰の耳にも届くように高らかに宣言した。



 そして、翌年の10月。私は日本棋院の前に立っていた。