かさちゃんはどんな気持ちかな? さっきは「お客さんがその証人になってくれる」なんて言っていたけれど、本当はふたり占めにしたかった?
 そう思ってるなら、お生憎様。ここで奮い立つくらいでなければ、プロとして大舞台に立つなんて夢のまた夢ってやつだよ。

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 馬鹿ね、さき。ギャラリーを背負って打つくらいなんでもないことよ。
 私はどれだけ大勢に見られていようと、冷静に打ち続けるだけ。
 熱くなるのはあんただけで十分。そのまま燃え尽きてちょうだい。

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 いずれにしても、この碁は大きな争いもないまま中盤戦。
 ここまで来れば形勢ははっきり黒の、――私の優勢だ。
 ここからかさちゃんが勝つには上辺の黒地を荒らしつつ、中央で自分の陣地を増やすしかない。
 だけど、それを両立するのは至難の業だし、私がそうはさせない。今度はかさちゃんが苦しむ番だ!

 …………どうしたの、かさちゃん? 長考?
 確かにここは大事なところだけど、持ち時間はたったの30分しかないんだよ?
 ここで手を止めていたら終盤には考える時間なんてない。さあ、早く覚悟を決めて上辺に――。


 ぱちり。長考の末、かさちゃんが着手したその手を見て私は驚愕した。
 ……え? 嘘でしょ……? 下辺への打ち込み!?
 その手は全く読んでいなかった。完全な想定外ってやつだ。
 確かに下辺はまだ完全に囲んだわけじゃない。だけど、この黒模様の中で生きられるって言うの!?

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 ――この白石は、私だ。敵の砦に単身で乗り込んだ孤独な兵士。
 周りは敵に囲まれ、いつ殺されてもおかしくない状況。
 だけど、八方塞がりだとしても、私はここで生きてみせる!
 さあ、覚悟を決めるのはあんたのほうよ! 早川さき!!

 私を殺してみなさいよ。

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 打たれてみると、この白石を殺すのは容易ではないことが分かる……。
 これだけ黒石で囲んでいても、案外壁は薄い。下手をすると、内から食い破られてしまう。
 ただ抑え込むだけなら難しいことではない。しかし、それでも内側で生きる道が残されている。
 私がするべきことは壁を守りながら、この白石の眼を潰すことだ。
 仮に一眼できても二眼さえできなければいい。両立する手は必ずどこかにあるはずだ!

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 さき、あんたはまだ気が付いていないのね。私は序盤からずっとこの手を読んでいた。
 ――この白石が生きる道は、ある。ずっとずっとそうなるように打ち回してきたんだから。
 それに気付かず、あんたはまんまと私の策略にハマってくれた。
 ありがとう、さき。あんたが本気で打ってくれたおかげで、私はこの一手にたどり着いたのよ。

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 駄目だ! 見合いにされてしまった!
 壁を守れば、この白石は内側で生きる。しかし、この白石の眼を潰しにいけば、壁を食い破られる。
 ……この白はどうやっても殺せない。私は一切手を抜かず、最善手を打ち続けていたはずなのに。
 かさちゃん、あなたは最初からこうなることが分かっていたの? ……その瞳はそういうことなんだね。
 これで下辺の攻防は大損……。ここまでに築き上げた陣地が一気に奪われた……。

 だけど、ここで壁を守ることで、代わりに中央に向けての厚みはより厚くなった。
 形勢もまだ私のほうが有利! ここから先も、最善手を打ち続ければ勝てるはず!

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 そう、その石が生きてもまだ足りない。ここまでに生まれた差がそれだけ大きかったということだ。
 あんたは囲碁界の新星。簡単に勝てる相手じゃないのも分かってる。
 ここはもう一度勝負手を放つしかない!

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 上辺をここまで深く荒らしに来るのか……。
 一見無理手のようだけれど、これはおそらく中央を捨てる作戦だ。
 私からしてみると中央に大きく陣地を築ける代わりに、上辺の陣地をほとんど失うことになる。
 その差し引きで白の、かさちゃんが少し得をするという計算なのだろう。
 そして、私はそれに抵抗する手段が思い付かない……。中盤の終わり頃にもなって、私の碁がここまで封じられているなんて……。

「これは宇宙流か……?」
「早川プロがこんな碁を打つなんて初めて見たな……」
 違う! 私はこの碁を打っているんじゃない……。打たされているんだ、かさちゃんに!

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 苦しい? 苦しいわよね、さき?
 もっと苦悶の声を漏らしてちょうだい。
 私の苦しみは全然こんなものじゃなかったのよ。
 もっともっと情けない声を私に聞かせて? ほらほら、ギャラリーの耳にも届き始めてるわよ?

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「くっ……、うぅ……」
 思うような碁がまるで打てない。持ち時間も残り少なくなってきた。
 苦しくても苦しくても、ここはとにかく耐え抜くしかない我慢のときだ。
 終盤まで崩れなければ、まだまだ勝敗は分からない!

「これは……、早川プロが苦しんでいるのか……?」
「あの囲碁界の新星、彗星の如く現れた早川七段が……」
「一体対局相手のこの子は何者なんだ!?」

 この子が何者かって!? そんなの決まってる!
 かさちゃんは私の大切な親友。――そして、私の最高にして最強のライバルだ!

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 残すは小ヨセのみ。残り時間はともに2分を切っている。そして形勢はほとんど拮抗している。
 ここから先はまるで綱渡りだ。少しでもバランスを崩せば、あっという間に奈落の底に落ちていく。
 この勝負はどれだけ余裕がなくても、冷静かつ正確無比に打ち続けることができる者が制する。
 それなら、私にだって勝機はある!!

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 細かい……。あまりに細かい……。数えている時間はない。
 これは最後まで打ってみないとどちらが勝っているのかは分からない。
 だけど見せてあげるよ、かさちゃん。これが早碁女王の実力だ!!

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 ボンッ! さきが最後の一手を打ったとき、まるで目の前でビッグバンが起きたように錯覚した。
 これで終局……、あとは駄目を詰めて整地をするだけだ。勝ってる? 負けてる?
 時間さえあれば目算できていたかもしれないけれど、この持ち時間の中ではそれは難しいことだった。
 整地が終わり互いの陣地を数え終わって、それでようやく勝敗がはっきりした。

 その結果は、――黒番のさきの1目半勝ちだった。


「ま、負けたかと思ったぁあああぁあ!!」
 さきは、――さきちゃんは、咆哮するとともにそのまま盤に覆い被さるように頭を倒し、両腕を伸ばした。
 はしたないというか、それはちょっとマナー違反だ。プライベートの碁とは言え、気を抜き過ぎだろう。
「こほん。さきちゃん」
「あ、ごめん! ありがとうございました!」
「……ありがとうございました」
 私たちが互いに礼をすると、見守っていたギャラリーの人たちも一斉に拍手をしてくれた。

「いやあ! すごい碁だったねえ! こんなに迫力のある碁は初めて見たよ!」
「早川プロ、この子は一体何者なんです?」