要件も何もない。とりあえず緊急性はそれほど高くないようだ。
 私はレストランに向かう前に投げやりなメッセージを返しておいた。
『何? なんか用?』
『用ってわけじゃないけど、最近お話もできてないし、元気かなーって』
 その返事はすぐに来た。スマホの前に張り付いてるわけ?
 それにしても多分この感じは、千鶴子さんか、あるいはおじいさんたちの誰かが囲碁カフェでの私の様子を心配して、さきに連絡を入れたということだろう。
 それでさりげなく何があったのか聞き出してくれと頼まれたか、メンタルケアをしてやってくれと頼まれたか、……まあおそらくはそんなところだろう。
 私はエレベーターの中で続きのメッセージを返した。

『私は別に元気だけど。それより、あんたこそ名人戦リーグ入りまでして忙しいんじゃないの』
『今日はお休みだし。なんにも予定ないの久しぶり』
 嫌味? いや、彼女に限ってそんなつもりはないだろう。
 そう言えば、名人戦リーグ入りのお祝いの言葉はまだだった。一応一言言っておいたほうがいいだろう。
『まあ、なんにしても。名人戦リーグ入りおめでとう』
『ありがとう、かさちゃん』
 エレベーターはちょうど1階に到着した。
 私はそこで話が終わったと思い、エレベーターを出ながらスマホをスカートのポケットにしまおうとしたが、その前にもう一度振動を感じた。
『研修手合頑張ってね。私、ずっと待ってるから』


 ………………はあ? 待ってるって、何を。
 あんたが私を待っててくれたことなんて、一度でもある?
 私は思わず足を止めた。それと同時に沸々と怒りが湧いてくる。
 あんたはかけっこで「一緒に走ろう」って言って、ひとりだけ先に行ってしまうような女でしょ?
 振り返って足を止めてくれたことも、私のペースに合わせて走ってくれたことも決してない。
 あんたにとって私は別に置き去りにしたって構わないちっぽけな存在なんでしょうが!
 別にあんたがひとりで先に進んでいくのは勝手よ!? そんなの好きにすればいい!!
 だけど、あんたは一度だって待ってくれやしなかった!! それなのに、待ってるなんてふざけたことを言うんじゃない!!

 私はそんな怒りをさきにぶつけてやろうと思った。だけど、興奮で指が震えて文字が上手く打てなかった。
 通話をかける? 口下手な私はきっとただ怒鳴りつけるだけで、さきには何も伝わらないだろう。
「はぁ……、はぁ……」
 結局私は、そのまま何も言わずにアプリの画面を閉じた。そこには荒い呼吸の私だけが取り残された。
 私の周りには心配して手を差し伸べてくれる人も、私の歩みを待っててくれる人も誰もいない。
 そこにはただ、ひとりぼっちの私がいるだけだった。――そして、その日の研修手合は全敗に終わった。


 結局、今日の私はなんにもいいところなしだ。3局すべて惨敗と言っていい内容だった。
 だけど何より胸が苦しい。苦しくて苦しくて仕方がない。
 胸の内をすべて吐き出さないと、苦しくてはち切れそうだった。
 本日の院生研修がすべて終わり、帰宅の時間になると同時に私は女子トイレに駆け込んだ。
 洗面台の鏡に映る私は昨日と同じ、あるいはそれ以上にみすぼらしい姿だった。……私はこの数年間で一体何を得たんだ?
 こんなにも苦しんでボロ雑巾みたいな姿になって、結局私は何も成し遂げることができなかった。
 それどころか、得意だったはずの学校の勉強もまるで駄目になってしまった。
 囲碁の勉強に充てた時間を他の何かに使っていれば、もっと別のことにも挑戦できたかもしれない。
 もっとたくさん友達もいたかもしれない。もっと自分に自信を持てていたかもしれない。
 そう考えると私はこの数年間で何も得られなかったどころか、本来得られるはずだったものを失ってしまったんじゃないだろうか。
 もし私があのとき、あの公園で、さきの頼みを断っていたのなら……。
 そこで私は大きく息を吸い込み、そして吐き出した。

「何が女性初よ! 何が史上最年少よ!
 私はただ、あんたと一緒に碁を打っていたかっただけ! あんたはそれを裏切った!
 親友のちっぽけな願いも叶えられなくて、それのどこが囲碁界のスターだっての!?
 嘘つき嘘つき、大嘘つき!! あんたは一度も私のことを待っててなんてくれなかった!!
 私をこんなにもボロボロにしておいて、それをあんたは見て見ぬ振りをしているだけ!!
 あんたは良かったわねッ!? みんなから持て囃されて、すっかり天狗になってるんでしょう!?
 ふざけないでふざけないでふざけないでッ!! さきちゃんなんか、大っ嫌い!!」
 私は思いの丈を全力で絞り尽くした。好きだった。いや今でも大好きだ。
 だからこそ私はさきのことが許せなくって――、


「へっけちゅ!」
 突然、トイレの個室からへんてこなくしゃみが聞こえてきた。え、今のくしゃみ……?
 知っている。私はそんなへんてこなくしゃみをする子のことを知っている。
 私は恐る恐るその個室の扉の向こうに問いかける。まさかあの子にすべて聞かれていたなんてことは――。
「さき、ちゃんなの……? そこにいるの……?」
 私はその返事を待つ。もしかしたら人違いかもしれない。あるいは私の空耳かもしれない。
 この個室にいるのがさきではないのであれば、驚かせてしまってごめんなさいと謝ればいいだけのこと――。


「にゃ、にゃあーん……」
「トイレで猫の鳴き真似して誤魔化せるわけないでしょ、さっさと出てきなさいよ!!」


 やがてゆっくりと個室の扉が開く。そこには真っ赤な顔で俯いているさきの姿があった。
「ごめん……、全部聞いちゃった」
「……でしょうね。これで聞こえなかったら難聴を疑うところだわ。
 それよりあんた、今日は休みじゃなかったの?」
 私は謝るつもりはなかった。先程叫換したことはすべて本心だったからだ。
「や、休みなのは嘘じゃないよ……! ただ研究会とかいろいろあるから……」
「どっちにしても棋院に来てるなら直接私に会いに来ればよかったじゃない。
 何? あのお昼のメッセージ?」
「それは、かさちゃんも忙しいだろうから……。ごめん、嘘。
 本当はかさちゃんに会うのが怖かった。だって全部私のせいだもんね。
 私のわがままで、こんなにもかさちゃんを頑張らせちゃった。本当にごめんなさい……」
 さきは私に向かって深々と頭を下げた。と思いきや、そのまま私に向かって土下座をしてきた。
 それは決していいかげんな土下座じゃなくて、頭まで床に擦り付けたこれ以上にない惨めな姿だった。

「ちょ、ちょっとあんた!? ここトイレよ!?
 一体何してんのよ、汚いでしょ!?」
「だって私が悪いから……! ごめんなさい、ごめんなさい……!」
「もういいから……! こんなんじゃ話もできないでしょ!?
 というか、もうあんたと話すことなんてないわ! だからさっさと顔を上げて!!」
 そこまで申し訳なさそうにされると、まるで私のほうが悪かったような気さえしてくる。
 だけど、そうじゃない。悪いのはさきだ。そして、私はそれを決して許さない。