おじさんが途中で取った白石のアゲハマを盤上に置きながらそう言った。それは投了の合図だ。
「ありがとうございました……!」
 宇宙空間から帰ってきた私が頭を下げると、ギャラリーから歓声が上がった。
「おいおい、本当に五子で勝っちまったよ……」
「こ、こんなに強くてもプロ試験ってのは受からないものなのかい……?」
「こら! かさちゃんの前ではプロ試験の話は――」
 ひそひそ声で話すおじいさんたちもいたけれど、研ぎ澄まされた私の聴覚はすべてを捉えていた。
 別に何を言われても気分は悪くない。むしろこの上なく爽快だ。
 ただ実際のところ、普段の私なら四子でも危なかったかもしれない。今回勝てたのはたまたまゾーンに入っていたからだ。
 でも、さすがに疲れたし、喉も乾いたな……。気付けば碁盤の横にコーヒーが置かれていたが、すっかり冷めてしまっていた。


「千鶴子さん、これ温め直すことってできますか?」
「ああ……、それなら新しく淹れてあげようかね。
 そこのコーヒーは男どもの誰かに飲ませるから。そのままにしといていいよ」
「すみません、お願いします……」
 店内で他のお客さんの注文を取っていた千鶴子さんを呼び止めお願いをすると、私は立ち上がって伸びをした。

 そう言えばじっくりとお店の様子を見る暇なんてなかったな。内装も工事したみたいで、ところどころに碁盤と碁笥が置かれていること以外は普通の喫茶店に見える。
 いや、どちらかと言うと喫茶店のなかでもおしゃれなほうかもしれない。碁会所の頃にはなかったペンダントライトがシックな雰囲気を仕立て上げていた。
 さすがに哲さんの掛け軸はどこかにしまってあるようだ。あれが今ここにあったら、あまりの場違いさに苦笑していただろう。
 当たり前だけど、椅子だってパイプ椅子じゃなくて木製の硬い椅子になっている。
 だけど、あの壁側の棚は……。そうだ、あれは碁会所の頃にもあった。懐かしく思った私はなんとはなしに棚に近付いていった。
 その棚に一体何が置かれているのかは、すっかり忘れていたのだ。


「これって……」
 そこにあったのは、フォトフレームだった。そして、一枚の写真が大事そうに入れられていた。
「……っ!」
 私は思わず息を呑む。そこに写っていたのは、嬉しそうに微笑むさきと、緊張で顔が強張っている小学生の頃の私。
 それから1位の子と4位の子も写っていて……、そうだ、それは少年少女囲碁大会で表彰されたときの写真だ。
 この頃は、楽しかった。さきの隣に並んでいられるだけで、幸せだった。
 欲しいものなんか、他になかった。ただずっとこんな日々が続けばいいと、そう願っていた。ただ、それだけだったのに……。

 私は今、どうしてこんなにも苦しんでいるんだろう。どうしてこうなってしまったのだろう。
 私は一体どこで何を間違えてしまったのだろう。プロになんかならなくていいと、彼女を説得していれば何か変わっていたんだろうか。
 それとも彼女はそんな私の言葉も無視して、ひとりで旅立ってしまったのだろうか。私には分からない。
 だけど、もし時を戻す魔法が使えたとしても、何度繰り返したとしても、きっと似たような結果になっていたのだろう。……どうせ。


「お待たせ、かさちゃん。
 ……どうしたの、泣いているのかね?」
「え……、あ……」
 新しいコーヒーを持ってきてくれた千鶴子さんに声をかけられて、私は初めて自分が涙を流していることに気が付いた。
「す、すみません……! なんでも、なんでもないんですっ……!
 すみません、本当にすみません……!!」
 私はコートの袖で涙を拭きながら、写真から目を逸らす。
 そのとき誰かと目が合ったような気がして、はっと驚いた。

 ――鏡だった。壁に取り付けられた、ジオメトリック柄のフレームのおしゃれな丸い鏡。
 そこにボロボロの顔をした私が映し出されていたのだ。亡霊にとりつかれたみたいにぐしゃぐしゃに潰れた、本当に酷い顔だった。
 表情が固いとか、そんなレベルじゃない。写真写りが悪いと思っていた写真の中の私のほうがよっぽどマシな顔をしていた。
「うあ……、ああ……! うわぁあああん……!!」
 涙はもう止まらなかった。私の感情はダムが決壊したように溢れ出し、まるで制御がきかなくなっていた。
「かさちゃん……!? 本当に大丈夫かね……!?」
「どうした、かさちゃん! 何があったんだ!?」
「なんだなんだ、なんの騒ぎだあ!?」
 心配そうに声を上げる千鶴子さんと、おじいさんたち。
 それを無視して、私は泣きじゃくりながらお店を飛び出した。
「すみません、すみません……!」
 ただ、その言葉を呪文のように唱えながら。
 私はすっかり暗くなっていた夜の街を駆け抜けた。

 どうしてこうなってしまったのだろう。
 私はただ、あなたと一緒にいられれば、それで幸せだったのに。



 翌日の研修手合。大林先生はプロ棋士としての対局予定が入っているらしく、代わりに常任理事のひとりが先生としてやってきていた。
 こういうことはよくあることだ。大林先生ともしばらく顔を合わせたくなかった私としては、そのほうが助かる。
 ……そう言えば、バッグを囲碁カフェに忘れてきた。まあいいや、スマホと財布はスカートのポケットに入っていたから、それほど困ることはない。
 ほとぼりが冷めた頃にそっと取りに行こう。さすがに昨日の今日でもう一度あそこに行くのは恥ずかしい。
 それより今日の最初の相手はBクラス1位の子だ。気を引き締めてかからないと、あっさりやられてしまうだろう。
 だけど、もし昨日のおじさんとの一局みたいな碁が打てたら、逆に私のほうがあっさり勝つということもあるかもしれない。
 そんな淡い期待を込めながら、私は碁盤の前に向かった。その結果――、


「酷い碁だな……」
 昨日の私が見る影もない。お昼休みの前に、私の大石が死んでしまった。
 逆転できる場所も他に残されてはいない。せいぜい投げ場を求めて無茶な手を打っておしまいだ。
 ……別にいいさ。私はもうプロを諦めたんだから。そうは思っても悔しさは抑えられない。
 しかし、この碁が駄目でも、今日はあと2局打つ予定がある。気持ちを切り替えないと。
 お昼は外に食べに行こう。この近くに新しくできたレストランでもいいけど、ちょっと混み合うかな。
 そう思いながら時間を確認するためにスマホを見ると、LINEに1件のメッセージが入っていた。
 頻繁に連絡を取り合う友達もいない私は、緊急の連絡かと思いアプリを開いたが、送り主の名前を見ただけで心臓がどくんと跳ね上がった。

「さき……、ちゃん……」
 スマホに映し出された名前は「さきちゃん」だった。別にそれだけなら驚くことじゃない。
 今でもたまに彼女とは連絡を取り合っているのだから。だけど、一体どうして今……?
 昨日一日だけでもいろいろあった。大林先生にプロを諦めることを打ち明け、囲碁カフェであんなことがあって……。
 正直なところ、これが偶然のタイミングだとは思えなかった。メッセージはこう書かれていた。

『急にごめんね。今日は研修手合かな? 忙しいところごめんね』