伊藤さんが再び学校へ来るようになって数日。
帰りのホームルームは二学期に行われる文化祭の話し合いが行われた。
 司会進行は文化祭実行委員の三宅咲希さん。三宅さんが案を募り、口々に出される案をもう一人の実行委員である俺が黒板に書いていく。転校してすぐにどこかの委員会に所属するように言われ、もともと三宅さん一人しかいなかった文化祭実行委員へと俺は拾われた。
 文化祭では各クラスや部活動が主体となって出し物を行う。出し物に決まりはないが、クラスの出し物は教室を使ったもの。部活動の出し物は運動部なら体育館のステージを使った即興劇やパフォーマンス、文化部なら部活動で使用している教室で日頃の部活動をまとめた展示をするのが通例だと三宅さんから教わった。
 出店や喫茶店、お化け屋敷や展示など黒板に書ききったところでホームルームの終わり、そして放課後の始まりを告げるチャイムがなった。
「夏休みに入るまでになにをするかは決めておきたいので、また考えておいてください」
 話し合いを締める三宅さんの言葉はみんなの席を立つ音にかき消された。
「話聞いてるのかな。まぁいいや」
 三宅さんは議事録としてスマートフォンで黒板の写真を撮るとクラスの中心に集まっている女子の一人から「咲希!」と呼ばれる。
「いいよ。俺やっとくから」
「ごめんね。ありがとう!」
 そういって三宅さんは教壇を降り、みんなの輪の中へと入っていった。
 教壇の上からは教室がよく見える。
ホームルームが終わるやいなやグラウンドへ駆け出していった運動部以外、ほとんどの生徒が楽しそうにだらだらと話し込んでいる。数日前に期末テストを終え、一週間後に迎える夏休みを前に教室は完全に浮かれていた。ただ一人を除いて。
「じゃあな」
「おう」
 黒板を拭いていると隼人たちがさっさと帰っていった。黒板消しで文字を拭き取りながらふと最近隼人と一緒に帰っていないなと思ったがすぐに手を動かす。
 気にすることじゃない。だって普段は普通に話している。移動教室の時とか、昼休みに食堂でご飯を食べる時とか、掃除時間とか……。
 あれ、でも。思い返すと俺が自分の席に座っている時は話しかけられていない。
俺は自分の席の方へと視線を向ける。すると、賑やかな教室の中でみんなに混じらず席に座ったままの伊藤さんの姿が自然と目に入る。
 きっと、俺の前の席に伊藤さんが座っているからだろう。放課後もよく俺は伊藤さんと話しているから。
「テストも終わったしさ、クラスのみんなでパーっとどっか遊び行きたくない?」
 教室の中心で女子の一人が提案すると空気が一気に盛り上がる。
 教壇の上からは教室がよく見える。
 みんなが顔を突き合わせ、日時や行きたい場所、やりたいことを口々に言いあう中で、三宅さんだけは違う場所を見ていた。
 どこを見ているのだろう。
 俺が三宅さんの視線の先に気づくのと同時に三宅さんは足を進める。
 先ほどまで盛り上がっていたみんなも、突然みんなが意識しないようにしていた方向へ歩き出した三宅さんに気づき、注目していた。
 静まりきった教室の中、三宅さんは目の中に小さな覚悟を宿し、スマートフォンをさわる伊藤さんへと話しかける。
「伊藤さんも、どうかな? 夏休み、みんなでどこかに」
「行かない」
 伊藤さんは三宅さんへ視線を向けることなく、あっさりと答えた。
「そっか……」
 三宅さんはそれ以上なにも言わず、みんなの元へと帰っていく。
「感じ悪」
「なにあれ」
「咲希優しいね、あんなのにかまってあげるなんて」
 黙ったままの三宅さんの代わりに他のみんなが不満を漏らす。だけど決して伊藤さんに話しかけようとはしない。隣の友達に話すように、三宅さんを励ますようにして、みんなが伊藤さんへ嫌悪の態度を示していた。
「なんかしらけたわ。ファミレスとかで話そ」
 誰かがそう言うと、みんなはぞろぞろと教室を出ていった。そんな中、三宅さんは教室を出る最後まで伊藤さんを見ていた。
 板書された文化祭の案たちを消し終わり、粉まみれになった黒板消しを両手に持って教室の一番前の窓から外に身を乗り出す。黒板消し同士を勢いよく合わせるとブワッと粉が煙のように舞い、風に乗っていく。
 粉をはたき落としながら俺は考える。
『あいつには関わらないほうがいい』
 隼人を始め、クラスのみんなが伊藤さんを避けていると思っていたが、伊藤さんもまたみんなを避けているように感じる。避けるどころか、むしろ敵意を向けているとすら思える。
 どうして?
 どうして、俺にだけ普通なんだ?
 俺、だけ……。
 いつのまにか粉の煙が出なくなった黒板消しをそばに置いて、チョークで汚れた手のひらを見つめる。あの日伊藤さんと繋いだ手の感触を思い出す。
「桐谷くん」
「わっ?!」
 突然声をかけられ、俺は黒板消しを落としそうになって寸前でキャッチする。一安心して息をつくと、自分の席あたりの窓から身を乗り出した伊藤さんが俺を見て笑っていた。
 みんなが伊藤さんを避ける理由も、伊藤さんがみんなを避ける理由も俺にはわからない。
 だけどこの教室の中で、伊藤さんの笑顔を知っているのが俺だけというなら、それはそれで、悪くないと思ってしまう。
「桐谷くん!」
「は、はい!」
 ぼーっとしていた俺は名前を呼ばれ、ピンと背筋を伸ばす。俺は教室の前方、伊藤さんは教室の後方の窓から身を乗り出したまま顔をあわせる。
「今週末空いてる?」
「はい……」
 って、今日は金曜日だから、週末って明日だけど。
 そんな些細な訂正をしようと口を開いたが、俺が言葉を発する前に、風になびく髪を指で束ね、耳へかけながら伊藤さんは笑った。
「じゃあデートしよっか」
「……はい?」


 改札を出ると伊藤さんは長時間の電車移動で固まった体をうんと伸ばす。太陽に向かって腕を伸ばし、気持ち良さそうに息を吐く。
「やっと着いたね!」
「……あぁ」
「なんかテンション低くない? 寝不足?」
「そうかもね!」
 俺はふん、とそっぽを向く。
 今から約二時間前、駅で待ち合わせをしていた伊藤さんに今回のお出かけの目的は二人目のターゲットの行動パターンを調べるためだと聞かされた。
 わかっていたさ。デートじゃないってことくらい。
 でも、浮かれていた自分が恥ずかしいというか、情けないというか。とにかく今は気持ちがくさくさして仕方がない。まぁ、この場所も原因の一つかもしれないけど。
「えっと、鈴井高校ってところに行きたいんだけど」
 そう言いながら伊藤さんは地図アプリと周囲の風景を見比べる。俺は記憶を頼りに、右に見える交差点を指差す。
「鈴高はこっちだよ」
「鈴高? 桐谷くん知ってるの?」
「中学の頃オープンスクールに行ったことがあるんだ。もう少し向こうが昔住んでたところでさ」
「そうなんだ」
 伊藤さんはそれ以上なにも聞いてこずに交差点へと歩き出し、俺も後ろに続く。
 オープンスクールもちょうど今頃の季節だった。最低でも一箇所はどこかの高校のオープンスクールに行くことが、中学三年生だった頃の夏休みの課題だった。
 俺は電車で母さんとともに鈴井高校、通称鈴高に行った。実際に校舎の中を歩き、授業の説明や部活動見学を通して、俺は漠然としていた高校生活がより現実的に思えるようになった。
 駅までの帰り道で鈴高の制服を着た高校生たちが随分と大人に見えたこと、鈴高に通うために高校受験を頑張ることを興奮気味に母さんと話した。
 だが、そんな情熱は夏の終わりとともにすぐに冷め、結局、推薦入試でいける家から一番近い高校を選んだ。
『蓮が選んだなら、それでもいいけどさ』
 進路を鈴高から最寄りの高校へ変更したいと伝えた時、母さんは口を尖らせたが、それ以上はなにも言わなかった。
 もしも。
 もしも俺があのまま進路を変更せず、鈴高に通っていたら未来は変わっていただろうか。今歩いているこの道が通学路で、学校に行けば友達がいて、家に帰ったら父さんと母さんがいて……。
「桐谷くん?」
「え?」
「大丈夫? すごい汗かいてるし、さっきからぼーっとしてるけど」
 あたりを見ると駅周辺からはすでに離れ、静かな一本道を歩いていた。今がどの辺りで、どのくらい歩いていたのかなにもわからないままでいると「ちょっと待ってて」と伊藤さんは近くの自販機へと走り、青いラベルのスポーツドリンクを買って戻ってくる。
「はい。熱中症で死んじゃうよ」
「あ、ありがとう」
 財布からお金を取り出そうとすると伊藤さんはいい、と言って首を振る。
「いらないよ。私のお願いを聞いてもらってるんだからさ」
 ぐいっと差し出されたスポーツドリンクを受け取ると、伊藤さんは満足そうに頷き、歩き出す。
 久しぶりに「もしも」にやられた。事故にあい、父さんと母さんが死んで俺だけが生き残った。
 それは単なる偶然。偶然だからこそ、違う可能性を考えてしまう。
 もしも。
あともう少しぶつかってきた車のスピードが遅ければ二人は助かったかもしれない。そもそもあの日、三人で出かけていなければ事故に合わなかったかもしれない。
 そんな風に都合よく改変した架空の過去ばかりを考えてしまう。この「もしも」はとても疲れて心がすり減る行為なのに無意識にやってしまう悪い癖だ。
 だけど最近は癖が止まっていた。思い返せば、伊藤さんと話すようになってからだ。
 俺はこめかみを滴る汗をぬぐい、頭の中を埋める「もしも」を、伊藤さんに奢ってもらったスポーツドリンクと一緒に身体の奥へと流し飲む。
「もう大丈夫。鈴高はこっちだよ」
 俺は記憶を頼りに道を指し示し、伊藤さんを導く。
 今は、伊藤さんのお願いを叶えている最中だ。
 他のことは考えず、伊藤さんのために俺ができることに集中しよう。
 と言っても今回もターゲットの名前が岡田雄介、ということしか教えてもらっていない。鈴井高校に向かっていることから推察するにおそらそこの生徒だろう。
 夏目さんに、遠く離れた他校の男子生徒。
 今の時点ではこの二人に共通点も、伊藤さんとの接点、もとい伊藤さんが二人を殺す理由も見当がつかない。
 いや、そもそも二人に共通点などないのかもしれない。夏目さんと岡田雄介。それぞれに違った殺す理由があるのか? だとしたら一体、どんな理由が……。
「桐谷くん、ここどこ?」
「あ……れ?」
 角を曲がると、そこは鈴高ではなく小さな本屋だった。思い出した。オープンスクールが終わった後に帰りにこの本屋に寄ったことを。どうやら高校への道を本屋への道と勘違いして覚えていたらしい。
 目を細めて睨んでくる伊藤さんに、俺は頭を押さえて熱中症のふりをした。


 結局地図アプリを見ながら、俺たちは鈴高に到着した。でも、そういえば。
「その、岡田雄介って人は今日学校にいるの?」
「いると思うよ」
「じゃあどこかの部活に入部しているってこと?」
 平日ならまだしも、週末に学校へ来る人は部活動に所属している人に限られるだろう。
「まぁ、そうといえばそうかな」
 なんだかあやふやな返答だが、伊藤さんは校門の外から鈴高の敷地内をキョロキョロと探っている。
 鈴高は部活動に力を注いでいることで有名で、土曜日にもかかわらず、校舎からは吹奏楽部の演奏が聞こえ、広大なグラウンドでは野球やサッカー、ラグビーなど様々な部が活動している。
 この中から探すとなると一苦労だぞ。私服姿というだけでも目立つだろうに、他校の生徒だとバレたら大変だ。ここはとにかく慎重に。一度どこかから鈴高の制服を用意して紛れ込むなどの作戦を立てて……。
「桐谷くん?」
「うぉえ?!」
 突然背後から名前を呼ばれ、変な声を上げてしまった。
 恐る恐る振り返るエナメルバッグを担いだジャージ姿の女子が立っていた。ジャージ姿の女子は俺の顔を見て、ぱっと顔が明るくなる。
「やっぱりそうだ! 久しぶり!」
「あー……」
 元気に手を振る女子のことを必死に思い出す。確か、昔同じ塾に通っていた別の中学の、名前は……。
 だめだ、思い出せない。
「どうしたの? なにか用事?」
「えーっと……」
 名前も思い出せない。ここに来た理由も話せない。
 頭がぐるぐるとしてなにも言えないでいると、隣にいた伊藤さんが一歩前に出て静かに頭を下げた。
「初めまして。私、沢渡恵と申します」
「さ、沢渡?」
 沢渡を名乗る伊藤さんは俺へ「黙って」と目線を送る。
「実は、ある先生に会いに来たのです。前の学校でお世話になった先生だったのですが、私が病気で入院中に鈴井高校に移動されたと聞いたので、遅ればせながらご挨拶に伺いました。私はこのあたりの地形に詳しくなかったので困っているところに、桐谷くんが道案内を買って出てくれたのです」
「……そ、そうだったんですね。ご丁寧にどうも」
 ジャージ姿の女子は伊藤さんの出まかせをすっかり信じた様子で、俺の袖を引っ張り、顔を近づける。
「すごい上品な人だね。どっかのお嬢様?」
「ま、まぁね……」
 嘘はいいとして、なんでお嬢様キャラなのだろう。首をかしげる俺を見て、ジャージ姿の女子はヒソヒソ声で囁く。
「もしかして彼女?」
「ち、違うよ!」
 焦って大声で否定する俺に女子は「ふーん」とニヤニヤしながら離れた。すると今度は伊藤さんに袖を引っ張られる。
「桐谷くんアドリブ弱すぎ」
「仕方ないでしょ」
 全く、とため息をつく伊藤さんはジャージ姿の女子を見て、ヒソヒソ声で囁く。
「あの人が元カノ?」
「だから違うって!」
 またも大声で否定する俺に伊藤さんは「へぇー」と意味深に頷きながら離れる。
 二人してなんなんだ……。
 暑さからではない、ひたいを流れる変な汗を乱暴に拭うと突然遠くから怒号が聞こえた。
「お前らなにやってんだ! 早く集合しろ!」
「やべっ!」
 ジャージ姿の女子は姿勢を低くして身を隠す。その野太く、自分が怒られているわけではないのに聞くだけで胃が痛くなる低い声はグラウンドの向こう、テニスコートに立つスポーツウェアを着た男性のものだとすぐにわかった。おそらく顧問の先生だろう。
 伊藤さんはジャージ姿の女子に尋ねる。
「もしかして、テニス部の方ですか?」
「そうだよ。今から部活なんだけどさ、顧問が変わってからまじしんどくてさ……」
 心からの本音を身体中の空気がなくなるほどの大きなため息と一緒に漏らすジャージ姿の女子を見て、伊藤さんは手を叩く。
「そうだ! 久しぶりに会えたんですから、お二人、連絡先を交換しておいたらどうですか? せっかくですし、ね?」
「え?」
「ほら!」
 伊藤さんに促されるまま、俺はスマートフォンをジャージ姿の女子のスマートフォンにかざす。すると画面上に表示された「杉山愛菜」の文字を見てやっと目の前の女子の名前を思い出した。そして杉山愛菜の元気でハツラツとしたところが当時から若干苦手だったことも。
「じゃあね!」
 杉山は手を大きく振り、猛ダッシュでテニスコートへと走り去った。
「ラッキーだったね。連絡先交換できて」
「だから別に杉山とはなにも関係は……」
「そうじゃない」
「じゃあ、なにがラッキー?」
 伊藤さんが黙って見つめる先には、先ほど怒鳴っていた体格のいい男性の教師が立っていた。
「あれが岡田雄介」
「え?」
「岡田は鈴井高校の体育教師で女子テニス部の顧問」
 岡田は鈴高の生徒じゃなくて先生。先ほどのあやふやな返答の理由がわかると、同時にさっきまでただの作り話だと思っていた話に真実味が帯びてくる。
「じゃあさっきの話って」
「嘘を信じさせるにはちょっとだけ本当のことを話すのがいいらしいよ」
 伊藤さんはいたずらっぽく笑うと、すぐにまた表情を消して遠くの岡田を見つめる。
「岡田は昔うちの学校の教師だった。そして」
 瞬間、そこらから聞こえていた音の一切が消え、伊藤さんの静かで心からの言葉だけが俺の耳に届いた。
「私がどうしても殺したい人だよ」


 週明けの放課後。
 扉を開けると図書室に人の気配はなかった。受付に司書のおばさん先生が座っているだけだが、こくりこくりと首がたれている。
 俺と伊藤さんは静かに入室し、一番奥の机に荷物を置く。
「じゃあ、手分けして探そうか」
「うん」
 俺たちは別れ、本の森へと迷い込む。
 理科準備室ではなく図書室に来た理由は三つ。
 一つは理科室で期末テストが赤点だった人たちを佐々木先生が補修をしているため。そして、補修が終わった後の後片付けを化学部の部活動として任されており補修が終わるまで校内で待機しなければならないのがもう一つの理由。
 最後の理由は調べ物をするため。調べ物とは岡田雄介を殺す方法だ。
 あの日、俺たちは女子テニス部の部活動が終わるまで待機し、帰宅する岡田の跡を追った。
 岡田の自宅は鈴井高校から歩いて二十分程度の位置にあったが、道中は商店街など、人目の多い場所を通り、ついた場所はオートロック付きのマンション。しかも周囲や入口には防犯カメラがいくつもついており、移動中や自宅で犯行に及ぶのは不可能だと判断した。
 ならば鈴井高校の敷地内で殺すしかないと、連絡先を交換した杉山から女子テニス部の練習の日程や時間などを聞き出したが、他校で誰にもバレずに犯行を及ぶのも至難の技だ。おまけに、岡田は柔道の経験者でもあると聞いてしまい、ますます難易度は跳ね上がった。
 しかし、杉山とのやり取りの中で岡田の人となりが見えてきた。
 岡田は気に入らないことがあればすぐに怒鳴り散らし、可愛い子や自分が気に入っている子には誰が見ても明らかな贔屓をしているらしい。
 杉山は一通り岡田の愚痴を連続で送ってくると、最後にこんなメッセージで締めた。

 あんなやつさっさと死ねばいいのに笑
 
 俺は手に広げた昆虫図鑑を閉じ、元あった場所へと戻す。
「やっぱり無理っぽいな」
 他の生物図鑑を見ても、俺が考え、伊藤さんが命名した『毒で心臓ドックドク作戦』は成功の望みが限りなく薄い。
 毒で(以下略)作戦とは、薬品や薬物などの入手経路が辿れてしまう人工物の毒ではなく、自然由来の毒、つまり毒を持った生物を使う。
 部活動になると決まってスポーツウェアに着替える岡田の習慣を利用し、どちらかが更衣室へ忍び込み、岡田の着替えに一度でも噛まれれば死に至る猛毒を持った生物を忍び込ませる作戦だ。
 職員用の更衣室に入った岡田は扉の鍵を閉めるだろう。そして、毒性生物に噛まれて死ぬ。更衣室の窓を開けていれば勝手に生物が入り込んだ不慮の事故だと思わせることができる。
 いわゆる完全犯罪が可能だ、と思ったんだけど……。
 一度でも噛まれたら死に至る猛毒を持った生物を用意するのが難しい。
 メジャーなものでオオスズメバチ。しかし、飛び回るため、着替えに忍び込ませることが困難なため却下。
 セアカコゲグモなどの毒性を持った在来種の蜘蛛は地方にしか生息していないし、そもそも致死的な強い毒性を持っていない。さらに強い毒性を持った外国産の蜘蛛は当たり前だが日本に輸入できないのでこれも却下。
 蛇は伊藤さんも俺もさわれないから無理。クラゲやエイなどの海の生き物は持ってこられないから無理。
 俺は荷物を置いた机に戻ると、遅れて肩を落とした伊藤さんも戻ってきた。伊藤さんの方もこれといった収穫はなかったらしい。
 改めて、これまでの殺人計画の全てを書き記したノートに目を落とす。ターゲットの性別や推測される身長、体重の他に『王子様の来ない白雪姫作戦』や『巨大餅つき機で相手の体をぺったんこ作戦』などあらゆる理由から実現不可能と判断した作戦には全てに二重線が引かれている。
 俺はボールペンをノックする。しかし『毒で心臓ドックドク作戦』に二重線を引くことができない。
 だって、他に思いつかないし。もしかすれば成功率を上げる方法があるかも……。
「こんなトリックじゃダメだよ」
 その声は伊藤さんが座る左側ではなく、右側から聞こえてきた。振り向くと同時に、眼鏡をかけた小柄な女子がノートを指差す。
「え」
「これじゃあ不確定な要素が多すぎて本当に殺せるか怪しい。そもそもどうやって毒を持った生物を用意するのよ」
 小柄な彼女は俺の前からノートを奪い「どれどれ」とベロをちろっと出して他のページを開く。
 彼女の指摘はその通りだった。だからこそ、目の前の女子が一体誰なのかとか、このノートを他人に見られていることへの反応が遅れてしまった。
「ちょっとそれ、返して」
「いいじゃん! 暇なんだからさぁ」
 笑うと鋭い八重歯が見える小柄な女子はノートを自身の背中へと隠すが後ろから背の高い男子がノートを取り上げる。
「山口先輩、勝手に人のノートとったらダメでしょ」
 すみません、と頭を下げノートを返してくれた男子は俺よりもはるかに身長が高い。百八十センチはゆうに超えており、ガタイもいいが、穏やかな顔をしており威圧感を感じない。
「暇なのはわかりますけど、もうすぐ部活なのでそれまでおとなしくしててください」
「遼太郎は相変わらずうるさいなぁ!」
 そう言って小柄な女子は男子のお腹を殴るが、殴られた男子は顔色一つ変えず、殴った女子の方が涙目で拳をさすっている。
 なんだ、この人たち……。
 俺の怪訝な目線に気づいたのか、遼太郎と呼ばれていた男子はもう一度、ゆっくりと頭をさげる。
「一年の阿野遼太郎です。こっちは二年の山口千晴先輩です」
 阿野に対しては後輩なんだ、と思ったし山口さんに対しては同級生なんだ、と思ったがあえてなにも言わなかった。
 っていうか、別に名前なんてどうでもいいんだけど。でも、自己紹介されて返さないのはどうも気持ちが落ち着かない。
「お、俺は二年の桐谷蓮。それでこっちが……」
「じゃあ、あなたは思いつくの? 証拠を残さない人の殺し方が」
「伊藤美優さん?!」
 思わずフルネームで呼んでしまった。
 俺は「なんで言っちゃうの!」と伊藤さんの肩を揺するが、伊藤さんは山口さんを睨んだまま目線を外さない。その目は、隼人や他のクラスメイトに対する眼差しとよく似ていた。
「まずそこ」
「え?」
 山口さんは阿野からノートを奪い取り、反対側の席に座る。隣に座った阿野と対面に座る俺たちに見せるように、山口さんは机の真ん中に開いたノートを置いて指差す。そのページには初めて夏目さんを殺す方法を考えた時のメモが乱雑に書かれていた。
「ここ『死因を隠す』とか『死体を隠す』とか。ここがまず根本的な間違い」
「間違い?」
「死因も死体も、証拠は隠すんじゃなくて、あえて残すの」
 例えば、と山口さんは胸ポケットからハンカチを取り出す。
「殺人事件が起きました。私たちが容疑者だとして、現場にこのハンカチが落ちていたら、どっちが犯人だと思う?」
 考えるまでもなく、犯人は山口さんだ。そのハンカチには薄く花柄がプリントされており女性用だと考えるのが一般的で、決定的な要因は隅にはY・Cと山口千晴さんのイニシャルが刺繍されているから。
 俺たちの思考を読んだように、山口さんはニヤリと笑う。
「私でしょ? だけど実際に殺したのは遼太郎だったとしたら、それだけで捜査は撹乱できる」
「勝手に人殺しにしないでくださいよ」
 うるさい、と阿野を一蹴している山口さんは一見、傍若無人で常識がなさそうに見えるが、その言葉には妙な説得力があった。
「山口さんは、一体……」
 山口さんは眼鏡を光らせ、冷たく言い放つ。
「私は、これまでいくつもの『殺人』を見てきた」
「え」
 俺が息を飲むと同時に、阿野がため息を吐いた。
「物騒なこと言わないでください。この人、ただのミステリー小説好きですから」
「ミステリー小説……」
 そういうことか。山口さんのいう殺人とは小説の中の話だ。
「これも小説の話でしょ?」
「も、もちろん……」
 私も考えるー、と鼻歌交じりにノートをめくる山口さん。
「なるほどね、連続殺人で、今回のターゲットは一人になるタイミングが少なくて、武道経験者……、あれ? ちょっとこれ、大事なことが書かれてないんだけど」
「なにが?」
「犯人は、どうしてこの人たちを殺したいの?」
「理由なんてどうでもいいでしょ」
 伊藤さんはかつて俺に言った言葉をそのまま言うが、山口さんはいやいや、と首を振る。
「理由は大事だよ。だって誰でもいいなら無差別殺人でいいし、不慮の事故で殺しちゃったなら殺人の方法じゃなくて隠蔽の方法を考える必要がある。それに、どうして他の誰でもなく、この人を殺したいのか、その理由によって殺人の方法も変わるでしょ。一瞬で殺すとか、苦しませて殺す、とかさ」
「それは……」
 俺は黙って伊藤さんの次の言葉を待った。それは俺がずっと知りたかったことだったから。
 岡田の人となりから察するに、岡田がまだこの学校にいた頃、伊藤さんはなにか嫌な思いをしたのかもしれない。殺したいと思うほど。
 夏目さんへの殺人の動機はいじめの復讐だろう。
 では、岡田への殺人の動機は憎しみか?
 伊藤さんは冷静に言葉を紡いだ。
「三人ともみんな同じ。目には目を。歯には歯を。殺人には殺人を。ただそれだけ。死に様はどうでもいい」
「復讐ってことね。了解」
 なるほどなるほど、と再びノートに目を落とす山口さん。
 殺人には殺人。
果たして伊藤さんの言葉は本当なのだろうか。
 でも、夏目さんや岡田が誰かを殺したとは考えにくい。だとしたら嘘? しかし、伊藤さんはこんなことを言っていた。
『嘘を信じさせるにはちょっとだけ本当のことを話すのがいいらしいよ』
 だとしたら、どこの部分が本当で、どこの部分が嘘なのだろう。
 するとわずかに、ジジっと天井についたスピーカーが起動する音が聞こえた。
「あー、化学部。理科室に集合」
 それだけ言うとスピーカーはプツッと静かになった。普通最初と最後にチャイムとか鳴らすだろ。まぁ面倒臭がりな佐々木先生らしいといえばらしいけど。
「それじゃあぼくたちはそろそろ」
「はい、ぼくたちもこれから用事が」
 呼び出しに反応する形で俺と伊藤さんが立ち上がると目の前に座っていた山口さんも阿野も不思議そう、かつ気だるそうな面持ちで立ち上がる。
「「「「え?」」」」
 全く同じ表情をした四人が同時に立ち上がり、四人は全く同じ声を発した。


 俺が水でゆすいだビーカーを卓上に置き、伊藤さんが綺麗な布で水滴を拭う。
 黙々と進める俺たちの対面では阿野が洗い、卓上に置いた濡れたままのスポイトやガラス棒が転がっている。それらを拭く役目は山口さんだがどうも手が進んでいない。
「先輩、ちゃんと拭いてくださいよ」
 すると山口さんは手に持った布を阿野めがけて投げつける。濡れた布は阿野の顔に張り付き、キョンシーのように顔を覆った。
「もう! こんな地味なことするために化学部に入ったんじゃない! もっと実験とかしたい!」
 叫ぶ山口さんに佐々木先生は静かに尋ねる。
「実験ってどんな?」
「なんかこう派手な感じ! 爆発系! 先生だって授業に関係ないものよく注文してるでしょ? そういうの使ってさ!」
 佐々木先生は首を振り、教科書を脇に抱えて立ち上がる。
「やるにしても理由が必要だから」
「理由って、そんなの……」
 山口さんが口ごもっているすきに「あとよろしくー」と手をひらひらと振り佐々木先生は教室を去っていった。
「もう! 化学部なんて入るんじゃなかった!」
 椅子に座り頬杖をつくしかめっ面の二年の山口千晴さん。まぁまぁとなだめる一年の阿野遼太郎。
 化学部に入部した当初、佐々木先生から聞いていた部活にほとんど顔を出さない(そもそも活動が少ないため)同級生と後輩、二人の生徒。
 まさか山口さんと阿野が化学部だったとは。でも。
「山口さんってミステリー小説が好きなんでしょ? 文芸部に入ればよかったのに」
「無理だよ。読むのは好きだけど自分で書くなんて。それに文化祭で自分が書いた小説を一般公開するんだよ? 恥ずかしすぎて死んじゃう」
 確か、文化部は部活動で使用している教室で日頃の部活動をまとめた展示をするらしい。美術部は美術室で絵画などの作品を展示。吹奏楽部は音楽室で演奏など。
 文化部はいつも使用している空き教室で小説を一般公開というわけか。
 洗い物が終わり俺は蛇口から水滴がシンクに落ちる様子を見つめながら今までの会話を思い出す。
 ぴちゃん。
『こんなトリックじゃダメだよ』
 ぴちゃん。
『一般公開するんだよ?』
 ぴちゃん。
『やるにしても理由が必要だから』
 あ。そっか。
 俺は蛇口をぐっと閉め、目の前でわちゃわちゃとやりとりをしている山口さんと阿野を見つめる。
 岡田を殺すには排除しなければならない問題が多く、その難易度の高さに足元の見えない暗闇の中を歩き続けるような不安感や諦めがどこかにあった。
 だけど、山口さんや佐々木先生の言葉が脳内で光り輝き、暗闇が晴れた先に一つの答えが見えた。俺は夢中で伊藤さんの耳元に顔を寄せ、囁く。
「岡田の殺人、あの二人にも協力してもらおう」
「え、でも……」
「伊藤さんのお願いを叶えるためだから」
 任せて、と顔を離すと、伊藤さんの頬が少しだけ赤らんでいるのに気がついた。おそらくは暑さのせいだろう。
「あのさ」
 二人の視線に、背中から汗がじわっと噴き出す。
でも、やるしかない。
「さっきの話の続きなんだけど。俺たち共同でミステリー小説を書いてて、殺人のトリックを考えるのに山口さんの知恵を貸して欲しいんだけど」
 山口さんは途端に目を輝かせ、親指を立ててみせる。
「ミステリー小説?! いいよ! やりたい!」
「ありがとう。それでさ、やっぱりリアルな作品にしたいから俺たちで考えた殺人計画が実現可能か、実際に実験するっていうのはどうかな?」
 問いかけに対し、阿野はゆっくりと首をかしげる。
「実験っていっても器具とか場所とかどうするんですか?」
「ここ、理科室や理科準備室のものを使う」
 山口さんと阿野は顔を見合い、山口さんは不満げに、阿野は頬をひきつらせる。
「でも、佐々木先生が許してくれないんじゃないですか?」
「そうだよ! さっきダメだって言ってたじゃん!」
 俺はいや、と首を振る。
「佐々木先生はダメだとは言ってない。理由が必要だって言ったんだ。だったらその実験をレポートにまとめて、化学部として文化祭で展示する。それなら、理科室のものを使う理由として問題ないんじゃないかな?」
 再び山口さんと阿野は顔を見合い、山口さんは口角を上げる。
「面白そうじゃん!」
 はしゃぐ山口さんと落ち着かせようとする阿野。
 すると横から伊藤さんが袖を引っ張り、顔を近づける。
「桐谷くん、アドリブ強いじゃん」
「まぁね」
「名付けて『事件を実験!大作戦』だね」
 そういうと、伊藤さんは満足そうに笑った。

 やっぱり伊藤さんには笑っていてほしい。

 そのために他人を騙していること、そして殺そうとしていることに俺は目を背け続けた。