目を覚ますと部屋が青く染まってた。今が明け方の、夜の濃い黒がだんだんと薄まり、白い朝と交差する狭間の時間だとわかって、俺は夏仕様の薄い布団の中で脳内の散らばった情報を整理する。
 えっと、今日は何日で、何曜日で、なにをするんだっけ……。
『じゃあ、お願いね』
 これからの予定、今の状況、そして昨日の出来事と、意識が未来から現在を経て過去へと逆行していき、伊藤さんの微笑みを思い出したところで俺の意識はやっと覚醒し、慌てて布団から飛び起きた。
 そうだ、俺は今日、夏目ありさの下駄箱にラブレターを入れるために早起きしなきゃいけないんだった!
 すぐに時刻を確認するために充電ケーブルが刺さったままのスマートフォンを手に取るのと同時に、どうしてアラームが起動していないのだろうと考えたが、その答えは眩いブルーライトで表示される画面の中にあった。
 アラームを設定した時間は朝の六時二十分。
 画面に表示された時刻は朝の五時四十分。
 計画のために俺はいつもより早い時間でアラームを設定していたが、どうやらその設定よりもさらに早く、アラームが起動する前に目が覚めてしまったらしい。
 俺は途端に安心して、脱力したまま布団に倒れる。しかし二度寝をしてしまいそうな気配はない。昨夜もなかなか寝付けなかったが、それでも不思議と眠気はなかった。
 俺は首だけを動かし、カーテンの隙間から空を見上げる。
 真っ青な空が白ずんでいき、月が輝きを失い、鳥の鳴き声が次々と重なるのを俺は結局、アラームが鳴るまでじっと見ていた。


 いつもは立ちっぱなしだが今日は早い時間の電車で乗客が少なくすんなりと座れた。乗車途中、町境になっている幅の広い大きな川がある。川には少し離れた距離に二本の橋がかかり、一つは車道が、もう一つの橋には線路が敷かれており、電車はその上を走る。
 顔を上げると反対側の車窓からは、車がおもちゃのように行き交う様子が見え、振り返ると生まれたての太陽が川の水面に強く反射して目がくらんだ。
 綺麗だ。いつもは人に埋もれて見えない景色。いや、そもそも見ようともしていなかったかもしれない。
 俺は目を細めながら、電車が川を渡りきるまでキラキラと輝く光景を見続けた。


 昇降口につき、俺は下駄箱の扉を開けて上靴を取り出し、履き替えた靴を入れて扉を閉める。いつもならそのまま教室へ向かうべく廊下に出て左に進み奥の階段を登るが、今日は廊下に出て右に進む。このあいだ伊藤さんから教えてもらった情報を復唱しながら下駄箱を眺める。
「俺たちのクラスの下駄箱から二つ右に並んだ、真ん中あたり……あ」
 アルミ製の扉には『夏目』と書かれた名札が貼られていた。これが夏目ありさの下駄箱。扉を開けるとそこには上靴があった。つまり、まだ夏目ありさは学校に来ていないということだ。
 ほっと安心してすぐに、俺はカバンに入った『夏目ありささんへ』と書かれ、裏面をハートのシールで封された白い封筒を改めて確認する。こんなにもわかりやすいラブレター、持っているだけでなんだか恥ずかしくなってくる。
 俺はカバンの中で封筒を掴み、素早く取り出す。
 これを入れて、あとは放課後に校舎裏へ行けば。
「なにしてんだ、蓮」
「ぬわぁ?!」
 背後からの呼び声に、俺は全身に電流が走ったように驚いた。ドキドキと激しく騒ぐ心臓を抑えていると隼人がケラケラと笑う。そういえば隼人はいつも俺より早く教室にいるが、いつもこんなにも早く登校していたのか。
「ビビりすぎだって。なにか落としだぞ」
 振り返ると隼人は地面から白い封筒を拾い上げていた。それは俺が持っていたはずの封筒だった。
「これ、もしかしてラブレターか?!」
 隼人は封筒を裏返し、目に入った文字をそのまま読み上げる。
「夏目ありささんへ、ってえぇ?! お前、伊藤が好きなんじゃねえの?!」
 違うと言いたいが事態をややこしくするだけだ。俺は誤魔化すように頷く。
「まぁ、そうだけど……」
「良かったーー!!」
 両手を上げて喜んでいる隼人が、どこか安心しているように見えた。
「隼人はやっぱり、その……」
 そうだよな。伊藤さんのことが気になる人なんて、他にいくらでもいるよな、と言い聞かせるが胸のざわざわとした痛みは消えなかった。
「なに? 声小さくて聞こえなかった」
「……は、隼人って、伊藤さんのこと好きなの?」
 隼人は目を少しだけ見開いて、すぐに首を振った。
「ちげえよ。むしろ逆」
「え?」
「あいつには関わらないほうがいいぞ」
 隼人が伊藤さんを好きじゃないとわかった喜びと、隼人の言葉への困惑とで固まった俺に隼人は「まぁいろいろあるから」とだけ付け加えて二回、肩を叩いた。その二回にはこれ以上は聞いてくるな、という意味が込められているように感じて俺はなにも言えなかった。
「伊藤以外だったら、俺は応援するぞ!」
「う、うん」
 隼人から封筒を返され、俺は夏目ありさの下駄箱へ手紙を入れる。
 なにはともあれ、これで伊藤さんからのお願いは叶えることができた。あとは放課後、校舎裏に行けば俺の仕事は終わりだ。
「それにしても今時ラブレターとは古風だな。ラインとか交換すればいいのに」
「は、恥ずかしくてさ」
「ラブレターの方が恥ずかしいだろ」
 隼人が上靴に履き替えるのを待って、俺たちは教室へと向かう。人の気配のない静かな階段を登る。踊り場についた小さな天窓から朝日が差し込み、埃がキラキラと輝いている。
「っていうかいつの間に夏目と知り合ってたんだよ」
「別に。知り合いじゃないよ」
「じゃあどういうやつとか、趣味が合うとかもないわけ?」
「そうだけど?」
「じゃあなんで好きなんだよ?」
 先を歩いていた隼人が足を止め、俺を見下ろす。
 まずい。
ここで俺がきちんと夏目ありさを好きな理由を答えられなければ、ラブレターが嘘であること、挙句には伊藤さんのいうフォーリンラブならぬフォーリン植木鉢作戦まで明るみになってしまう恐れがある。
 俺は緊張で冷や汗をたらりと流しながら、それでも平静を装いつつ考える。
 人が人を好きになる、怪しくない、疑いようのない、納得のいく理由を。
『桐谷くん、私のこと好きじゃないでしょ』
 顔も知らない夏目ありさのことを考えていると、顔も忘れた元カノからの言葉が不意によぎり、そしてすぐに、初めて教室であった時の伊藤さんの表情が頭に浮かんだ。
「一目惚れ……ってやつ?」
「一目惚れぇ?」
 隼人は眉間にしわを寄せるが、すぐに振り返って再び階段を登りだした。
「確かに、夏目って可愛いよな」
 どうやら隼人は、夏目ありさの顔を思い出していたらしい。そして、見ず知らずの男がラブレターを出すほど惚れてもおかしくないと思えるほどに、夏目ありさは美人らしい。
「そうなんだ」
「そうなんだって? 一目惚れなんだろ?」
 隼人はまたも足を止める。
「あぁいやえっと。俺は可愛いってよりは綺麗だなって思ってたから。人それぞれ感じ方が違うなって」
「まぁ確かにそう言われれば綺麗よりかもな」
 そういって隼人はまた階段を登る。
 もう勘弁してくれ……、と息をつく頃には俺らの教室のある階へと着いていた。
「でもなんか夏目ってちょっと性格きついよな」
「性格がきつい?」
「軽いいじめ、てきな」
 今度は俺が足を止めた。
 夏目ありさは誰かをいじめていた?
 それってもしかして伊藤さんのこと? 伊藤さんが夏目ありさを殺したい理由は、いじめの復讐とか。
「その話詳しく……」
「わり、俺トイレ! 家でしてくるの忘れてた! なんか今日はでかいのが出そう!」
 隼人は俺の聞きたいことを無視して、聞いてもいないことを言いながら廊下奥のトイレへと消えていった。


「おはよう、桐谷くん」
「お、おはよう」
 まだ人が少なく、寒々しい教室に伊藤さんは既に座っていた。背後で揺らめく陽光を浴びた白いカーテンが、まるで伊藤さんを優しく包む天の羽衣のように見えた。神々しくて、綺麗で、それで……。
 一目惚れ。
 先ほど自分で言った言葉が今更恥ずかしくなり、俺は伊藤さんの顔を見ないようにうつむいたまま一直線に席に着く。
 すると、伊藤さんが振り返り、俺の机にそっと手を置く。
「ラブレターは? 入れてきた?」
 俺は言葉が出ず、小刻みに首を縦に振った。
 教室であいさつ以外に会話したことのは、初めてだったから。
「ありがとう」
 伊藤さんは微笑み、前を向いて座り直す。
 その一言で、早起きの苦労も、隼人をなんとかごまかした苦労も一瞬で消えた。
 俺は肩に担いだままの荷物を下ろすと、ほんの少しだけ肩のあたりに痛みを感じた。それは隼人に二回、叩かれた箇所だった。
『あいつには関わらないほうがいいぞ』
 あれは一体、どういう意味だったのだろう。
 俺はそんなことを考えながら机に顔をつけ、目の前でかすかに揺れる伊藤さんの髪を見ていた。


「……桐谷くん、桐谷くん!」
「はいっ?!」
 先生に当てられたと思い、急いで頭を上げると教室はすっかり夕暮れに染まっていた。教壇には誰も立っておらず、クラスのみんなも前の席に座る伊藤さん以外みんな帰ったようだ。
 伊藤さんはくすくすと笑いながら、自分の頬をつつく。
「え?」
「あとついてる」
 窓を見ると、腕を枕にして寝ていたせいで頬が赤くなっていた。それに袖にはよだれが垂れた形跡があり、俺は慌てて口元を拭った。
 恥ずかしさでさらに顔を赤くしていると、伊藤さんは立ち上がりウンと伸びをする。
「そろそろ行こうか」
 そういうと伊藤さんはカバンからビニール袋に入った新品の軍手を取り出す。昨日の帰り際、植木鉢に指紋がつかないようにと俺が勧めた。
 伊藤さんは軍手をはめる前に、俺に向かって手を差し出す。
「ほら、手出して」
 俺は伊藤さんの意図を察し、伊藤さんの手の上にそっと手を重ねる。自分の手も男子の中では大きな方ではないが、伊藤さんの手は自分のものよりももっと小さく、そして細かった。
「やるぞ! おー!」
「お、おー……」
 伊藤さんは満足そうに頷き、教室を去った。
 俺は重ねた手のひらを見つめ、伊藤さんの冷たい体温と、するりとした感触を思い出す。窓に映る自分の顔はさっきよりももっと赤くなっていた。


 校舎裏は陰り、うっすらと涼しさすら感じる。
 もうすぐラブレターに書いた待ち合わせ時間だ。俺はソワソワとした心持ちでちらりと上を見上げるが、植物が生い茂るベランダに伊藤さんの姿はなかった。きっと隠れているのだろう。あまりじっと上を見ていても怪しまれると思い、俺は意図的に俯きながら今更なことに気がつく。
 俺は夏目ありさの顔を知らない。
 そもそも人気のない校舎裏に女子生徒が来たら、それはもう夏目ありさで間違いないだろうが、人違いという可能性もありえなくなはい。
 隼人は確か夏目ありさのことを可愛いとか綺麗とかいっていた。普通の女子ではなく、美人な女子が来ればその人物は夏目ありさというわけだ。いや、美人の基準ってなんだ?
「あの」
「はいっ?!」
 突然声をかけられ、俺は慌てて顔を上げるとそこには女子生徒が立っていた。
「夏目ありさ、さん?」
「うん」
 夏目さんは力なくうなづいた。
 俺は夏目さんが可愛いとか、綺麗とか、普通か美人かの判断ができなかった。だって夏目さんは右腕をギプスで固定し、顔に絆創膏を貼り、頭に包帯を巻いていたから。
「この手紙って、ラブレターだよね……」
 夏目さんは内ポケットから封筒を取り出し、俺に見せる。
 計画通り、夏目ありさは校舎裏に来た。これで俺の役割は全て終わり。あとは伊藤さんが植木鉢を落とすだけだ。
 きっと今は狙いを定めているだろう。それまでの時間稼ぎと気づかれないように注意を引かなければ。
「う、うん。あの……」
 付き合ってください。この一言がなかなか難しい。
 ラブレターで呼び出した以上、告白するのが妥当だろう。しかし、嘘だとわかっていても告白するにはそれなりの勇気が必要だった。俺が小さく息を整え、覚悟を決めると同時に夏目さんは深く頭を下げた。
「ごめんなさい」
「……え」
 そういうと、夏目さんはずんずんと俺に近づき、ラブレターを無理やり手渡す。
「それじゃ」
 そういって夏目さんは踵を返して歩き出す。
「えっと、ちょっと待って!」
「なんですか」
 夏目さんは立ち止まり、こちらへ振り返る。
 しまった。先ほどと立ち位置がずれてしまっており、伊藤さんはまた一から狙いを定めなければならない。とにかく、時間稼ぎをしなければ!
「……り、理由! せめて、理由を聞かせてもらえないかな?」
「あなたのこと、名前もなにも知らないし」
「それは、そうなんだけど……」
 ぐうの音も出ない正論に会話が終わりかけた時、夏目さんは自身のギプスをそっと撫でて呟いた。
「それに、私と一緒にいないほうがいい」
「え?」
「あなたにも不幸が訪れるから。私は誰にも傷ついてほしくない」
「それってどういう……」
 戸惑う俺に、夏目さんはもう一度深く頭を下げた。
「告白してくれたのは嬉しいです。ありがとう。だけどとにかく、今は誰とも付き合うつもりないんです。だからごめんなさい」
 俺が戸惑っているのは、夏目さんの言葉の真意がわからないからじゃない。俺が思い描いていたイメージと、目の前の夏目さんがかけ離れすぎているからだ。
『でもなんか夏目って性格悪いって噂もあるよな』
『いじめ、てきな』
 隼人の噂話や伊藤さんが殺したい相手という情報から、俺は夏目ありさのことを美人だが性格の悪い、学園ドラマに一人はいる悪役のようなイメージを抱いていた。
 しかし、目の前の夏目さんはどうだろう。
 見ず知らずのラブレターでの呼び出しに応じ、告白に対しきちんと感謝と返事をした。それに理由はわからないが俺の身を案じてくれているようでもある。
 俺は、夏目さんが悪い人には思えなかった。
 じゃあどうして伊藤さんは夏目さんのことを……。
 瞬間、強い風が吹いた。
 土埃が舞い上がり、夏目さんは風に押されて半歩後ろへ退いた。その時。
 ガシャン!
 夏目さんの目の前に植木鉢が落ちた。
 失敗した! 上を見るとこちらを覗く伊藤さんと目があい、伊藤さんはすぐに柵の向こうへと隠れた。
 夏目さんは呆然と立ち尽くしている。すると徐々に、息が大きく荒くなり肩が上下に動き出す。
「な、夏目さん……?」
「私は悪くない!!」
 夏目さんは金切り声で叫ぶ。
「もう嫌! 私なにも悪くないのに!  なんどもなんども! 私がなにをしたっていうのよ!? 私は……私は!」
 夏目さんは過呼吸のように息を乱しながら叫び続けるが、俺と目があうとハッとした表情を浮かべ目をそらす。それは罪の意識の表れのように思えたが本当のところはわからない。
 夏目さんはその後「私は悪くない」と俺ではない誰かに伝えるように、もしくは自分自身に言い聞かせるように、何度も唱えながら去っていった。

 俺は一人になり、足元で粉々になった植木鉢を見下ろす。

 茶色い植木鉢は大小様々な破片となり、黒い腐葉土が四方に飛び散っている。植えられていた鮮やかな黄色や紫色のパンジーは土に埋もれ、へしゃげている。
 この花が。植木鉢自体が。
 夏目ありさだったかもしれない。
 その可能性を考えた瞬間、猛烈に喉が渇いた。
 俺たちは、とんでもないことをしているんじゃないか。
 俺は、今更になって気がついた。


 教室へ戻ると、伊藤さんが自分の席に座りスマートフォンを触っていた。太陽が沈みかけ、真っ赤に燃える窓の外を伊藤さんはぼんやりと眺めている。教室へ一歩踏み入ると、伊藤さんは俺に気づき「ちょっと待ってね。今メッセージ送信しちゃうからから」と言い、数十秒無言の時間が流れると「お待たせ」とスマートフォンをポケットにしまう。
「遅かったね」
「植木鉢片付けてきたから」
「偉いね」
「別に」
 伊藤さんは思い切り腕を伸ばし、背もたれにもたれかかる。
「いやー惜しかったね! あともうちょっとだったんだけどなぁ」
「伊藤さん」
 伊藤さんは呼びかけを無視して話し続ける。
「仕方ない! 次はどんな作戦にしようか? もう同じ作戦は通用しないだろうから、他には……」
「伊藤さん!」
 伊藤さんは口を閉ざすが、すぐにまた微笑む。
「なに? 一回失敗したくらいで落ち込まないでよ」
 一回失敗したくらいで。
 その言葉は俺が聞きたかった問いの答えだったが、俺はそれでも聞かずにはいられなかった。
「夏目さんの怪我も、伊藤さんがやったの?」
 ギプス、絆創膏、包帯。
夏目さんの痛々しい傷が全て伊藤さんの仕業じゃないかと思った。伊藤さんは少しだけ黙って「そうだよ」と呟いた。
「最初は朝のラッシュ時に紛れて駅の階段から突き落としたの。あとから人づてに聞いた話だけど、落ちる寸前、誰かに肩を掴まれて頭からじゃなくて、背中から落ちて大きな怪我にはならなかったんだって」
 伊藤さんは淡々と続ける。
「次は自転車のブレーキを故障させた。坂道を下ってる時にガードレールに激突したのはいいけど、本人は茂みに突っ込んで助かったの。自転車はぺしゃんこになってたのに、無意識に身体が茂みに飛ぶようにハンドルを切ったんだろうね。他にも色々やったけど殺せなかった。ほんと、悪運の強いやつ」
 伊藤さんは静かに立ち上がり、こちらへと身体を向ける。夕日を背に立つ伊藤さんの顔に、影が降りる。
「私、本気だよ」
 じんわりと暑い教室に、冷たい一言がしんと響く。
 こめかみを滴る汗をそのままに、俺は考える。
 伊藤さんを止めるにはどうすればいいか。
 伊藤さんの覚悟は本物だ。伊藤さんは夏目さんに対し、明確な殺意を持って行動している。

 人はどうして殺してはいけないのか。
 悲しむ人がいるから。

 そんな感情論は通用しないだろう。
 では、現実的な視点はどうだろう。俺ははっと閃き、伊藤さんへ伝える。
「もったいないよ」
 殺人罪は最低でも五年以上の懲役で、夏目さんを含め三人も殺してしまえば大人であれば死刑だ。未成年であっても刑はさほど軽くならないだろう。無期懲役、もしくは数十年単位の懲役だろう。
 殺したい相手を殺して、そのあとの人生は自由のない刑務所で過ごす。
 そんなの、虚しいだけだ。
「夏目さんになにをされたのかは知らないけど、憎んでいる相手のせいで、自分の人生を無駄にするなんて」
「五歳」
 今度は伊藤さんが、俺の言葉を遮った。
「私は生まれつき重い心臓の病気だった。生まれてすぐに余命を宣告されたの。五歳まで生きればいい方だって」
 伊藤さんは心臓の位置を手でそっと抑える。
「五歳の誕生日を迎えても誰も喜んでいなかった。だって明日には死んじゃうかもしれないから。六歳の誕生日を迎えても。その次も。さらに次も。そのうち誰も私の誕生日を祝っても、覚えてもくれなくなった。覚えていてくれたのはあの子だけ……」
「あの子?」
「ううん、なんでもない。まぁ今はなぜか元気なんだけどさ」
 そうおどけてみせる伊藤さんの笑顔はとても悲しく見えた。
「私、人生の価値についてはそこら辺の人よりも、桐谷くんよりも考えてきたと思う。考えたくなくても、考えなきゃいけない時間が私にはあったから。だから私、後悔したくないの」
 伊藤さんはまっすぐと俺を見つめ、歩み寄る。
「私の人生はあいつらを殺すためだけに使う。でも、私一人じゃできない。だから、お願い」
 伊藤さんは言葉に強い覚悟と心細さをにじませながら手を差し出すが、伊藤さんの指が俺の手に触れる寸前、俺は半歩、身体を退けた。
「ごめん……」
 俺は教室を飛び出した。
 無意識だった。
俺は無意識に伊藤さんから距離をとってしまった。伊藤さんは俺を理解してくれたのに、俺は伊藤さんのことを理解できずに逃げ出した。
 そんな自分がショックで、わけがわからなくなって、どうしようもなくて俺は走った。
 横腹が痛くなって足を止めると、遅れて汗が噴き出してきた。汗を乱暴に拭い、息を切らしながら俺は呟く。
「明日。明日だ」
 明日になったらまた伊藤さんと理科準備室で話をしよう。きちんと話をしたら……。伊藤さんのことを理解できたら……。
 俺は、伊藤さんのお願いを叶えるのか?


 一週間後。
「蓮、帰ろうぜ」
 帰りのチャイムがなり、部活へと飛び出す人の波をかき分け隼人がやってくる。隼人は荷物を伊藤さんの机にどかっと置き、伊藤さんの席に腰掛ける。
「そうだな」
 相変わらず日光を浴びた隼人のサラサラヘアーには天使のような光の輪っかができている。本人は直毛をコンプレックスと言っているが、生まれつき癖っ毛の俺には羨ましい。こいつは知らないだろう。どんなに寒い冬でも、寝癖を直すために髪の毛を濡らさなければいけない辛さを。
 羨ましさと恨めしさをもって隼人の頭を見ていると突然、すん、と光の輪っかが消えた。隼人に人の影が重なったからだ。
「桐谷くん、お願いがあるんだけど」
 顔を上げるのと同時に、手が差し出される。深いシワが刻まれた、太くて、大きな手が。
「これ、クラスの人数分印刷しといて」
 と言いながら佐々木先生は一枚のプリントを差し出す。
「わかりました」
 プリントを受け取ると隼人が唇を出して先生を見上げる。
「またパシリかよ。先生自分でやりなよ」
「俺は忙しいの。あー忙し忙し」
 佐々木先生はよろしくーと手をひらひらと振りながら教室を出ていった。
 プリントは進路希望調査書だった。化学部にも理科の授業にも関係がないものだった。
「俺も手伝うか?」
「別にいいよ」
 そう答えると、隼人はもー! と大きな声をあげて無理やり俺の肩に腕を回す。
「元気出せって! フラれたぐらいで!」
 そうだった。隼人の中で俺は夏目さんに告白してフラれたことになっていた。夏目さんのことなんてすっかり忘れていた。殺そうとしていた相手なのに。
「大丈夫だって。じゃあな」
 俺は一人になりたくて、隼人を置いて教室を出た。
 殺人計画が失敗したあの日から、伊藤さんは一度も学校に来ていない。
 しかしこの教室に、俺以外に伊藤さんのことを気にかけている人物はいなかった。逆にクラスメイトが一人欠けることで、教室には安心した日常が流れていた。
 そんな日常を過ごしていると、なんだか伊藤さんと過ごした日々が夢のように思えてくる。理科準備室で出会って、話し合って、手を重ねて。そんな出来事たちが全て自分の妄想だったと思う方がよほどしっくりくる。
 だけど、そうじゃない。
 伊藤さんから逃げ出した時に見た、伊藤さんの悲しげな表情を思い出すたびに、二人で過ごした時間が現実の出来事だったと思い知った。


 印刷室は業務用のプリンターが数台並んでいる狭い空間だ。紙とインクの匂いが漂い、いつもどれかのプリンターが稼働しているせいでうるさくて、生暖かい。
 扉を開けると三十代の女性の先生がプリンターの前に立っていた。名前は確か吉川先生だったか。直接授業を受けていない先生の名前を覚えるのは難しい。
 俺は吉川先生にあいさつをして奥のプリンターを起動する。プリンターに紙をセットし、クラスの人数を打ち込みスタートボタンを押す。
 コピーされたプリントたちが一定のリズムで吐き出される様をぼーっと見ていると女子生徒が元気よく入ってきた。
「よっしー来たよ」
「こら藤野、ちゃんと吉川先生って呼びなさい」
 はーい、と生返事をする藤野さんへ吉川先生はプリントの束を手渡す。
「はいこれ、夏目さんの分のプリント」
 夏目さん?
 俺は見知った人物の名前に聞き耳をたてる。
「えぇー、本当に行かなきゃダメですかぁ?」
「一週間もプリント溜まってるんだから。あんたたち仲いいでしょ? ついでに様子も見て来てよ」
 一週間?
 伊藤さんも、一週間前から学校に来ていない。
 まさか……。
「別に仲良くないし。それにさ、ありさ最近病みすぎてて怖かったし」
「いいから! ほら!」
「あの!」
 核心にも似た予感が、胸をよぎり俺は思わず声をあげた。
「夏目さんのプリント、俺が届けてもいいですか?」
 二人はキョトンとした顔で俺を見ている。
 俺はとっさに、刷り終わった進路希望調査書を一枚手に取る。
「うちのクラスの欠席者の分も、届けるついでに!」


 初めて降りる町を、地図アプリを頼りに進む。
 結局、生徒の住所は個人情報だからと吉川先生には断られたが、印刷室の外で藤野さんから夏目さんの住所を教えてもらった。夏目さんに渡すべきプリントの束とともに。
 閑静な住宅街を進み、信号のない交差点を二つ過ぎたところにオレンジ色の屋根をした家を見つけた。あれが夏目さんの家。藤野さんのいう通り、他の家より目立っているからすぐに見つけることができた。
 だけど本当の目的はそこじゃない。
 俺は夏目さんの自宅の周囲をぐるりと歩き回る。夏目さんの自宅からは死角となる、電柱の裏に立つ制服姿の女子生徒を見つけ、俺は静かに歩み寄る。
「伊藤さん」
 伊藤さんはゆっくりとこちらを振り返る。
「桐谷くん……」
 伊藤さんは俺を認識すると、視線を逸らし再び夏目さんの家を見つめる。
 伊藤さんはきっと、毎日欠かさず朝からずっと見張っている。登校中、授業中、昼休み、放課後、下校中、いつでも夏目さんを殺せるように。学校に来ていないのに制服を着ていることが、そのまま伊藤さんの覚悟を物語っていた。
 だから俺は、俺にできることをする。
「ターゲット、変えたほうがいいんじゃない?」
「え?」
 俺は、伊藤さんに知恵を貸してほしいとお願いされた。
 今度こそ、伊藤さんのお願いを叶えるんだ。
「今の夏目さんは周囲を警戒している。学校に来なくなるぐらいに。そんな人間を誰にもバレずに殺すのは難しいと思う。ましてや空間を把握できていない相手の家に侵入するのはもっと難しいし、絶対に証拠が残る。それよりも、まだ狙われていることを知らないもう二人の方を先に殺すほうがいいんじゃない?」
 伊藤さんはもう一度こちらを振り返ると、口を結んだまま小さく頷いた。

 藤野さんから受け取ったプリントたちを夏目さんの家のポストに投函し、俺たちは駅へと戻る。
 半分夜へと染まっている夕焼け空の下、並んで歩いていると、俺はふと思い出し、カバンから紙を一枚取り出す。
「これ」
 進学を希望するものは行きたい大学を、就職を希望するものは働きたい職業を書く進路希望調査書。伊藤さんは受け取ると、すぐにカバンへと無造作に仕舞った。シワがついても、折れても関係ない。数年後の未来を見据えた書類への扱いが、そのまま伊藤さんが自分の未来についてどう考えているかを表しているようだった。
 伊藤さんはふと立ち止まり、数歩進んだところで俺は振り返る。
 伊藤さんはうつむき気味に呟く。
「結局、私のお願い、聞いてくれるの?」
 伊藤さんのお願い。
それは人を殺すこと。
 その願いを叶えるべきか、否か。その答えは、この一週間という短い期間では出なかった。というよりも叶えるべき理由よりも圧倒的に叶えるべきではない理由のほうが多く、どんなに考えても覆ることはなかった。
だけど、伊藤さんがいなかった一週間は、俺の中の伊藤さんへの想いを知るには十分な時間だった。
 期待、不安、孤独を孕んだ伊藤さんの視線に俺は胸が高鳴る。それでも、騒ぐ心臓を抑えて、俺もまたまっすぐ伊藤さんを見つめる。
 俺は伊藤さんのことを好きだ。
好きだから。
「俺は、君の願いを全力で叶えるよ」
 俺は結局、伊藤さんの願いを叶えるべきではない理由よりも伊藤さんの願いを叶えたい理由を優先した。
 伊藤さんの表情がぱぁっと明るくなっていく。
「本当に?」
 俺は伊藤さんから視線を逸らし、まとまらない頭の中をそのまま口に出して話す。
「あの日、伊藤さんは人生を後悔したくないって言ったよね」
「うん」
「俺も色々あって自分の人生の使い方をずっと考えてて。なんのために生きているんだろうって」
 事故にあい、両親は死んで、俺だけが生き残った。
 その意味をずっと考えてきた。死んだようにずっと。
 しかし、伊藤さんと過ごした数日間は考えなかった。もっと他に考えることがたくさんあったから。
 どうしたら人を殺せるか。証拠を残さない方法はなにか。
 そして、伊藤さんのこと。
だから。
「俺は自分の人生を、伊藤さんのために使いたいって思ったから」
 伊藤さんと過ごした数日間は、自分が生きていることを強く実感できた。だから、伊藤さんのためと言いながら本当は自分のためかもしれない。
 エゴかもしれない。
押し付けかもしれない。
 いろいろ考えたけど、とにかく今は、伊藤さんと一緒にいたい。
 口に出すことで、ようやく自分の気持ちが定まった気がした。自分自身で納得し、顔を上げると伊藤さんは少しだけ驚いた表情をしていた。
「どうしたの?」
「いやなんか、プロポーズみたいだなって」
「……へ?」
 思い返すと、確かに言葉だけ聞くとかなりプロポーズっぽかった。
「あ、いや、その……」
 伊藤さんは黙って歩き出し、俺も黙って隣を歩く。
 キモがられたかな、とドギマギしながら歩いていると不意に右手を掴まれた。
 小さくて、細くて、温かい手だ。あの時掴むことができなかった伊藤さんの手を、俺は離さないようにそっと握り返す。
 背後に迫る夜の闇から逃れるように、俺たちは黙って夕暮れに向かって歩き続けた。