世界がひっくり返る。
空は下に。川は上に。世界が反転している。
いや、違う。
俺が落ちているのだ。真っ逆さまに。
ここは町境の橋。ここは森桃子が転落して死んだ場所。
まさか俺まで、ここから落ちることになるなんて。
風を全身で受けながら、凄まじい勢いで川が近づいてくる。
どうしてこうなったのか。
記憶は、今日の午前中へさかのぼる。
「あった」
廃材置き場とされている空き教室の中に、小包程度の大きさの段ボールがあった。中には、あの夏にプレハブ小屋から運び出した爆弾と同じものが入っていた。
時間はすでにお昼を過ぎたころだ。朝から探して、これで三つ目。
残りの爆弾は、あと一つ。
俺は段ボールを持ち、理科室へ向かう。
理科室は化学部の展示として、黒板に夏に行った実験のレポートが貼られている。(ほとんど阿野が一人で書いたものだ)しかし、朝からお客さんは誰も来ていない。理科室へ入ると、へとへとに疲れた様子の山口さんがすでに戻っていた。
「あったよ。爆弾」
「よし、あと一つだね」
伊藤さんと決別した後、俺は一日で広い校内のどこかに設置された爆弾を四つも探すのは不可能と考え、山口さんと阿野にすべて正直に話した。もう嘘をついて、騙して、利用するようなことはしたくなかった。
「さっき美優見かけたよ」
そっか、と俺は力なく返事をする。
俺は昨日の様子を思い出す。雨に打たれた孤独な伊藤さんの姿を。
「なんとかして、伊藤さんの作戦を止めないと……」
卓上の三つの段ボールを見て、山口さんはつぶやく。
「ねぇ。どうして四つなのかな?」
「え?」
「今桐谷くんが持ってきた爆弾ってどこにあったやつ?」
「西側校舎の三階の空き教室」
「私が見つけたのは東側校舎の三階の廊下。阿野が見つけたのは二つの校舎をつなぐ渡り廊下の真ん中。でも、爆発させて校舎を崩し、中庭にいる人間を殺すなら両側の校舎にしかけるだけでいい。まぁ渡り廊下に保険でもう一つ置くのも理解できる。なのになんで四つも用意したんだろう?」
「四つ……」
親指から一本ずつ折り曲げ、数を数える。
一、二、三……。四本目である薬指を折り曲げた瞬間、閃いた。
「そうか。爆弾の数は殺そうとしている人の数だ」
山口さんは眉間にしわを寄せ、首を傾ける。
「え? ターゲットは三人なんでしょ?」
そうだ。ターゲットは全部で三人、だと思っていた。
森桃子の同級生、夏目ありさ。
森桃子の元担任、岡田雄介。
森桃子は事故死だと世間に公表した、金子進。
ターゲットの共通点は森桃子であり、伊藤さんが許せないと思う人たち。
しかしその共通点に当てはまる人物が、この世界にはもう一人いる。
「最後の一つは、自分だ」
森桃子の親友、伊藤美優。
白いマーガレットの花言葉を語る伊藤さんの姿が目に焼き付いて離れない。伊藤さんの憤りが、むなしさが、苦しみが、直に心に流れてくるようで自分まで心が沈みそうになる。
「だったら、自分が持ってる可能性が高いね」
取ってくる、と山口さんは自身のスクールバッグをひっくり返し、中身を全部机に上にぶちまけると、棚に置かれた化学図鑑と大きな段ボールの中から膨らんだ風船を一つ、バッグに詰める。あれは昨日、佐々木先生が表面張力を使ったマジックの時に使ったものだろう。
「これでいいかな」
中身が詰まったように見えるスクールバッグを肩にかけ、理科室を出ようとすると朝から校舎中を探し回ってくたくたの阿野が帰ってきた。
「戻りました……」
「阿野もいくぞ!」
「えぇ……」
阿野は山口さんに引っ張られ、去っていった。
すると、入れ替わりで白衣姿の佐々木先生が入ってきた。
「あー疲れた」
俺はとっさに爆弾たちを隠す。佐々木先生は白衣を脱ぐと、いつもの年季が入った茶色いジャケットを羽織る。
「どうでしたか? 午前の部は?」
「どうもこうも、なじみの奴らしか来ないよ」
「なじみの奴ら?」
「それはそうと、その風船がなんだって?」
床に置かれた大きな段ボールは理科準備室から引っ張り出した佐々木先生の私物だ。中にはサイエンスショーで使う風船がたくさん入っている。
文化祭が始まる前に佐々木先生に話をするつもりだったが、ショーが終わった後にしてくれと言われた。あの時の佐々木先生はまだ白衣をまとっておらず、仮面をかぶっていなかったが気持ちはすでにミスター佐々木だったのだろう。
俺は改めて佐々木先生に頭を下げる。
「先生が持っている風船を全部ください」
「……どうして?」
俺は計画を話す。もちろん、伊藤さんがやろうとしていることは伏せて。
もし話してしまうと、先生はきっと大人という立場上、文化祭を中止にせざるを得ない。しかしそれでは伊藤さんの作戦を止めたことにはならない。伊藤さんはきっとまた別の機会を待つだけだ。その時にはもっとたくさんの被害者が出るかもしれない。
だから今日、やるしかないんだ。
ステージ上で手紙を読むこと、そこで風船を空へと上げてほしいことを伝えると、佐々木先生は小さく頷いた。
「お前のやりたいことは分かった。だが、それをやる理由はなんだ?」
佐々木先生は鋭く俺を見つめる。まるで俺の中の心を見るように。
理由は伊藤さん、だけじゃない。隼人や三宅さん、それに俺も。
身近な人、大切な人を亡くした人の気持ちは他人には推し量れないほどに沈む。ほの暗い、闇の奥底に。だから。
「自分を、みんなを、助けたいからです」
「たいそうな理由だな」
そう言って、佐々木先生はにやりと笑った。
「いいぞ。持っていけ。あと空に上げるなら一か所からじゃなくて、あちこちから浮かべた方がより広がるだろ」
「そうですけど、人手が……」
「だったら」
すると突然、理科室の扉が開き、小さな子どもたちが入ってくる。
「ミスター佐々木!」
「またマジックやって!」
そういって、子どもたちは佐々木先生の周りに集まる。
「佐々木先生! うわ、そのジャケット懐かし!」
あとから子どもたちの保護者も入ってくる。口ぶりからするに、佐々木先生のかつての教え子たちなのだろう。先生のいうなじみのやつら、とはきっとこの人たちだ。
はしゃぐ子どもたちと嬉しそうに笑う保護者たち。俺はなんとなく、佐々木先生が長い間サイエンスショーを続ける理由を見た気がした。
「ちょうどよかった。お前らちょっと手伝え」
「また面白いことやろうとしてるんですか?」
「まぁな。とりあえずお前ら飯食ってまたここに来い」
「はーい!」
保護者と子どもたちは理科室を出ていく。
「どうして、先生はそこまで協力してくれるんですか?」
「そんなもん、先生だからだよ」
そこに立つのはミスター佐々木ではなく、俺たちの担任である佐々木先生だった。
「ただし条件として、ショーの午後の部は手伝え」
「ありがとうございます!」
うん、とうなずくと佐々木先生は自分で肩をもみながら理科室から出ていった。
すると、また入れ替わりで山口さんと阿野が帰ってくる。
「とってきたよ!」
「すご!」
山口さんはスクールバッグを机の上にどん、と置く。チャックを開くと中身は本当に爆弾だった。
「これで最後、ですよね? 四つってことまで嘘とか……」
阿野が不安そうに俺と山口さんを交互に見る。
「伊藤さんが前に言ってたんだ。嘘を信じさせるには本当のことを言うのがいいらしい。だから校内という嘘を信じさせようとしていたなら、爆弾の数は本当だと思う」
「それで、解除できるの?」
「……うん、前にも解除したことあるから。だけど念のため離れたところでやってくる」
俺はすべての爆弾をスクールバッグに詰め込む。
「桐谷先輩はどうしてそこまでできるんですか?」
阿野の質問に、俺は潔く答える。
「伊藤さんのことが好きだから」
最初は理由なんてなかった。ただ伊藤さんと一緒に居られたらそれでいいと思っていた。だけど、伊藤さんの想いを知って、俺は迷った。たくさん間違って、たくさん後悔して、そして、たどり着いた答えがこれだ。
たいそうな理由なんて最初からいらなかったんだ。
理由なんて、それだけでいい。
伊藤さんが、この先もずっと幸せに生きてほしいから。
この想いがきっと好きという気持ちなのだ。
「桐谷先輩、なんか変わりましたね」
「そうかな」
「ところでさ、今回の作戦名は?」
「作戦名?」
そういえば、これまでも作戦名があった。
校舎裏で告白すると思わせて植木鉢を落とすときは『フォーリンラブならぬフォーリン植木鉢作戦』とか毒をもつ生物に襲わせて密室殺人を行う『毒で心臓ドックドク作戦』とか。
俺はうーん、と考え込む。語感のよさとちょっとしたダジャレがミソだよな。えっと。
「あー。風船で、えっと、……『想いを込めたバルーンは軽いのに重い! 大作戦』とか……」
シーン……。
なんだか校舎中が静かになったように感じる。
すると、山口さんは呆れたように大きなため息をついた。
「やっぱ美優の方がセンスあるわ」
そういって山口さんが笑い、俺たちも笑った。
「じゃああとでね」
「うんあとで」
俺はバッグを肩にかけ、理科室を出る。
廊下を抜け、人通りの少ない角でバッグの中を覗き、爆弾を観察する。
やっぱりそうだ。
俺に、この爆弾は解除できない。
起動装置が夏に岡田の実家で使用したボタン式じゃない。おそらく、実験を手伝ってくれたおじさんにもらったと言っていたもう一つの起動装置である時限式が使用されている。
伊藤さんの十五時ちょうどに爆発する、という発言はそういう意味だったのか。
前回は伊藤さんが起動装置を設置するところを見ていたからできたのであって、設置方法がわからない時限式を解除する方法はわからない。
この爆弾は爆発する。
ならばせめて、人がいない場所で爆発させる。
その前に。
俺は知らない間にたまっていた唾を飲み込み、走りだす。
「どこ行ってたの桐谷くん!」
和風に飾られた教室の前につくと、和服姿の三宅さんがちょうどのれんをくぐって出てきた。
「ごめん、三宅さん。ちょっと隼人借りてもいい?」
「隼人?」
肩で息をする俺を見て、三宅さんはすぐに隼人を呼んでくれた。
「なに? どうした?」
不思議そうに出てきた隼人に、俺は手紙を差し出す。
「十五時になったら、これを俺の代わりに中庭のステージで読んでほしい」
「え、なんで?」
隼人は受け取ろうとするが、なにかを察した様子で手を止めた。
「伊藤のためか?」
「伊藤さん?」
三宅さんが首をかしげる。
「それもある。だけどこの手紙は、俺のためでもあるし、三宅さんや隼人のためにも書いた」
「だったらお前が……」
「頼む。頼めるのお前しかいないんだ。隼人じゃなきゃダメなんだ」
そういうと隼人はそれ以上何も言わず、黙って手紙を受け取った。
「わかったよ。親友の頼みなら仕方ないな」
「うわ。臭いセリフ」
「うるせぇ」
隼人が拗ねたようにそっぽを向くと、俺と三宅さんは顔を見あって笑った。
「ありがとう」
壁に掛かった時計が目につく。爆発まで残り十五分しかない。
俺は二人に「またあとで」と告げ、走り出す。
人ごみをかき分け、校舎を出る。
どこか人がいないところ……。俺は目を閉じ、この町で過ごした半年間の記憶をたどる。
毎日通った学校。隼人と寄った公園。路線の少ない駅。銀色の電車。車窓から見える川……。
はっと目を開け、走り出す。
「橋だ!」
あの橋は町境にあり、川に投げ込めば人にも建物にも影響がない。
はぁ……、はぁ……、はぁ……っ!
呼吸がうまくできない。わき腹が痛すぎる。足も重い。何度も転びそうになって、そのたびにつま先に激痛が走る。
それでも、足を止めるわけにはいかない!
橋についたころには残り時間はあと一分しかなかった。
ここじゃだめだ。もっと真ん中に行かないと!
あごをぐっと引き、最後の力を振り絞る。
あれは!
視線の先に、白いマーガレットが見えた。あそこが橋の中心だ。
爆発まで残り五秒!
俺はスクールバッグのひもを握り、身体をひねり、川に向かって大きく振りかぶる。いつかのオリンピックで見たハンマー投げ選手の投げ方を真似たつもりだ。俺は柵に向かって走り、思い切り力の限り投げ飛ばす。
「いっけえっっ!!」
あ。
バッグは空高く舞い上がる。
しかし同時に、俺の身体は勢いのまま、柵から乗り出てしまう。
やばい!
柵をつかもうと手を伸ばすが届かず、俺は橋から落ちてしまった。
そして、世界がさかさまになった今に至る。
すぐ近くにはバッグの中から飛び出した爆弾が四つ宙に散らばっていた。
しかし、時間を過ぎても爆発しない。
その様子を見て、どこか冷静な自分がいた。
いや、普通に考えて山中のプレハブ小屋に放置されていた爆薬が普通に使えるわけがない。湿気てダメになっている可能性の方が高い。それに伊藤さんだってただの女子高生だ。起動装置の設置方法を一回聞いただけで完璧にできているとは限らない。
爆弾が爆発しなかった途端に、反論のしようもない結果論が次々に心の中に湧いてくる。
でも、仕方ないじゃん。わからなかったんだし。
それに伊藤さんの作戦は止められた。だったらいいじゃん。
もうすぐ死ぬというのに、なんだか妙に心が軽い。
たぶん俺は全力で生きたから。
だからきっと後悔はない。
目を閉じようとしたが、さっきまで空を覆っていた厚ぼったい雲の切れ間から日差しが伸び、川面がキラキラと輝いた。その光景を見た瞬間、俺は水中へと沈んだ。
大量の泡が、ぼこぼこと揺らめいてのぼっていく。
水面に上がりたくても身体が動かない。
口が開き、一気に水が流れ込んでくる。
これが、死か……。
視界が薄れ、意識が遠のく中、誰かが俺の手を強く引っ張った。
気がつくと、そこは真っ白な空間だった。
地面もなく、空もない。真っ白な空間に浮かんでいるような感覚だけがあった。
ここはどこだ。おれは、なにをしていただんだっけ。
あれ? おれって、誰だっけ……。
強烈な眠気だ。あくびをするたびに体の輪郭が溶けてなくなっていきそうだった。でもそれも、心地いい……。
「ちょっと大丈夫?!」
「うわっ?!」
突然背後から声をかけられ、俺は飛び起きる。振り返るとどこかで見覚えのある女子が立っていた。
「えっと、きみは」
「桐谷くんだよね。初めまして。森桃子です!」
森桃子。
その名前を聞いた瞬間、眠気は吹き飛び、すべてを思い出した。
森さんはとびきりの笑顔で頭を下げてくる。
「美優を殺人犯にしないでくれて、どうもありがとう!」
「あ、どうも……」
「私もありさちゃんを守ったりいろいろ頑張ってたんだけどさ。限界があるから。桐谷くんがいてくれて本当に良かった」
「ありさちゃんって、夏目ありさのこと?」
「そうだよ!」
頑張ったって、どういう意味だろう。
夏目さんは伊藤さんに命を狙われていた時は階段から突き落とされたり、自転車のブレーキを壊されたりしていたらしい。それに加えて俺たちは植木鉢を落とそうとした。
そのどれもが当たりどころがよかったり、風が吹いたり、説明がつかない理由で助かっている。それが森さんの言う「がんばり」のおかげなのだろうか。
森さんは嬉しそうに話す。
「ありさちゃんは私の恋のライバルだからさ」
「恋の、ライバル?」
「そう! それと同時に、禁断の恋仲間だったな。絶対に秘密だけど!」
そういって身体を揺らし、ちらちらと俺を見る。
その態度は明らかに相手が誰なのか、聞いてほしそうだった。
別に興味はないけど、一応聞いてあげる。
「相手は、だれなの?」
「どうしようかなー、いおうかなー」
森さんはまんざらでもなさげにさらに身体をくねくねと揺らす。
うっざ。
隼人が言っていた意味が少しだけ理解できた気がする。
「でも死んでるし、いいよね」
そういって森さんは小さな子どもが秘密を打ち明けるように、こそこそ声で囁く。
「岡田先生」
「えぇ?!」
「だから誰にも言えなかったの。美優にもさ」
きゃっ、と恥ずかしそうに顔を覆う森さん。
俺は岡田先生を思い出す。岡田先生は二十代後半だが見た目はもう三十代後半って感じ、筋肉質なただのおじさんだ。
あの人が好きだったのか。夏目さんも。
同じ人を好きになった相手に、強くあたっていた。ほかの人に比べて夏目さんだけあたりが強かった理由は分かった。だけど。
「あのさ……」
次の言葉を言おうとして、俺は口をつぐんだ。こんなことを本人に聞くのは憚られるが、どうしても真実を知りたい。
「森さんは、自分がクラスの人にいじめられてたと思う?」
森さんは顎に指を当て、考える。
「うーん、どうだろう。自分の空気の読めなさは知ってるし、美優みたいに仲良くしてくれる人が珍しくて、みんなから距離を置かれるのが私にとっての普通だったから。もしかしたら辛かったのかもしれないけど、もうどうでもいいって感じ!」
「そっか」
みんなから距離を取られるのが普通。
森さんの回答を聞いて、どこか寂しい気持ちになった。
「でも、それと私が死んだのは関係ないから。あれはマジでただの事故。あれは……」
「写真を撮ろうとしたんでしょ」
森さんの写真フォルダの最後の写真は森さんが死ぬ直前に撮影されたものだった。ブレてよくわからなかったが、橋から落ちているときに分かった。
あれは陽光が反射し、キラキラと輝く川面の写真だ。
「そう。私が美優との約束忘れちゃってて。学校終わりに謝りに行こうと思ったんだけど、途中の橋からみた光景があまりにも綺麗だったから写真を撮って美優に送ってあげようと思ったんだけどさ。それなのに……」
学校から大学病院に向かうなら町境にある橋を渡る。
そこで森さんは落ちてしまった。
「美優には悪いことしちゃったな」
うつむく森さん。するとどこからか赤い風船がふわりと飛んできて、森さんの前に止まった。
「ごめんね、美優。一人にして」
森さんは風船を抱きしめる。
それはまるで、森さんと伊藤さんが抱きしめあっているようにも見えた。
二人はきっと、仲直りできたと思う。
俺は森さんに向かって約束する。
「俺がいるから。安心して」
森さんはニカっと笑う。
「忘れんなよ!」
「うん!」
「って言っても、こういう夢って起きたら忘れるんだけどさ」
「え?」
すると突然気を失い、目を覚ますと真っ白な天井が目の前にあった。
「ここは……?」
「蓮! 蓮! わかる?!」
「意識戻りました!」
涙目の直美さんが顔をのぞかせ、看護師さんが走ってどこかへ行くとすぐに医者と一緒に戻ってきた。
周りがバタバタと騒がしい。
意識がはっきりしない。なにか夢を見ていたような……。思い出せない。
それから医者がやってきて、いろいろと検査をされた。心拍や脳波を測ったり、腕を上げたり足を曲げたり。一通り終わると医者は不思議そうに息をついた。
「奇跡ですね。あんなところから落ちて擦り傷程度で済んだとは」
落ちた?
そうだ。俺は、爆弾を橋から投げ捨てようとして、勢い余って落ちてしまって、それで、水の中で誰かに手を引っ張ってもらったような……。
「ありがとうございました」
直美さんが頭を下げて医者を見送ると、顔を上げた時には眉間には深いしわが刻まれていた。
「おまえなんばしとーっと!?」
「え」
「お前なにやってんだ、だって。私が翻訳するね」
横から紬姉ちゃんが顔を出す。紬姉ちゃん、帰ってきてたんだ。
「話ばきいとーとかっ!!」
それから直美さんは俺のことをこっぴどく叱った。それはもうすごく。そこらへんのヤンキーでも泣いてしまいそうなほどの勢いだ。周りの患者さんや看護師さんが見に来ては声をかけられないと、逃げていくのが見えた。だけど。
「なにわろうてんだ?!」
直美さんはさらに怒る。直美さんに怒られたのは初めてだった。
これまでだってちゃんと愛情を貰っていたはずだけど、叱られている今が一番、愛を感じて嬉しかった。
「直美さん、心配かけて本当にごめんなさい」
「わかりゃあよか」
そういって、直美さんはわしゃわしゃと俺の頭をなでた。
その撫で方が、暖かさが、直美さんの妹である俺の母さんとそっくりで涙が出そうだった。こぼれないように我慢していると、直美さんはわざとらしくため息をついた。
「はーあ、いっぱいしゃべって喉乾いた。ちょっと買い物してこよーっと」
そういって身体を翻し、病室から出ていく。
「友達どころか、彼女までできちゃうなんて。なかなかやるね」
紬姉ちゃんは俺の額をつつき、にやにやと笑いながら直美さんに続いて出ていった。
彼女? なんのことだ?
すると、二人が出ていったすぐ後に、一人の女子が入ってきた。
「伊藤さん……」
顔に影が落ちている。とっさにあの夏のことを思い出す。爆弾を解除し、トンネルから出た時にみた伊藤さんの顔を。
また作戦の邪魔をした俺を恨んでいるのだろう。
「……身体、大丈夫?」
「うん、大丈夫。奇跡的に無傷だって」
すると、伊藤さんは突然涙をぽろぽろと流す。
「よかった……、よかったぁ」
伊藤さんはしゃがみ、ベッドに頭をつけて泣き出す。子どものような泣きじゃくり方だ。
「また大切な人がいなくなったと思ったから……」
静かに呟く伊藤さんの手を、俺はそっと握る。
白くて細い、だけど確かに暖かい伊藤さんの手だ。
俺はもう、この手を離さない。水に沈みかけた時に、俺を助けてくれた手のように。
「俺がいるから。そう約束したから」
そう言葉にした瞬間、またなにかを思い出しそうになった。
約束って、だれとしたんだっけ……。
病室の窓から風が吹き、カーテンがふわりと膨らんだ。