世界はそれぞれの事情を抱えながらも、まるで何事もないかのように進んでいる。
 茜君と一緒に暮らし始めて一か月が過ぎた。大切な人と同じ家で過ごせるなんて、病室の窓からぼんやりと外を眺めていたあの頃の自分ではちっとも想像できなかった。
 小さなこの部屋が私達だけのお城。引っ越す前だってネット通販を見ながら家具や家電を選ぶのは本当に楽しかった。もうこれ以上はないんじゃないかってくらい幸せな気持ちだった。
それでも、一緒に暮らし始めてからは想像もしなかったような幸せがいっぱいにあふれていた。茜君が帰りに私の分のシュークリームも買って来てくれること、二人で並んで歯磨きをすること、降り出した雪を窓から眺めて「綺麗だね」って言えること。そんな小さな幸せが私の心に降り積もっていく。
 
「デミグラスか、トマトソースか……それとも煮込み?」
 商品棚に並んだデミグラス缶とトマト缶を両手に見比べる。茜君はどれが好きなんだろう。ハンバーグが何派なんて話、したことなかったよなぁ。今日は茜君の「講座」の日だから、たくさん頭を使ってくる分、美味しいものを食べてほしい。
 私はデミグラス缶をカゴに入れて、トマト缶を棚に戻した。今日はデミグラスソースにしよう。次は違うのを作ればいい。これから何度だって作る機会はあるんだから。

「流石に買いすぎちゃったな……」
 両手持ったいっぱいの買い物袋を見て少し反省した。お野菜が安かったのと、新作のお菓子が美味しそうだったのが今日の敗因だ。次の買い物はちょっと自粛しよう。
「あら、波瑠ちゃん?」
 声をかけられて後ろを振り向くと、近所に住む高木さんが立っていた。
「こんばんは、高木さん」
 高木さんはこのスーパーでよく会って話すようになったおばあちゃんだ。このスーパーは何曜日がまとめ買いにいいとか、美味しいお野菜の見分け方とか、いろんなことを教えてもらった。
「最近は寒いわねぇ」
「明日はまた雪が降るみたいですよ」
「あら、それは大変」
 高木さんは私の手にした荷物を見て微笑んだ。
「今日はたくさん買ったのね」
「はい。ちょっと買いすぎちゃいました」
「ふふっ、そんなにたくさん荷物を持てるなんて細いのに力持ちなのね」
「えへへ、体は丈夫なんです」
 そう言って両手の袋を持ち上げてみせた。
 
 家に向かって歩いていると、この街に来た時のことを思い出した。実家からは電車で二十分くらいしか離れていないし、この街には昔何度か来たこともある。それでも、目に映る景色は全部が新しく思えた。
 新しく知ったスーパー、野良猫がよくいる空き地。早くいろんな場所を見たくて、たくさん歩き回って茜君を困らせたっけ。入院していた頃は人目を避けてこっそり抜け出していたから、いつでも好きな時に、というわけではなかった。行きたいところへ好きな時に行けるってこんなにも自由なんだって、そう思った。
 たった一ヶ月でこの街の景色にも茜君との思い出のある場所が出来た。あっちの公園は子供がいない時間を見計らって、雪の上に足跡を付けに行った。そこのカフェはいつも豆を焙煎するいい匂いがしていて、店の前を通るたびに「一緒に行きたいね」って話をする。そしてこの帰り道は初めて手を繋いで歩いた。
 ああ……思い出したら、早く会いたくなってきた。

 角を曲がると、駅の方から見慣れた猫背の背中が見えた。考えるよりも先に足が駆け出す。
「あ、か、ね、君っ!」
 後ろからぶつかると、驚いたようにこっちを振り向いた。
「波瑠!?」
「お疲れさま。今日の講座はどうだった?」
 茜君は高卒認定試験に向けて講座に通い始めた。今時オンライン講座や通信教育だってあるのにわざわざ対面式を選んだのは、茜君なりに自分の苦手をなくそうと頑張っているからなんだと思う。そのおかげか、この前の休みの日には茜君から買い物に行こうと誘ってくれた。私が新しい靴が欲しいって言ってたのを覚えていてくれたことも嬉しかった。
「結構よかったよ。やっぱり英語は苦手だから、疑問に思ったことをすぐに聞けると理解が早いな」
 そう言いながら、私の両手に持った袋を取り上げる。
「茜君、心配しなくたって私はもう元気なんだからこのくらい大丈夫だよ? ほら、こんなに筋肉もついたんだから」
 空いた腕で力こぶを作ってアピールしてみたけど、分厚いコートのせいで見た目には何も見せつけられなかった。
 退院してか一週間に一回病院へ通っているけど、どこにも異常は見つからない。これからは通院の頻度を減らしてもいいってお墨付きももらえた。
「そういう事じゃなくて。重そうだから持つのは普通のことだろ」
 なんてこともなさげに言う。君のそういうところだよ。ほらまた、心に幸せが積もった。
 私は荷物の片方を強引に奪い取った。
「嬉しいけど、今日は半分こしようよ。そうしたらさ」
 空いたほうの手を握る。
「手を繋いで帰れるでしょ?」
「……そうだな」
 横顔を見ると、マフラーから覗く耳が赤くなっていた。

「私はご飯作ってるから、茜君は先にお風呂入ってきてもいいよ」
「ありがとう。じゃあそうさせてもらうよ」
 茜君をお風呂に送り出して、私はキッチンに立つ。さあ、ここからが本番だ。
 一緒に暮らすことになって、家事は二人で分担すると決めた。洗濯や掃除は一人暮らしをしていた茜君の方が慣れていて、始めは色々と教えてもらった。でも料理に関して茜君は全くで、カップラーメンしか作れないと自信たっぷりに豪語していた。そんな風だから、料理だけは私が出来るだけやろうと思った。もう何年も入院していたから、最後に包丁を握ったのも思い出せないくらい。それでも料理番組や料理本を見て、少しずつ練習していった。
 最初に作ったのは卵焼き。味は濃いし、焦げ目は付きすぎるしで散々だった。それでも茜君は文句を言わずに食べてくれた。だから次はもっと頑張ろうと思えた。
 涙を流しながら切った玉ねぎは飴色に。肉だねにはナツメグを少し。せっかくだから形はハートにしようかな。
「おまたせ。出来たよ」
 湯気の立つデミグラスハンバーグをテーブルに並べた。うん、なかなかいい出来じゃないか。
「ありがとう。……いただきます」
 そう言って茜君はハンバーグを口にした。さて、私も一口。
 その瞬間、固まってしまった。お肉が……お肉が硬い! どうして!? ハンバーグというか、ぎゅっと詰まったお肉の塊を食べているみたいな。見た目はこんなに美味しそうなのに!
 恐る恐る茜君の方を見ると、何も言わずに黙々とカチコチのハンバーグを口に運んでいる。
「ああ……ごめん! ハンバーグ失敗しちゃった。無理して食べなくていいから、ね?」
 私の言葉に、茜君は顔を上げた。
「確かにちょっと硬めだけど、普通に美味いぞ? 波瑠が作ってくれたものは何でも美味いと思うけど」
 そう言ってまた食べ始めた。
 正直私の料理は下手くそで、ちゃんと煮えてなかったり、味が薄かったり、失敗ばかりだ。それなのに茜君は美味しいと言っていつも食べてくれる。これは優しさというより、ちょっと茜君の味覚が変なんじゃないかって最近は疑っている。だからもっと上手くなって、本当に美味しい料理で茜君のお腹をいっぱいにしたい。
「ありがとう。また頑張って作るね」

「波瑠は明日の病院、十時からだっけ?」
 並んで食後のお茶を飲んでいると、茜君が言った。
「うん。茜君は十二時から講座だったよね。私は六時に出るから朝ごはんは一緒に食べられないけど、冷蔵庫におにぎり用意しておくね」
 そうだ、今のうちに明日の朝ご飯と茜君のお弁当を作らないと。ご飯を早炊きでセットして、お弁当は冷凍してあるお米でオムライスにして……ご飯が炊けたら、おにぎりの具は梅干しと鮭フレークにしよう。
 立ち上がってキッチンに向かおうとすると、背中に声が掛かった。
「なあ、前から思ってたんだけどさ。病院行くとき、家を出るの早すぎないか? 確かに実家にいた頃よりはちょっと離れたけど、せいぜい電車で4駅だろ? 歩く時間を考えたとしても一時間もかからないのに、いつもどこかに寄ってるのか」
 振り向くと、茜君もこっちを振り向いていた。まあ、確かにそう思うよね。
「朝の散歩って結構気持ちがいいんだよ。そんなに朝強いわけでもないから、午前中の用事でもないと早く起きられないし。前に病院の帰りにクロワッサン買ってきた時があったでしょ? それだって、散歩の途中でたまたま見つけたんだよ」
「……そうか。なら、いいけど」
 納得してくれたのか、茜君は体の向きを戻した。もちろん今言ったことに嘘はない。でも、本当の理由は茜君には教えてあげないけどね。

 支度をして、小さなベッドに二人で入る。茜君のぬくもりをすぐ隣に感じて胸がいっぱいになった。
 こうやって寝る前に真っ暗な部屋で話をする時間が私は結構好きだ。
「茜君はハンバーグ、デミグラス派? トマトソース派? それとも煮込み派?」
「え……煮込みなんてあるのか?」
「あるよー。それなら今度は煮込みハンバーグにチャレンジしよっかな」
「へえ、じゃあ楽しみにしてる」
「卵焼きは甘い派? しょっぱい派?」
「甘い方、かな」
「目玉焼きは? 醤油派? ソース派?」
「醤油」
「ゆで卵は、塩派? マヨネーズ派?」
「塩……っていうか、卵ばっかりだな」
「ふふっ、確かに」
「別に俺の好みなんて合わせなくていいんだぞ。波瑠の食べたい方を俺も食べるし」
 まあ、茜君はそう言ってくれるような気がしてたよ。
「そんなに深い意味はないんだけど、ちょっと気になったから聞いてみたの。私達ってまだ出会って一年も経ってないんだよ? その間にいろんなことがあり過ぎて、そんな感じもしないけど。だからもっと茜君のいろんなこと知りたいなって」
 初めの頃は本当の名前すら知らなかった。それから段々会話を重ねて、名前を、痛みを、優しさを知った。でももっともっと知りたいって欲張りになる。
 横向きになって茜君の腕をぎゅっと抱きしめると、その体が強張るのが分かった。
 君がどうしたら喜んでくれるのか。どうしたら私にドキドキしてくれるのか。どうしたら不幸な夢を見る怖さから解放してあげられるのか。
 ねえ、教えてよ。私は上手くできてる?
「今朝、茜君が『凍った地面に気を付けて』って言ってたから、滑り止めのついたブーツを買ったよ。でも買いに行く道中で転んじゃった」
「あ、ああ……それは、大変だったな……」
「これでもうきっと転んだりしないよ。また不幸が一つ減ったね」
 茜君は毎朝、夢に見た私の不幸を教えてくれる。それは私がそう望んだからだ。
 夢の内容を聞いても、その不幸は避けられたり、避けられなかったり。茜君が夢を見た次の日に必ず起こる訳でもないから、忘れた頃に起こったりもする。
 ここ最近の夢は、凍った道で転ぶ夢、タンスの角に小指をぶつける夢、間違えて歯磨きを二回しちゃう夢。茜君の様子を見るに、自転車にひかれる夢みたいな大きな不幸はまだ見ていないみたい。
 不幸とは、幸福でないこと、ふしあわせ。それなら私から不幸が無くなったら、茜君はどんな夢を見るんだろう。
 転ばないように滑り止めのついたブーツを買った。通勤ラッシュの事故や事件を避けるためにその時間の電車に乗らないようになった。他にも思いつく限りのことは何でもやった。きっとそれを全部話したら、君は気に病みそうだからこれから先も言うつもりはないし、それを「辛い」なんて思ったことは一度もない。全ては君がこれから先、私の夢で苦しまないように私が勝手にやっていることだ。
 手術の日に渡した手紙に書いたことは、別に手術で死んでしまう事だけを思っていた訳じゃない。私の命が尽きるのが数年後でも、数十年後でもずっと変わらない。私の最期を夢に見て君が怖い思いをしないように。最期のその瞬間まで、君に幸せを残せる私でありたい。
「ねえ、茜君」
「なんだよ」

 この部屋に引っ越してきたその日の夜、君はずっと暗い顔をしていた。
『どうしたの?』
『本当に一緒に寝るのか?』
 不安そうに私を窺う表情。私は笑顔を見せた。
『もちろん。今日からは毎日一緒に寝るんだよ』
『やっぱり、嫌じゃないのか? その、俺と同じ部屋で寝るのは……』
『それは茜君だからってこと? それとも夢を見るからってこと?』
 私の言葉に茜君は言葉を詰まらせた。
『……それは、どっちも』
『分かった。最初の方については私が茜君のことを大好きだから何も問題ないよ。好きな人と一緒に寝られるなんて、女の子の憧れなんじゃない? それでもう一つの方も問題ないよ。だって今までも茜君は私の夢を見てくれてたでしょ?』
 手術の日のデートの支払いだと言って強引に約束を取り付けた。その約束を茜君はちゃんと守ってくれた。そして毎晩私の夢を見てほしいと言ったことも、律儀に叶えてくれていることだって知っている。
『でも、それは俺が一人で夢を見ていただけで、こんな風に隣で不幸を見られるなんて……』
『大丈夫だって』
 茜君の両手を握る。自分のことになると君は随分臆病みたいだ。私もそうだったからよく分かるよ。
『私、茜君に見られて困ることなんてないし、前にも言った通り、茜君が不幸を呼び寄せてるわけじゃないもん。でも、さすがにちょっと気になるから翌朝、見た夢を教えてくれないかな?』
『自分の不幸を聞きたいって……波瑠は変わってるよな』
 そう言って困ったように私を見た。でも、さっきみたいに不安で暗い表情じゃない。
『ふふっ、いいじゃんいいじゃん。どんな夢が聞けるのか毎朝面白そうだよ』

 いつか私のドジくらいしか夢に見なくなって、私が「ニュースの星座占いみたいだね」って言ったら、君は「そうだな」って笑ってくれるといい。

「今日も私のことを想って眠りについてね」

 世界はそれぞれの事情を抱えながらも、まるで何事もないかのように進んでいる。近所の高木さんも、お隣の山野さんも、今日すれ違っただけの人も。そして、私達も。
 君のその夢は私が一生一緒に向き合っていくから心配しないで。君が私の病気に向き合ってくれたみたいに。手術の日の朝に二人で話した「やりたいこと」は引っ越しの準備や新生活でまだできていないけど、そう遠くない未来に実現するって信じてる。一緒ならこの先どんなことがあってもきっと明るく乗り越えていけるよ。他のどんなカップルや夫婦にも負けないくらい、最高に幸せに満ちた二人になろう。

 今夜も君が穏やかな不幸を見られますように。