病院の廊下は少し寒くて、身を縮めた。
「波瑠の親からは一発くらいぶん殴られるかと思ってたよ」
隣を歩く波瑠にそうこぼした。
「えっ、どうして?」
さっき俺は病院内のカフェスペースで波瑠の親と初めて対面した。未成年の波瑠が手術を受けるには保護者の同意が必要で、金のことも含めて一度話をしないといけなかった。
波瑠の親は明るく物を言う、誠実そうな人たちだった。波瑠が持つ無邪気なほどの明るさや共感性を伴った優しさは、この両親に育てられたからこそなんだろうと思った。
「だって娘が知らない男をいきなり連れてきて、しかも手術費用を全額支払うとか言い出したら、新手の詐欺とか、とにかく胡散臭くて仕方ないだろ?」
「そういうものかな……?」
波瑠はピンと来ていない様子だった。
「でもお父さん達、茜君にすっごく感謝してたでしょ。それはそうだよ。だって茜君は私たち家族の恩人だもん」
そんなことを言われると照れ臭くなる。俺はただ波瑠の苦しむ顔が見たくなくてやっただけで、そんなに大層な志なんかじゃない。
俺は話を逸らした。
「俺のことは説明しなくてよかったのか? 仕事のこととか、金の出どころとか……」
「だって茜君、話したくなかったでしょ? もしお父さんたちに何か聞かれたら、私がうまく言っておくから安心して」
そう言って波瑠はウインクしてみせた。
あの仕事は人に胸を張って話せるようなものじゃない。波瑠は俺の話を聞いても変わらずに接してくれたけど、普通は軽蔑されても仕方ないくらいだ。波瑠の親にはなおさら秘密にしておきたかった。
「ありがとう……助かるよ」
「このくらい、なんてことないよ」
「それにしても、俺達が出会ったきっかけを『病院で見かけて声をかけた』っていうのはあまりにも強引過ぎはしないか……?」
この病院に来たのはこの前が初めてだし、詳しく聞かれでもしたら簡単にボロが出そうだ。
「でも、茜君が歩いている姿を『病院』の窓から『見かけて』、あの歩道橋の上で『声をかけた』んだもん、嘘はついてないよね?」
「嘘じゃなくても確信犯だろ」
「だって、病院をこっそり抜け出して会ってたなんて言えないよ。そういうことにしておいて、ね?」
波瑠はそう言って俺の顔を覗き込む。
「……分かったよ」
人に言えないことが多いのは俺も同じだ。そこはなんとか協力しようと思った。
病室に戻って、波瑠はベッドに横になった。側の椅子に腰かける。
「手術ね、前に聞いた話だと二日に分けてやるんだって。骨を削ったりとか色々やらないといけないことがあって、何時間もかかるんだってね」
波瑠の言葉にぞっとした。
「その……怖くないのか?」
「怖くない、って言ったら噓になるかな」
返事を聞いて、馬鹿なことを言ってしまったと思った。そんなこと、怖くないはずがないのに。
「でもね、怖いとかそれ以上に手術を受けることになって嬉しいって思ってる。自分の人生に絶望していい加減に生きていたあの頃よりも、生きることに執着して苦しんでいたあの頃よりも、ただ真っ直ぐ、生きるために心を向けられる今が一番だよ。もちろん手術が必ずうまくいくとは限らないし、何が起こるかなんて分からない。それでも今が一番、私自身の人生を前向きに考えられている気がするんだ」
正直、俺は心の片隅で引っ掛かっていることがあった。本当に手術を受けることが波瑠にとって最善なのか、と。
波瑠は手術を望んでいた。手術を受けられない理由がただ金のためなら、俺がどうにかしたいと思った。それに手術が成功して波瑠が自由に動き回れることは、俺にとっても魅力的だった。
しかし、その手術は前例がなくて失敗して命を落とすかもしれないと前に波瑠が言っていた。そんな危険性のある手術に波瑠を後押しして本当によかったんだろうか。そんな危険を冒さないで今まで通りの生活をしていた方が長く波瑠と一緒にいられたんじゃないか。そんな考えが浮かんでは頭を抱えたくなった。
それでも、波瑠は今が一番幸せだと言ってくれた。その言葉を聞いて、ここまで突き進んできた自分をやっと認められる気がした。
また波瑠に心を救われてしまった。
「それにね、色々準備もしてるところなんだよ。あれこれ忙しくやってたら、怖さも紛れてちょうどいいよね」
「準備?」
「んふふ、茜君にはまだ秘密だよ」
そう言って波瑠はいたずらっ子のように笑って見せた。そんな些細な仕草で、どれだけ俺が心をかき乱されているかなんてまだ君に伝えるつもりはないけど。
俺は立ち上がった。
「じゃあそろそろ俺は帰るよ。また明日来る」
「もう帰っちゃうの? 何か用事?」
「ああ。今日から勉強を教わることになってるんだ」
あの仕事を辞めたからには、必死にならないと次の仕事に就くこともままならない。まず、第一の関門である高卒認定を取るために試験勉強を始めた。今日は隣町のコミュニティセンターで開かれる高卒認定試験受験者向けのセミナーに参加する。相変わらず他人と会うのは苦手だけど、これから一人で生きていくにはそんなわがままも言っていられない。わざわざセミナーに参加することを決めたのは、色んな他人と接触して苦手をなくす意味もあった。
「勉強なら私が教えてあげるのに」
波瑠は拗ねたような顔をした。
「それなら今度お願いしようかな」
俺の言葉に波瑠の顔がパッと明るくなる。
「うん! 楽しみにしてるね」
波瑠に手を振って、病室を後にした。
病院を出ると、冷たい風が首筋を通り抜けた。もう少しで冬がやってくるような、そんな気配がした。
「茜君」
声をかけられて振り向く。そこには波瑠の両親が立っていた。
「少しだけ、時間いいかな?」
「もちろんです」
病院入り口の脇に移動すると、父親が口を開いた。
「待ち伏せするような形になってすまないね。さっきの話し合いの後、波瑠が君と話したそうにしていたから、邪魔しないように待っていたんだ」
父親の言葉にいまいち納得がいかなかった。
「そんな風に見えましたか……?」
「ずっと波瑠の親をしてきたからそれくらいのことは分かるさ。ただね、波瑠は自分の気持ちを隠すのも得意なんだ。君は波瑠が強い子だと思うかい?」
そう言われて言葉に詰まった。確かに波瑠はいつも前向きで、俺を引っ張ってくれて、笑顔で照らしてくれる。でも頭に浮かんだのは、誰もいない砂浜で俺の上にまたがって大粒の涙を流す波瑠の姿だった。
「……強い一面もあると思います。でも一人で抱え込むから、限界に達した時にとても危うくて脆い」
父親は少し寂しそうに微笑んだ。
「君はそんな波瑠を知っているんだね。波瑠は私達家族の前で一度も弱音を吐いたことがないんだよ」
「一度も、ですか?」
「ああ。だから波瑠がどれだけ苦しんでいるのか、どうして手術を受けたくないのか、色々と分からないことが多かったんだ。でも急に波瑠は手術を受けると言い出した。それは茜君、君のおかげだろう?」
「俺はお金を用意しただけで……」
「別にお金のことだけを言っているんじゃないよ。私達もお金のことは心配しなくていいと波瑠に話したことがあったが、あっさり断られてしまってね。君が波瑠の心の隙間を埋めてくれたおかげで手術を受ける気になってくれたんだと思うんだよ。だから改めて礼を言わせてくれ……娘の力になってくれて、どうもありがとう」
そう言って、波瑠の両親は頭を下げた。どうしてこの人たちは俺にそんなことが言える。
「俺のことは何も聞かないんですか?」
言いたくないくせに、ひねくれた心が働いてそんな言葉が口を出た。
波瑠は「何か聞かれたらうまくいっておく」なんて言ってくれたけど、この人たちにはそれを聞く権利がある。それを聞いてこないのはあまりに不自然だと思った。
両親は頭を上げた。そして父親が口を開く。
「さっきもわざと言わなかったんだろう? 勝手に聞きだしたら、後で波瑠に叱られてしまうよ」
そう言って父親は笑った。
「私達は波瑠が信じるあなたを信じるよ」
その言葉を聞いて、本当に絆で結ばれた家族なんだと思った。
波瑠の親とは少し話して別れた。俺も波瑠や、波瑠の親に信じてもらえるにふさわしい人間になりたい。体に力がみなぎるような感じがして、セミナー会場へと走って向かった。
そして、手術本番の日を迎えた。
「わぁ……ひんやりして、もうすっかり冬の空気だね」
病院の屋上に出た波瑠は言った。
「……そうだな」
俺達は医者に許可をもらって、手術当日の朝に二人で会うことができた。波瑠は昨日から手術に向けた投薬が始まっているため、万が一に備えて車いすに座っている。
車いすを柵の手前につけると、広く続く街の景色が良く見えた。
「波瑠、寒くないか?」
病衣にコートを羽織った姿の波瑠に声をかける。
「うん、大丈夫だよ。ありがとう」
振り向いて俺に微笑む顔を見て、胸がざわつく。
これから波瑠は二日間にわたって大掛かりな手術を受けることになる。もしかしたら、波瑠と話すのはこれが最後になってしまうかもしれない……いや、そんなことは考えるな。波瑠を不安にさせるなよ。
「春に出会ってから、随分といろんなことがあったよな」
始まりは歩道橋の上。不意に飛び降りたくなった俺に波瑠が声をかけた。「デートしよう」とか言って強引に俺の手を引く。その手を振りほどかなくて、本当によかった。
「最初の頃は冷凍食品のレイ君だったもんね。ふふっ、懐かしいなぁ……」
「ハルっていうのが本当の名前だなんて騙されたよ。季節が春だからって、俺と同じくらい安直な理由だと思ってた」
「騙されるように言ったんだもん。それはそうだよ」
「波瑠って策士なところがあるよな」
「ふふっ、誉め言葉として受け取っておくよ」
「それに、本当のデートにならないように金を払えっていうのも、なかなかすごい提案だよな」
「茜君、最初はびっくりしてたけど、思ったよりもよりすんなり受け入れてくれたよね?」
「まあ、そうかもな……」
それは波瑠が金目的なんじゃないかってがっかりしていたところにそんな提案をされて拍子抜けしたから。初めて会ったあの日から、波瑠の言動に一喜一憂していたなんてそんなことは言えない。
「あーあ、今日のデートは高くつくなぁ。なんたって、私を好きに連れまわしたんだからね」
わざとらしい言い方に思わず吹き出した。
「ふふっ、何だよそれ」
「だからね、今日は百円なんかよりもーっと価値のあるものが欲しいの」
「おう、何でもくれてやるよ」
君の欲しいものなら、何でも。
「えへへ、じゃあ、今夜の君の夢を私にちょうだい」
「え……?」
思いもしない提案に言葉が詰まった。
「今夜、私の夢を見てほしいの。夢の中でも私のことを見ててくれたら、すっごく幸せだろうなって」
俺だって、毎晩好きな人のことを想って眠りにつきたい。夢でも好きな人に会いたい。でも、それが出来ないことは波瑠も知っているはずだ。
「……分かってるよな、俺は他人の不幸しか見ないって」
「もちろん分かってるよ。誰かの不幸を見るのはやっぱり怖い?」
「……怖いよ」
誰かの不幸なんかじゃなくて、人生で一番大切な人の不幸を見るのが怖い。夏の河川敷で波瑠の夢を見た時だって、息が詰まりそうなほど苦しかった。
俺が夢で見た出来事は必ず起こる。もし波瑠が手術中に死ぬ夢を見てしまったら? 今度は、自転車に轢かれるのを回避できた時みたいにはいかない。波瑠がこれから死ぬ未来が分かっているのに、二日目の手術に向かうのを黙って見ていることしかできない。そんなの、想像しただけで吐きそうになる。きっと身体が千切れるほど苦しくて、一生その夢を思い出すんだろう。
「大丈夫だよ」
波瑠の言葉で吐き気が止まった。
「きっと大丈夫。茜君は私の些細な失敗を夢に見て、明日の手術が終わったら『馬鹿だな』って笑いに来るんだよ」
波瑠がそう言うと、本当にそうなるような気がして困る。取るに足らないほどの不幸を夢に見て、一緒に笑いあう未来があるんじゃないかと錯覚する。実際はどんな波瑠の不幸を見てしまうかも分からないのに。
「馬鹿だななんて、言わないよ……」
「茜君は優しいからそんなこと言わないか。それでね、もし私が二度と目を覚まさなくなる夢を見たら……」
その言葉に息が止まりそうになった。
「その時は、本当なら見られるはずじゃなかった私の死に際を、茜君に見守ってもらえたってことにならないかな。そうは思わない?」
ずっと呪ってきたこの体質を、君はそんな風に言ってくれるのか。まるでこの体質のおかげで、君と深く繋がっていられるみたいな。波瑠と出会ってから、もう何度も俺は救われてしまった。
「波瑠は強くて格好良くて、ほんと憧れるよ」
「茜君には格好悪いところもたくさん見せちゃったと思うんだけど」
波瑠は拗ねたように言った。
「そんなことないよ。波瑠が自分で格好悪いと思っているところも全部、波瑠が眩しく生きている証だよ」
浜辺で泣いていたのも、病室での姿も、周囲への思いやりと自分の気持ちの狭間で苦しんだ結果だ。そんな風に一生懸命に生きている波瑠が格好悪いはずがない。
だから俺も覚悟を決めようと思った。
「望み通り、デート代はちゃんと払うよ。後でやっぱり支払いが足りないとか文句言うなよ」
波瑠の望みは全て叶えると言ったんだ。どんな夢を見たとしても、受け止めてみせる。
俺の言葉に波瑠は振り向いて笑った。
「私にとってはこれ以上ない価値があるんだよ。文句なんてあるはずない」
そう言うと、波瑠はコートのポケットに手を突っ込んだ。
「じゃあ支払いも成立したということで、私を買ってくれた茜君にはプレゼントがあります」
波瑠が俺に差し出したのは水色の封筒だった。これが前に言っていた「準備」なんだろうか。
「今夜、寝る前に読んでね」
「ああ、そうするよ」
封筒は大切にバッグへしまった。
波瑠は再び街の景色の方へ頭を戻す。会話が途切れる時間も惜しくて、明るい話題を探した。
「病気が治ったら、やりたいことはあるか?」
「それはもういっぱいあるよ」
「例えば?」
「まずは日本で一番の桜の名所に行きたい!」
「日本で一番って、調べたらいろんな場所が出てきそうだな」
「じゃあ出てきたところ全部行こうよ」
「全部?」
「うん。桜前線と一緒に私達も移動するの」
「それはまた大がかりな」
「でも楽しそうでしょ?」
「まあそうだな」
「それで、夏は水着を新しく買って海に行きたい」
「海で泳いだのなんて遠い昔だな」
「茜君の分も私が選んであげるよ」
「ならそうしてもらおうか」
「秋は紅葉を見ながら一緒に本を読むの」
「家で読むのと違って面白いかもな」
「冬は雪山に行ってスノーボードをしてみたい。ね、一緒に習おうよ」
「それも楽しそうだな」
四季を通して波瑠と一緒に過ごす光景が自然に想像できた。きっとそれは今までの人生で一番幸せで、輝きにあふれた日々になるんだろう。
「やりたいことは言い尽くせないくらいたっくさんあるんだよ。でもね、一番は茜君とずっと一緒にいたい。茜君が隣にいれば、きっとなんだって楽しいよ」
波瑠は振り向いて俺を見上げた。
「毎晩私の夢を見てよ。その瞳に私をたくさん映して。寝ても覚めても、私が君を幸せにしてみせるから」
その言葉は「愛してる」なんかより俺にとってはずっと価値のあるものだった。
「俺の方こそ、波瑠を幸せにするよ」
「えへへ、私達ってやっぱり似たもの同士なんだね」
俺は腕時計にちらっと目をやった。医者に許された時間はあと少し。
「そろそろ病室に戻ろう。遅刻するわけにはいかないからな」
車いすに手をかけて、ゆっくりと半回転させる。病室に着いてしまったらもう波瑠とは手術が終わるまで会えない。
波瑠の両親からは病院内で一緒に待機することを提案されたが、それは断った。強い絆で結ばれた家族の空気を俺が邪魔することはさすがに悪いと思った。不安がないわけじゃない。明日の手術終了まできっと生きた心地がしないんだろう。それでも俺は待つことしかできない。もし俺に名医の技術があったらなんて身の丈に合わないことを思ったりもしたけど、そうだったとしてもきっと波瑠の体にメスを入れるなんてできるわけがない。どのみち俺は手術成功の連絡が来るのを待つしかないんだ。
波瑠が車いすでよかった。椅子を押す俺の顔がどんなに不細工になっていても、波瑠には気づかれずに済むから。
「ねえ、茜君」
屋上の出口の手前で波瑠は言った。
「どうした?」
車いすを止めると、波瑠の口からためらうような息がもれる。
「あのね……大丈夫って、言って」
その掠れた声に胸が張り裂けそうになった。
波瑠の隣にしゃがみ込んで、膝の上でゆるく握られたその手を包む。触れた手は冷たくなっていた。
「大丈夫、大丈夫……うまくいくよ。明日、手術が終わって目が覚めたら、さっき言ってたやりたいこと、全部できるから」
うつむいていた波瑠はゆっくりと俺の方を向いた。目元は赤くなって、今にも泣きだしてしまいそうだ。そんな顔のまま俺に笑って見せた。
「ごめんね……急に不安になっちゃって。茜君にそう言ってもらえると、本当に大丈夫な気がしてくるよ」
「波瑠が安心できるまで、何回でも言ってやるから」
波瑠に触れる手に少し力を籠める。少しでも早く俺の体温が波瑠を温めるといい。
別に神様なんて信じていないけど、今だけはどうか神様、彼女に幸せで明るい未来をください。俺なら何でもしますから。
「うん、ありがとう……もう大丈夫。行こう」
「分かった」
俺は再び車いすを押した。
医者と家族が待つ病室に戻る頃には、波瑠はいつもの明るい表情に戻っていた。病室の扉を開ける前に一度立ち止まる。この扉を開けたら、もう波瑠とは会えない。
ここからは家族との時間だ。俺は邪魔してはいけない。最後に波瑠を独り占めする時間をもらえただけ幸せなことだ。
波瑠は俺の方を振り向いた。俺を映す綺麗な瞳を、花が咲いたようなその微笑みを、頭に焼き付ける。
「じゃあ茜君、行ってくるね」
「ああ、また明日な」
「うん。おやすみなさい」
「おやすみ……波瑠」
波瑠は扉を開けて病室に入って行く。俺は背を向けた。
家に帰っても、風呂に入っても、心が張り詰めて落ち着かなかった。食事は喉を通るはずもなく、何も手につかない。時計の秒針がすすむのをただじっと見ていることしかできなかった。
手術終了予定時間から二時間が過ぎた頃、波瑠の父親から「今日の手術は成功した」と連絡があった。それを聞いて、緊張の糸が切れたようにベッドに倒れこむ。
首を回して、もう一度時計を確認した。あと一時間で俺は眠りについてしまう。体を起こし、バッグの中から取り出した封筒をハサミで丁寧に開けた。
折りたたまれた便箋を開く。初めてもらった時と同じ、右肩上がりの少し癖のある文字が並んでいた。
『茜君へ
君に想いを伝えようと筆を執ったものの、何から伝えればいいのか、たくさんありすぎてまとまりません。だから、思いつくままに書くことを許してください。
茜君を病室の窓から見ていた頃、私の心はもう死んでいるみたいでした。何のために自分が息をしているのかも分からなくて、明日なんて来なくていいとさえ思っていました。そんな毎日の中で、茜君の存在は「人生に失望した同志」みたいでした。名前もまだ知らない君の姿を見られた日は、少しだけ心が軽くなりました。
茜君の後を追いかけて病室を飛び出したのは、自分の体のどこにそんな活力があったのかと疑問に思うくらい、思いがけない事でした。君と出会うことでこんな毎日が変わってしまうような、そんな予感が体を巡っていたことをよく覚えています。
予感は大当たり。茜君に出会ってからの毎日は色鮮やかに私の心を震わせてくれました。たくさん連れまわして、わがままを言ってごめんなさい。茜君といるときだけが、本当にそうありたいと思う自分でいられました。
私は失ってしまった、未来への希望を再び握りしめました。生きたい。君と生きたい。その想いと家族との間で揺れ動いていた私を掬い上げてくれたのも、また君でした。
私は茜君に何を返したらいいんだろうって、ずっと考えていました。それでやっと思いついたんです。
夜、私の夢を見てください。
前に「誰かの夢を見なくて済むように、亡くなったお母さんの夢を毎晩見ている」と言っていたのを覚えていました。家族の最期を毎晩夢に見るのは苦しいでしょう。それならその役は私にやらせてくれませんか。
君が毎晩苦しまなくて済むように、私の最期は綺麗なものにしてみせる。眠っているみたいに、安らかな顔で、君と出会えて幸せだったと信じてもらえるような、そんな最期。
でも君に夢を見てもらうことは、私の望みでもあるの。私のことを覚えていてほしい。頭の片隅に私を置いてほしい。自分がこんな風に面倒な女だって、初めて知ったよ。
手術の日にちゃんと口で伝えられる自信がないから、ここに書いておくね。
茜君、好きです。大好きです。
私と一緒にいてくれてありがとう。私を救ってくれてありがとう。不器用だけど優しくて、ずっと側にいたいと思える君のことが大好き。私の世界が終わるその瞬間まで、君のことを想っていさせて。
どうか君が、穏やかな眠りにつけますように。
波瑠より』
途中から目の前が滲んで読めなくなった。目元を拭って何度も読み返す。
これは波瑠の遺書だと分かった。どうなるか分からない手術の結果を見越して、俺に最期の言葉を残そうとしてくれていた。
出会えて幸せだったのも、救われたのも、俺の方がきっとそうだよ。好きだって、言い逃げはやめてくれよ。どうして俺はちゃんと言葉にして伝えなかったんだろう。
手紙をテーブルの上に置いて、俺はベッドに横になった。電気を消し、瞼を閉じると笑顔の波瑠が浮かぶ。明日会ったら言いたいことが山ほどあるよ。今度は俺が伝える番だから、最後まで聞いてほしい。不思議なくらい、不安はひとかけらもなかった。
今夜、君の夢が見られますように。
そのことだけを祈って眠りについた。
翌日、病院から連絡があって急いで家を飛び出した。病室の前には波瑠の家族が立っていて、中へと通された。
「おはよう、茜君……昨夜はよく眠れた?」
そう言ってベッドに横たわる彼女と目が合った。
「波瑠……」
そばに駆け寄ると、波瑠は照れたように笑った。
「えへへ……手術は成功。経過観察はしばらく必要だけど、もうこれからは入院しなくていいんだって」
「よかった……」
波瑠の手に触れるとちゃんと温かい。これは夢じゃないんだって実感する。
「お父さんたちがね、茜君が来たらしばらく外で時間を潰してくるって。三十分くらい帰ってこないと思うよ」
「それは気を使わせてしまったな」
そう言って俺は姿勢を正した。
「波瑠、今日会ったら伝えたいことがあったんだ」
「うん、聞かせて」
暗闇のような日々に君が光を照らしてくれた。遠い昔に忘れてきた、生きる楽しさも、人を愛する気持ちも、全部君が教えてくれたんだ。
「波瑠のことが好きです。俺と付き合ってください」
「もちろん。喜んで」
そう言って微笑むと、波瑠は体を寄せた。顔が近づく。
至近距離に目を瞑ると、唇に固い感触があった。
目を開けると、赤い顔をした波瑠がいた。
「歯、当たっちゃった……」
俺は波瑠の頭の後ろに手を回し、顔を近づける。今度は柔らかい感触があった。手を離すと、波瑠の顔はさらに真っ赤に染まっていた。
「夢で見た以上に可愛いな」
俺の言葉に初めはきょとんとしていたが、意味を理解したのか頬を膨らませた。
「もう! 茜君のバカ! ……ふふっ」
波瑠が笑うから俺もつられて笑った。
錯覚なんかじゃない未来が、そこにはあった。
「小湊先輩、今日もお弁当ですか?」
その声に後ろを振り向くと、俺よりずっと体格のいいスーツの男が興味津々といった顔で立っていた。
高卒認定と少しでも役に立てばと思って取ったパソコン関係の資格だけを持って就職に臨んだのだが、現実はそう甘くなかった。30社以上落ちて、それからはもう数えることをやめた。そんな中でも、面接を担当した人事部長が俺のことをなぜか気に入ってくれて、この小さな食品企業の営業部に雇ってもらえた。
仕事なんて金を稼ぐための手段くらいに考えていて大して期待なんてなかった。でも実際に働いてみると、売り上げを取る楽しさややりがいなんてものを感じるようになった。俺の知っていた「仕事」というものとは全く違っていた。それにうちの同期や上司たちはどうにも酒や宴会が好きらしく、新入社員の頃、仕事でミスをしてもすぐに「飯だ」「飲み会だ」と連れまわされて沈んだ心も忘れさせられた。
先方の担当者と会って商談をすることはどうやら俺に向いていたらしい。上司も「若いのに肝が据わっている」と言ってくれた。昔、社会の上位層とも言える偉そうな人達と一対一で会っていたから、その辺は慣れていたんだろう。ただ取引先相手以外には愛想が悪いと、飲み会の席で周りから愚痴られたりもした。
三年目になって、ついに新入社員の教育係を任されることになった。それで担当することになったのが、よりにもよって俺とは正反対なこの安達という男。大学でラグビーをやっていたから俺より一回りも図体がでかく、そのくせ小型犬みたいに俺の周りをじゃれついてくるから接し方に困る。向こうは大学に行っていたから俺とは同い年なのに、その辺はわきまえているのか一線までは超えてこない。こいつなりに敬意は払ってくれているんだろう。仕事もまあ頑張ってついていこうとしているのは伝わるし、愛想がよくて社内外を問わずウケがいい。こいつを俺につけたのは俺にとっても教育の側面があったんじゃないかと、部長の采配を疑った。
「そのお弁当って、まさか先輩が作ってるんじゃないですよね?」
まさかっていう言い方に若干の偏見を感じる。まるで俺が見るからに料理できないみたいじゃないか。
「まさかとはひどいだろ」
「えっ、本当ですか!?」
安達は目を丸くした。
「冗談だ」
俺の言葉にほっと胸を押さえた。
「なんだぁ……でも、そうですよね。だって先輩、新入社員研修の飲み会の時、部長たちに酔い潰されて『俺はカップラーメンしか作れません』って宣言してましたからね」
思わず頭を押さえるが、そんな記憶は全くない。こんな後輩にまで醜態を晒すくらいだ、これから飲み会の酒はもう少し控えよう。
「それなら、彼女さんですか?」
そう言って目をランランと輝かせる。その手の話が好きなのは年頃の女子の特権かと思っていたが、どうやらそうではないらしい。
「だったらどうなんだ」
俺の返事に安達は一層目を輝かせた。
「やっぱり彼女さんいるんですね! どんな人なんですか?」
グイグイと話を詰めてきて、話を巻くのも骨が折れそうだ。そう思うのにこいつのことを嫌いになれないのは、初めて話した俺に「デートしよう」だなんて言ってきたやつと少し似ているからかもしれない。
「強くて明るくて、ちょっとそそっかしいやつだよ」
彼女の顔が頭に浮かぶ。思い出すのはいつも、楽しそうに俺に笑いかける表情だ。
手術が成功し、退院した波瑠は数年ぶりに実家で家族と暮らすことになった……そう思ったのもつかの間、一か月ほどで俺に「一緒に暮らそう」と切り出した。
『一緒に暮らそうって……波瑠の両親はそんなの納得しないだろ』
波瑠の提案はもちろん嬉しかった。でもそれ以上に、「せっかくまた家族と一緒に暮らせたのにそれを手放してもいいのか」という心配の方が大きかった。
あの手術の後も波瑠の両親は俺に優しくしてくれた。家に呼んでご飯を食べさせてくれたり、熱を出したときには薬や食料を届けてくれた。家族のいない俺にとっては貴重な存在だった。だからこそ、あの家族から波瑠を取ってしまうのは罪悪感があった。
『それがね、話したらすぐに認めてくれたよ。いずれそうなるだろうと思って諦めていたみたい。家を出るって言ってもすごく遠くに住むわけじゃないし、一か月は親孝行出来たかなって』
『いや、でも……』
『茜君、新しく住む場所探してるって言ってたよね。それとも、私と一緒に住むのは嫌?』
そう言って俺の顔を覗き込んで微笑んだ。俺が嫌なわけないって分かっているだろうに、その聞き方はズルい。
こうして半ば押し切られるように、俺達の同棲は始まった。
波瑠の両親にも相談に乗ってもらい、俺達は8畳のワンルームを新居に選んだ。玄関から部屋の奥まで見渡せるようなこの狭い部屋では家に帰るたびに波瑠の甘い匂いがして、慣れるまでは困った。
波瑠は「私もやりたい」と言って、高卒認定試験の勉強を一緒にやり始めた。ずっと勉強をしてきただけあって、波瑠はとても優秀だった。高卒認定試験受験者向けの指導講座に通い、家で波瑠にも勉強を見てもらうことで、短い受験期間ながらも勉強は順調。十八歳の秋、俺達は高卒認定試験を合格した。
それから俺はコンビニのバイトをしながら就職活動を始めた。波瑠はその頃から料理に興味を持っていて、カフェでバイトをしながら調理師免許取得の通信教育を受けていた。
『ねえ、茜はどんな仕事がしたいの?』
パソコンで就職サイトを眺める俺に、波瑠が後ろから抱きつく。その頃には「君」が取れて、恋人らしい距離感にも慣れてきた。
『何でもいいよ。そこそこのお金がもらえて、後ろ暗くない仕事なら、何でも』
『えー、そんなの夢がないよ。なんかもうちょっと希望はないの?』
全くないと言ったら噓になる。出来れば波瑠の隣に立つのにふさわしいと思える仕事がいいし、残業ばっかりで波瑠と過ごす時間が取れなくなるのも嫌だ。でもそんなことを言えるような人間じゃない。
『私は茜にもっと美味しいご飯を作ってあげたいから、いろんなお店で働いてみたいなぁ。和食も、洋食も、中華も、エスニックも、みーんな作れるようになったら楽しいと思わない?』
そう言って俺の隣に座る。
『私の方が先に仕事から帰ってきて、ご飯を作って茜の帰りを待つの。それで茜が帰ってきたら一緒にご飯を食べて、今日の仕事がどうだったーとかそんな話をするの。夜は毎日一緒に寝たいな。朝は美味しいお弁当を用意してあげる』
『今とあんまり変わらなくないか?』
今だって料理が全くできない俺に変わって波瑠がご飯を用意してくれる。帰る時間は二人のバイトのシフトによってまちまちだけど、合わせられる日は一緒に食べて、今日あった話をする。
俺の言葉に波瑠は笑い出した。
『ふふっ、確かにそうかも。でも、こんな毎日があと何年も続いていったらいいなって思うんだよ』
……よかった、波瑠も同じ気持ちだった。
『そうだな』
俺はこの会社に就職し、波瑠はお洒落なレストランのキッチンスタッフとして働き始めた。あの頃波瑠が言っていた理想の未来は今、現実になっている。
「先輩、本当に彼女さんのことが好きなんですね。顔、緩んでましたよ」
安達は面白がってニヤニヤと笑った。顔なんて緩ませたつもりはない。
これ以上からかわれるのはごめんだ。俺は強引に話を変えた。
「そうだ、安達。午後の営業回りだけど……」
そう言いながら、弁当箱の蓋を開ける。いつもの彩りのあるおかずの隣、白米のスペースを見て一瞬動きが止まった。
「先輩! 見てください、大好きって書いてありますよ!? ラブラブですね!」
安達のテンションが更に上がって、「しまった」と思った。白米の上には、桜でんぶのハートマークと海苔の「大好き」という文字が描かれていた。まさかこんなことが描いてあるなんて誰が予想できるか。
その時、ちょうどスマホが鳴った。安達を巻くのにはちょうどいい。
「悪い、電話だから席を外す」
そう言って廊下へ移動した。
『もしもし、茜!?』
電話越しに慌てた声が聞こえる。
『もしもし』
『あの、今日のお弁当……もう見た?』
『ああ。今さっき』
『ああー、もう! 今日は練習で作って自分で食べるつもりだったのに、違う方のお弁当をカバンに入れちゃったよ』
本当はおとといの夜、波瑠が俺の弁当を入れ忘れる夢を見て、キッチンに置いてあった弁当箱を掴んで持ってきた。弁当箱が二個あったなんて、急いでいて気が付かなかった。
それにしても練習ってなんだ……?
『もう見られちゃったから言うけど、もうすぐ私達があの歩道橋の上で出会って4年目の記念日でしょ? だからサプラーイズ!みたいなね』
考えることが波瑠らしくてちょっと笑えた。サプライズというなら、今日はまさにその通りだった。
『そう言えばこんな時期だったか……』
段々と外は暖かくなって、近くの小学校には桜の花が咲き始めた。あの春に出会ってから、季節がもうこんなに過ぎたのか。毎日があまりにも楽しくてあっという間の日々だった。
この春には、暗く濁った俺も、儚くて脆い彼女も、もういない。
『男の子って、そういうところあんまり頓着しないよね。まあ、いいけど。午後もお仕事頑張ってね。大好きだよ』
そう言って電話は切れた。
同棲を切り出したのも波瑠から。好きだなんて、告白をしたあの日以来まともに言った記憶がない。それでも波瑠は俺に大好きだと言ってくれる。
だからせめて今夜くらいは勇気を出して君に伝えたい。
一緒に飲みに行こうと言う安達を振り切って、さっさと会社を出た。今日飲みにでも行ったら、波瑠のことを馴れ初めからあれこれと突かれるに決まっている。そうじゃなくても今日はやると決めていることがあった。
仕事終わりのスーツのまま、煌びやかなその店に足を踏み入れた。見覚えのある店員がすぐに近くへやってくる。
「いらっしゃいませ、小湊様」
「あの、サイズを測ってきたので、今日買います」
俺の言葉に店員は嬉しそうに微笑んだ。
「では、ご案内いたしますね」
サイズがあるなんてことも知らなくて、この店員にはいろいろと世話になった。教えてもらった通り、眠っている波瑠の左手の薬指に糸を巻き付けてサイズを調べてきた。波瑠がぐっすりと寝ていてよかった。本当は正確に調べるために「二人でジュエリーショップに立ち寄ってサイズを調べる」ことを薦められたが、自然な流れで誘うことは俺にはハードルが高かった。
初めてこの店を見に来た時から、どれにするかは決めていた。ダイアモンドの左右に小さなラピスラズリがあしらわれたデザイン。この深い青色の宝石は「幸運を招く石」とも言われているらしい。その意味を知って波瑠にピッタリだと思った。
「ありがとうございました」
店を出るとすっかり暗くなっている。昼間は暖かくなってきたけど、夜はまだ寒さが残っているみたいだ。でもその冷たい風が、緊張で火照った体にちょうどよかった。
普通は給料三か月分って聞くけど、それで本当によかったのか自信はない。
それに、こんな何もない平日でよかったのか、オシャレなレストランを予約しなくてもよかったのか、くたびれた仕事帰りのままでよかったのか、考え始めたらキリがない。そんな周到な準備をする余裕なんてなかった。バッグに仕舞われているその物を用意できた今を逃したら、きっとまたズルズルと先延ばしにしてしまいそうだ。でもきっと君は、手慣れていない俺のことも笑って許してくれる気がする。
俺に幸せな夢を見せてくれてありがとう。手に入れられるはずがないと思っていた幸せを現実にしてくれてありがとう。君がくれたこの平々凡々な毎日をずっと守ってみせる。
今日家に帰ったら、その華奢な手を取って一生分の愛を誓うよ。
世界はそれぞれの事情を抱えながらも、まるで何事もないかのように進んでいる。
茜君と一緒に暮らし始めて一か月が過ぎた。大切な人と同じ家で過ごせるなんて、病室の窓からぼんやりと外を眺めていたあの頃の自分ではちっとも想像できなかった。
小さなこの部屋が私達だけのお城。引っ越す前だってネット通販を見ながら家具や家電を選ぶのは本当に楽しかった。もうこれ以上はないんじゃないかってくらい幸せな気持ちだった。
それでも、一緒に暮らし始めてからは想像もしなかったような幸せがいっぱいにあふれていた。茜君が帰りに私の分のシュークリームも買って来てくれること、二人で並んで歯磨きをすること、降り出した雪を窓から眺めて「綺麗だね」って言えること。そんな小さな幸せが私の心に降り積もっていく。
「デミグラスか、トマトソースか……それとも煮込み?」
商品棚に並んだデミグラス缶とトマト缶を両手に見比べる。茜君はどれが好きなんだろう。ハンバーグが何派なんて話、したことなかったよなぁ。今日は茜君の「講座」の日だから、たくさん頭を使ってくる分、美味しいものを食べてほしい。
私はデミグラス缶をカゴに入れて、トマト缶を棚に戻した。今日はデミグラスソースにしよう。次は違うのを作ればいい。これから何度だって作る機会はあるんだから。
「流石に買いすぎちゃったな……」
両手持ったいっぱいの買い物袋を見て少し反省した。お野菜が安かったのと、新作のお菓子が美味しそうだったのが今日の敗因だ。次の買い物はちょっと自粛しよう。
「あら、波瑠ちゃん?」
声をかけられて後ろを振り向くと、近所に住む高木さんが立っていた。
「こんばんは、高木さん」
高木さんはこのスーパーでよく会って話すようになったおばあちゃんだ。このスーパーは何曜日がまとめ買いにいいとか、美味しいお野菜の見分け方とか、いろんなことを教えてもらった。
「最近は寒いわねぇ」
「明日はまた雪が降るみたいですよ」
「あら、それは大変」
高木さんは私の手にした荷物を見て微笑んだ。
「今日はたくさん買ったのね」
「はい。ちょっと買いすぎちゃいました」
「ふふっ、そんなにたくさん荷物を持てるなんて細いのに力持ちなのね」
「えへへ、体は丈夫なんです」
そう言って両手の袋を持ち上げてみせた。
家に向かって歩いていると、この街に来た時のことを思い出した。実家からは電車で二十分くらいしか離れていないし、この街には昔何度か来たこともある。それでも、目に映る景色は全部が新しく思えた。
新しく知ったスーパー、野良猫がよくいる空き地。早くいろんな場所を見たくて、たくさん歩き回って茜君を困らせたっけ。入院していた頃は人目を避けてこっそり抜け出していたから、いつでも好きな時に、というわけではなかった。行きたいところへ好きな時に行けるってこんなにも自由なんだって、そう思った。
たった一ヶ月でこの街の景色にも茜君との思い出のある場所が出来た。あっちの公園は子供がいない時間を見計らって、雪の上に足跡を付けに行った。そこのカフェはいつも豆を焙煎するいい匂いがしていて、店の前を通るたびに「一緒に行きたいね」って話をする。そしてこの帰り道は初めて手を繋いで歩いた。
ああ……思い出したら、早く会いたくなってきた。
角を曲がると、駅の方から見慣れた猫背の背中が見えた。考えるよりも先に足が駆け出す。
「あ、か、ね、君っ!」
後ろからぶつかると、驚いたようにこっちを振り向いた。
「波瑠!?」
「お疲れさま。今日の講座はどうだった?」
茜君は高卒認定試験に向けて講座に通い始めた。今時オンライン講座や通信教育だってあるのにわざわざ対面式を選んだのは、茜君なりに自分の苦手をなくそうと頑張っているからなんだと思う。そのおかげか、この前の休みの日には茜君から買い物に行こうと誘ってくれた。私が新しい靴が欲しいって言ってたのを覚えていてくれたことも嬉しかった。
「結構よかったよ。やっぱり英語は苦手だから、疑問に思ったことをすぐに聞けると理解が早いな」
そう言いながら、私の両手に持った袋を取り上げる。
「茜君、心配しなくたって私はもう元気なんだからこのくらい大丈夫だよ? ほら、こんなに筋肉もついたんだから」
空いた腕で力こぶを作ってアピールしてみたけど、分厚いコートのせいで見た目には何も見せつけられなかった。
退院してか一週間に一回病院へ通っているけど、どこにも異常は見つからない。これからは通院の頻度を減らしてもいいってお墨付きももらえた。
「そういう事じゃなくて。重そうだから持つのは普通のことだろ」
なんてこともなさげに言う。君のそういうところだよ。ほらまた、心に幸せが積もった。
私は荷物の片方を強引に奪い取った。
「嬉しいけど、今日は半分こしようよ。そうしたらさ」
空いたほうの手を握る。
「手を繋いで帰れるでしょ?」
「……そうだな」
横顔を見ると、マフラーから覗く耳が赤くなっていた。
「私はご飯作ってるから、茜君は先にお風呂入ってきてもいいよ」
「ありがとう。じゃあそうさせてもらうよ」
茜君をお風呂に送り出して、私はキッチンに立つ。さあ、ここからが本番だ。
一緒に暮らすことになって、家事は二人で分担すると決めた。洗濯や掃除は一人暮らしをしていた茜君の方が慣れていて、始めは色々と教えてもらった。でも料理に関して茜君は全くで、カップラーメンしか作れないと自信たっぷりに豪語していた。そんな風だから、料理だけは私が出来るだけやろうと思った。もう何年も入院していたから、最後に包丁を握ったのも思い出せないくらい。それでも料理番組や料理本を見て、少しずつ練習していった。
最初に作ったのは卵焼き。味は濃いし、焦げ目は付きすぎるしで散々だった。それでも茜君は文句を言わずに食べてくれた。だから次はもっと頑張ろうと思えた。
涙を流しながら切った玉ねぎは飴色に。肉だねにはナツメグを少し。せっかくだから形はハートにしようかな。
「おまたせ。出来たよ」
湯気の立つデミグラスハンバーグをテーブルに並べた。うん、なかなかいい出来じゃないか。
「ありがとう。……いただきます」
そう言って茜君はハンバーグを口にした。さて、私も一口。
その瞬間、固まってしまった。お肉が……お肉が硬い! どうして!? ハンバーグというか、ぎゅっと詰まったお肉の塊を食べているみたいな。見た目はこんなに美味しそうなのに!
恐る恐る茜君の方を見ると、何も言わずに黙々とカチコチのハンバーグを口に運んでいる。
「ああ……ごめん! ハンバーグ失敗しちゃった。無理して食べなくていいから、ね?」
私の言葉に、茜君は顔を上げた。
「確かにちょっと硬めだけど、普通に美味いぞ? 波瑠が作ってくれたものは何でも美味いと思うけど」
そう言ってまた食べ始めた。
正直私の料理は下手くそで、ちゃんと煮えてなかったり、味が薄かったり、失敗ばかりだ。それなのに茜君は美味しいと言っていつも食べてくれる。これは優しさというより、ちょっと茜君の味覚が変なんじゃないかって最近は疑っている。だからもっと上手くなって、本当に美味しい料理で茜君のお腹をいっぱいにしたい。
「ありがとう。また頑張って作るね」
「波瑠は明日の病院、十時からだっけ?」
並んで食後のお茶を飲んでいると、茜君が言った。
「うん。茜君は十二時から講座だったよね。私は六時に出るから朝ごはんは一緒に食べられないけど、冷蔵庫におにぎり用意しておくね」
そうだ、今のうちに明日の朝ご飯と茜君のお弁当を作らないと。ご飯を早炊きでセットして、お弁当は冷凍してあるお米でオムライスにして……ご飯が炊けたら、おにぎりの具は梅干しと鮭フレークにしよう。
立ち上がってキッチンに向かおうとすると、背中に声が掛かった。
「なあ、前から思ってたんだけどさ。病院行くとき、家を出るの早すぎないか? 確かに実家にいた頃よりはちょっと離れたけど、せいぜい電車で4駅だろ? 歩く時間を考えたとしても一時間もかからないのに、いつもどこかに寄ってるのか」
振り向くと、茜君もこっちを振り向いていた。まあ、確かにそう思うよね。
「朝の散歩って結構気持ちがいいんだよ。そんなに朝強いわけでもないから、午前中の用事でもないと早く起きられないし。前に病院の帰りにクロワッサン買ってきた時があったでしょ? それだって、散歩の途中でたまたま見つけたんだよ」
「……そうか。なら、いいけど」
納得してくれたのか、茜君は体の向きを戻した。もちろん今言ったことに嘘はない。でも、本当の理由は茜君には教えてあげないけどね。
支度をして、小さなベッドに二人で入る。茜君のぬくもりをすぐ隣に感じて胸がいっぱいになった。
こうやって寝る前に真っ暗な部屋で話をする時間が私は結構好きだ。
「茜君はハンバーグ、デミグラス派? トマトソース派? それとも煮込み派?」
「え……煮込みなんてあるのか?」
「あるよー。それなら今度は煮込みハンバーグにチャレンジしよっかな」
「へえ、じゃあ楽しみにしてる」
「卵焼きは甘い派? しょっぱい派?」
「甘い方、かな」
「目玉焼きは? 醤油派? ソース派?」
「醤油」
「ゆで卵は、塩派? マヨネーズ派?」
「塩……っていうか、卵ばっかりだな」
「ふふっ、確かに」
「別に俺の好みなんて合わせなくていいんだぞ。波瑠の食べたい方を俺も食べるし」
まあ、茜君はそう言ってくれるような気がしてたよ。
「そんなに深い意味はないんだけど、ちょっと気になったから聞いてみたの。私達ってまだ出会って一年も経ってないんだよ? その間にいろんなことがあり過ぎて、そんな感じもしないけど。だからもっと茜君のいろんなこと知りたいなって」
初めの頃は本当の名前すら知らなかった。それから段々会話を重ねて、名前を、痛みを、優しさを知った。でももっともっと知りたいって欲張りになる。
横向きになって茜君の腕をぎゅっと抱きしめると、その体が強張るのが分かった。
君がどうしたら喜んでくれるのか。どうしたら私にドキドキしてくれるのか。どうしたら不幸な夢を見る怖さから解放してあげられるのか。
ねえ、教えてよ。私は上手くできてる?
「今朝、茜君が『凍った地面に気を付けて』って言ってたから、滑り止めのついたブーツを買ったよ。でも買いに行く道中で転んじゃった」
「あ、ああ……それは、大変だったな……」
「これでもうきっと転んだりしないよ。また不幸が一つ減ったね」
茜君は毎朝、夢に見た私の不幸を教えてくれる。それは私がそう望んだからだ。
夢の内容を聞いても、その不幸は避けられたり、避けられなかったり。茜君が夢を見た次の日に必ず起こる訳でもないから、忘れた頃に起こったりもする。
ここ最近の夢は、凍った道で転ぶ夢、タンスの角に小指をぶつける夢、間違えて歯磨きを二回しちゃう夢。茜君の様子を見るに、自転車にひかれる夢みたいな大きな不幸はまだ見ていないみたい。
不幸とは、幸福でないこと、ふしあわせ。それなら私から不幸が無くなったら、茜君はどんな夢を見るんだろう。
転ばないように滑り止めのついたブーツを買った。通勤ラッシュの事故や事件を避けるためにその時間の電車に乗らないようになった。他にも思いつく限りのことは何でもやった。きっとそれを全部話したら、君は気に病みそうだからこれから先も言うつもりはないし、それを「辛い」なんて思ったことは一度もない。全ては君がこれから先、私の夢で苦しまないように私が勝手にやっていることだ。
手術の日に渡した手紙に書いたことは、別に手術で死んでしまう事だけを思っていた訳じゃない。私の命が尽きるのが数年後でも、数十年後でもずっと変わらない。私の最期を夢に見て君が怖い思いをしないように。最期のその瞬間まで、君に幸せを残せる私でありたい。
「ねえ、茜君」
「なんだよ」
この部屋に引っ越してきたその日の夜、君はずっと暗い顔をしていた。
『どうしたの?』
『本当に一緒に寝るのか?』
不安そうに私を窺う表情。私は笑顔を見せた。
『もちろん。今日からは毎日一緒に寝るんだよ』
『やっぱり、嫌じゃないのか? その、俺と同じ部屋で寝るのは……』
『それは茜君だからってこと? それとも夢を見るからってこと?』
私の言葉に茜君は言葉を詰まらせた。
『……それは、どっちも』
『分かった。最初の方については私が茜君のことを大好きだから何も問題ないよ。好きな人と一緒に寝られるなんて、女の子の憧れなんじゃない? それでもう一つの方も問題ないよ。だって今までも茜君は私の夢を見てくれてたでしょ?』
手術の日のデートの支払いだと言って強引に約束を取り付けた。その約束を茜君はちゃんと守ってくれた。そして毎晩私の夢を見てほしいと言ったことも、律儀に叶えてくれていることだって知っている。
『でも、それは俺が一人で夢を見ていただけで、こんな風に隣で不幸を見られるなんて……』
『大丈夫だって』
茜君の両手を握る。自分のことになると君は随分臆病みたいだ。私もそうだったからよく分かるよ。
『私、茜君に見られて困ることなんてないし、前にも言った通り、茜君が不幸を呼び寄せてるわけじゃないもん。でも、さすがにちょっと気になるから翌朝、見た夢を教えてくれないかな?』
『自分の不幸を聞きたいって……波瑠は変わってるよな』
そう言って困ったように私を見た。でも、さっきみたいに不安で暗い表情じゃない。
『ふふっ、いいじゃんいいじゃん。どんな夢が聞けるのか毎朝面白そうだよ』
いつか私のドジくらいしか夢に見なくなって、私が「ニュースの星座占いみたいだね」って言ったら、君は「そうだな」って笑ってくれるといい。
「今日も私のことを想って眠りについてね」
世界はそれぞれの事情を抱えながらも、まるで何事もないかのように進んでいる。近所の高木さんも、お隣の山野さんも、今日すれ違っただけの人も。そして、私達も。
君のその夢は私が一生一緒に向き合っていくから心配しないで。君が私の病気に向き合ってくれたみたいに。手術の日の朝に二人で話した「やりたいこと」は引っ越しの準備や新生活でまだできていないけど、そう遠くない未来に実現するって信じてる。一緒ならこの先どんなことがあってもきっと明るく乗り越えていけるよ。他のどんなカップルや夫婦にも負けないくらい、最高に幸せに満ちた二人になろう。
今夜も君が穏やかな不幸を見られますように。