「茜君、久しぶり」
 そう言って微笑む波瑠から目が離せなくなった。前に会ったのは日差しの差す夏で、今は涼しい秋風が髪を揺らしている。久しぶりに見る彼女はやっぱりどうしようもなく綺麗で、でもどこか寂しそうな気配があった。
「久しぶり……」
「今日は急に呼び出してごめんね。しばらく忙しくて連絡もできなかったんだけど、やっと時間が出来たんだ。会えてよかったよ」
 波瑠の言葉の通り、忙しかったから時間が取れなかったんだ。嫌われたんじゃなくてよかった。きっといつも通りの波瑠だ。
「今日は行きたいところがあるの」
 
 波瑠が向かったのは地下鉄の駅だった。構内に入ると利用者はまばらで一つ安心した。先を歩く人達に続いて改札を通ろうとすると、ピーという警告音と共にゲートが閉められた。
「え?」
「茜君! こっち!」
 そう言って波瑠に手を引かれる。壁際まで連れて行くと、パッと手を離した。
「茜君どうしたの? 何もしないと改札入れないよ?」
「でも他の人は切符が無くても普通に改札通れてて……」
「みんなは交通系のICカードを使ってるんだよ。切符を入れる代わりにスマホやパスケースをタッチしてるでしょ?」
 そう言われて改札に目を向けると、確かにそんなようなことをしている。そもそも外に出ないし、仕方なく出るとしても徒歩圏内か圭の車だし、今どきは切符も何もなくても電車に乗れるんだって関心したよクソっ……!
「あ、顔赤くなってる。可愛い」
「ほんとに恥ずかしいんだからあんまからかうな……」
「えへへ、茜君の新しい一面知っちゃったな」
 波瑠はそう言って笑った。

 駅のホームはコンクリートむき出しのトンネルのような作りになっていて、壁面を水が伝っていた。トンネルの奥は真っ暗で何も見えない。人工的な蛍光灯の明かりだけが空間を照らす。
「世界に異変が起こって人類は地下に住むことを余儀なくされた、みたいなSF映画に出てきそうな場所だな」
 思ったことを口に出すと波瑠は小さく噴き出した。
「ふふっ、茜君は面白いこと言うね。地下鉄っていうのは大体暗くてじめっとして冷たい感じがするものだよ」
「そうなのか?」
「んー、それはちょっと言い過ぎたかも」
「何だよ」
「ねえ、茜君はもしこの世界を終わらせることが出来るとしたら、そうする? それともしない?」
 突然そんなことを聞かれて、反応が出来なかった。
 もしこの世界を自分の手で終わらせることが出来るとしたら。数カ月前の自分だったら、きっと終わらせることを選んだだろう。でも今は波瑠がいるから。波瑠と出会う前と比べて俺の置かれた状況は何も変わっていない。相変わらず毎晩悪夢を見て、他人の不幸を売って仕事し、そしてそのたびに惨めさで一杯になる。そんな毎日。それでも波瑠と一緒にいるときは、自分が普通の人間みたいに錯覚できた。
 クレープを食べて美味しいと思えた。他人と話して楽しいと思えた。隣で過ごす時間が心地いいと思えた。
 だからもし何の苦痛もなく簡単にこの人生を終わらせることが出来たとしても、知ってしまった幸福ごと手放すことは出来ないだろう。
「しない、かな」
 やっとそれだけ答えた。波瑠はどうしてそんなことを聞いたんだろう。
「そっか。私は……終わらせちゃうかもしれない。だって今の時間がとっても大切でキラキラしてて、それで永遠じゃないって分かってるから。それならいっそ、この最高の瞬間のままアクアリウムみたいに閉じ込められたら、それでもう幸せかなって」
 そう言って微笑む横顔はやっぱりどこか寂しそうに見えた。
「波瑠、何か……」
 そう言いかけた時、電車がホームに滑り込んできた轟音で言葉はかき消された。

 電車の中は誰も会話している人はなく、声を出すのははばかられた。波瑠も何も言わずにただ窓の外をコンクリートの壁が流れていくのをぼんやり眺めているみたいだった。
 
 地下鉄を降りて外へ出る。街からは少し離れたみたいだった。
「茜君、こっちだよ」
 そう言って、小さなお店が並ぶ道沿いを歩いていく。前を歩く背中に声をかけた。
「波瑠、何かあったのか?」
「何かって、どうして?」
 そう聞かれて言葉に詰まった。ふと見せる表情が寂しそうに見える。いつもより目が合わない気がする。だけど、そう思うのは全部俺の気のせいなのかもしれない。残念なことに、人の些細な変化に気が付く様な繊細な人間ではないと自負している。だから思ったことを口にしたら、的外れなことを言っていると首を傾げられてしまうかもしれないと思った。
「いや、やっぱり何でもない……」
「ふふっ、心配しなくたって大丈夫だよ。今日、久しぶりに茜君とデートが出来て、私はとってもハッピーなんだから」
 そう言って波瑠は振り向いて、笑顔を見せた。大丈夫、だよな……きっと俺の思い過ごしなんだ。
「着いたよ。このお店が最初の目的地」
 波瑠が立ち止まったのは、白い木目調の外観のお店だった。店先にはヤシの木が真っ直ぐに伸び、サーフボードが飾られている。メニューボードにロコモコやパンケーキの写真が貼ってあるから、きっとハワイアンカフェなんだろう。
 中に入って案内されて席に座る。波瑠はテーブルに置かれたメニューを開くのではなく、近くにいた店員を呼んだ。
「すいません、『スウィートラブパッションパフェ』ってまだありますか?」
 店員はちらと俺に視線を向けた。そして波瑠に微笑む。
「ええ、ございますよ」
「じゃあそれを一つ、お願いします」
 店員が離れて行ってから、俺は声を潜めて言った。
「なんかすごい名前のやつ頼んでたな」
 それに店員にもなんか見られたし。
「あのパフェはね、カップル限定のメニューなんだよ。前にテレビで見て、いつか来てみたかったんだ」
「カ……!?」
 あの店員の視線はそういう意味だったのか。
 
 やってきたパフェは、ハート形のアイシングクッキーや飾り切りされたフルーツでデコレーションされていて、なかなかな見た目だった。
「うん! 美味しい!」
 頂点のストロベリーアイスを一口食べた波瑠は、嬉しそうに頬に手を当てた。
「ほら、茜君も食べなよ。美味しいよ?」
「あ、ああ……」
 世の男女はこんなすごい見た目のものを好き好んで食べに行くのか。驚きを通り越して、感心するまである。
「ラブラブな私達にピッタリのパフェだよね。ね、ダーリン?」
 戸惑っている俺をからかうように波瑠は微笑んだ。
「何だよダーリンって」
「ほら、あーんしてあげよっか?」
 波瑠はアイスを一匙すくって目の前に差し出した。面白がって。
 俺はそれを口にした。
「ああ、見た目ほど味は甘ったるくないんだな」
 動揺してみせたら負けだ。ずっとからかわれてたまるか。
「……まさか、本当に食べるとは思わなかった」
 自分から仕掛けてきたくせに、スプーンをひっこめた波瑠は少し顔が赤くなったみたいだった。その表情を見て、俺まで顔が熱くなった。

 波瑠が半分以上食べてくれたおかげもあって、グラスは空になった。甘さ控えめのクリームや、底に入ったコーヒーゼリーのおかげで、思ったより食べやすかった。
 食後の紅茶を口にして、ふうと一息を吐く。波瑠もカップを置いた。
「パフェ美味しかったね。もうお腹いっぱいだよ」
「まああれだけ食べたらな」
「ウエスト、大丈夫かな……」
 そう言って波瑠はお腹をさする。
「次は服を買いに行きたいの。前にネットで見つけてほしいのがあってね。ちゃんと着られるといいけど……」
「大丈夫だろ。たった一食くらい」
 波瑠の表情はパッと明るくなった。
「そう……そうだよね! じゃあ紅茶飲んだら行こうか」
 コロコロと表情が変わる波瑠はとても可愛くて、愛しく思った。

 店にはパステルカラーのふわふわしたような服が並んでいて、女子の空間に俺はひどく落ち着かなかった。
「俺は適当に他の店見てるから、用事が済んだら連絡して……」
 回れ右しようとする俺の腕を波瑠は掴んだ。
「ダメだよ。だって今日はスマホ持ってきてないもん」
「え、忘れてきたのか?」
「忘れてきたっていうか、必要ないから置いてきたの。だからほら、一緒についてきて」
 そう言われて仕方なく波瑠の後に続く。店の奥まで進んでいくと、波瑠はあるマネキンの前で足を止めた。
「一生に一度は着てみたいって思ってたの」
 パステルブルーのワンピース。袖口やスカートには同系色のフリルがついている。街を歩くには装飾が派手で、言ってしまえばコスプレみたいな。でも波瑠が着たらきっと似合うんだろう。
「ちょっと試着してくるね」
 そう言うと店員を呼び、試着室に入っていった。

 カーテンで仕切られたブースから衣擦れの音が聞こえる。この仕切り一枚隔てた向こうで波瑠が着替えてるんだと思うと、ここにいることが悪いような気がしてきた。
「波瑠、やっぱり俺は店の外で待ってるから、用事が済んだら……」
「待って!」
 そう言って勢いよくカーテンが開かれる。
「もう、着替えたから……」
 恥ずかしそうにスカートの裾を掴む。ワンピースの淡い色合いが色素の薄い波瑠の肌と相まって、可憐で儚い印象を際立てていた。
「ちょっと可愛すぎた、かな?」
 そう言って不安そうに俺を見上げた。
「……いいんじゃないか」
 こういう時に素直に「可愛い」なんて言える人間じゃない。
「えへへ……よかった」
 それでも、波瑠は嬉しそうに笑った。
 
 波瑠は「このまま着ていく」と言って、元々着てきた服とバッグを手にした。ブーツを履こうと屈んだ時に、空いた首元に光るネックレスに目が留まった。
「そのネックレス……」
「あ、気が付いた?」
 猫をモチーフにしたシルバーネックレス。初めてのデートの時に波瑠が買ったものだ。でも、二回目のデートの時に公園で失くして大変だった。半泣きで「もう着けないでしまっておく」なんて言ってたのに。
「今日は特別な日だからね」
 そう言って、猫を指先で揺らした。

 波瑠が財布からお金を取り出していると、レジの店員は波瑠が手にした元の服に目を向けた。
「お客様が着てこられた服は袋に入れてご用意しますね」
「いえ、処分していただけませんか」
 そう言って服を差し出す。思わず口を挟んだ。
「おい、いいのかよ」
「うん。私にはもう必要ないから」
 どうしてだろう。また寂しそうな気配を感じた。

 服屋を出ると、日は傾き始めていた。もうこんなに日が短くなっていたのか。
「寒くないか?」
 隣を歩く波瑠に目を向ける。薄い生地のワンピースは今の季節では肌寒そうに見えた。
「ありがとう。でも大丈夫だよ」
「そうか、ならいいけど」
 今度は地上の電車に乗った。電車を降り、駅の出口に近づくにつれて懐かしいような匂いがした。
「ここだよ。今日はここに来たかったの」
 駅を出ると、目の前には夕焼けに染まる海が広がっていた。
 波瑠は弾むように階段で砂浜へ降りる。俺も後に続いた。秋の海には俺達の他に誰もいなかった。
「海、好きなんだよね。でも実際に来たのはもう何年ぶりかな」
 そう言って穏やかな表情で海を見つめていた。秋の海は夏のような活気も眩しさもなく、ただ寄せては返す波音が物悲しくも感じた。
「俺も前来たのは思い出せないくらい昔だな」
 その時、波瑠は突然ブーツを脱ぎ始めた。
「おい、何して……」
「せっかくここまで来たんだもん、入らないと損だよ」
 そう言いながらも靴下を脱いで、水際へ向かっていく。スカートの裾をたくし上げて、パシャパシャと海に入った。
「やっぱり結構冷たいんだね」
 そう言って波打ち際を跳ねまわる波瑠は、服装も相まって人魚姫のように見えた。そんなことを思いつくなんて、俺の思考は案外メルヘンなのかもしれない。
 波瑠は俺の方を振り向いた。
「茜君もこっちに来る?」
 もうカーディガンを着るような季節だ。入りたい気持ちは分からなくもないけど、後で「やっぱり寒い」って言うに決まってる。俺はすぐ動けるようにここで待っていたほうがいいだろう。
「いや、いい」
 俺の言葉に波瑠は少し俯いた。
「そっか、まあそうだよね……これで茜君と行きたかったところは全部行けたよ。ありがとう」
「おう、それはよかった」
「私はもう少しここで遊んでから帰るから、茜君は先に帰ってていいよ」
「は……?」
 言っている意味が分からなくて体が固まった。
「心配しなくても大丈夫。ここまで茜君を連れてきたのは私なんだから、ちゃんと一人で帰れるよ。じゃあね」
 そう言って波瑠は俺に背を向けると、更に海を進んでいく。その様子にいつもの無邪気さとは違う、簡単に崩れてしまうような危うさを感じた。このまま目を離したら、海の中に消えていってしまう気がした。
「波瑠!」
 やっと動いた足を必死に動かして波瑠の背中を追う。服が濡れるのも無視して、膝上まで水に浸かった波瑠の腕を掴んだ。振り向いた波瑠は苦しそうな顔をしていた。
「何してるんだよ!」
 波瑠は目を逸らした。
「何って、私はただ遊んでるだけだよ」
「だったら、なんでそんな辛そうな顔してんだよ!」
 俺の言葉に波瑠は俯いた。強引に浜辺まで引っ張る。抵抗はしなかった。
 浜辺まで引き上げても、波瑠は俯いたままだった。
「なあ、やっぱり今日の波瑠はおかしいよ。なんかあったんなら話して……」
「話したって何にも変わんないよ。だってそうでしょ? 何の力もない子供の私達には何も変えられない」
 そう吐き捨てるように言った。自暴自棄になった波瑠の様子が苦しくて胸が痛んだ。
「それはそうかもしれないけど! 俺は波瑠の力になりたいんだよ!」
 どうにかしてやりたい。俺に出来ることならなんだってしたい。
 俺の言葉に波瑠は顔を上げた。そして俺の方に一歩近づく。
「それなら私とキスしようよ。嫌なこと全部忘れられるようなやつ」
 目の前で俺を見据える波瑠は知らない人みたいだった。
 なんだか怖くなって一歩下がると、枝につまづいて尻もちをついた。波瑠は俺の上に馬乗りになる。
「大丈夫。じっとしてて」
 そう言って俺の顔の横に手をつき、段々と体を寄せる。
「だめだ!」
 俺は波瑠の肩を掴んで動きを止めた。いま俺が流されてしまったら、きっとこのキスを波瑠は後悔する。そんなのは耐えられない。
 波瑠は驚いたように目を開いた後、また苦しそうな顔になった。
「どうしてダメなの!? 私のしたいこと、何でも叶えてくれるって言ったのに!」
「……ごめん」
「もう私、どうしたらいいのか、分かんないよ……」
 波瑠の瞳から大粒の涙が溢れて、ぽたぽたと俺の服を濡らした。こんな風に弱々しい波瑠を見たのは初めてだった。
 俺は起き上がって、その小さな体を抱きしめた。
「波瑠、大丈夫だから」
「うっ……ぐぅ……っ!」
 腕の中でその体は震えていた。一人きりでこんなに張り詰めるまで抱え込んでいたなんて分からなかった。俺がもっと早く気が付いていればこんなに苦しまなくて済んだのかもしれないのに。
 俺は波瑠が泣き止むまで背中をさすっていた。
「なあ、やっぱり何があったのか話してくれよ。波瑠の本当の望みは何でも叶えたいって、それは嘘じゃないから」
「……うん」
 波瑠は俺の身体から降りて、隣に座った。
「前に病気だって話したでしょ。前例がまだ数件しかない脳の病気なの」
「え……」
「小学生の頃から急に熱を出して倒れたりしてて、その時は小児がかかるような別の病気じゃないかって言われてたんだ。でも中学生になっても同じ症状が出るから都会の大きな病院で見てもらうことになって、そこで初めて本当の病名が分かったの」
 
 病名が判明して、波瑠は入院することになった。波瑠を診てくれる病院へ通えるように、家族は田舎から引っ越したのだという。体は周りの子と同じように動くのに、いつ起こるか分からない発作のせいで学校に通うことが出来ない。数少ない症例を見ると、歳を重ねるごとに発作の頻度は上がり、症状も重くなっていくらしい。
 初めは治療に前向きだった。まだ効果的な治療法は見つかっていないけど、効果がありそうなことは全て試した。頑張っていればいつか病気が治るかもしれない。そうしたらまたみんなと同じように学校へ行ける。そう思って学校の勉強も続けていた。
 でも、一年、二年と経っても病気は良くならなかった。症例と同じように年々発作が重くなっている。それでもまだ前と同じように暮らすことを諦めてはいなかった。だから憧れの可愛いブレザーが着られる進学校を目指して受験勉強にも力を入れた。
 模試ではA判定を取れるようになった。でも、本番の試験を受けることは出来なかった。発作後の朦朧とする頭で思った、「もうずっとこのままなんじゃないか」と。
 一度折れてしまった心はとても脆かった。両親が手を握って「頑張って」と励ましてくれることも、妹が入院している波瑠を楽しませようと学校であった面白い話を聞かせてくれるのも、全部辛くなってしまった。
 だから病院を抜け出すようになった。検査のない日を見計らって、回診と家族のお見舞いの時間には戻ってくるようにして。

「実はね、半年くらい前にこの病気に対する新しい手術を受けないかって話があったの。前例はないし、失敗して手術中に命を落とすかもしれない。でも病気が完治する可能性のある唯一の希望。私は断ったの。生きる希望なんてもうなかったし、今までの治療費以上に高額な費用が掛かるからね。家族のみんなは私の耳に入らないようにしてたけど、妹が留学したいと思ってるの、私はとっくに分かってた。私のせいで家族が会社や学校を変えたのだって苦しかったのに、これ以上、みんなの負担に足りたくなかったの」
 波瑠は俯いた。
「それなのにね、最近ダメなの。そんな博打みたいな手術でも受けたいって思ってきた。病院を抜け出すんじゃなくって、普通に外を歩きたい。普通の女の子みたいに好きな人とデートしたい。もっとずっと先の未来も一緒にいたい。でもね、この前のデートで妹から電話がかかってきて、この夢みたいに幸せな時間は本当に夢なんだって気づいちゃった。茜君がいないと息が詰まって苦しいのに、茜君といると生きたくて仕方ないの。でも私は、そんなこと思ったらだめなんだよ……」
 そう言うと、波瑠は俺の方を向いた。綺麗な瞳は悲しく揺れている。
「だからもう全部終わりにしたかったの。最後に最っ高のデートをして、それでもう満足したってするつもりだったの。これで分かったでしょ。茜君と会うのはこれで終わり。私のことは忘れて。私も忘れるようにするから……もうこれ以上、苦しい思いをしたくないの」
 俺が知らなかった波瑠の話は思った以上に重く苦しいものだった。波瑠が言っていた通り、ガキの俺には病気を治すような技術も、波瑠の心を癒す包容力もなくて、俺自身にはどうしてやることもできない。
 でも、そんな話の中にも希望は見えた。波瑠のためにたった一つだけ、俺が出来ること。
「そうか、分かった」
 俺の言葉に波瑠は傷ついたような顔をした。ごめん、今の俺にはこれしか言えない。まだ出来るかどうか不確定な状態で、安易な言葉を使いたくはなかった。
 波瑠は体に付いた砂を払い落として立ち上がった。そして悲しそうに微笑む。
「今までありがとう。バイバイ。幸せに……」
「だめだ」
「え……?」
 俺は着ていたカーディガンを脱いで、波瑠の肩にかけた。
「俺達はまだデートの途中だろ。最後まで送らせろよ」
「でも、その……」
 波瑠は困ったように目を泳がせた。
「嫌って言うなら、抱きかかえてでも連れて帰る」
「……わ、分かった」
 波瑠は渋々といった様子で後ろをついてきた。

 浜辺から移動して電車に乗っても、波瑠はずっと黙ったままだった。話すことを拒絶するような空気さえ感じた。地下鉄に乗り換えると、隣に座る波瑠の頭はゆらゆらと揺れ始め、俺の肩にもたれて眠っていた。
 波瑠のことを「人生楽しそうなやつ」だなんて思っていた自分は本当に馬鹿みたいだ。苦しい思いを抱えたまま、波瑠はあんなに眩しい笑顔を見せていたなんて……
 もうすぐ待ち合わせた駅に着く。起こしてやろうと手を伸ばしたとき、波瑠は眠たそうに目を開いた。
「あれ、私……寝てたの?」
「ああ。もう駅に着くぞ」
「……そっか」
 電車は緩やかに駅に止まった。先に降りた波瑠は、くるっと俺の方を振り向いた。
「それじゃあ本当にここでお別れしよう」
「病院に戻るんだろ? それならそこまで……」
「ごめん。茜君には見られたくないの」
「……分かった」
 そう言ってバッグの中を漁る。そして目的のものを手の中に握って、波瑠に差し出した。
「ほら、これ」
「何?」
 開いた手の上に乗ったソレを見て、波瑠は悲しそうに笑った。
「最後くらい、本当のデートにしてくれたっていいのに」
 波瑠は百円玉を受け取ると、俺に背を向けて歩いて行った。

 波瑠の背中が見えなくなって、スマホに手をかけた。二つしか登録されていない電話番号のうちの一つに発信する。自分から電話を掛けるのは初めてだ。
『茜から電話をかけてくるなんて珍しいな。どうした?』
『話があるんだ。うちに来てくれないか』
 電話の向こうでは考えるような空気があった。
『分かった。これから向かう』

 家に帰って目的の本を探していると、本を引き抜いた拍子にカサッと何かが落ちた。
「これ……」
 拾い上げたそれは、波瑠の身辺調査結果が入った封筒だった。
 ベッドに腰掛けて中の紙を取り出す。そこには、両親と妹の四人家族であることや、病気のこと、入院歴などが書かれていた。さっき波瑠から聞いた内容と同じだ。
 入院先の病院の名前を見て、一瞬息が止まった。そこは俺が毎月通っている健診センターの隣に立つ大学病院だったからだ。そんな偶然があるのだろうか。もしかすると、知らず知らずにうちに俺達はすれ違っていたのかもしれない。
 一枚紙をめくると、「補足事項」という項目に手術のことが書かれていた。そこに俺の知りたいこともあった。
 その時、玄関の扉が開く音がした。咄嗟に調査結果をベッドの中に隠した。
「よお、茜」
 やってきた圭は居間にドカッと座った。
「何だよ、今日は急に改まって」
「圭に頼みがあるんだ……俺に金を貸してほしい」
「いくら必要なんだ?」
「えっと……」
 口にしたこともない金額に思わず言い淀んだ。調査結果の補足事項に書かれていた波瑠の手術費用は普段目にするような数字とは桁がいくつも違っていた。俺が波瑠のためにしてやれることは手術費用を肩代わりするくらいだ。圭ならこんな桁外れな金額でも用意できるようなツテがあると踏んでいた。金を借りて波瑠が手術を受けることが出来るなら、その後俺がどうなっても構わなかった。
「まあ、いい。ただな茜、俺から金を借りるってことは分かってるんだろうな? 返せる算段はあるのか?」
 圭の鋭い眼光に怯みそうになる。でも今日だけはダメだ。拳を握りしめた。
「今の仕事の受ける件数を増やす。それに加えて昼間の仕事もしようと思ってる。俺の学歴じゃ雇ってもらえないだろうから、まずは勉強をして一年後に高卒認定を取ろうと思う」
 圭が持ってきた本の中に、高校の参考書や就業関係の本があったはずだ。大変だとは思うけど、無謀ではないと信じたい。
「それで普通の仕事に就けたら、今の仕事は辞めたい」
 これはいつもと同じ言葉なんかじゃない。口を挟まれる前に言葉を続けた。
「今の仕事より稼げないのは分かってる。きっと借りた金を返すまでに何十年もかかると思う。自分勝手なことを言ってるのも分かってる。でも! 俺は太陽の下で胸を張って歩いていけるような生き方をしたいんだよ!」

 俺も綺麗な人間になりたかった。宝石みたいに綺麗で眩しい君の側に見合う人間になりたい。
 
 言い切って心臓がバクバクと鳴る。ここまで圭に言いたいことを言ったのは初めてだった。
「……そうか」
 それだけ言うと、圭はバッグの中を漁って何かをこっちに投げてきた。
「うわ!?」
 慌ててキャッチすると、それは名前を聞いたことのある銀行の通帳だった。
「その口座、お前の稼ぎから仲介料で天引きした分が入ってるんだ。茜がいつかもっとデカい仕事をするときの活動資金にしようと思ってたんだが、仕事辞めるつもりならもういらねぇな」
 中をめくると、見たこともないような桁の数字が書かれていた。
「やる気ないならさっさとやめちまえよ。これは手切れ金だ。勝手にしろ」
 これだけあれば、波瑠の手術費を払っても俺が高卒認定試験を受けるまで生活していくには十分すぎるほどだ。
 圭は立ち上がって、背を向けた。
「この家は俺の名義で借りてるから、早いうちに引っ越した方がいい」
 そう言って部屋を出て行く。その背中を見て、急に昔のことを思い出した。

 葬儀場を出ると、外の眩しさに目がくらんだ。その間にも、前を歩く背中は遠ざかっていく。
『おじさん、あの……』
 俺の声に振り向いたその人は顔をしかめた。
『おじさんって……いいか、俺のことは圭って呼べ。分かったな』
『分かった……けい、ありがとう』
『礼なんていらねえよ』

「圭……今までありがとう」
 圭とはもう会えない予感がした。歪な関係だったけど、もしかすると俺は大切にされていたのかもしれないと、そう思った。
圭の背中は廊下の暗闇に溶けた。
「……二度とその面、見せんじゃねえぞ」
 それだけ言い残して、玄関を出て行く音が聞こえた。

 翌日、いつもの検診センターの隣に立つ大きな大学病院へ向かった。
 目的の病室の扉を開く。水色の病衣に身を包み、ベッドの上で起き上がる彼女は、とてもか弱い存在に映った。俺と目が合った波瑠は驚いたように目を見開いた後、悲しそうな顔で目を逸らした。
「見られたく、なかったな」
 ベッド脇に寄せてあった丸椅子に腰かける。
「どうしても波瑠に話したいことがあるんだ。昨日話してた手術のことだけど……」
 その時、波瑠は近くに置いていた時計にふっと目を向けた。そして慌てたように俺の方を向く。
「茜君! ベッドの後ろに隠れて!」
 必死な様子に訳も分からないまま、窓際の壁とベッドの間に身をかがめた。
 その時、カラカラと扉の開く音がした。
「お姉ちゃん、おはよう!」
「おはよう、璃子」
 この子が言っていた妹、か。
「あれ。椅子が出てるなんて、さっき誰か来てた?」
 その言葉にドキッと心臓が跳ねる。
「さっきまでそこに問題集を置いていたの。椅子をしまうのを忘れてたよ」
「勉強もできて、やっぱりお姉ちゃんはすごいなぁ。私なんてこの前のテスト、赤点スレスレだったのに」
「また時間のあるとき、勉強みてあげるね」
「お姉ちゃん、ありがとう!」
 椅子をカタッと引き寄せる音が聞こえた。
「璃子はこの後部活?」
「うん! もう少しでコンクールがあるから、いつもより早く集まって練習しようってことになったの。最近トランペット上手になったって、先輩にも褒められたんだ」
「そっか。すごいね、璃子は」
「えへへ。もっと上手になったらお姉ちゃんにも聴いてもらいたいな」
 二人のやり取りを聞いていて、胸がツキンと痛んだ。波瑠が憧れてそれでも手に出来なかった青春は、こんなにも青くて痛い。
「うん、楽しみにしてるね。ああ、そうだ。璃子がこの前持ってきてくれた漫画、すごく面白かったよ」
 ガタッと椅子から立ち上がるような音が聞こえた。
「ほんと!? よかった! きっとお姉ちゃんも気に入ってくれるって思ってたんだ」
 ベッドがギシっと軋む音が聞こえる。
「4巻に鮫島って元カレ出てきたでしょ。クラスの速水って男に何となく似てて苦手だったんだけど、5巻から一気に印象変わるんだよ! 早く続きも読んでほしいから、すぐ持ってくるね!」
「うん、ありがとう。でも、無理して急がなくてもいいからね」
「大丈夫だよ。お姉ちゃんを楽しませるのは私の楽しみでもあるんだから」
「璃子のおかげでいつも楽しいよ」
「えへへ、そう言ってもらえると嬉しいな」
 それから少し話をして、波瑠の妹は病室を出て行った。
「もういいよ。ありがとう」
 そう言われて、ベッドの陰から立ち上がった。妹が片付けていった椅子を引き出して座る。
「痛々しいって思ったでしょ」
 波瑠は言った。
「妹の前で必死に余裕ぶって、平気なふりしてるの」
「それは波瑠の優しさだろ」
「違うの!」
 波瑠の声は今にも泣き出しそうなくらいだった。
「優秀な姉を演じていないと、劣等感で押しつぶされそうになるの。本当は、自分の憧れているものをみんな持っている妹が羨ましくて仕方ない。だけどその醜い感情を取り繕って、同じく充実した日々を送っているふりをしているの。滑稽でしょ?」
「そんなこと……」
「そうだ、ついでだから秘密にしていたことを教えてあげる。私と茜君が初めて歩道橋の上で話したとき、あれは偶然じゃなかったの」
「え……?」
 波瑠は窓の方を向いた。
「この窓から検診センターに向かう人達が見えるの。検診に来るのって、おじいちゃんおばあちゃんとか、会社の健康診断で来た大人ばっかりで、同い年ぐらいの人ってほとんどいないんだよ。だから猫背で、真っ黒い服を着て、陰気臭い顔をした君はよく覚えていたんだ」
 波瑠と出会うもっと前から、この病院で波瑠は俺を見つけていたんだ。
「そんな君に興味が湧いて、あの日、君の後を追いかけたんだよ」
 そう言ってふっと微笑む波瑠の横顔は、楽しかった昔を思い出すような、そんな儚さがあった。
「そうしたら突然歩道橋の上で立ち止まって、手すりに足を掛けたからびっくりしたよ。でもそれを見て確信したの。やっぱり君は私と同じなんだって。デートしようなんて言ったのは、もちろん君に興味があったからだけど、それで逆上されてひどい目に遭ったとしてもこの日々が終わるならそれでよかったんだ」
 どんな人間かも知らない俺に対して、妙に距離が近かったり、意味深な言葉を言っていた訳がようやく理解できた。
「二回目にまた歩道橋の上で会ったのも、私が後を付けたから。初めて夜に病院を抜け出したら、路地で言い争う君を見つけた時は流石に驚いたよ。とまあ、こんな風に運命的に出会った私達じゃないんだよ。どう、がっかりした?」
 そう言って、波瑠は俺の方を向いた。そんな程度で引くなんて、見くびらないでくれよ。
「もちろん驚いたけど、そんな上手く出来た話はないよなって納得もできた。それ以上に、波瑠が俺に会おうとしてくれていたことが聞けて嬉しいかな」
 俺の言葉に波瑠の顔はほのかに赤く染まった。
「今の話はそういう話じゃなくって! 運命なんかじゃなかったってがっかりするところでしょ?」
「運命じゃなくたっていいよ、俺は」
 たとえ離れる未来だとしても、力づくで側にいてみせるから。
 俺はバッグから通帳を取り出して、波瑠に手渡した。
「今日は話が合って来たんだよ。この口座に入ってる金を受け取ってほしい」
 恐る恐る通帳を開いた波瑠はその数字を見て固まった。そして俺の方を向く。
「どうして、こんな大金……!」
「これは俺が他人の不幸を売って稼いだ汚い金なんだ。もうあんな仕事は辞めてきた。これからは勉強をして普通の仕事に就こうと思っていて、当面の生活費を差し引いてもこんな大金は持て余す。それに、あの仕事に関係する物は全部手放してしまいたいんだ」
 あの仕事に関する全てのものを捨てたいという気持ちは本当だ。もう真っ黒いスーツも、革靴も、仕事を連想させるものはみんな捨ててしまった。ただそれ以上に、そうでも言わないと波瑠は遠慮して金を受け取ってはくれないだろうと思った。
 俺は波瑠を真っ直ぐに見据えた。
「これは取引だ。俺の過去を清算するために、この金を使ってくれないか?」
「……本当に、いいの?」
 波瑠は遠慮がちに俺を窺う。
「ああ。金を使ってくれるなら、ギャンブルにつぎ込むでも、ブランド品を買い漁るでも、何でも構わないよ」
 波瑠は口元に手を当てて笑った。
「ふふっ……しないよ、そんなこと」
 そして俺の方を向いた。やっと表情に明るさが戻った。
「私、手術を受けるよ。それで茜君の過去も、私の過去も清算してみせる」
「ああ、全部綺麗に消し去ってくれよ」
 あの仕事は最低で最悪だったけど、大切な人の役に立つことが出来たのなら少しは価値のある時間だったのかもしれないと思った。