客との待ち合わせ場所へ車は進む。俺は手元の資料に視線を落とした。
「今日の客は井坂誠(いさかまこと)。舞台を中心に活動する俳優で、その界隈では有名なんだと」
 圭が言う。
 資料に乗った顔写真の男は優しそうに微笑んでいた。外面なんて信用できない。この仕事を始めてそのことは痛いほど思い知らされた。俺に仕事を頼むくらいだから、腹の中は真っ黒なんだろう。
「今日指定された場所は会員制のバーなんだ。大丈夫だとは思うが、もし変だと思ったら連絡しろ。何かあったら困る」
 「商品に」何かあったら困る、ね。
「……分かった」

 車を降り、裏路地の中に指定された店はあった。地下へと続く階段を下りて扉を開けると、カウンター席に座った女と目が合う。派手な化粧に背中がざっくり空いた濃紺のドレス。みるからに一般人ではない。
「待っていたわよ」
 店内を見回すが、カウンターに立つバーテンとその女しかいない。指定された場所は確かにここで合っているはず。
「アカネ君ね。さあ、隣へ座って」
「依頼者は男だと聞いていましたが」
 俺の言葉に女はおかしそうに笑った。
「ああ、ごめんね。あれは夫の名前なのよ。アカネ君は女からの依頼を受けないって、噂で聞いてね。怒って帰るかしら? もしこのまま受けてくれたら、もちろんチップは弾むわよ」
 ここで帰るのも癪な気がして、隣の椅子に腰かけた。
「仕事ですから」
「ふふっ、ありがとうね。私は不知火美貴(しらぬいみき)。芸名じゃなくて本名なのよ」
 不知火は短い髪を耳に掛けた。指には高そうな宝石のついた指輪をしている。
「芸名というのは?」
「ここまで言っても分からない? 残念。一応映画やドラマで主役をやっているんだけど、まだ知名度が足りなかったみたいね」
 そう言って薄ピンク色のカクテルに口をつけた。初めはただの金持ちかと思ったけど、ふとした仕草に自然と目が引き寄せられてしまうのは、確かに女優なんだと思った。
「マスター、彼にジュースを」
「かしこまりました」
 ほどなくして俺に目の前に小洒落たグラスに入ったオレンジ色の液体が置かれた。一応口をつけてみる。きっと高級なオレンジジュースなんだろう。
「飲み物も来たところで、早速本題に入ろうかしら。アカネ君に夢を見てもらいたい男がいるの」
 そう言われて、資料に乗ったあの優しそうに微笑む男が浮かんだ。
「井坂誠ですか」
「いいえ、違うわ。今日夢を見てもらいたいのはこっち」
 そう言うと、不知火は一枚の写真をカウンターに滑らせた。挑発的な表情でポーズを決める若い男が写真に写っている。
「彼ね、高橋叶夢君。今売り出し中の若手俳優なのよ。この鋭い眼光も、シャープな顎のラインも素敵でしょう?」
「何か勘違いしていませんか? 俺の夢は不幸しか見れませんが」
「もちろん。そのつもりよ」
 そう言うと、俺の目の前から写真をつまみ取った。
「起こる不幸を先に知っておけば、悲しみに暮れる叶夢君に私が手を差し伸べることが出来るでしょう? 不幸は大きければ大きい方がいいわ。そうね……例えば、出演の決まっていた作品が企画立ち消えになるとか、近しい人間が事故に遭う、とか。そんな時にこの私が優しく手を差し伸べたら、それはもう女神にでも見えるでしょうね。そうなれば彼が私の手の内に落ちるのは時間の問題だわ」
 不知火は写真の男に口づけた。こいつは何を言っているんだろう。感情を抑えるようにカウンターの下で拳を握りしめた。
「あなたは結婚しているんじゃないですか」
 俺の言葉に不知火は嫌そうな顔をした。
「あんな腑抜けて面白みのない男のことなんてどうだっていいでしょ。あとは誠が離婚届に判を押して、役所に提出するだけの関係よ。そんなことより、今は叶夢君の話を聞いてよ」
 そう言って不知火はその男との出会いを話し始めた。いかにその男は魅力的で、自分たちは運命に引かれ合った関係なんだと。
 どうして俺はこんなにイライラしているんだろう。下衆な大人なんて何十人も見てきた。クズだとは思っても、苛立つことはほとんどない。依頼者から聞かされる悪口や不幸の使い道は、結局他人事だからだ。怒りなんてカロリーの高い感情、持つだけで疲れる。
「彼には私との運命を確信してもらわないといけないから、アカネ君の活躍はとっても重要なのよ」
「……こんなの、運命でもなんでもないですよね」
 自分でも知らない低い声が出た。
「相手の不幸を金で買って、不幸に落ちたところで手を差し伸べることのどこが運命なんですか。相手を騙して繋いだ関係が何になるんですか」
 俺は目の前のこの女に苛立っているんじゃない。自分に苛立っているんだ。
 ハルに本当の名前をはぐらかされて、電話を切ったあの日。自分のことは棚に上げて「噓つき」だと罵った。俺だって、本当の名前も、この汚れた仕事も、何一つ言えないじゃないか。
 本当の名前なんて聞かなければよかった。偽りだらけだとしても、目の前にいるハルだけを信じていればよかった。そうすればきっと今もハルといられた。でも、嘘を吐きあって繋がった俺達の関係はそれ以上先へ進めない。もしも自分からさらけ出すことが出来ていたら、俺達は上手くいっていたのだろうか。
「アカネ君はロマンチストね。恋は打算よ」
 そう言うと、俺の方に体を寄せた。化粧の匂いがして、勝手に体が強張る。
「スレた子供かと思ってたけど、可愛いところもあるのね。気に入ったわ。続きは場所を変えましょうよ」
 化粧の匂いは苦手だ。母親の、まだ優しかった頃を思い出すから。
 
 母は綺麗な人だった、と思う。歯切れが悪いのは、顔にモザイクがかかったみたいに思い出すことが出来ないからだ。家族写真なんて手元に一枚も残っていない。「二十代の頃には『地元のミス何とか』にも選ばれて雑誌にも載ったんだ」と父が母のことを自慢げに話していたことは覚えている。
 俺が小学校高学年に上がるくらいまで、俺達家族は上手く行っていた。父は仕事が忙しくて中々会えなかったけど、たまの休みには俺と母を遊びに連れて行ってくれた。車で二十分ほどのところに城跡があって、春には満開の桜を家族で見に行ったことを思い出した。三人で出かける日は母がいつもより綺麗にしていて、俺はそれが好きだった。
 父が家にいることが少ない分、専業主婦だった母とはよく話をした。授業で習ったことの話、友達と遊んだ話、今日見た夢の話。母は俺の話を楽しそうに聞いてくれた。
 きっかけは小5の時の俺の言葉だった。その日のことはよく覚えている。朝起きると、台所からは俺の好きなカレーの匂いがしていた。それが嬉しくて、急いで母の元へ行った。
『おはよう、茜。今日は朝から元気ね』
 台所に立つ母はそう言って微笑んだ。
『だってカレーなんでしょ。お腹空いたよ』
『ふふっ、本当に茜はカレーが好きね。もう少しで用意できるわよ』
『あっ、そうだ。今日は夢に父さんが出てきたよ。家に父さんと女の人が一緒にいて、そこに母さんも入ってきて、みんなでクッションとかを投げて遊んでたよ』
 俺の言葉に母の顔つきが変わった。
『やっぱり浮気してたのね……』
 それからは積み木が崩れるみたいに、俺達家族が崩壊するのはあっという間だった。
 学校から家に帰ると、友達と旅行に行っているはずの母がリビングの床に座り込んでいた。部屋は誰かに荒らされたみたいに物が散らかっている。俺は母に駆け寄った。
『お母さん大丈夫!? 何があったの!?』
『来ないで!』
 そう言って振り向いた母はまるで化け物を見るような目で俺を見ていた。
『全部茜が言っていた通りだった……茜の夢は他人の不幸を見る。茜は不幸を呼び寄せる。怖い怖い怖いこわい……』
 その時はまだ母が何を言っているのか、理解できなかった。
 それから俺の生活は一変した。父は一度も家に帰ってくることはなく、その話題を口にすると母はヒステリーを起こすようになった。
 母は寝室に引きこもって、俺と同じ部屋にいることを拒んだ。宅配で月に数回、レトルト食品やカップ麺が大量に届いたから、食事には困らなかった。でも、何を食べても味はしなかった。俺は母が眠ってからこっそり寝室を覗きに行っていた。日に日に生気が無くなり、あんなに綺麗だった母の面影はもうどこにもなかった。
 毎晩母の夢を見た。部屋で母と顔を合わせる夢を見た翌日、文化祭の代休で家にいた俺と母は久しぶりに顔を合わせた。俺の顔を見るや、母は急いで寝室へ戻っていった。夢で見たのと全く同じ光景。その時やっと、俺は状況を理解した。
 朝起きるとなぜか泣いていることがよくあった。昔、母が料理中に包丁で指を切る夢を見た次の日に、「茜の夢が正夢になっちゃったね」と照れて笑う母の指には絆創膏が巻かれていた。母は知っていたんだ。俺が見た夢は本当に起こるって。
 後から思い出せば、母が父の浮気現場に乗り込んだあの日、母の手にはボイスレコーダーらしきものが握られていた。きっと浮気の証拠を掴んで離婚の時に慰謝料を請求したんだろう。
 化粧の匂いは昔の優しかった母と、幸せだった家族の記憶を思い出させる。そして勝手にその後の顛末を頭でなぞって、胸が千切れそうになる。だから意図的にその匂いを避けてきた。

 手に触れる感触があって、現実に引き戻される。女は俺の手を握っていた。
「さっき呼んだ車がもう着くって。行くわよ」
 くいっと手を引っ張られて、俺の身体は勝手に椅子から立ち上がった。女は俺の手を引いたまま店を出る。
 やっと状況を理解して、触れられたところから悪寒が全身に走った。
「嫌……嫌だ。行きたくない」
「もう。そんな興が冷めること言わないでよ。さっきまではうっとりした顔で私を見つめていたじゃない」
「そんな顔してない!」
「こら、あんまり大きい声出さないの」
「い、いや……!」
「レイ君!?」
 その声に振り返る。そこにいたのはハルだった。
 ハルはこっちに駆け寄ってくると、手を振りかぶった。そして、
「えい!」
 俺の手を掴む女の腕に手刀を決めた。女の手が離れる。
「行こう!」 
 そう言ってハルは俺の手を掴んで走り出した。悪寒は止まっていた。

 ハルは河川敷で足を止めた。
「はぁっ……はぁっ……はぁっ……」
 苦しそうに地面にしゃがみ込んで荒い息を吐く。
「大丈夫、か……?」
 声をかけると、ハルは俺の方を見上げて申し訳なさそうに笑った。
「困ってるみたいだったから、引っ張ってきちゃった。迷惑だったかな?」
「いや……助かった。ありがとう」
「そっか。よかったぁ」
 そう言ってハルは安心したように笑った。
 ハルの顔を見て、走ったからではない鼓動の高まりを感じた。せっかくまた会えたんだ。今度は正直に伝えないと。
「ハル、前に『嘘つき』なんて言ってごめん」
「いいよ。私もちょっと言葉が足りなかったと思うから」
 ハルはそう言うと、立ち上がって俺の両手を握った。
「ねえ、レイ君。私の本当の名前は」
「いいよ、それはもう……」
「私が聞いてほしいの。私の本当の名前は佐伯波瑠(さえきはる)。波に瑠璃色の瑠で波瑠だよ」
「本当にハルだったんだ……」
 それなら俺が本名を聞いたあの時、波瑠は嘘をついていなかったんだ。
「うん。レイ君に本当の名前で呼んでほしくて、嘘ついちゃった」
 そう言って照れたように笑う。
「俺はレイじゃなくて茜。小湊茜(こみなとあかね)
「茜君かぁ。素敵な名前だね」
「俺は自分の名前が嫌いだけど」
「どうして?」
「話すと長くなるんだけど、聞いてくれるか?」
 本当のことを話したら嫌われるかもしれない。気持ち悪いって思われるかもしれない。でも波瑠とここから先へ進んでいきたかった。
 波瑠はふふっと笑った。
「もちろん。夏の夜はまだ長いよ」

 俺達は河川敷に腰掛けた。穏やかに流れる川には月がゆらゆらと滲んでいる。
「夕暮れ時の空を茜色の空って言うだろ。そんな空を見ると、もうすぐ仕事の時間ってことを思い出すから嫌いなんだ」
「仕事って?」
「俺は昔から他人のこれから起こる不幸を夢に見るんだ。離婚して片親だったから、母親が死んで身寄りが無くなった時、俺を引き取ったのが今の雇い主。誰かの不幸が知りたい金持ちに依頼されて、他人の不幸を売って稼いでいるんだ。そんなんだからもう何年も学校なんて行ってない」
 波瑠は何も言わずに俺の話を聞いていた。
「不倫がバレる夢とか、事故に遭う夢とか、いろんな夢を見てきた。夢に出てくるのは眠る直前に強く印象に残った人物。仕事の夜は依頼人から見知らぬ他人の悪口を浴びるほど聞いて、そのまま眠りについた」
 仕事がある日はそれでよかった。不幸を見るべき相手がいるから。
「でも仕事じゃない日も、眠ると誰かの不幸を見てしまう。それが嫌で嫌で、さんざんいろんなことを試してきたんだ」
 まずは寝ないことを試みた。でも夜十時になると気絶するように眠ってしまうせいで、すぐに断念した。
 次に自分のことを考えて眠ることにした。自分の不幸なら見てもどうってことはない。だけどそれは見られないらしく、過去に面識のある誰かがランダムに出てきて毎朝吐きそうになった。
 歴史上の人物もダメ。人間以外の動物もダメ。俺を縛る呪いはどうしても他人の不幸を見せたいらしい。
「それでようやく、死んだ母親の夢を見れば誰にも迷惑をかけずに済むって分かったんだ。近い人間なら死人でも許してもらえるらしい。それに死ぬとき以上の不幸が更新されることもない。その方法を見つけてから、少しはマシに生きられるようになったよ。ああ、波瑠のことは一度も夢に見ていないからそこは安心してくれ」
 もし波瑠の不幸を見てしまったら。面識があるだけの人間の不幸でさえも苦しいのに、そんなのはもう想像もできない。
「親戚も仕事を依頼してくる金持ちも、俺のことは疫病神みたいに扱ってた。まあそれはそうだよな。俺と関わると不幸になるんだから」
「その話、ちょっと変だよ」
「え?」
「だって、茜君の夢は予知夢ってことでしょ? 別に不幸を呼び寄せてるわけじゃないじゃん」
 気持ち悪い、関わりたくない……今まで浴びせられてきた罵倒の言葉が頭に浮かぶ。俺のせいでその人が不幸になる訳じゃない。いつから混同していたんだろう。
「……そう、かな」
「そうだよ。他人を傷つけたりとか、もちろんやっちゃいけないことはあるけど、それ以外のちょっとした罪悪感とか甘えは自分を許してあげないと息が詰まっちゃうよ。ハッピーに生きるコツ」
 ハッピーに生きるコツ、か……俺も幸せになろうとしていいって認められたみたいだ。
「ありがとう。少し楽になった気がする」
「それならよかった。ちなみに私も学校はしばらく行ってないんだ。茜君と事情は全然違うけどね。でも、そっかぁ……」
 そう言うと、波瑠は突然俺の身体を優しく抱きしめた。
「え……?」
「今までずっと辛い思いをしてきたんだね。もっと早く言ってあげられたらよかったのにな」
 その言葉に、伝わる温もりに、初めて心が満たされるのを感じた。
 ああ……俺はずっとこうしてほしかったのか。
 目頭が熱くなって、上を見上げる。繁華街から離れたこの場所では星が良く見えた。星に引力があるように、なんの接点もなかった俺達が出会えたのは何か見えない力で引きつけられているのだろうか。
 波瑠は俺からゆっくり体を離した。
「なあ、波瑠は運命ってあると思うか?」
 俺の言葉に波瑠は笑った。
「急だね? じゃあ私の返事を聞く前に、茜君の考えを聞かせてもらおうかな」
「俺は運命があると思う。いい事も、悪いことも、そうなるように初めから決まっている。そうじゃなかったら、世の中、偶然で済ませるには出来過ぎていることが多い」
 俺の悪夢を見る体質が何か外的な要因によって生まれたものだったら、たまったもんじゃない。運命によって生まれる前から決まっていたとか、そんなんじゃないと耐えられる気がしなかった。
 それに俺と波瑠があの日、あの場所で出会えたことだって出来すぎている。運命の相手だなんて夢見がちなことを言うつもりはないけど、決められた出会いのおかげで今があるんだと思う。
「ふぅん、なるほどね。いいと思う」
「それで、波瑠は?」
「ふふっ、まだ内緒」
 そう言って波瑠はいたずらっ子のような表情で口元に人差し指を当てた。そんな彼女に視線が引きつけられる。
「っていうのは半分冗談で、本当はまだ考えがまとまってないんだ。自分の中で答えが決まったら、その時に聞いてもらうっていうのでどうかな」
「それでいいよ」
 俺は芝生の上に横になった。波瑠の側はひどく心地がいい。
「ああ! 茜君ズルい! 私も横になっちゃお」
 そう言うと、波瑠は俺の隣に並んだ。
「はぁ、気持ちいい。夜の河川敷で寝転がって、なんだか悪いことしてるみたい」
「こういう日があってもいいだろ」
「うん。楽しいね」
「そうだな」
 ずっとこの時間が続けばいいのに。
「ずっとこの時間が続いたらいいのにね……」 
 波瑠の呟く声が聞こえた。
 瞼が重くなって、意識が遠のいていった。

「茜君、起きて」
 声がして目を開けると、波瑠が俺を覗き込んでいた。
「もう朝になっちゃったよ。二人とも、よく寝たね」
 そう言って照れたように笑う。そして立ち上がると、河川敷を上っていった。
「さて、そろそろ帰らないと。帰り道はどっちかな?」
 眩しそうに日光を手で遮る。朝陽に照らされた彼女の横顔はとても綺麗だった。その彼女に近づきたくて、俺は体を起こす。
 その時、突然やってきた自転車に彼女ははねられた。

「茜君、起きて」
 その声に俺は飛び起きた。冷汗が背中を伝う。
 目の前の波瑠は驚いたように目を丸く見開いた後、優しく微笑んだ。
「もう朝になっちゃったよ。二人とも、よく寝たね」
 そう言って、さっき見たのと同じように照れて笑った。そして立ち上がると、河川敷を上っていく。
 心臓がバクバクと早鐘をうつ。
「さて、そろそろ帰らないと。帰り道はどっちかな?」
 眩しそうに日光を手で遮る。俺は必死になって、波瑠の背中を追いかけた。
「波瑠……!」
「え?」
 振り向いた彼女の腕を強引に引っ張って、バランスの崩れた体を全身で受け止める。目の前を自転車が通り過ぎていった。
「ごめんね、周りが見えてなくって。茜君、大丈夫?」
 呼吸が荒くなって、視界にもやがかかる。俺は馬鹿だ……あんなに気を付けていたのに、波瑠の夢を見てしまった。今回はたまたま回避できたからよかったけど、目の前で波瑠が事故に遭っていたらと思うと怖くて仕方ない。俺のせいで波瑠が……
「茜君!」
 強引に手で顔を持ち上げられる。真っ直ぐな瞳が俺を見つめていた。
「私を見て。今思ってること、全部言って」
 その視線から逃れることは出来ない。ぽつぽつと言葉が出てくる。
「……波瑠の夢を見た。波瑠が自転車にはねられる夢。身近な人の不幸を夢に見るのも、不幸に遭う現実を変えられなかった時も怖い」
「でも、茜君は私を助けてくれたでしょ?」
「今回は運がよかっただけで! もしまた夢を見てしまったら、その時は……!」
「茜君、目、閉じて」
「え……?」
「私が、怖くなくなるおまじないをかけてあげるから」
 そう言われて、俺は目を閉じた。瞼の裏には今朝見た夢の光景が浮かぶ。彼女が自転車にはねられるのを、俺はなすすべもなく見つめていた。波瑠が傷つく未来なんてもう二度と見たくない。
 その時、額に柔らかな感触があった。キスされた、と理解するのに数秒かかった。
 目を開けると、波瑠は満足そうに笑っていた。
「ほら、もう私のことで頭がいっぱいになったでしょ。唇にするのは本当に好きな人のために取っておいてあげるね」
 波瑠に触れられた場所からむず痒いような感覚が体に広がる。初めての刺激に体が熱くなった。
「もし怖い思いに押しつぶされそうになったら、このキスを思い出してよ……私もそうするから」
 そう言うと、波瑠は俺から一歩距離を取った。
「それじゃあ、本当にもう帰らないと。また連絡するね」
「……ああ、俺も連絡する」
「ふふっ、じゃあ楽しみにしてる。またね」
 波瑠は笑顔を見せて、その場を去った。

 東京は連日のように真夏日を記録し、外ではセミがうるさく鳴いている。
 俺はスマホを握りしめて、もう二時間以上が経とうとしていた。波瑠に次会う予定を話そうと思ったものの、電話を掛ける勇気が出なくて数日が経過した。今日こそは必ず電話を掛けると決めたのに、「発信」のボタンが押せない。
 ああ、もう……いっそ誰かが押してくれればいいのに。
 その時、玄関の扉が開く音がして、驚いた勢いでスマホをぶん投げた。
「おい、今すごい音したけど大丈夫か?」
 怪訝そうな顔で部屋に入ってきた圭は言った。
「突然家に来るな。いつも言ってるだろ」
「まあ今さらじゃないか」
 圭は台所のごみ箱を一瞥した。
「お前またカップラーメンばっかり食ってるだろ。ある程度の金は渡してるんだから、寿司とかピザとか出前でもなんでも頼めよ」
「いいだろ、別に」
 仕事で依頼人からもらう報酬から、圭の仲介料を天引きした分が俺の取り分になる。8割、9割差し引かれたって、生活には十分困らない金が手に入った。食事はまとめ買いできるカップラーメンが便利だし、服は破れたらまた同じものを買えばいい。特別に金を使うあてもなく、持て余す一方だった。前に「こんなに必要ない」と圭に言ったら、「それくらいはもらっておけ」と断られた。
「はいはい、茜君は偏食でしたね……ほら、お土産だぞ」
 そう言って両手に持った大きな紙袋を机に置いた。
「また本かよ」
「仕事で貰うんだよ」
「新品なんだからどっかで売ればいいだろ」
「こんな大量の本、売るのも捨てるのも面倒なんだよ。だけど放置してたら事務所が本で埋まっちまうからな」
「代わりに俺の家を埋める気か」
「もう一つの紙袋の中身は本じゃないぞ」
「おい、俺の話を聞け」
 圭が紙袋から取り出したのは、でかいスイカだった。
「これも貰い物でな。どうだ、なかなか立派だろ?」
 そう言って自慢げにスイカを撫でた。
「まさかそれも丸々ひと玉置いていくつもりじゃないだろうな?」
 邪魔なものは何でもうちに置き逃げする圭のことだから、十分やりかねない。
「そんな言い方はないじゃないか。まともな食生活をしていない茜の健康状態を考えて……」
「体よく押し付けようとするな。こんなでかいスイカ、いつまで食べ続けることになるか」
「……チッ、仕方ない。半分俺が食うから、お前も半分引き受けろ」
 圭はスイカを手にして、ほとんど使っていない台所へ立った。贈答用の良いやつだろうに、ノルマ扱いされるなんて不本意だろうよ。
 圭は俺の方を振り向いた。
「せっかくだし、スイカ割りでもするか?」
「誰がするか」

 圭が切り分けた不揃いなスイカを齧る。スイカを食べるのも、圭と一緒に食事をとるのもかなり久しぶりだった。
「最近調子はどうだ?」
「別に。いつも通り」
「前回の仕事の後、待ち合わせ場所に来なかったな」
 その言葉でスイカを持つ手が止まった。
 前回の仕事、それは波瑠と途中で逃げ出した時のことだ。波瑠とのことで頭がいっぱいで、圭から何も連絡がこないことに違和感を抱いていなかった。
 仕事を途中で投げ出したのは初めてだ。仕事に対して厳しい圭からどんなことを言われるか。想像しただけで体がすくむ。
「それは……」
「別に責めている訳じゃない。後日、依頼者から追加の入金と依頼者情報詐称についての謝罪があった。仕事の信用に支障がないのなら、俺から言うことはない」
 圭は俺に目もくれず、スイカを齧った。
「ただな、一言くらい連絡入れろ。心配するだろ」
 心配とか……そんな普通の感情、普通じゃない俺達の関係にある訳ないだろ。
「ああ、食った食った」
 そう言って圭はティッシュで指と口元を拭う。
「残りは適当に食べてくれ。ああそうだ、これ……」 
 本の入っている紙袋から、茶封筒を取り出した。既に封が切られている。
「何だよ、それ」
「俺はもう必要ないから茜にやるよ。佐伯波瑠の身辺調査結果」
「……は?」
 思いもよらない単語に頭が真っ白になった。
「茜が仕事以外で他人と関わることなんて今までなかったからな。探偵を雇ってちょっと調べさせてもらったけど、なかなか興味深い経歴を持ってるんだな。今は……」
「やめろ!」
 腹の底から声が出た。波瑠のことを波瑠以外の人間から知るなんて我慢できなかった。
 圭はその封筒を俺の目の前に落として、立ち上がった。
「ソレは見るなり処分するなり好きにしてくれ。また次の仕事の時に迎えに来る」
 それだけ言い残して圭は去っていった。

『もしもし、茜君?』
『最近変な男が声をかけてくることはなかったか!?』
『え、変な男……? 特になかったけど、どういう事?』
『いや、何もないならいいんだ。忘れてくれ』 
 圭は波瑠に直接接触してはいないみたいだ。ひとまず安心した。
『それにしても、茜君から電話くれるなんて嬉しいなぁ』
 そう言われて、ぐっと言葉に詰まる。圭の言動から慌てて波瑠に電話したはいいけど、その先の心の準備はまだできていなかった。
『茜君?』
『何でもない……その、次のことなんだけど……いつ会える?』
 どうしてこう、さらっと言えないんだ。
『うん。それじゃあ、明々後日はどうかな』

 次の待ち合わせを決め、少しだけ話して電話を切った。ドサッとベッドに倒れこむと、謎の達成感があった。

「やあ、茜君。この前ぶりだね」
 待ち合わせ場所の公園にやってきた波瑠はそう言って笑った。
「そうだな。今日はどこ行くんだ?」
「たまには茜君が決めてよ」
「え……」
「茜君が決めるデートプラン、興味あるなぁ」
 そう言って波瑠は期待に満ちた瞳を向けてくる。
 そんな風に振られるとかえって頭が回転しない。デートという単語だけが頭を空回りしている。
「こういう時は思いついたものをパッと言わないと、余計にハードル上がっちゃうよ?」
 思いついたものを、パッと……
「じゃあ、家……?」
「わお、大胆」
「今の発言は忘れてくれ……!」
 自分の言葉にいたたまれなくなって顔を手で隠そうとすると、その手を波瑠が掴んだ。
「じゃあ今日も私が連れまわしちゃおっかな。いいよね?」
 そう言って彼女は俺の顔を覗き込む。そしてニッと笑うと、背を向けて歩き出した

「私ね、茜君とやりたいことがあるんだ。でもそれにはまず買わないといけないものがあって。平日の昼間とはいえ他にお客さんはいるだろうし、茜君はちょっとここで待っててくれる?」
「いや、俺も行くよ」
「本当に大丈夫?」
 波瑠が心配そうに首を傾げる。
「ああ。もう克服したんだ」
 本当は全然そんなことなかったけど、今日は少しでも波瑠と一緒にいたい。
「そっか、分かった。怖くなったら私の手、握ってもいいよ?」
「そんなことするか」
 軽口を叩きながら歩いていく。周囲の景色は住宅街から繁華街へと変わっていった。平日の昼間だからそこまで人は多くないけど、反射的に体がすくみそうになる。
「こっちだよ」
 そう言って急に波瑠は俺の手を握った。その温かさで緊張が解ける。
「ここ、入るね」
 波瑠がそう言って入ったのは、某有名ディスカウントストアだった。店内には社名を繰り返す音楽が流れ、特徴的で派手なPOPが棚を飾る。どんな店かはテレビで見て知っていたけど、実際に入ったのはこれが初めてだった。
「んー……多分三階かな」
 エスカレーター付近の案内表示とにらめっこして、波瑠が呟く。三階へ移動すると、そのフロアには子供向けのおもちゃやら何かのアニメのグッズやら、とりわけカオスな空間が広がっていた。
「波瑠、ここで何を買うんだ?」
「ふふん、よくぞ聞いてくれました」
 波瑠は上機嫌に振り向く。
「私達って、学校に行ってないでしょ。だから青春ごっこ、しようよ」
「青春ごっこ?」
 波瑠は棚の間をすり抜けていく。そして、ある商品を手に取った。
「青春と言えばまずはこれじゃない?」
 そう言って見せてきたのは、ブレザーの制服だった。
「私、ブレザーって憧れだったんだよね。中学は一応、セーラー服だったし。高校は可愛いブレザーのところにするぞーって決めてたんだけど、まあ、色々あってね」
 そう言って悲しそうに顔を逸らした。自分の過去に触れるとき、波瑠はそんな顔をする。だから詮索しないと決めた。
 波瑠はパッと俺の方に顔を上げた。
「だからね、今日は憧れの制服を着て、なんちゃって放課後デートをしたいなぁって。いいかな……?」
「好きにすればいいんじゃないか」
「やったぁ、ありがとう! それで、こっちなんだけど……」
 波瑠はラックから取り出した商品を遠慮がちに見せた。
「茜君はブレザーと学ラン、どっちがいい?」
「って俺も着るのかよ?」
「だって一人だけじゃ寂しいじゃん! 茜君も一緒に着ようよ! ……それとも、本当に嫌?」
 波瑠は不安そうに俺の顔を覗き込む。いつもは強引なのに、そうやって引いてくるのはズルいと思う。
「しょうがないな」
「えへへ、ありがとう」
 そう言って満面の笑顔を見せた。

 俺達はトイレでそれぞれ制服に着替えることになった。俺は波瑠の希望で学ランを買った。
 今まで制服には縁がなかった。かといって特に憧れもなかった訳だけど、まさかこんなタイミングで着ることになるなんてな。
 ただこんな真夏に学ランの上着を着る訳もなく、白シャツに黒のズボンじゃいつもと変わり映えはしなかった。
 着替えて外で待っていると、パタパタと足音が聞こえた。そっちを振り向く。
「お待たせー! ちょっと手こずっちゃった」
 その姿に目を奪われる。白いシャツと赤いリボンのコントラスト。シャツの襟口からは鎖骨が覗く。
「えへへ、髪も縛ってみたんだ。どうかな?」
 いつもの長い髪を一つに束ねて、首のラインもよく見えた。でも、それ以上に……
 視線を下に向けると、膝上でチェックのスカートが揺れる。白く伸びる足が眩しくて、目のやり場に困る。いつもはもっと丈の長いスカートで隠しているから、今日はなんか……
「茜君? あ、もしかして、私に見とれてた? なんちゃって……」
「……悪いかよ」
「え?」
「ほら、着替えたんだし行こうぜ」
「あ……うん! 案内するね」

 隣を歩く波瑠は、突然くるっと一回転した。
「ねえねえ、私達、ちゃんと高校生に見えてるかな?」
「学校をさぼってる不良には見えてるかもな」
「ええー、茜君のイジワル」
 そう言って不満そうに頬を膨らませた。
「じゃあ、一緒に学校をさぼってるカップルには見えてるかな?」
「カップルじゃないだろ」
「茜君は今好きな人、いる?」
「いないよ」
「それなら、気になる人は? 一緒にいたいなって思う人」
 いないって言えばいいのに、言葉に詰まった。
「ああ! その反応はいるんでしょ! ねえ、どんな子?」
 無邪気に体を寄せてきた波瑠と目が合う。俺は顔を逸らした。
「俺と違って、明るくて人生楽しそうな奴」
「へぇ、そういう子が好みなんだ。歳は? どうやって知り合ったの?」
「俺ばっかりは不公平だろ。波瑠も答えろよ」
 俺の言葉に波瑠は口元に手を当てて考える素振りを見せた。
「んー、私の好きな人は、優しくって一緒にいて楽しい人だよ」
 そう答える波瑠は相手を思い出して顔が赤くなっているように見えた。
 波瑠は「気になる人」じゃなくて「好きな人」と言った。俺とは全然違うソイツが羨ましくて胸が焼けそうになる。それはそうだ。もし俺が女だったら、俺みたいな陰気な奴、彼氏になんて絶対したくない。
 波瑠がどうして俺と一緒にいるのか、自信はない。でも隣にいることが許されるなら、「もっと近づきたい」と欲を出してもいいのだろうか。

 波瑠が立ち止まったのは、一部がガラス張りになった、楕円形の大きな建物だった。
「ここで青春っぽいことをしたいんだ」
 そう言って波瑠は建物の中へと入って行く。後に続くと、広い空間の中に本棚がずらりと並んでいた。
「ここって図書館?」
 小声で波瑠に尋ねる。
「正解。それでね、目的は二階にあるの」
 波瑠は階段を上っていく。二階の本棚の間を抜けていくと、ガラス張りになったいくつかの小部屋が並んでいた。それぞれの部屋には長机と、壁にはホワイトボードが用意されている。
 利用者はまばらで、一人でパソコン作業をしている人や、ホワイトボードで会議をしている人達がいた。波瑠は一番奥の空いた部屋に入る。
「ここはフリースペースになっていてね、会議とか勉強とか自由に使えるの」
 そう言って椅子に着く。俺も向かいに座った。
「放課後に一緒に勉強するのってちょっと憧れだったんだよね。『ここ教えてー!』とか言って、分からないところ教えあって勉強するのって、一人でやるより絶対楽しいよね。茜君は高校の勉強してる?」
「しないな」
「そっか。やってみると結構面白いんだよ。例えば生物だと、私達の体はたくさんの細胞が集まってできてるんだけど、その細胞の中にはいろんな役割をする細胞内小器官っていうのがあってね。その中でもミトコンドリアっていうのが、エネルギーを作り出す役割をしてるんだ。エネルギーを取り出す過程が分かると、私達の体ではこんなに難しいことをやってるのかって感心しちゃった」
「そうだな。あとは、ミトコンドリアにはDNAがあって、それは母親由来のものしか遺伝子しないとかな」
 俺の言葉に波瑠は目を丸くした。
「え、そうなの!? というか、茜君よくそんなこと知ってたね」
「まあ、最近ちょっと読んで……」
 圭が持ってきた本はいつもジャンルがばらばらで、この前ちょうど生物学系の新書を読んだばっかりだった。
「せっかく私が茜君に教えようと思ってたのに、悔しいなぁ」
「これはたまたまだよ。勉強してる波瑠の方がよっぽどすごい」
「勉強してるのは高校受験の時の癖っていうか、何となくやめられなくてね。まあ結局高校には通えなかったんだけど。実際、新しいことを知って面白いなぁとは思ってるんだよ。それに、妹にも教えてあげられるし」
「妹がいるのか?」
「うん。3つ年下でね、明るくて可愛くて人付き合いも得意なんだよ」
「それなら姉に似たのかもな」
「……そう、かな」
 波瑠は顔を逸らして、少し笑ったように見えた。
「でも、やっぱり茜君に負けてばっかりは悔しい!」
「別に勝ち負けじゃないし、負けてばっかりってほどじゃ……」
「桜の時! あの時も茜君だけ花びらを掴んで、私は出来なかったから」
 桜並木を歩く波瑠の後ろ姿が頭に浮かぶ。あの日の出会いから全てが始まったんだ。
「じゃあ数学は? 『虚数』っていうのを最近勉強したんだけど、茜君知ってる?」
「いや、知らないな」
「よし! それなら波瑠先生が教えてあげましょう」
 そう言って波瑠は機嫌がよさそうに立ち上がった。そして置いてあったホワイトボードマーカーを手に取る。
「虚数単位iっていうのがあってね、i×iはマイナス1になるんだ。でも同じ数を掛け算したら、答えはマイナス1になんてならないはずだよね。つまり、そんな数は現実に存在しないの」
 波瑠はホワイトボードに筆記体のiを書いた。
「じゃあどうして虚数なんてものが必要なのか。それは虚数を使うことで計算できる範囲が広がるからなんだ」
 それから波瑠は虚数を使った計算をホワイトボードが一杯になるまで書いて説明してくれたけど、予備知識が足りない俺の頭ではついていけなかった。ただ、上機嫌で数式を書いていく波瑠が可愛くて、ずっと見ていられた。
 区切りがついたのか、波瑠はマーカーにキャップを付けた。そして俺と目を合わせる。
「アイは想像上のものだとしても、その存在が私達の世界を広げるって何だか神秘的じゃない?」
 そう言って微笑む波瑠とその言葉が頭に残った。
 波瑠へ向けたこの感情は愛と呼べるものかまだ分からない。自分とは無縁だった恋愛感情なんてものは、想像上のものでしかない。でもこの感情のせいで、俺は苦手な繁華街を歩いて、制服のコスプレをして、一緒にいたいと思える人の側で笑っていられる。知らない世界を見ることが出来た。
 分からないのなら、分かるまでこの感情を握りしめていればいい。
「波瑠、色々教えてくれてありがとう」
「えへへ、どういたしまして。じゃあそろそろ帰る支度をしよっか」
 波瑠は俺に背を向けて、ホワイトボードに書いた数式を消し始めた。立ち上がって波瑠の後ろまで近づくと、忙しなく動くその手首を掴む。
「え?」
 波瑠は驚いたように振り向いた。
「ホワイトボードを掃除するのも、青春ごっこの相手役をするのも、全部俺がやるよ。波瑠のやりたいことは何でも俺が叶えるから、これからも側にいさせてくれないか」
 波瑠が優しい男を望むなら、全力で優しくする。波瑠を楽しませられるかは全く自信がないけど。今はこんなダサい事しか言えない。波瑠に本命の男がいるとしても、俺は側にいたい。
 波瑠は驚いた顔からふっと笑顔を見せて言った。
「私にとって茜君は特別な人だよ。私の方こそ、側にいさせてよ」
 この言葉がただの社交辞令だったとしても、今はそれでもいいと思えた。

 片付けをして図書館を出ると、空には灰色の雲が立ち込めていた。
「雨、降りそうだね」
 波瑠の言葉の通り、街を歩いているとぽつぽつと雨が降り始めた。近くのシャッターが閉まった店先に急いで避難する。
「ちょっと濡れちゃったね。シャツが張り付くのってなんか嫌な感じ」
 そう言われて無意識に波瑠の方を向いた。白いシャツから肌色が透けて見えるのが生々して、慌てて顔を逸らす。
「か、傘買ってくるよ」
 雨の中に出て行こうとすると、波瑠が俺のシャツの袖口をくいっと引っ張った。
「茜君がもっと濡れちゃうよ。雨が止むまで一緒に待っていよう?」
「分かった……」
 波瑠の方を見ないように、雨の降る街を眺める。それなのに、波瑠のいる右側に意識が向いて落ち着かない感じがした。呼吸が浅くなる。
「ねえ、この前『運命があるか』って話したの、覚えてる?」
「あ……ああ、覚えてるよ」
「保留にしてた私の考えなんだけどね、運命はもしかしたらあるのかもしれないけど、あんまり信じてないかな」
「どうして?」
「私ね、病気のせいで学校に行けてないの」
「え……?」
 波瑠が……病気?
「安心して、今は体調大丈夫だから。部屋で横になっているよりも、外に出たほうがよっぽど調子いい気がするし。それで、私の病気がこの先どうなるかがもし運命で決まっているとしても、そんなのを信じる気はさらさらない。だから好き勝手に眩しく生きようと思うの」
 そう言うと波瑠は俺の腕を掴んで引き寄せた。目が合うと波瑠はニッと笑った。
「私がいま茜君といるのは私の意思。だって私達がニセモノの制服を買って街を歩くなんて運命、神様が決めてたらユニーク過ぎない?」
 その言葉に思わず吹き出した。
「ふはっ、それはとんだ変態だな」
 俺につられて波瑠も笑いだす。
「でしょ? だからきっと私達の未来はこれから好きに出来るんだよ」
 波瑠がそう言うから本当にそんな気がした。波瑠の言葉には惹きつける力がある。
「もしさ、私達がクラスメイトとして出会ってたらどうだったんだろうね。こんな風に一緒に雨宿りしたかな」
「接点ないし、ただのクラスメイトAだったんじゃないか?」
 波瑠は明るくて可愛くて、きっとクラスの人気者になっていただろう。それに比べて俺は人付き合いが苦手な暗い奴で、そんな俺達が関わるはずない。
「ええ、そうかな? 小湊と佐伯だから、名簿順で前後の席になってそれがきっかけで話す様になったかも」
 明るい日差しが差し込む教室。がやがやと話をするクラスメイト達。ふと後ろの席を振り向くと制服姿の波瑠が俺に笑いかける、そんな都合のいい妄想が頭に浮かんで、慌ててかき消した。
「波瑠は初対面でも構わずに距離詰めてくるからな。俺のことが好きなんだと勘違いした男達が被害者の会を作りそうだな」
「もう! 別にそんなことしないもん」
 そう言って抗議するように肩で小突いた。
「茜君は本が好きだから図書委員とかやってそうだよね。お昼休みは図書室のカウンターで難しい本読んでそう」
 架空の学校生活でも俺はボッチなのかよ。まあ、男友達が出来るのなんて想像もできないけど。
「それで、暇そうだから私が遊びに行ってあげるの。今日は何読んでるのーって」
「波瑠がいたら毎日退屈しなさそうだな」
「それ、褒めてるんだよね? ……ふふっ」
 波瑠は楽しそうに笑った。
「まあ、退屈しないのは今もそうか。お金を渡してデートするなんて聞いたことないからな」
 そう言って俺は財布から百円玉を取り出した。
「ほら、今日の分」
 波瑠は百円玉に手を伸ばして、途中で止めた。
「これを私が受け取らなかったら、今日は本当のデートをしたってことになっちゃうね」
 そんな言葉に心臓が跳ねた。波瑠は試すみたいに俺を見つめている。波瑠は他に気になるやつがいるわけで、それなのに俺はなんて言ったらいいんだろう……
「それは……」
「あ、雨が上がったみたい」
 そう言われて空を見上げる。いつも間にか雨は上がり、青空が見えた。
 その時、手のひらからお金を拾い上げる感触があった。
「残念。帰らなくちゃ」
 波瑠は大人っぽい笑みを浮かべると、先を歩いて行った。

 その日は本当に珍しく、「買い物に行こう」と思い立った。
 家から一番近い商業施設で適当な服屋に入り、店員に適当に見繕ってもらった。白いTシャツに水色のシャツ。試着すると、顔はいつもと同じなのに体だけは爽やかな男に見えた。
 無駄にデカい紙袋を持って玄関のドアを開ける。今日はさすがに疲れた。ただでさえ仕事以外で他人と話すことはないし、それに全く興味のない「服」について店員に好みを聞かれるのも苦痛だった。さっさと風呂に入って、ゆっくりしよう……
「よう、茜」
「は……?」
 居間に入ると、何故かそこには圭が座っていた。
「今日は検診でもないだろうに外に出るなんて珍しいなぁ」
「おい、勝手に人の家に上がるな。鍵を返せ」
「んなこと言ってもここは俺の名義で借りてるんだから、仕方ないよな。その袋……」
 そう言って俺が手に持った紙袋に視線を向ける。背中の後ろに慌てて隠した。
「それ、まあまあいい服屋のじゃねぇか。茜が自分で服を買いに行くなんてな。女か?」
「うるさい。用事がないなら帰れよ。俺は疲れてるんだ」
 床に紙袋をドサッと置いて、俺はベッドに腰掛けた。
「まあそう言わずにさ。用事はあるんだよ。顧客のリストを前にここに忘れていったと思うんだけど、見てないか?」
「顧客のリスト? そんなの見てないけど」
「事務所の隅まで探したけどないんだよ。そういうわけで、これから家捜しさせてもらうから茜は好きにしてていいぞ」
 そう言って勝手に引き出しを開け始める。
「いや、ちょっと勝手に開けるなって!」
「なんだよ。見られて困るもんでもあるのか?」
 めんどくさそうな顔で俺の方を振り向く。
「……いや、ないけど」
 本当はある。圭が開けている引き出しの隣。無地の段ボールの中に、この前買った学ランのセットが入っている。
 圭がそれを見つけでもしたら、面白がっていじってくるに決まってる。そんな爆弾だと分かっていたのに、何となく捨てることは出来なくて箱に仕舞ったままになっていた。
「その辺は物が多いから俺が探すよ。圭はあっちから探してくれ」
「おう、助かる」
 圭は反対にある本棚に向かっていった。はぁ、なんとか助かった。

「いやぁ、手伝わせて悪かったな」
「ほんとだよ」
 結局、顧客のリストは前回圭が本を入れて持ってきた紙袋の中に紛れていた。本当に人騒がせな奴だ。
「そう言えば、もうすぐ母親の命日だろ。今年はどうするんだ」
 ああ、そう言えばそんな時期か。でも答えは決まっている。
「行くわけないだろ」
 母親の命日には親戚が集まって坊さんにお経を読んでもらうんだと昔、圭が言っていた。俺を毛嫌いしている人たちのところにわざわざ行く意味が分からない。それに向こうも俺が来ることを望んではいないだろう。
「そうか、分かった」
「なんで毎年聞いてくるんだよ。どうせ行かないのに」
 どうせ俺が行かないって言うに決まってるのに、圭は毎年同じことを聞いてくる。その意図はよく分からなかった。
「俺は家族の縁を切られてるからどうしようもないけど、お前にとっては母親だろ? あんな親戚連中が何て言ってもお前には命日に会いに行く権利があるからな」
 そう言って煙草に火をつけてふかした。
「おい、家の中でタバコ吸うなよ」
「ああ、悪い」
 圭は素直にタバコを携帯灰皿にいれた。思えば、一緒に暮らしていた時は圭がタバコを吸っているところを見たことがなかった。
「圭はどうして縁を切られたんだ」
 俺の言葉に圭はちらっと視線を向ける。
「知りたいか?」
「まあ……」
 そう言えば一度も聞いたことがなかったと思った。
「別に大した訳じゃないんだ。俺が茜くらいの歳の頃、それはもう悪ガキでよく警察の世話になってな。それで裏社会の人間ともつるむようになって、いよいよ縁を切られたってわけ」
「後悔してないのか?」
「あ? 後悔なんてしてないさ。遅かれ早かれ俺は裏社会の人間になっていた。真っ当な人生なんて俺には無理な話だったんだよ」
 そう話す圭は、どこか寂しそうにも見えた。圭は膝に手をついて立ち上がる。
「それじゃ、目的のものも見つかったことだし俺は帰るわ。また次の仕事の時に迎えに来るからな」
「あ、ああ……分かった」
 圭の弱さを初めて見た気がした。そんなことは知り合って何年も経つけど初めてだった。

 波瑠との待ち合わせには十分も早くついてしまった。いつもと違う恰好をしているだけでそわそわして何だか落ち着かなかった。
「お待たせー!」
 その声に振り向くと、向こうから波瑠が走って来ていた。会えただけで嬉しくて、勝手に鼓動が早くなる。
「待った?」
「いや、今来たところ」
「そっか、よかったぁ……」
 そう言ってふわっと笑った。そんな無防備な顔はやめてくれよ。俺がどれだけ平然を保とうと努力してるかも知らないくせに。
「今日は特に行き先決めてないんだ。だから、おしゃべりしながらお散歩しようよ。知らない道に入っちゃったりしてさ、新しい発見があるかもしれないし」
「分かった」
「じゃあ、とりあえず駅と反対方向に歩いて行って、突き当ったらじゃんけんして右と左どっちに行くか決めようよ。何回曲がったかは茜君覚えておいてね?」
「最後は人任せかよ」
 駅と反対方向に歩きだす。日向を歩いていても、前回のデートの時みたいに肌を焼く様な暑さは感じられない。最近は段々と気温が下がって過ごしやすくなってきた。もうすぐ夏も終わりなのかもしれない。
「あれ、今日の茜君はいつもと雰囲気違うね」
 その話題に触れられてギクッと肩が跳ねた。
「そう、かな……」
「うんうん。いつもの恰好よりも爽やかでいいと思う。もしかして、例の『気になる人』の影響かな?」
「それは……」
 俺は言葉に詰まった。
「ううん、やっぱり聞かないでおく。だってあんまり聞いちゃうのもよくないもん。でもとにかく私が言いたかったのは、その服素敵だねってこと」
「ありがとう」
 大変な思いをしたけど、それなら買ってよかった。
「そう言えば茜君、この前のデートで買った制服はどうした?」
「タンスの奥に厳重に保管した」
 この前圭が勝手にやってきた時の反省を踏まえて、簡単に見つかれないようなタンスの奥の奥へ仕舞った。
「ふふっ、気持ちわかるなぁ。私も中身の見えない袋に入れて引き出しにしまったよ。見つかったら色々言われそうだもんね」
「絶対面倒なことになるな」
「だよね。これからもっと涼しくなったら、冬服も着てみたいな」
「そうだな」
 紺色のブレザーを着て、袖口からはベージュ色のカーディガンが覗く。そんな波瑠の姿を勝手に妄想してしまう自分は脳内を侵されているんだろう。
「ねえ、こんなところに神社があるって知ってた?」
 そう言われてふっと現実に思考を戻すと、右側にある細い路地の先に小さな神社があった。
「いや、知らなかった」
「せっかくだからお参りしていこうよ」
 石畳を歩いていくと、鳥居と本殿が近づく。ここに入っただけでなんだか神聖な気持ちがした。
「別にすごく神様を信じてるってわけじゃないんだけど、昔から神社ってちょっと好きなんだよね。空気が澄んでる感じがするし、お参りすると『いいことした』って気分になるし」
 そう言うと波瑠はあたりを見回した。
「どうした?」
「うん。ここにはないみたいだけどおみくじ引くのも好き。大吉とか凶とかで一喜一憂しちゃうんだけど、そういうのも楽しいよね」
「悪いのが出るかもしれないのに楽しいのか?」
「凶が出たらその時は『ああー、凶かー』って思うけど、凶ってことはこれからは上がるしかないってことでしょ? それにおみくじに書いてあるのはいい事だけ信じてればいいの。そうしたら嫌なことなんて一つもないよ」
 そう言って笑った。
 波瑠は本当にいつも前向きですごいと思う。波瑠だって病気で学校に行けなくてつらい思いをしてるだろうに、俺みたいに卑屈にならないで明るく過ごしている。俺もそんな風になれたらよかった。
「確かに、そうかもな」
 そんなことを言っていると本殿の目の前までついた。波瑠はバッグから小さなポーチを取り出す。
「いいご縁がありますようにって、いつでも五円玉はポーチに入れてるんだ」
「準備がいいな」
 財布の中を探すと五円玉はなく、五十円玉があったからそれを掴んだ。どうせなら金額が高いに越したことはないだろ。まあ、もうこれ以上の縁なんて望まないけど。
 お賽銭を投げ入れ、手を合わせた。何を願うかは特に決めていなかった。あんまり長くしても波瑠を待たせるだけだ。

 もしも願いが叶うなら、波瑠の一番近い存在になれますように。

 そう咄嗟に願って、これが俺の一番の願いなんだと自覚した。不幸の夢を見なくなることより、あの仕事を辞められることより、波瑠の一番近くにいられることが俺にとって最も大切なことだったんだ。
 目を開けると、隣で微笑む波瑠と目が合う。
「茜君が何をお願いしたのか気になるな」
「言わないよ」
「うん、私も言わない。これはトップシークレットだからね」
 おかしな言い方に思わず笑ってしまう。うん、これは一番の秘密だ。そんな不相応なことを神様に祈ったなんて絶対に言わない。

 俺達は神社を出て、さっきまで歩いていた道に戻った。
「ちょっと小腹が空いてきたよね」
「まあそうだな」
「茜君は甘いのとしょっぱいのどっちの気分?」
「腹に入ればどっちでもいいけど」
「あえて言うならだよ。さあ、どっち?」
「じゃあ甘いの」
「うんうん、私も甘いのが食べたい! ちょうど突き当たりだし、曲がったらいいお店あるといいね」
 そう言って波瑠は手を出す。じゃんけんをして、俺が勝ったから右に曲がることになった。
「茜君!」
 波瑠が嬉しそうに俺の方を振り向く。
「ああ」
 曲がったその先には、たい焼きの看板をぶら下げた店が見えた。
 近くまで行くとその店は年季の入った佇まいで、ガラス張りの中では店主のおばさんが慣れた手つきでたい焼きを作っているところだった。
「見てみて! 今作ってるところだよ!」
 ガラスの前で波瑠がはしゃぎだす。その子供みたいな無邪気さが可愛くて口元が緩みそうになる。
「見てるのもいいけど、今のうちに注文決めておこうぜ」
「うん! そうだね」
 レジの隣にはメニュー表が置いてあった。開業三十周年記念の特別価格で全てのメニューが百円になっている。
「定番のあんことクリームもいいし……黒ゴマも美味しそう……ああでも、季節限定の冷やしたい焼きも捨てがたい……」
 今度はメニュー表に釘付けになっている。
「せっかく特別価格なんだし、好きなだけ買えばいいだろ」
 俺の言葉に、頬を膨らませてこっちを振り向いた。
「もう! そんな惑わせるようなこと言わないでよ! ほんとはそうしたいけど、全部食べたら太っちゃうからダメなの!」
 そう言われて、波瑠の細くて白い腕が目に入った。
「もっと太っても問題ないと思うんだけど」
「男の子はすぐそんなこと言う! 女の子には女の子の事情ってものがあるんだからね」
 よく分からないけど、これ以上つっこんでもいい事がなさそうだから口をつぐんだ。
 レジに店主がやってきて、俺はクリーム、波瑠はあんこを注文した。財布から百円を取り出したとき、隣からガサゴソと音がして目を向ける。波瑠は必死にバッグの中を漁っていた。
「どうした?」
 その声に顔を上げた波瑠は顔をひきつらせた。
「どうしよう。財布置いてきちゃった……」
 俺は財布から百円をもう一枚取り出して、店主に渡した。
「え、いいの……?」
「どうせ今日も百円払うんだから、ここで出すのと変わんないだろ」
 俺は店主から二つのたい焼きを受け取った。まだ温かい。
 その時、メニュー表の下の方に書いてあった「夏季限定」の文字が目に入った。
「すいません、これも二つください」

「温かいたい焼きとキンキンに冷えたラムネなんて最高だよ! 茜君ありがとう!」
 波瑠は満面の笑顔をみせた。
「それはよかったな」
 温かいたい焼きだけじゃ喉が渇くだろうと思って買い足したラムネは、波瑠の心に刺さったらしい。
 たい焼き屋からさらに進んでいくと、ブランコと水飲み場しかない小さな公園があったからそこに避難する。
 波瑠はたい焼きを俺の方に差し出した。
「ラムネ開けるから、ちょっとたい焼き預かってて」
「おう」
 そうして片手を自由にすると、ラムネの口に手を思いっきり押し当てた。
「ふぅ……っ! ふぅぅ!」
 全力なのが伝わってくるくらい顔まで赤くなっているが、ビー玉はびくともしない。
「はぁはぁはぁ……もうむり……茜君開けて……」
 そう言って疲れ切った様子でラムネを渡してくるから、持ち物を交換する。ふっと力を籠めると、カランと軽い音が鳴ってビー玉が中へ落ちた。
「わぁ、すごい!」
「ほら、波瑠……」
 そうやってラムネを差し出すと、ラムネの口から泡があふれ出してきた。
「うわ!?」
「わぁ!?」
 ラムネを持った方の手は吹き出した泡でびしょ濡れになる。
「ふっ……あはは! 茜君せっかく開けてくれたのにラムネまみれ!」
「いやちゃんと開けたんだからそんな笑うなよ……くっ、ははっ」
 なんかツボにはまってしばらく二人で笑っていた。
 水飲み場でラムネを洗い流し、ブランコに腰掛けた。二本目のラムネは泡が出てこないように、ビー玉を落としてからしばらく手を押し当てていたらうまくいった。
「それじゃあ、いただきまーす」
「いただきます」
 ラムネに口をつけると、独特の甘さと炭酸の刺激が喉を通っていった。次にたい焼きの頭に齧りつく。中にはこってりとしたカスタードクリームが一杯に入っていた。
「あ、茜君は頭から食べる派なんだね。私と一緒」
「普通は頭からじゃないのか?」
「尻尾派もいるんだよ。尻尾はあんまりあんこが入ってないから、最後にいっぱいあんこが入ってる方がいい人はそっち派なんじゃないかな。ちなみに私は尻尾のカリカリが好きだから、好きなものは最後に取っておく派」
「へぇ……色々あるんだな」
 そう言ってまた一口齧った。
 たい焼きをどっちから食べるかなんて考えたこともなかった。そんな取るに足らないような話、本には書いていない。でも、波瑠の話は面白くてもっと聞いていたいと思えた。
「茜君、ちょっと」
「え?」
 波瑠は俺の顔に手を伸ばした。そして俺の口元を指で拭う。
「クリームついてたよ。子供みたい」
 そう言っておかしそうに笑う。その表情から目が離せなくなって、心音がうるさくなる。
 ……これはきっとそうだ。この叫びだしたくなるくらいの感情が「好き」ってことなんだろう?
「どうしたの?」
「いや……何でもない」
 認めてしまったら今まで以上に波瑠が眩しく見えて、顔を逸らした。

 たい焼きを食べ終えて、俺達は再び歩き始めた。
「……でね、待ち合わせ場所に着くまでに3匹も猫を見かけたんだよ。みんな可愛かったなぁ」
「そうか……」
 隣を歩く波瑠が気になって話が頭に入ってこない。波瑠と手を繋ぎたい。その綺麗な髪に触れたい。小さな体を抱きしめたい。波瑠との距離はほんの少しだけで、ちょっと手を伸ばせば柔らかいその手に触れることが出来るほどだ。でもそんなことが出来る関係なはずもなく、このじれったい気持ちが胸を焼く。俺はこんなにも欲深い人間だったのか。
 前に波瑠が言っていた「好きな人」は彼氏じゃないんだよな……? 彼氏がいるなら俺と二人で会ったりしないだろ。そいつともこんな風に二人で会ったりしてるのか……
「ねえ、茜君聞いてる?」
 突然目の前に波瑠の顔がグイっと現れて、思わず反応が出来なくなった。透き通った瞳が俺を映していて、一気に顔が熱くなる。
「ごめん、聞いてなかった……」
「しょうがないなぁ。また突き当りになったから、右と左、どっちに進むかじゃんけんしようよ」
「そうだな……」
 手を出したその時、スマホの着信音が鳴った。
「ごめん、ちょっと出てくるね」
 そう言って俺に背を向けると、少し離れたところまで走って行った。振り向きざまに見えた波瑠の表情が少し暗くなっていたことが引っ掛かった。

『もしもし……うん、元気だよ……』
 聞き耳を立てているつもりはないが、波瑠の声が聞こえてしまう。
『分かった、明日の十五時ね。……うん、私も会うの楽しみにしてる。またね』
 「会うのを楽しみにしてる」って……声の調子も明るい。さっき暗く見えたのは気のせいだったんだろう。もしかして電話の相手はその「好きな人」なんじゃないか? 
「ごめん、お待たせ」
「今の電話って、前に言ってた好きな奴からか?」
 考えるよりも先に口から出ていた。
 俺の言葉に波瑠は苦しいのを隠すみたいに笑った。
「好きな人がいるなんて本当は嘘なの。つい見栄を張っちゃった」
 この言葉が嘘だなんて俺にも分かる。でもそんなことをさせたのは俺のせいだ。
 どうしてそんな嘘を吐いたのか、なんて聞けない。ここからどう取り繕っても波瑠を傷つける気がした。俺は取り返しのつかないことをしてしまったのかもしれない。
「このあと用事があったのを思い出したの。今日はここでお開きにしよっか」
「分かった。また連絡する」
 いくら強引に別れを切り出されたって、引き留めることは出来ない。でもせめてそれだけは言いたかった。
「うん、バイバイ」
 波瑠は「また」とは言ってくれなかった。

 その翌々日、思い切って波瑠に電話をかけた。出てくれなかったらどうしようかと思ったけど、波瑠は電話に出てくれた。
『この前はごめんね……』
 波瑠は開口一番にそう言った。
『いや、俺の方こそ無神経なこと言ってごめん。もう聞かないから』
『ううん、私の方こそ……』
 重たい空気が電話越しに流れる。ただでさえ顔が見えないのに、こんな調子じゃダメだろ。せめて、波瑠を明るい気分にしてやりたい。
『そう言えば、今朝テレビのCMで猫の特番やるって言ってたな。そういうのは興味ないか?』
『え、本当!?』
 波瑠のテンションが急上昇して、ホッと胸を撫でおろす。
『明日の夜8時からって言ってたかな』
『ありがとう! 絶対観るよ!』
 よかった、いつもの明るい波瑠だ。今なら聞きたかったことも聞けるかもしれない。
『なあ、次はいつ会える?』
 思い切って口にした。たったそれを聞くだけで心臓がバクバクと鳴る。こんなに緊張しているのが電話越しにばれないといい。
 波瑠はすぐに返事をしなかった。これは予定を考えてくれているのか、それとも断る口実を探しているのか……
『……ごめん、これからはちょっと忙しくて。しばらく会えそうにないんだ』
 その返答にショックで膝をつきそうになる。申し訳なさそうな声色がせめての救いだった。

 次の電話も、その次も、波瑠は次の会う予定の話をしなかった。段々と電話の頻度も少なくなっていって、ついに「縁を切られたんだ」と悟った。
 最後に会ったあの日、やっぱり不用意に足を踏み入れるんじゃなかった。きっと波瑠は「好きな人」となにかあったんだろう。それなのに俺がその傷口をつついてしまった。波瑠に近づこうとすると、ぐっと距離が離れる。傷つけない訳じゃ決してないのに上手く行かない。それは俺が今までいい加減な人づきあいをしてきたツケなんだろうか。
 人生で一番大切にしたいと思える人を失ってしまった。好きという感情を手にした途端に零れ落ちていった。俺からもう電話なんて掛けられない。波瑠に「電話をかけてこないで」と言い出されるのが怖い。そんなことを言われたらもう立ち直れる自信がなかった。
 心が絶望の真っ黒な闇に染まっても、無常に時間は過ぎる。味がしなくても食べなくては腹が減るし、仕事を逃げ出すこともできない。波瑠を失った日々は、また希望も何もないただ生かされているだけの毎日に逆戻りした。

 そんな風だから、「今日会える?」と朝一で電話が来た時、叫び出したくなるほど嬉しかった。