いままでは、僕と言っていたが、ここから私と呼ぶ。
それは、大人になったからだ。
日本の大学にも行ってみることにした。
何事も体験しないとわからないと思ったからだ。
しかし、1ヶ月で行くのをやめた。
18歳だった。
私の両親は口を酸っぱく言うたちではなかったが、僕がお金を持ち合わせていないことは知っていた。
案の定、大人たちのボヤキが選挙カーから流れるスピーカーのように流れ出した。
「大学を辞めて、どうすんだ?フリーターなら仕送りはしないからな」
こうして、18歳を過ぎても子供扱いする大人であった。
私のことを、親不孝者と呼ぶ人は多いだろう。
けど、親は尊敬している。
この年まで育てるために汗水垂らして労働をして、自分の本当の望みを捨て我慢してきたことに同情もしている。
ドバイのオンライン講座も短期海外留学もこころ良く払っていた。
だが、私は人の心を聞けてしまう。
お父さんの心の声はこうやって言っていた。
「これだけお金をかけ、最先端の授業を受けているのだ。うちの息子は、優秀に働くに違いない。」
子供に期待をしているのだ。
そして「お金を払ったから普通以上の安心した生活ができる安堵感」があった。
お父さんの言いたいこともわかる。
ただ、日本のいまの教育システムのビジネスありきの大学では、限界があることが分かってしまったのだ。
本当の望みから外れていることが分かっているのに、突き進んだ自分が浮かぶ。
いつかみた、システムだから仕方ないと飽きらめ、可能性を見出さず生徒にしかあたることのできない反面教師だ。
わたしは、辞めて1ヶ月あてがなかった。
仕送りも打ち切られた。
けど、できるという信念があった。
その時だった。ドワール先生から一通のメッセージが届いた。
一緒にドバイで教養について、改革を起こそう。
その手伝いをしてほしい。
補助金で、宿舎報酬もでる。なんなら、補助教授として給料も出る。
国の支援でAIと教養が進んでいる。
日本と違い年齢など関係ないのだ。
価値の有る人間には、若いうちからいくらでも出す。
世界から日本の教育が置いてきぼりな理由が分かった気がする。
ぼくは、メッセージを打ってドバイへ行った。
大人たちの資本のボヤキは、できないと思うからできないのだ。
資本主義の仕組みを知れば、お金はそもそも無限なのだ。
有限と思っているから、ぼやくのである。
貯金額にこだわるのである。
紙幣を100万円刷りました。
私は、印刷された100万円をもらいました。
その100万円で車とご飯を買いました。
車屋さんは100万円でご飯と部品を買いました。
部品は、私が作ったものです。50万円がまた手に入りました。
ご飯屋さんは、大根を農家から仕入れました。
その野菜は、私が作りました。また私は50万円手に入りました。
このように、お金は循環すればいくらでも手に入る。
「手に入らない」お金を使えないと思えば、お金は手に入ってこない。
できると思えばできる。とてもわかりやすいモノだ。
私は、ドバイで教養についてひたすら学び本を読み論文にした。
その日記を書いていこう。