週明け、学校に行った俺は周囲からの好奇の視線に晒されていた。それもそのはず、今まで目立っていなかった根暗の男子生徒がいきなり目にかかるほど長かった髪をさっぱりと整えて、イメチェンを果たしていたのだから。
 ヒソヒソと噂話をする声が聞こえるが、それはどれも悪い内容ではないように思う。加えて、文化祭では彼女を名乗る超絶美少女が遊びに来ていたのだ。噂となるには、充分すぎるほどであった。

「高崎くん、何か変わった?」
「文化祭のステージ見てたよ!」

 クラスの女子からそう声をかけられるのも、これで今日三度目である。水野によって俺をかっこよくするというミッションは、どう考えても成功であった。
 後は、早川さんの反応次第。程なくして教室に入ってきた早川さんが、皆の視線に釣られて俺を確認する。そして、確かに二人の視線が交錯した。そのことに、思わず息を飲む。
 早川さんはそんな俺ににこりと微笑みながら近付いてきた。

「高崎くん、髪切ったんだね。いい感じだけどどうしたの?」

 震えた。比喩でなく本当に体が震えたと思う。
 以前までであればこうして早川さんが話しかけてくれるなんてありえなかった。これは、文化祭の発表で距離が近くなったというのもあるだろうが、早速成果が出ているように思えた。ただ容姿を変えるだけでここまで変化が出るものなのだろうか。

「えっと、イメチェンかな」
「似合ってる! かっこいいよ」

 早川さんの言葉に脳が蕩けそうになる。かっこいい? 俺が?
 いや、お世辞だろう、お世辞だろうけど。嬉しくて堪らなくて飛び上がりそうになる。心の中で最大級の感謝を水野に伝え崇め奉る。

「早川さんにそう言ってもらえるなんて光栄だよ」
「……」
「……?」

 早川さんが急に黙ったことに何か下手なことを言っただろうかと不安になる。

「その早川さんっていうの、凄く他人行儀な気がしない? 紗奈でいいよ」
「え、いいのか?」

 俺の知っている限りで早川さんのことを下の名前で呼んでいる男子は樋口だけであった。その特別枠に俺なんかが入れるというのが信じられなかった。

「いいよ、高崎くんにはそう呼んでほしいの」

 それは一体どういう意味なのだろうと、はやる心を理性で何とか押さえつける。

「分かった……」
「うん、なんか堅苦しい感じがしちゃうしさ。同郷のよしみってことでさ」
「じゃあ、紗奈……?」
「うんうん! 私も陣くんって呼ぶからさ。良いでしょ?」
「分かった」

 紗奈は自慢の輝く笑顔で面映ゆげに微笑む。
 紗奈の甘えるような声で断れるわけがなかった。陣くんなんて、なんと甘美な響きだろうか。早川さんのことを好きな人からすればここまで嬉しい出来事はないだろう。されて嬉しい特別扱いなんて初めてだ。紗奈、と脳内で口に出すだけで照れくささが隠せない。
 関係は、目に見えて進展しているように思えた。
 だが、俺はこれから一体どうしたらいいのだろう。水野と紗奈はもう、もう対面してしまっているわけで俺に彼女がいることはもうバレている。これからアピールしていくことなんて出来るのだろうか。
 それにいくら仲良くなれたとはいえ、あの完璧超人の優男である樋口を差し置いて交際まで持っていける気がしなかった。





「私という存在がバレてるのならもういっそ利用しよう。私に考えがある!」

 放課後にそのことを水野に相談すれば、自信満々に水野はそう言った。
 その元気に溢れた姿を見ていれば、前回別れるときに感じた、もう会えないかもしれないという心配は杞憂だったと肩透かしを感じた。そんな気配は微塵も感じさせずにけろっとしている。

「利用するって言ったってどうするんだよ」

 俺の疑問はもっともだ。彼氏持ちにアタックするのが後ろめたいのと同様に、紗奈だって彼女持ちに下手に迫られれば俺の印象が最悪になりかねない。今やろうとしていることは、人道に反していると言われても仕方ないことなのだ。
 だが、水野には何か策があるらしかった。

「この状況を打開する方法。それは……ダブルデートに誘おう!」

 水野の言葉は全くの予想外であった。
 ダブルデートに誘うだって? 少し考えただけでいくつかの問題点が浮かぶ。

「待ってくれ。どうやってそこまで来てもらうんだ?」

 聞いて真っ先に浮かんだ疑問。まさか俺に誘ってこいなんて言うつもりじゃないだろうな。

「そりゃもちろん、陣くんが早川さんと約束を取り付けるしかないでしょ?」

 その嫌な予感は的中。やっぱりそうなるのかとため息をつく。はっきり言おう、無理である。俺の紗奈に対する感情は、強い憧れで今こうして紗奈と下の名前で思い浮かべているだけで照れくささが滲んで顔がにやけてしまう。こんな状態でまともに話せるとはとても思えないし、話せたとしてもデートの誘いだなんて基礎をすっ飛ばしていきなり応用をやらされている感覚である。

「紗奈を誘うなんて俺には無理だ」

 水野は、俺の言葉に不機嫌さを露にした。

「いつの間に紗奈って呼ぶようになったの」

 俺が不甲斐ないことに機嫌を悪くしたのかと思ったが、呼び方の方が引っ掛かったらしい。

「いや、そっち?」
「そうだよ、私のことは未だに水野なんて呼び方しかしないくせに」
「いや、だって水野はもう水野だろ? もう慣れちゃったから今更下の名前で呼ぶのは逆に変な気がするっていうか」
「あーあー。またそんなこと言うんだ。早川さんのことはあっさり呼び捨てにしたくせに」

 そう言って子供のように膨らむ水野は、年相応の女の子で、普段の達観してどこか冷めた目線で見ている彼女らしさを忘れさせられる。最近は、特に水野が俺に対して打ち解けてきているのを感じる。最初の頃の、無理に彼女を務めようとしている演技臭さが抜けて自然になってきている。これが本来の彼女なのだろうか。
 だが、水野に対する思い入れが増えることが良いことか悪いことかは今の俺にはまだ分からなかった。

「とにかく! 陣くんが頑張ってくれないとこの計画は上手くいかないの。それだけ仲良くなってるなら後はもう簡単だと思うけどな」

 他人事だと思って簡単に言ってるよな。そんな単純な話なら、もっと前に上手くいっているというのに。

「もし誘えたとして……ダブルデートしてどうするんだよ」
「どうするって?」
「樋口もいるだろ。えっと、樋口っていうのは、紗奈の彼氏のことなんだけど……」
「それは私がなんとかします」

 迷いなく言い切る水野に思わずたじろぐ。

「何とかって言ったって」
「とにかく、陣くんが二人きりになれる状況を作ることは私の名にかけて約束する。大丈夫だよ私に任せて」
「……」
「任せて」

 何を根拠にそこまで自信満々なのか知らないが、実際に行動に移すのは俺なのだ。そう上手くいくとは思えなかったが、元々、俺が無理を承知で頼んだことなのだから、体を張るべきだと言われれば返す言葉がなかった。

「分かったよ」

 諦めて、渋々首を縦に振る。水野はその俺の返事を見て満足そうに頷く。

「それで、いつ誘ったらいいんだ?」
「それより先に、どこに行くかかな。無難なのは、遊園地とかが撒きやすくていいけど」

 何とも物騒な理由を呟きながら、顎に手を当て考えている水野に呆れる。

「もう全部任せるよ」

 完全に自分の世界に入っている水野に、お手上げだというように両手を掲げるジェスチャーをする。

「大船に乗った気でいて! そのためにこの間、服を買いに行ったんだから」

 驚いた。確かに、学校では制服だから服を買う意味はないだろうと思っていたが、その時から校外でのダブルデートを計画していたのか。思い付きで行動しているだけかと思ったが想像よりもずっと、考えられていた。
 ふざけているように見えても、周囲からの反応が水野による計画が順調に進んでいることを確信させていた。きっとその脳内では、ダブルデートのその先のゴールまで見透かしているのだろう。任せていれば本当に達成してしまうかもしれないと、珍しく楽観的な期待を抱く。

 もしも本当に叶った時はどうしよう。紗奈と付き合えたら毎日が楽しくて仕方ないだろう。なにせ、今までずっと憧れてきた人なのだから。水野にはいくら感謝しても足りない。そうだ、二人を家に招いて演奏会でも開こうか。二人とも俺のギターを好きだと言ってくれたし気が合うのではないだろうか。
 だが、そこまで考えてある可能性に思い至った。
 もし、現実になったとしてその世界で水野の立ち位置はどうなっている? いくらなんでも今まで通り付き合っているわけにはいかないだろうし、そうなれば関係が変わるんだろうか。だが、紗奈からしたら元カノという枠組みになるはずだし一緒にい るのをよく思わないんじゃ?
 俺はまだ水野に三つ目の願いことを言っていない。それがなくならない限りは水野との関係が切れることはないだろうという確信にも似た信頼があるが、その後の想像がつかなかった。俺たちを繋ぐ願い事という絆がなくなった時どうなってしまうか分からない。水野がいない生活を想像すると何故だか胸に影がかかるのが不思議だった。

「それじゃあ、陣くん。早川さんへのお誘いよろしくね!」

 悩む俺を他所に笑顔でそういう水野を見て、先程安易に了承してしまったのを後悔した。





「ダブルデート?」

 俺の言葉を聞いた紗奈は、不思議そうに首を傾げた。そりゃ、そんな反応にもなる。こういうのはお互いのカップルの仲がいいときにやるものじゃないのだろうか。俺の周りにそんな話は全くなかったため完全に想像だが。
 とにもかくにも、俺の誘いは完全に怪しさマックスであった。面識がゼロではないといえ、最近少し話すようになった男子とその彼女。その組み合わせでデートにいかないかなんて、どう考えても調子に乗っているか、距離感を図り違えている。紗奈の前で俺は恥ずかしさで死んでしまいそうだった。
 やっぱり無茶だったんじゃないか。言うんじゃなかったと後悔に駆られていた。

「伸也に聞いてみないと分からないけど私は全然いいよ」

 だから、紗奈がOKしてくれた時、本当に驚いた。

「いいのか?」
「うん、私もダブルデートなんて初めてだけど、陣くんも来るんでしょ? だったら別に問題ないんじゃないかな」

 これも身だしなみを整えた成果だろうか。それだけでこうも上手くいくとはとても信じられなかった。水野との話で、一番の鬼門であると思った紗奈からの確約は想像以上にあっさりと得られたのであった。

「そ、そう。詳しくはまた連絡するから」

 思わず気が動転して、変に声が上ずる。

「なんで陣くんが焦ってるの。変なの」

 そう言って、無邪気に笑う紗奈を見ていると胸が高鳴ってうるさい。
 達成感を胸に、自分の席に座ればまたすぐに背後から声をかけられた。

「おい、ちゃんと説明しろよ」

 興奮した様子で話しかけてくる隆也がいた。

「急にそんなカッコよくなってるし、何で早川さんとあんなに親しそうなんだよ。それに、文化祭に来てた彼女のことだってまだ聞いてないぞ」

 隆也には未だ諸々の説明を何一つしていなかった。これまで親身に接してくれていたことを考えると、これ以上水野のことを隠しているのは心が痛むところがあった。

「そうだな……ちょっと長くなるんだけど聞いてくれるか?」

 どこまで話すかは迷ったが、水野との願い事という特殊な関係だけを隠して最近あった出来事を話すことにした。
 超可愛い他校の彼女が出来たこと、その彼女にお洒落を教えてもらったこと、早川さんのことを紗奈と呼ぶようになって今度ダブルデートに行くことになったことetc。その全てを、真剣な顔で聞いてくれた。

「俺の知らない間に進展しすぎだろ。で、えっと? その彼女がいるのに、早川さんとも遊ぶのか? なんのためのダブルデート?」

 俺と水野の関係を、純粋なカップルだと話したことから、当然の疑問が飛んでくる。普通に考えたら、付き合っているのに別の人の彼女を寝取ろうとしているなんて想像つかないだろう。

「えっと……文化祭であった時、彼女が紗奈とも仲良くなりたいって言っててさ」
「あぁ、確かに陣を迎えに来た時にちょっと話してたもんな。そういうことか」

 即席で考えた言い訳だったがどうやら納得してもらえたらしい。水野の名前を勝手に使うことにはなったが、それは許してもらえると信じよう。

「なにはともあれ、おめでとう。陣の相手が早川さんじゃないのは残念だけど、彼女欲しいってのはずっと言ってたしな」

 嘘をついている手前、祝福の言葉を素直には受け取れなかった。
 だが、親友に多少嘘をつくことにはなってしまっても、俺と水野の関係は言いふらすようなものじゃない。二人だけの秘密というのも悪くなかった。

「ありがとう。これで隆也と一緒だな」
「一緒どころか先に進みすぎだっての。あんな可愛い子大切にしろよ」

 そう言って心からの笑顔を浮かべる隆也の言葉は少し胸に刺さった。
 普通に生きていれば、俺なんかが水野ほどの可愛い子と付き合うなんてありえなかったのだから。だが、隠すと決めた以上打ち明けることは出来なかった。





「陣くんなら出来ると思ってたよ」
「そんな簡単に……結構大変だったんだからな」
「でも言えたんでしょ? やったね」

 報告した水野は、嬉しそうにそう言った。俺の願い事を叶えても水野にとってはいいことなど何もないだろうに、何故ここまで親身になってくれるのだろうか。だが、それは以前尋ねて強い拒絶を示された話題でもある。
 最後の願いを使えば聞き出せるだろうが、三つ叶え終わった後に待っている何かに比べれば恐怖が勝り、どうでもよかった。俺たちの関係は、この願い事という制度のもと成り立っていると薄々理解していたのだ。

「どうしたの?」

 どうやら、険しい顔になっていたらしい。様々な思考を塗りつぶし外面の笑顔を張り付ける。

「なんでもないよ」
「?」

 水野は、胡乱げに俺の笑顔を見ていたが、問い詰めようとはせず手元のジュースを口に運んだ。俺たちは、いわゆる喫茶店にいた。普段、一人なら入ろうとも思わないようなお洒落な雰囲気に気圧される。年齢層は比較的若めで学生が多いが、奥の席には老夫婦も見える。
 今まで無意識に行先の選択肢から外していたがそこまで身構える必要はないのかもしれない。

「それで陣くん。この後、家に行ってもいいですか?」
「いいよ」

 あれから水野は、たまにうちに遊びに来るようになっていた。今では、両親ともすっかり馴染んでいて俺の居ない時でも来ていいからねと言われる始末だ。仲良くしてくれるのは大変結構だが、俺は冷やかされてたまったものじゃない。
 俺が手を出せないのを良いことに、くつろぎにも貫禄が出てきた。ギターの練習を聞いて部屋に置いてある漫画をベットに寝転んで眺め、たまに夜ご飯まで食べて帰る。良いのだが。良いのだが、流石にくつろぎすぎではないだろうか、ねえ水野さん? 分かってらっしゃいますか?

「作戦会議をしないとだね」

 そんな俺の冷めた視線を無視して、水野は言った。

「お願いします」

 作戦会議とは、勿論今度に控えたダブルデートに向けてである。
 ここまで紗奈との関係を順調に進められているのは誰がどう考えても水野のお陰であった。俺は、その知恵に素直に乗っかることにした。
 その後、本番に向け、みっちりと作戦会議という名の元、指導が行われた。その内容は当日の立ち振る舞いに会話の持たせ方。初歩的なものから応用編まで。おんぶに抱っこではあったが、経験豊富な水野のアドバイスはどれも俺には有意義なもので勉強になった。
 その勉強会の甲斐もあってか、樋口が許可を出してくれたらしく、今週末遊園地に行くことも後日正式に決定した。

「大事なのは、自信。迷ってたり恥ずかしがってる所を見せちゃダメ。自分の行動に自信を持ってれば自然とそれらしく見えてくるから。大丈夫、陣くんはかっこいいよ」

 水野の言葉が、脳内を反芻する。大事なのは自信だと何度も自分に言い聞かせる。
 服装、髪型、とにかく容姿全般は水野から合格点を頂いた。自然な気遣い、話術も教わった。
 後は、俺の覚悟だけだ。俺はこのデートで紗奈に振り向いてもらう。





 迎えた週末。待ち合わせ場所には、俺と水野が既に到着していた。紗奈たちに伝えた時間の三十分前に俺たちは、集合しておくことにしたのだ。
 水野は、また今までに見たことのない可愛らしい服装をしている。桜色のフロントボタンワンピースに腰に巻かれたリボンが華奢な彼女の体を表している。水野らしさを存分に活かした見るものを魅了する服装に、ここぞという時に持つような黒いハンドバックまで持っている。
 会う度に服が変わるが一体何着持っているのだろうか。俺にはその優劣は分からず、そのどれもが勝負服と言って差し支えないように思う。

「陣くん、ちゃんと準備してきた?」
「任せてくれ。ちゃんと沢山寝てきたし朝ごはんも食べた」
「まぁ……うん。それも大事だね」
「いや、冗談だって。ちゃんと言われた通り、会話の内容イメトレしてきた」
「はいはい。それだけ元気そうなら大丈夫そうだね、思ったより緊張してないみたいだし」

 言われて気が付いた。想像していたよりも、今日という日を迎えるに当たって俺に緊張はなかった。以前なら、紗奈が絡むことであればそれだけで胸が高鳴り、視線を交わすだけでどきどきが止まらなかったというのに。心臓は、冷静そのものだった。
 やはり、バンド演奏で大勢の前に立った経験が出来たからだろうか。あそこで人からの視線に慣れて、更に見た目も大幅にイメチェンしたことで自信がついたように思う。今なら、樋口ともいい勝負が出来るのではないかと根拠のない自信が湧いてきていた。

「あれ、お待たせしちゃったかな」

 しばらく水野と会話をしていれば背後から声をかけられて、振り返る。それは予想通り、紗奈と樋口であったがそのあまりの神々しさに俺は目を奪われていた。
 私服というものはどうしてこうも心を揺さぶるのだろうか? 紗奈はそのイメージ通り、涼し気な薄青色のシアーシャツに下半身のラインを出す膝下までの黒のタイトスカートで大人の女性らしさを演出しており至高の出来栄えと言わざるを得なかった。
 隣に並び立つ樋口も、そんな紗奈に全く引けを取らず、その長身に良く似合う爽やかで清潔感溢れる白のロングTシャツにネックレスと、水野に完璧にコーディネートして貰った俺に匹敵するレベルで整っていた。
うちの高校のトップツーが本気を出すとこんなことになるのだなと、気圧される。

「全然待ってないよ。俺たちが早く来すぎちゃっただけで」
「だよね? 絶対私たちの方が早いと思ったんだけどな」

 今は、本来の約束の時間の十分前。充分に余裕のある間隔だし、俺たちが早く集まっていなければ紗奈達に先を越されていたかもしれない。

「高崎とはこないだぶりかな。彼女さんも初めまして、樋口伸也って言います」

 樋口は、その人当たりの良い笑顔で水野に向かってにこやかに挨拶する。相変わらず嫌味がなく水野に対してもその対応が出来る辺り、相当に女性の扱いに手慣れているのだと格差を見せつけられる。

「初めまして。陣くんの彼女の水野綾と言います。今日はよろしくお願いします」

 そう言って、ぺこりと頭を下げる水野は、普段とはまた印象が変わり、いかにも外面の良い理想の彼女であった。まさか誰も、この彼女と協力して今日のデートをめちゃくちゃに破壊することを目論んでいるとは露程も思わないだろう。

「こんにちは! 私は会うのは二回目なんだけど覚えてるかな? 
早川紗奈って言います。紗奈って気軽に呼んでくれたらいいから! あの時は、こんな可愛い子から話しかけられてびっくりしちゃった」
「いやいや! 紗奈ちゃんこそ文化祭の時のメイド服が凄く可愛くて仲良くなれたらなって思ってたんです」
「嘘! 凄い嬉しい! 私も、綾ちゃんって呼んでいい?」
「もちろん!」

 あっという間に、紗奈と水野は打ち解けることが出来たようだ。女性の友人関係は難しいというが、そんなことはないのだろうか。
 美少女二人がはしゃいでいるその絵面は見ているだけで寿命が延びるんじゃないかと思う。俺はこの光景を見られただけでも、もう満足であった。
 だが、今日の目的はこれからである。

「今日は誘ってくれてありがとな」

 わいわいと盛り上がる二人を他所に樋口がこっそり近づいてきて耳打ちした。
 何を言われるのかと身構えれば、今日という日に対する感謝の言葉であった。律儀だなと驚く。
 だが、これから樋口の彼女である紗奈を奪わんとしていることを考えれば、感謝を言われるのは心が痛んだ。

「えっと……せっかくならみんなで行ったら楽しいかなって」
「俺、高崎のことちょっと誤解してたかも」
「どういうことだ……?」
「なんでもない。その髪、似合ってるな」
「ありがとう」
「かっこいいよ」

 こういう、細かな気遣いが出来るのが樋口の人気の秘訣なんだと思う。ここまで端正な顔立ちをしている男から認められて嬉しくない人間などいない。素直なもので、樋口に気を許してしまいそうになるのをライバルだからと諫める。


 俺たちは、下調べしていた遊園地に入場した。週末料金で少し割高ではあったが、普段外出しない俺にとっては、お金を使う機会など殆どない。こんな機会でもなければ使わずたまっていく一方なので、水野が出そうかと言ってくるのを流石にそこまで頼るわけにはいかず断った。
 園の入り口は、俺たちのような学生カップルから、子連れの家族。修学旅行生のような団体客から老夫婦まで様々な人が入り乱れる混沌であった。ここまでの人数は、文化祭以来だろうか。だが、あれは狭い所に大勢が詰め込まれていたがこちらは開放的なだけあって息苦しさが軽減されている。

「うわ、やっぱり人多いな」
「流石に週末はそうだね」
「人酔いしそう」
「しっかりして。まだ始まったばかりだよ」

 後ろを歩く紗奈たちに聞こえぬように小声で水野と話す。確かに、まだ合流して一日は始まったばかりだというのに、既に精神的に疲れているのは何故だろう。やはり克服したと思ったが、緊張から来るところが大きいだろうか。見慣れているとはいえ、樋口と紗奈がいつも以上にいちゃついているのもその疲労の一端な気がしてならなかった。
 喝を入れる水野の言葉に、深呼吸することで気持ちを入れ替える。大丈夫、今の所は何も問題ない。計画通りやればきっとうまくいくと自分に言い聞かせる。

「ねぇ、あれ乗らない?」

 そう言って、紗奈が指さすのは轟音を立てて走り回る絶叫系のジェットコースター。

「いいね!」

 樋口がその提案に楽しみで仕方ないというように無邪気に同意する。だが、俺は反対に顔を強張らせた。
 俺は絶叫系があまり得意ではないのだ。正直、いつか来るだろうとは思っていたがこんな最初から苦手なものに乗せられるとは思っていなかった。

「俺らも行こうと思ってたんだ。な?」

 顔は青ざめていたと思う。だが、雰囲気を壊すわけにはいかず同意せざるを得なかった。
 水野に確認するように視線を向けると頷いた。

「良かった!」

 反対意見が無いのを確認すると、紗奈は嬉しそうに頬を綻ばせた。
 足元まで近寄ると、その迫力は遠くから見たものとは桁違いで、威圧感、高さと共に想像を優に超えていた。こんなの人の乗る乗り物じゃないだろと心の中で悪態をつく。
 どうしてこんなものが人気なのか分からなかったが、人気アトラクションらしく待ち時間があるらしく少々並ぶこととなった。

「綾ちゃんって、うちの学校じゃないよね?どこの学校なの」
「霞ヶ丘女子に通ってます」
「え、あのお嬢様学校? 水野さんいいとこ通ってるんだな」
「と言っても、最近引っ越してきたんだけど」
「だとしても、凄いよ。私じゃ学力ですら届かなかったんだから」
「意外。紗奈ちゃん頭良さそうに見えるのに」
「私なんて全然だよ。成績なら伸也の方が私の何倍も凄いよ」
「うちは親が厳しくてさ。部活をやる条件で成績落とせないから」

 俺を除いた三人で仲良さげに話しているのを眺めることしか出来なかった。
 この三人が並んでいるのはそれだけで絵になって、周囲からあのグループレベル高くね? と噂する声が聞こえてくる。俺が入るのはどこか場違いな気がしてならない。

「そういえば高崎と水野さんの出会いってどんなだったの?」

 そんな俺に気を使ってくれたのか、樋口が話を振ってくれる。
 その気遣いは非常に有難いのだが、俺たちの馴れ初めを尋ねるその質問は、非常に答えづらいものだった。
 言いたくないならいいけど、と付け加えてくれたがせっかく話を振ってくれた手前、その心遣いを無下にするわけにもいかなかった。

「学校帰りに、たまたま水野に声をかけられて……」
「私から告白したんです」

 それは事前に打ち合わせしていた内容であった。
 決めていた事とは言え、水野の言葉に俺の顔は思わず赤面してしまう。どうして俺はこんな恥ずかしいことをよりにもよってこんな恥ずかしい面子の前で話されているのだろう。

「水野さん意外と積極的! 高崎だって、そりゃこんな可愛い子に誘われたら付いていきたくもなるよな」

 その言葉に、紗奈が不機嫌そうに膨れて樋口の袖を引く。

「ちょっと。彼女の前で他の女の子を可愛いとか言わないの。まぁ綾ちゃんが可愛いのは認めるけど」
「ごめんって。一番は紗奈だよ」
「ならいいけど」

 そう言っていちゃつく紗奈と樋口を俺は見て居られなかった。関係は言わずもがな良好であるのが伺えた。

「彼女のために見た目までがらっと変えられる男って俺、めちゃくちゃかっこいいと思う。尊敬するよ」

 俺の瞳を見つめる樋口の目は本当に輝いていて本心から言っていることが分かった。俺は、そんなことないよと目を逸らすことによって躱す。
 俺のこの外面は、そんなキラキラした理由からじゃない。水野のためであったのなら、どれだけ胸を張れたことか。よりにもよって樋口から尊敬の目で見られるのは複雑な気持ちとともに申し訳なさで一杯だった。
 水野に視線を向ければ、どこか遠い所をみつめるようないつもの表情をしていて、心ここにあらずであった。

 ほどなくして、俺たちに順番が回ってきた。
 感想は聞かないで欲しい。思い出したくもない。ぐったりとした俺とは対照的に、皆の表情は明るい。
 歯を食いしばることで恐怖を噛み殺している俺をあざ笑うかのように、楽し気な二人の歓声が背後から聞こえてきて気が気ではなかった。水野もはしゃぎ声こそ上げていなかったが、何事もなかったようにけろっとした様子で、その完成された容姿を崩していなかった。あれに乗って恐怖を感じないなんて正気かと、皆の精神力を疑う。ダメージを負っているのは俺だけだったが、楽し気な紗奈の手前、へたり込む訳にもいかなかった。

「楽しかったね!」
「うん……楽しかった」

 根性だけで、恐怖と乗り物酔いを押さえつけ、俺に出来る精一杯爽やかな顔を張り付ける。三半規管が悲鳴を上げていた。
そんな俺の様子を見て満足したのか、紗奈は樋口と楽し気に会話を始めた。
 そうだ。あくまでこれはダブルデートだが、樋口と紗奈、俺と水野のペアで来ているのだということを認識させられる。一緒に行動しているようで、その実、そこには越えられぬ壁があるのだ。

「気持ち悪くて仕方ないのに、紗奈ちゃんの前でもどさなかったのは評価してあげます。陣くん大丈夫?」

 隣に寄ってきてくれる水野の言葉に、紗奈が見ていないのを確認して気を緩める。

「笑顔が大事っていうのは口を酸っぱくして言われてたからな……俺ちゃんと上手くやれてる?」
「ばっちりだよ。何も問題ない。額の汗も消せてれば完璧だったかな」
「無茶言うな生理現象だろ」
「冗談。誰の目から見たって、自慢の彼氏だよ」
「それは良かった」

 俺はいくつかの守るべきルールを水野から課されていた。その中には、今日という日を楽しく過ごせるようにという思いからか、常に笑顔でいるという、どこか子供じみたものまでもが含まれていた。
 それぐらいなんてことない、と思っていたがこれが案外難しい。普段表情に気を使っていない分、ふとした時に表情が崩れたり、今のように物理的に振り回されることもある。
 引き攣った顔の筋肉を手で揉み解す。

「自慢の彼氏っていうのは、水野から見てもそうなのか?」
「もちろん。私は陣くんの彼女だからね」
「仮だけどな」
「だとしてもだよ。私は君の彼女で良かったと思ってるよ」

 直球でそんなことを言われると、いくら冗談であろうと照れくさい。水野は時々、俺で無ければ本気にしてしまうんじゃないかと思うことを言う。
 距離感が独特なのか、それとも何か俺に特別な感情でもあるのか。そんな訳もないのだが。きっとこの思考も掌の上なのだろう。

 俺たちは、それから一日かけて遊園地を遊び尽くした。文字通り、遊び尽くしたと言える程には、回ったと思う。俺以外のメンバーは全員超をつけてもいいほどのアクティブ具合で、止まっている時間は殆どなかったのではないかと思う。
 唯一立ち止まっていたことと言えば、待ち時間と昼ご飯を食べた時だろうか。俺は、その二つをぐったりと過ごしたかったが、紗奈にアピールするという任務を与えられていたため、慣れない場の繋ぎとしての役目を買って出て、何とか紗奈と会話を続けていた。
 そんなこんなで、疲労困憊になるころには空は赤く染まり始め、残すところもわずかになっていた。
 そんな終盤に差し掛かった頃、状況にも変化が生じていた。

「あれ、伸也どこに行ったんだろう。それに綾ちゃんも」

 不思議そうに辺りを見回す紗奈がいた。

「本当だ。どこ行ったんだろ」

 今この場には、樋口と水野の姿はなく俺と紗奈の二人きり。そしてそれこそが、計画の最終段階であった。
 俺はこの状況の理由を知っていた。というより、予定通りであった。
 夕方が近付き、終わりが近付く頃。そう具体的には、観覧車に乗る手前。水野がどうにかして樋口を引き離し、二人きりの状況を作る。そうしていいムードに持ち込み告白する。
 いや、告白するというのは、水野が言っていただけで俺に今日そこまでする気はないし、今日は関係が深まればいいと思っていた。
 だが、この状況を見るに、どうやら水野は自分の仕事を成功させたらしかった。一体、どんな手法を使ったのか分からないが樋口の姿はなかった。

「おかしいな」

 と、紗奈が樋口に電話をかけ始める。出たら全てが台無しだ。思わず身が固くなるが、呼び出し中のコールが鳴るばかりで繋がることはなかった。

「陣くん、何か綾ちゃんから聞いてる?」
「いや、何も」
「だよね、さっきまでいたのになぁ。電話も繋がらないし何してるんだろう」

 少し不機嫌そうにスマホを眺める紗奈を見て、胸がちくりと痛むがここまで来たからには止まることは出来なかった。

「あのさ」
「ん?」

 紗奈の切れ長の瞳が真っ直ぐに俺の姿を射抜く。俺の悪巧みも何もかも本当は見透かされているんじゃないかと思うほどの切れ味で、それは俺がずっと憧れを抱いていたものでもある。誰に対しても委縮せず変化なく。それでいて全ての行動が聖母のような安心感と胸を震わす熱情を思わせる言動。俺は、早川紗奈に恋をしていた。

「良かったら、観覧車一緒に乗らない?」

 背後で回る、大輪の華を指差す。白を基調としたライトアップが為されたそれは静かに回っており、その頂上から見た景色はさぞ綺麗なのだろうという想像が容易い。幸い、時刻が夕方ということもあり、列はそれほど長くない。
 勇気を出して口にしたその言葉は間違いなく紗奈にも届く声量であった。
 吟味するように紗奈が口籠った。いや、そんなのは一瞬で、実際には空白なんてなかったのかもしれない。
 紗奈は俺が恋焦がれて止まない輝く笑顔を浮かべた。

「いいよ、二人で乗っちゃおうか」

 向かい合うように乗り込んだ観覧車は、ガタガタと不穏な揺れを匂わせながらゆっくりと空へと昇っていく。

「観覧車って思ったより揺れるんだね」

 笑顔で話しかけてくれる。

「確かに。俺も、もっと静かなものかと思ってたのに意外と風がうるさい」
「ほんとだ。ちょっと寒いね」

 そう言って、大袈裟に肩を震わせるジェスチャーをする。

「見て。今日乗ったアトラクションがもうあんな遠くに」
「な。いつの間にかこんな上まで来てたんだ」
「陣くんは高いの平気?」

 今日一日、ネガティブなことはなるべく言わないようにと言われていたが、こんな所でまで嘘をつく必要はないだろう。

「正直、あんまり得意じゃなかった……けどこの景色を見てると乗ってよかったなって思う」

 ガラス張りのゴンドラの外には、夕暮れの遊園地が光を反射し、まるで今日歩いたものとは別世界を思わせる光景が広がっていた。今日という日は、もうすでに俺の中では忘れない思い出と呼べるものになっていたし、それを締めくくる景色としてはこの上ないものだった。
 告白するというムードを考えればこれ以上はないと思える程良かった。そして、こんな状況に憧れの紗奈と二人きりでいることが信じられなかった。

「どうして陣くんは今日私たちを誘って……いや、違うね。
本当は私と回りたかったんでしょ?」

 その質問に俺は息を飲んだ。その言葉の意味することは一つしかなかった。紗奈は、俺が自分を誘ったのだと気付いていたのだ。

「気づいてたのか……?」
「確信があったわけじゃないよ。でも、今日の陣くんの様子を見てたら私に用があったのかなって。綾ちゃんに向ける視線を見てたら確信はなかったんだけど」

 ただ楽しんでいるだけに見えて、しっかりと周りのことは観察していたらしい。そこまでバレているのなら下手な言い訳は逆効果だった。
 その表情は変わらず柔らかな微笑みを浮かべて居る。怒っている訳でないというのが、逆に不安を煽る要素であった。

「今日は……本当は紗奈に話があって誘ったんだ」
「何を?」

 口にするかを迷った。今、話せば全てが終わってしまうかもしれない。でも、この状況で隠すことはもはや不可能であった。
 元々、水野にはここで勝負を決めてこいと言われて送り出されていた。
 俺は覚悟を決めた。

「好きだから。
紗奈のことがずっと好きだった。中学生で初めて見た時からずっと。あの頃から俺はずっと好きで、それが理由で今の高校も受けて。だから今年一緒のクラスになれたのも本当に嬉しくて……」

 感情を滝のように溢れ出させる俺を、まるで子供でも見るかのように見下ろす紗奈がいた。

「それで?」

 それが一体どんな感情から来るものなのか見当もつかない。まるでポーカーフェイスだ。
 優し気な声で続きを促す声に、今更止まるわけにはいかなかった。

「それで……」

 俺は、一体どうなりたいのだろう。好きだと言って……付き合いたかったのか?
 そうだ、水野に言った願いは紗奈と付き合わせて欲しいだった。だが、本当に俺はそれを望んでいるのか? もちろん、そうなれば飛び上がるほど嬉しい。
 だが、そうなったら樋口は? 水野はどうなる。そのことが靄となって胸につまり、ずっと願っていたはずの言葉は形にならなかった。

「付き合ってあげてもいいよ」

 それは俺の言葉の先を読むような言葉だった。同時に、俺の願いの成就の達成を知らせる言葉であった。
 俺は耳を疑った。

「……今なんて?」
「だから、付き合ってあげてもいいよって」

 だが、聞き直した言葉はやっぱり間違ってなんかいなくて。嬉しいはずなのに何故だか喜べない自分がいた。

「どうして……だって今日樋口とあんなに仲良さそうに」

 そんな俺の言葉を遮るように、紗奈が言葉を重ねる。

「伸也のこと? それはまた別の話じゃない?」

 言っている意味が分からなかった。

「別の話?」

 別の話であるはずがなかった。

「私に彼氏がいるのは、承知の上で告白をしてきた訳でしょ? だったら、それは私が好きに決めることであって陣くんが考えることじゃないでしょ?」

 紗奈が語り始めた内容に、風向きが変わってきたことを感じた。

「……意味が分からない」
「分からなくないよ、私は当たり前の話をしてるだけ」
「それはつまり、樋口との関係を継続させた上で付き合うってことなのか?」
「そうだよ」

 紗奈は顔色を変えずにそう言った。

「それのどこが問題ないんだ」
「陣くんなら理解してくれると思ったんだけどな。どこに問題があるの?」

 紗奈は、呆れていたが未だに笑顔を崩していなかった。言葉とのギャップでその顔が歪んで見えて、とても気持ち悪い。話が通じないのがここまで精神に来るとは思わなかった。

「問題ないわけないだろ。だってそんなの二股で……」
「だから。それのどこに問題があるっていうの? 陣くんは私と同類だと思ったんだけどな」
「俺と……紗奈が同類?」
「だって、そうでしょ? あんなに可愛い彼女がいて私に告白してくるなんてよっぽどの浮気者じゃないとありえないでしょ」
 吐き気がした。自分が、この意味の分からない思考と一緒にされていることに対してもだが、今まで憧れていた存在が、崩れていく気がした。
「紗奈は自分を浮気者だっていうのか?」

 否定して欲しかった。いくら、樋口との関係を認めたくないとはいえ、そこは愛で繋がっていてほしかった。嘘だなんて思いたくなかった。

「そうだよ」

 だが、紗奈は表情を変えずにそう言った。それは、俺の中の幻想が砕け散った瞬間であった。
 夢はいつか覚めるから夢だと言うとどこかの誰かが言っていた。今、俺の夢は覚めたのだ。
 最初からどこにも、俺が好きになった早川紗奈は存在していなかったし、勝手に美化していただけだ。
 もうどうでも良かった。

「付き合ってくれるんだな?」
「そう言ってるでしょ、私はかっこいい人なら誰でもいいの」
「そうか……」

 直感した。この手慣れ具合、きっと俺が初めてではない。今まで俺が、紗奈の周りに男の影を感じなかったのは目が節穴だったと言わざるを得ない。
 その裏には、一体どれだけの関係があったのだろう。それを表面に出さなかった彼女に畏怖すら覚える。

「見損なったよ」

 そう言うと、紗奈がようやく笑顔を崩し、むっとした顔を浮かべる。

「さっきから何を言ってるの? せっかく私が相手してあげるって言ってるんだからありがたく受け取ってなさいよ」

 口調がいつもと違う、高圧的なものに変わっていた。これがきっと本来の彼女なのだろう。

「樋口の他に、今何人いるんだ?」
「なに、説教?」
「答えろよ」

 思わず語気が強くなってしまう。その権幕に怯んだのか一瞬驚いた顔を見せ、そっぽを向く。

「七人……いやこないだ六人になったんだっけ」

 それだけで恋心が覚めるには充分であり、その一員に加わる気はなかった。

「もう俺に関わらないでくれ」
「何それ、私はただ告白に答えてあげただけなんですけど」

 だが、その言葉には返事することなく、丁度一周し地上へと帰ってきた観覧車から降りた。もう途中から窓の外に広がる景色など見ていなかった。
 観覧車を降りた後も、背後に紗奈が付いてきている気配を感じて振り返る。

「付いてくるなよ」
「なに、私に一人で帰れっていうの?」

 話しているとイライラした。もう声すら聴きたくない。

「樋口にでも迎えに来てもらえよ」
「出来るならそうしてる。連絡つかないってさっき言ったでしょ」

 そうだった。樋口は今水野が引き付けてくれている。だが、それももう何の意味もない。
 言葉を返すことなく、その場を後にする。

「どこ行くの? 私のことが好きだったんじゃないの?」
「もう好きじゃない」

 背後から、舌打ちをする音が聞こえた。だが、そのことで傷つくことすらもう俺は出来なくなっていた。