怒涛の文化祭も終わり、俺は朝から近くのショッピングモールへと呼び出されていた。
 何をするか知らなかったが、今回はいつも放課後に会うのとは明確に違うところがあった。
 それは、学校終わりではないため私服を着ていることだった。恐らく、水野も同じだ。その事に、多少の期待を抱いてしまっている自分に驚く。
 こんなふうに休日にでかけるのは初めてのことであった。初の休日の外出……いや言葉を変えるのはやめよう。水野にその気がないとしても、傍から見ればこれはデートだ。
 変に気合を入れた服装で臨むのも変かなと柄にもなく悩んだが、結局、慣れないお洒落をすることは諦め、隆也と遊ぶ時のような動きやすいラフな格好に落ち着いていた。それは中学生の頃から大した進歩のない幼げなものだが、服装に頓着のない俺には恥ずかしさを覚えるほどのことではなかった。

 待ち合わせ場所に二十分前に余裕を持って向かえば、そこには既に水野の姿があった。いつもそうだ、水野は俺よりもいつも先に待ち合わせ場所に着いている。今日こそは水野より先に着いていようと意気込んで、早めに家を出たというのに一体いつから待っていたのだろう。
 そうして息を飲む。
 水野は、少し肌寒くなってきた十月の秋の気候に合わせ、白いフレアワンピースの上に、だぼっとした薄手のカーディガンを羽織った服装をしていた。普段の可憐さを感じさせる制服とは一転し、清楚さを感じさせるその容姿に息を飲む。それは相変わらず見る者の心を無条件で揺さぶる美少女のもので、道行く通行人はまるで、示し合わせてそうしなければならないかの如く、     皆、通り過ぎた後にもう一度振り返る。
 普段とはまた違った破壊力があり、呆れるほどのビジュアルの良さ。そんな水野に、早川さんとの関係を取り持ってもらうなどどんな巡り合わせだろうか。
 俺は明らかに隣を歩けるレベルがあるとは言えなかった。

「いつから待ってたの?」
「待ってないよ。今来たところ」

 その待ち合わせの定番の台詞は本来、彼氏である俺が言うべきものではないだろうか。近くで見れば見るほど、私服という特別感も相まって可愛さに拍車がかかっている。

「その……なんだ。似合ってるよ」

 こういう時に、自然と褒めることが出来る男がモテるのだろうが、あいにく俺にそんな器用な真似はできない。それでも、口に出来ただけ評価してほしいものである。

「ありがとう。でも、陣くんの服装はまだまだだね」

 褒めた評価に反して、俺の服装を上から下まで品定めするかの如く確認した水野はそう辛口に評価した。

「そんなはっきり言わなくたって」

 俺だって、自分のセンスのなさは自覚している。世間一般で騒がれる流行とやらを見ても今一つピンとこないのが俺の感性で、未だに母親の買ってきた服を着ているのだから仕方ないだろう。

「勘違いしないで。別に貶してるわけじゃなくて……そうだね。今日は、これから陣くんをかっこよくしてあげる」
「俺を……かっこよく?」

 今日の目的をまだ聞いていなかったが、それが呼び出された理由なのだろうか。俺をかっこよくするというのは一体どういう意味なのだろう。

「どういうこと?」
「今日は一日私に付き合って」

 それだけ言って水野は、ショッピングモールへと歩いていく。その背中にはとりあえずついて来て、と書いてある。そもそも、俺と早川さんを引き合わせるという不可能に付き合ってもらっているのだ。全てをまかせることにした。

 そうしてまず連れられた先は、人生で一度も立ち入ったことのないようなお洒落なアパレルショップであった。

「陣くんならそうだな。背は低くないから、こういう細身のスラックスなんかも相性いいと思うんだよね。あとはこっちのシャツもあわせて……」

 水野は手慣れた手付きで、いくつかの洋服を次々とピックアップしていく。だがそれは水野自身の物ではなく男物であった。
 俺をかっこよくするとは、本当に言葉通りの意味だったのかと、察しの悪い俺でも流石に理解する。

「待ってくれ、俺、服なんて自分で買ったことないし……そもそもこんな高そうな服買える金ないって」

 だが、俺のそんな悲痛な叫びなどそっちのけで、選ぶ手は止まらない。

「お金なら私が出すから心配しないで。それに、そんな恰好で早川さんの前に立つ気?」
「いや、私が出すってそんな訳にはいかないだろ」
「いいんだよ」
「そういうわけには…」
「もう、いいから。とりあえずこれ全部着てきて」

 そう言って、説得する間もなく、会話を拒むように両手一杯の服を手渡され、試着室へと押し込まれる。
 随分と強引な手法だったが、従うしかなかった。


「こんなの俺じゃないみたいだ……」

 渡された服は、どれも今まで俺が着ていた服とは系統も何も根本から違って、普段の俺であれば絶対に選ばなそうなものばかりだ。
 鏡の中の人物は、雑誌のモデルかのようなお洒落な服装をしているのに、付いている顔は相変わらず俺だ。それが酷くアンバランスで似合っているとはお世辞にも言えない。馬子にも衣装というが、それで誤魔化せるのは最低限の容姿があってこそである。自信のなさそうな冴えない顔を見ていると、申し訳なくなってくる。
 着替え終わったのを察したのか、カーテンの向こうから水野がひょっこりと顔を出してくる。

「似合ってるじゃん。じゃあ、とりあえずそれ全部買おうか」
「いや、流石に悪いって。それに俺にこんな服もったいない」

 着替えている最中に、値札を見たが、とても学生の小遣いで気楽に買える値段ではなかった。こんな布切れにどうしてそこまでの値がつくのか甚だ疑問である。
 それに、似合っている? どこを見ているのだと言わざるを得なかった。

「堂々としてれば、誰だってよく見えるものなんだって。陣くんは自分のことを信じてあげられてないだけだよ。私は本当に似合ってると思う。容姿は、作れるんだよ。
 それに、これは願い事の一環なんだから、その掛かるお金は私が出す」
「そうは言ったって……」

 早川さんの彼氏にしてほしいという俺の願い事に準拠するイベントなのだろう。こうも、強気に来られては俺の方が変なことを言っているような気になってくる。だが、それはそれとして、気軽に受け取れる金額ではなかった。

「それ、着たままでいいから。お会計してくるね」

 だが、水野は止める暇もなくレジの方へと歩いて行ってしまった。一度言い出したことを水野は曲げようとしない。それでもやっぱり全てを負担してもらうのは気が引けた。


 そうして、俺はその服を着たまま、美容院へと連れられていた。普段行っている理髪店に比べれば随分と高級感があり、流行を取り入れた若者向けというような印象を覚える。まさかこんな場所に自分が来ることになるとは思っていなかった。
 いつも行っている理髪店のくたびれた老夫婦が経営しているような言葉に出来ぬ安心感、あの雰囲気が好きだった。だが、ここはそんな普段の店とは打って変わり、髪色の派手な美容師が店内を慌ただしく動き回っていた。
 水野が、席に座る俺の後ろで美容師に何やら要望を出している。ちょうど前髪が目にかかってきて邪魔だと思っていたから、今のタイミングで切るのは渡りに船な話ではあったが、ゴールの見えない散髪というのは、初めての経験であり中々に恐怖であった。

「一緒に来られてるのは彼女さんですか?」

 散髪している最中、担当してくれていた若い茶髪の女性美容師が話しかけてきた。

「えっと……そう、ですね」

 どう答えるか迷った俺は、とりあえず肯定する。そう答えると美容師は微笑ましいものでも見るようににこりと微笑んだ。

「彼女さん、凄く可愛いですね」
「ははっ、そうですね……」

 俺は、凄く曖昧な返事しか出来ていなかった。水野のことを、彼女だと名乗ることには抵抗があったが、ここで否定するのもおかしな気がしたからだ。ただの友達と呼ぶには、特殊な関係であった。
 美容師はしばらく当たり障りのない、まさしく雑談という名にふさわしい会話を持ちかけてきたが、しばらくやる気なく返事していれば気まずくなったのか話しかけられなくなった。

 そんなこんなで、出来上がった俺の髪は、ワックスで丁寧にセットされ、今までの根暗で陰湿そうな印象とは打って変わり、さっぱりとして活発な印象を覚えるものへと様変わりしていた。
 その髪型にどこか見覚えがあって思い出せば、それは樋口に近いような気がする。思い出したくない顔を思い出し、苦い気持ちになるが、何はともあれ服装も合わさり、そこにはイケメンと言えなくもない俺も知らない新しい俺の姿があった。

「かっこよくなったね、陣くん」
「ありがとう……」

 今日出会って、最初に指摘されたセンスの無さが、嘘かのように生まれ変わっていた。ガラスに反射して映る自分の姿を見ても実感が湧かない。水野の隣を歩いていても、違和感がないように思われているんじゃないだろうか。正直、人間が一日でここまで変わるとは思っていなかった。

「ほんとに、何からお礼を言ったらいいのか」
「お礼なんていいよ。それが、願い事を叶えるために必要だっただけ。私は私のためにやってるんだよ」
「そうは言っても、今日だけでいくらお金を使ったんだよ。こんなに大量の服買ってあんな高そうな美容院まで行って。何かしないと気が済まない」

 俺は、水野に何も出来ていなかった。

「そんなこと考えなくていいのに」
「そうもいかないだろ。俺は何もしてないのに」
「私は私のためにしか行動してないよ」

 その表情には本当に迷いなんてものはなかった。

「……そうは言っても、何か対価を渡さないと俺の気が済まない」

 そう言うと水野は、難しいものでも考えるように顎に手を当てた。

「本当に気にしなくていいんだけど……でも何かしないと気が済まないっていうならそうだな」

 水野は、思いついたかのように、手を叩きにこっと笑顔になった。

「また私の前でギターを弾いてください」

 そうして告げられたのは俺のギターをまた聴きたいという、予想もしていない対価であった。

「……そんなことでいいなら喜んでやるけど」
「じゃあ今から!」
「今から?」
「陣くんの家で!」
「はい⁉」





 そうして急遽始まった水野の無茶ぶりは、両親が朝から不在だったことによって、何とか大惨事を免れたと言えるだろう。あのおしゃべり好きと会わせると厄介なことになるのが目に見えている。
 その危険性はあった訳だが借りがあった手前、断ることもできずに家に招くこととなった。
 かくして、俺の部屋のベッドの上には水野の姿があった。

 とんでもないことになった、というのが素直な感想であった。家に呼んだことがあるのは、高校以降でいうのであれば隆也ぐらいのものだ。幸い、この間思いつきで掃除したばかりのため、見られて困るようなものは何もない。いや、していなくてもやましいものなんてないのだから心配はいらないのだが。
 とは言え、水野を招くことは到底、想定外であった。

「言っとくけど、仕方なく入れてるだけだからな? 変なことするなよ」
「変なことって?」
「え? そりゃ……色々だよ」
「しないよ。彼氏の家に初めて来て嫌われることなんて出来ない」

 その言葉に恥ずかしくなって目を逸らすと水野はおかしそうに笑う。
 両親のいぬ間に彼女を誰もいない家に連れ込むなど、何も知らない人から見れば誤解されても言い逃れできない。
 水野は、昨日突然文化祭に押しかけてきた実績があるだけに何もしないという言葉は信用できなかった。しっかり監視していなければ一人で歩き回っていそうだ。
 水野が部屋にいるというのは凄く奇妙な感覚だった。部屋に俺以外の人がいるなんてそわそわして落ち着かない。何もない部屋だというのに、変なものは置いていなかったかと不安になる。

「綺麗にしてるんだね」
「今がたまたま綺麗なだけで、普段は別にそんなことないけど」
「だよね。私もそのイメージだった」
「まぁ、親からもよく怒られるし」

 親という単語を聞き、水野の顔が少し曇った気がした。

「私も綺麗にしなさいってよく怒られてたな……」

 水野は、その時のことを思い出しているのか遠い目をしていた。
 そんな気まずい空気が流れたのも一瞬。

「ねぇ、今更だけどどうして早川さんと付き合いたいの?」

 急に元気になり、冷かすようなテンションで尋ねてくる。

「なんだよ急に」
「いいじゃん、恋バナだよ恋バナ」
「なんで水野がそんなこと気にするんだ」
「陣くんが好きになった人はどんな人なのかなって。手伝うにしてもその人のこと知らないといけないでしょ?」

 もっともらしいことを言っているようで楽しんでいるだけとしか思えなかったが、子供のように無邪気にはしゃぐ水野を見ていれば隠すのも馬鹿らしくなった。手伝ってもらうわけだし、知っておく権利もあるだろう。
 俺は早川さんとの出会いを話すことにした。

「なるほどね、中学が同じだったんだ。それで好きになったと。なるほどなるほど」

 口に出して言われると照れくさくて聞いていられない。

「確かに、早川さん凄い可愛かったもんね。私にも親切に陣くんの場所教えてくれたし」

 水野は、俺の教室に遊びに来た時に案内してくれたのが早川さんだとちゃんと認識しているらしかった。

「まぁ、そういうこと」
「でも、可愛さなら私も負けてないと思うんだけど」

 そっけなく答える俺に対して、ベッドから水野がずいっと身を乗り出してくる。その距離の近さに椅子に座っていたが思わず背筋を引いてしまう。
 対抗心から来るものだろうか。確かに水野は早川さんの前でも霞むことなくその存在感を発揮できていた本物だ。その可愛さは俺が自信を持って保障できるが、それを本人に直接伝えるのは躊躇われた。

「なんで張り合ってるんだよ」

 問いには答えず質問で返すことによりこの窮地を切り抜けた。水野は不満そうに頬を膨らませる。

「陣くんあんまり私のこと見てない気がするから」

 言われて気が付いた。確かに、水野と話すとき無意識からか視線を外して会話していた。基本誰に対してもそうなのだが、水野は特に目を見て話すのが難しい。

「そんなことないけどな」
「ふーん」

 その返事も、目を見ることが出来ないため何の説得力も持たない。案外、水野は俺のことをきちんと見ているのかもしれない。

「ね、ギター弾いてくれない? 良かったらあの曲を」
「あぁ、あれね」

 部屋の隅に置かれていた俺の愛用のギターを抱える。文化祭に向けて練習していた指は、役目を終えた今もちゃんと各々がすべき動きを覚えている。目を閉じれば、メロディーが頭の中を流れだした。
 それは、昨日俺の文化祭で最後に披露した愛の歌であった。水野は昨日もこの曲に興味を示していたが知っていたのだろうか。随分と気に入っているようだが、そこまで有名な曲だっただろうか。俺にとっても弾いていてここまで楽しい曲は他にはなかったので悪い気はしない。

 一番の自信曲を弾きながら水野を見ると、水野はなんとその端正な顔に涙を浮かべて居た。
 どうして泣いている⁉
 気づいていないふりをして演奏を続ける。だが、内心は凄く焦っていた。俺が何か変なことをしただろうか。いや、少なくとも泣かせるようなことはなかったはずだ。さっきまでは普通に会話していて、どうしてそんなに悲しそうな顔をしているんだ。
涙を流す美少女と無言でギターを弾く男子高校生という奇妙な構図は、しばらく続いた。だがそれも無限には続かない。
演奏が終わり気まずさが立ち込める。水野は泣いていることを隠す様子もなく、鼻をすする音だけが、部屋に響いていた。どう声をかけていいものか戸惑う。

 ここまで水野が感情を露にしているのを目にすることは初めてで、どう触れていいことなのか分からなかった。昨日から、水野と俺の関係はまた変化があったように思う。本当の心を少しずつ見せてくれているのだろうか。
信頼故なのか、それとも何か転機があったのか。
 結局、何もいうことはできないまま、水野が落ち着くまで二人とも黙ったままであった。

「泣いちゃってごめんなさい」

 しばらくして水野がそう呟いた。

「別にいいけど」

 ようやく一段落ついたらしい水野の言葉に、ぶっきらぼうに返すことしか出来ない自分が情けない。きっとこんな時にかける言葉は沢山あるだろうに。それが出来ない自分が歯痒かった。
 水野は、それ以上自分が何故泣いていたのか話そうとはしなかった。
 俺のギターが泣くほど感動的だっただろうか。もしそうなら光栄なことだが、そうでないことぐらいは流石にわかる。どちらかと言えば、水野は無表情でこういう演奏や舞台を見て居そうだ。

「ギター弾けるっていいね」
「え? まぁ、俺の場合は早川さんのために練習してたら勝手に上達してただけだけど……。全部独学だし」
「どんなことでも、継続してやり続けることが出来るのは凄いよ。才能だと思う。理由はどうあれね」
「……ありがとう」

 ギターという趣味が認められるのは、嬉しいことであった。

「ねぇ、陣くん」

 水野は、まだ赤みの残った目元で、しかし真っ直ぐに俺の目を見つめている。ここまではっきり名前を呼ばれたことはなかった。いつもすぐに逸らしてしまう視線もこの時だけは逸らしてはいけないと直感していた。

「これからも、たまにこうして私の前で弾いてくれる?」

 まるで告白かのような真剣な表情。その整った顔でそんなことを言われているからだろうか。心臓が主張を強めて苦しい。
 きっと、慣れていないことに緊張しているだけ。それだけだ。
 水野の言う、これからもというのが、具体的にいつまでを指すのか。もしも俺の願いが叶ったとして早川さんと付き合うことになったら。その後はどうなるのだろうか。変わらず今の関係を続けて居られるのだろうか。
 何も答えは出なかったが、俺にここで断るなんて選択肢はなかった。

「俺でよければいつでも」

 それを聞いて、水野は心から安心したような、幸せそうな笑みを浮かべた。その顔は、他の誰よりどの瞬間の水野よりも可愛くて。胸が苦しくて……。


「ただいまー!」


 そんな雰囲気をぶち壊すように玄関のドアが開いた。一瞬何が起こったのか分からずに固まって、すぐに理解し、絶望した。  母親が帰ってきたのだ。
 今日は、朝から出かけていたはずだが、もう帰ってくる時間になっていただろうか。時計を見れば時刻は十七時半。確かに家にいてもおかしくはない。
 だが、どう考えてもやらかしていた。靴を隠していなかったことから、誰かが来ていることは既にあの人は察しているだろう。そしてそれはどう考えても隆也のものではなく女物だ。だとするなら、あの人が取る行動は。

コンコン!

「誰か遊びに来てるの?」

 俺の部屋のドアがノックされるのとほぼ同時に開く。

「そう思うなら、返事してから入ってきてくれよ」
「ちゃんと中の様子は伺ってからノックはしたわよ」

 部屋の前には、にやにやと嬉しそうな表情を浮かべた俺の母親が立っていた。俺は諦めて観念するしかなかった。
 そうして、きょとんとした顔の水野を見つけて、さらに嬉しそうに顔を緩める。

「陣が女の子を呼ぶなんて初めてかもね。初めまして陣の母です」
「えっと……初めましてお邪魔してます」
「ほら、もういいだろ。出てってくれよ」

 この二人を長い間対面させるのは俺の体がもたない。

「彼女さん?」

 本当にこの人は。思ったことをすぐ口に出すのは悪い癖だ。
 面白がってるだけだろと様々な思考が巡り、否定の言葉を発しようとするがそれより先に水野がこくりと頷いた。
 そうだった。水野は、誰に対しても俺の彼女である立場を隠そうとしない。だが、今はその水野に文句を言いたい。絶対めんどくさいことになると断言が出来たから。
 それを見た母親は、見たことがないほどの笑みを浮かべて居た。感極まりすぎてもはや泣き出すんじゃないかとすら思う。

「あら! 陣にこんな可愛い彼女が出来るなんて。信じられない」
「ほら、もういいだろ。出てって」
「そうだ。今日、夜ごはん食べてく?」
「母さん! 余計なこと言うなって。水野だって急にそんなこと言われたら困るだろ」
「喜んで!」
「ほら、困ってる……って水野さん?」

 予想外の水野の言葉に思わず敬語が出てしまった。

「水野ちゃんって言うのね。自分の家だと思ってくつろいでくれたらいいから」

 俺が何かを言う間に、とんとん拍子で話が進んでいく。どうして水野まで乗り気なんだよ。このまま放置していると、本当にどこまでも暴走していきそうだ。

「こんなにいいことあるのね」

 だが、心から喜んでいる母親の顔を見ると、強くは言えなかった。

「じゃあ、私夜ご飯の準備してくるから」
「あ、私も手伝います」
「本当? じゃあお願いしようかしら」

 嵐のようにやってきた母親は水野を連れて俺の部屋を後にしていった。


 その後俺は、料理を楽しむ二人の声を遠くに聞きながら帰ってきた父親と話しつつ、リビングでうなだれていた。

「まさか陣に彼女が出来る日が来るなんてな」

 しみじみとそう言う父親の言葉に胸がちくりと痛む。俺と水野は、きっとみんなが思っているような出会いではないし、付き合っているかと言われればきっとそうではない。無理矢理と言われても仕方ないのだ。だが、心から祝福してくれている手前、そんなことは言えなかった。
 今日初めて会ったとはとても思えないほど、キッチンから聞こえてくる母親たちの声は楽しそうで、一体何を話しているのか気になる。これ以上面倒なことにならないといいが。

「髪切ったんだな。服もいつになくお洒落だし」
「うん……色々あってさ。髪は結構伸びてたし」

 柄にもなく着飾っている俺の様子を見てそう言う父親の反応は無理もない。今まで、見た目に気を使ったことのなかった息子が急にこんな格好をして家に彼女を連れてきたとなれば誰だって彼女の影響だと思うだろう。まさかそれが連れてきた彼女でない他の誰かの為だとは夢にも思わないだろうけど。

「でも安心したよ。陣は学校でのことをあんまり話さないから」
「そんなこと……」

 ないとは言えなかった。普段、両親には学校のことはろくに話さないし、話そうとしてもいうことだって何も浮かばないほど変わり映えのない生活を送っていた。辛くもないが楽しくもない毎日。
 言葉にしていないだけできっと心配してくれていたのだろうということが伝わってきた。母親が、嫌にハイテンションで強引だったのもそんな背景あってのことかもしれない。

「ほら、ご飯出来たよ」

 聞き慣れた母親の声が響いてキッチンから水野と母親が顔を出す。心配しているにしてもこの状況は勘弁して欲しいものではあるが。
 俺と父親は、言われるがまま箸とお茶や夕飯の準備を手伝い、食卓へとついた。
 高崎家は、三人家族。基本、父親は仕事で夜が遅いため普段は母親と二人で食事を取ることが多いのだが、週末にはこうして家族で食事を取っていた。そんな、一週間のうちで少し特別感のある日に今日は俺の向かいに何故か水野の姿があった。

「綾ちゃん、凄い料理が上手くてびっくりしたんだから。これとか、綾ちゃんが作ったのよ」

 そう言って、煮魚らしきものを指差す。いつの間にか、下の名前で呼ぶようになっているあたり相当に打ち解けたらしい。俺だってまだ呼べたことないのに。
 水野も満更でもなさそうに頬を紅潮させている。そんな顔出来るのかと意外に思うが、確かに水野が作ったという煮魚は程よい塩加減で凄く美味しかった。いつも家で料理でもしていたのだろうか。自然に手伝いますという台詞が出ることからも手慣れていることが伺えた。

「綾ちゃんならいつお嫁に来てくれてもいいからね」
「な、何言ってるんだよ」

 この人は本気で言っていそうなのが本当に達が悪い。父親に助けを求めるが、我関せずとでも言わんばかりに微笑んでいる。 いつもそうだ。この家では、母さんが絶対なのだ。
 そんな俺たち家族の様子を、水野は何か懐かしい物でも見るような表情で見守っていた。
母親の言う言葉に、冷や冷やさせられながら食事をしていたが、何事もなく終えられたことにほっと胸を撫でおろす。
 ご飯を食べ終わった後も、良かったら泊まっていく? なんて声をかけられていたが、それは流石に全力で止めさせてもらった。これ以上、水野に迷惑をかけるわけにはいかなかった。

 別れを惜しむ両親を何とか振り払い、駅まで水野を送ってくるからと、二人並んですっかり暗くなった冬の夜道を歩く。
 二人並んで歩いていても、会話はない。そんな気まずい空気が嫌で、俺から話しかけた。

「その、今日は付き合ってもらってごめん。まさかあのタイミングで帰ってくるとは思ってなくてさ」

 水野は、ふるふると首を横に振る。

「本当に楽しかった。二人とも、いい両親だね」
「お節介がすぎるというか、先走っちゃうとこがあるのが困るけど。特に母さん。水野には悪いことした」
「凄く楽しかったから大丈夫だよ」

 夜の静寂はさっきまでの賑やかさがまるでずっと過去のことかのように思わせる。たった数舜前のことでも霞みがかったように思い出になっていくことに恐怖すら覚えるようだ。
 だが、水野と歩いた今この瞬間、この道は。雲間から覗いた白銀の月と共に俺は忘れないだろうという確信がある。

「水野は、親と仲良いの?」

 水野の顔を見ずに歩きながらそう尋ねた。隣を歩く水野の雰囲気が少し変わったが、この時の俺はそんな些細な変化には気づかなかった。

「私は……あんまりかな」
「そうなんだ」

 それ以上、踏み込むことはせず歩いていると目的地である駅の明かりが見えてきた。二人きりの時間ももうすぐ終わりだ。

「また遊びに行ってもいいんだよね?」

 水野は、確認するようにそう呟いた。その声は、寒さからか少し震えているかのように思う。俺は水野の顔を見ることなく言葉を返した。

「いいよ。またギター聞かせる約束だろ?」

 照れくさくて前を向けなかった。自分の中のこの感情を俺は知らなかった。早川さんに感じるものとはまた別種の物であることだけは分かっていて、でもそれはよく似ていて。答えを俺は知らなかった。
 その姿を視界に収めること無く言葉をかけたが、きっと水野は頷いた。

「うん、じゃあまたね」

 そう言って、水野は俺に背を向け、駅の中へと消えていく。後ろ姿になって俺はようやく水野のことを見ることができた。
 水野のその小柄な体が、歩くたびに少し上下するのを見ていると心がざわつく。これが最後というわけでもないのに、何故だかもう会えない気がして、いても立ってもいられない衝動に駆られる。
 だが、俺はやはり今日もあと一歩を踏み出すことが出来ず、踵を返した。呼び止めて何を言おうとしていたのかは自分でも分からなかった。