高嶺の花。俺から彼女の印象を分かりやすく表すならそうなるだろうか。
 放課後の喧騒の中、窓際の席から外を眺める彼女の、その綺麗に手入れされた長い黒髪が陽光を反射し、なんとも幻想的な様相を演出していた。まるでそこだけ絵画の中の世界のような、周囲とは隔絶された世界観であり何人たりとも近付くことが許されない。
 ただそこに存在しているだけなのに、周囲の目を釘付けにして離さない不思議な引力。例にもれず、俺もその魔力にかけられて虜になってしまっていた。
 そんな彼女が、何かに気づいたようにこちらを振り返る。その向けられた視線の熱に俺の心臓は大きくどきっと脈を打った。

 そんな熱を一気に奪うかのように。席に座っている俺の背後から爽やかな男の声が響く。

「待たせてごめん!」
「全然いいよ! 迎えに来てくれてありがと!」

 彼女は満面の笑みで、俺の横を通りぬけていく。まるで俺のことなんて見えていないかのように。そこに存在なんてないかのように。その男女はたわいもない雑談を開始した。
 背後で会話する二人の声は耳に届いてはいるが、その内容まで聞き取ることはできない。いや知りたくもないのだが、と心の中でぼやいた。
 その二人の関係が親密なものであり、上手くいっていることは疑いようもない周知の事実であり、今更どうこうしようという気は湧いてこない。だが、目の届く範囲で、こうも幸せを見せつけられては気が滅入っていた。

「まだ早川さんのこと気にしてんのかよ、いい加減諦めて元気出せって陣」

 下を向いていて、いつの間にか隣にやってきていた俺の親友である須藤隆也(すどうたかや)に気づかなかった。その無神経な物言いに、彼女、早川(はやかわ)紗奈(さな)に聞こえてしまうのではないかと慌てて振り返るが、もう既にそこに早川さんの姿はなくほっと胸を撫で下ろす。

「仕方ないだろ、中学の頃からずっと好きだったんだから」

 言い終えて自分の机に突っ伏した。

「あーあ。ほんとにどうしてこんなことになっちゃったかなぁ」

 今年、高校二年生となる高崎(たかさき)(じん)は、大きなため息をついた。
 早川さんと俺の出会いは中学に上がってすぐ。同じクラスで隣の席になった早川さんに一目惚れだった。冬の花のように白く清冽な冷たい香りのしそうな大人びたルックス。その容姿で心を奪われていたにも関わらず、話した彼女は、その完璧な容姿からは想像つかない、ちょっと大雑把な一面もあってそれもまた可愛くて。いわゆるギャップ萌えというやつだ。それが俺の初恋だった。

 早川さんがギター弾ける人かっこいいよねという話をしているのを聞けば、その翌日には近所の楽器屋に赴いた。迷うことなく、中学生には大金である二万のギターを即決で購入し、高校生に至るまで毎晩練習している程の熱中ぶり。我ながら健気なものだ。実りもしない努力をここまで続けてきたのだから。

「まぁ、でもさ。樋口はうちの学校のスーパースタ―だぜ? 樋口がライバルだってんだから諦めもつくってもんじゃないか?」

 最近、早川さんと付き合い始めた樋口はサッカー部の英雄なんて呼ばれている学内ではちょっぴり有名人の男だ。なんでも廃部寸前だったサッカー部を、県大会まで導いたことからそんなあだ名がついたとか。
 嫉妬するほどのルックスの良さ、運動神経に収まらず性格まで良いらしい。らしいというのは、俺は直接話したことがないからだ。

 うわさに聞く樋口は、物語にありがちの完璧超人という言葉がぴったりの爽やか王子様である。これだけ注目されていれば妬まれて一つぐらい悪い噂でもありそうなものだが、そんな気配すらないという。
 その彼女である早川さんも言わずもがなの人気ぶりで、学園のマドンナ的存在。中学の頃から、人気があったが歳を重ねるにつれ、その美貌は加速度的に進化した。

 そんな学内の有名人二人によるカップル誕生となれば、誰も口を挟めない。ファンからは阿鼻叫喚の悲鳴があがったが誰一人として何か行動に移そうとすらしなかった。それほどまでに二人は完成されていたから。
 その交際には俺の心も酷く動揺させられた。中学から今まで、早川さんに浮ついた話を聞いたことがなかったから油断していたのかもしれない。あれだけの人気ぶりならいくらでも最悪の想像は出来ていたはずなのに。

「そうはいってもさぁ……」

 俺は今日もう何度目かも分からないため息を、もう一度深くついた。

「相変わらずの信者だな。ここまで追っかけ続けてきたのは素直に尊敬するよ。好きな人のイチャイチャを毎日見せつけられているのは……心中お察しする」

 隆也はわざとらしく南無と手を合わせる。
 だが、そんなもので癒える程、俺の心の傷は安くない。今でも、目があったんじゃないかとただそれだけで胸が躍るほど早川さんのことばかり考えているというのに。現実はこうも冷たい。見守っているうちに高嶺の花どころか、完全に手の届かない誰かの物になってしまった。何度、夢だったら良かったと願ったことか。

「どうして俺じゃないんだと思う?」

 俺の問いに隆也は苦笑する。

「相手が悪かったんだよ。そろそろ陣も別の人探してもいいころなんじゃないか?」
「そんな簡単に言うなよ……。別の人なんてそう簡単に見つかる訳ないだろ」

 中学で早川さんに一目惚れしたのが俺の初恋だった。それから今に至るまで他の女子なんて眼中になかったのだから今更別の人なんてそんなすぐに切り替えられるものじゃない。

「機会がないってだけだと俺は思うんだよな。そもそも関わりがないと始まるものも始まらないだろ?」
「そうは言ったって、俺たちとまともに会話してくれる女子なんていないだろ」

 俺と隆也はお世辞にも人との関りが多いわけではなかった。

「彼女作ると人生楽しくなるぞ」
「いない癖に何を分かった風に」

 隆也は、俺の言葉ににやりと笑った。

「実は出来たんだよな。彼女」
「はぁ!? おま、いつの間に!」

 思わず、声が大きくなりクラスメイトが何事かと振り返る。注目を集めてしまい、恥ずかしくなり、慌てて身を屈める。初耳の内容だった。

「だって、この間まで俺と一緒に彼女出来ないって嘆いてたじゃないか」

 小声で問いかける。

「ここだけの話な? 俺もびっくりなんだけど、同じ部活の女の子と最近仲良くなってさ。流れで付き合うことになったんだ」

 全く気付かなかった。隆也は弓道部だったか? そこで仲良くなって……なんて本当にあるんだな。
 お調子者で、いつもおどけた様子の隆也に彼女だなんてにわかに信じられないが、どうやら本当らしい。運動はできるし、筋肉もあってモテない訳ではないと思っていたがこうも突然だとは思っていなかった。

「裏切り者かよ。でも、おめでとう」
「別に裏切っちゃねーよ。早く陣もこっち側にこいよ、楽しいぞ」

 幸せで仕方ないという無邪気な笑顔がむかつく。同じ独り身仲間だと思っていたのだが、どうやら置いていかれてしまったようだ。正直羨ましい。一人になったことで更に危機感が加速する。
 そうして、出会いはどんな風だとか、学年は一つ下だとかそんな話をしているうちに、気づけば時間が過ぎていった。

「もうこんな時間か。じゃあ俺は彼女が待ってるからそろそろ行くな」
「早速のろけか。いいよ、いってらっしゃい」

 隆也は、満面の笑みを浮かべながら教室から出て行った。愛しの彼女様を迎えに行ったのだろう。
 昨日まで一緒に帰っていた親友が、これからは彼女と二人で一緒に帰る。そのことに少し寂しさを覚えるが、俺が邪魔をするわけにはいかない。日の落ちる夕暮れ道を一人帰ることにした。





 いつもと同じ道だというのに、心は酷く荒んでいた。早川さんが、手の届かない存在になったことに加えて、仲間だと思っていた親友の隆也までもがパートナーが出来たというのだから。勿論、どちらも祝福する気持ちはあるのだ。あるのだが、素直に喜べず、妬ましいと思ってしまう自分の弱い心にも、余計に嫌気が差していた。
 こんな小さい器だったから早川さんにも振り向いてもらえなかったのだろうと自虐で心を癒す。こうして考えことをしていないと後悔と不安で押しつぶされてしまいそうだった。

 早川さんにアピールはしていたと思う。あまり積極的に話しかけることは出来なかったが、彼女の影響で始めたギターに気づいて貰えるように、用もなく学校にギターケースを持って登校してみたり。あれは失敗だった。重すぎて足腰筋肉痛になり、とても毎日持ち運ぶものではないと思い知った。バンドマンは想像以上に筋肉があると知った出来事である。
 それに早川さんのことであれば俺が一番詳しいと思うほどには、見てきた自信がある。ドーナツが好き、英語が得意。字が綺麗で小学生から書道を習っていることとか、仲良くしている友達だとか、いつもクールな彼女が笑うと犬歯が覗くことだとか。語ろうと思えばいくらでも語れることがあった。

 でも、そんなのも全部無意味だ。いい加減俺も、諦めて次に進む時が来たのだろうか。これだけ長い年月をかけてきたというのに、最後はあっさりと、どこの馬の骨か知らない男に横取りされた。早川さんに限ってそんなことはないと高を括っていたのがばかだったのだ。
 この際、俺ももう相手を選んでいる場合ではないのかもしれない。もう既に高校生でいられる時間も半分を切ろうとしていた。受験なども考えれば何も考えずに恋愛にかまけて居られる時間はそう長くない。
 人並みに、彼女が欲しいという願望や憧れがあった。もはや誰でもいい。とにかく彼女が欲しかった。


「浮かない顔してますね」


 道路の白線を見ながら歩いていた俺に正面から声が響く。声の主を確かめようと顔を上げると、そこには俺の目をまっすぐに見つめる女の子が立っていた。
 その目は見てわかる程に虚ろで生気が感じられない。彼女の言った浮かない顔をしているのは自己紹介ではないのかと言いたくなる。
 知らない顔だ。関わりの狭い俺の知っている範囲なんてたかが知れているので、知り合いなら一目見ればすぐに分かる。
 それにこの子のことを俺は絶対に知らないという確信があった。彼女は有り体にいって凄く可愛かったのだ。女性に興味のない俺でもそう思う。芸能人なのかとでも思うレベルで顔が良い。
 ぱっちりとビー玉を思わせる、夕陽を吸い込んで煌めく大きな二重の瞳。潤いを感じる柔らかそうな桜色の唇。そして病的で透けてしまうかと思うほどの肌の白さ。滑らかな体のラインに女性を思わせる少し主張強めの胸元。一度でもあったことがあれば、忘れることはないだろう。
 笑顔が似合うと断言できるが、彼女の顔は、暗く沈んだ無表情だった。どうしてそんな辛そうな顔をしているのだろう。こんな落ち込んだ様子の子から声をかけられる程に俺の姿は哀れに映ったのだろうか。
 彼女は制服を着てはいるが、俺の見覚えのない制服だった。少なくともこの辺りの学校ではない。俺よりも大分小柄だが、見た目からしてそう年は離れていないと思う。同年代だろうか。

「何か考え事ですか、困っていますか?」

 彼女の全身を訝し気に見ているのに気づいたようだが、彼女はそのことに触れず言葉を続けた。
その容姿に見合った可愛らしい声色。男ならそれだけで意識してしまいそうな甘い声だ。思考が上手く纏まらない。

「まぁ……はい。そうですね」 

 何とか答えたその曖昧な返事に、彼女はその無表情をわずかに動かした。

「私が三つまでなんでも願いを叶えてあげます」

 緊張しているかのように少し息を吸い込んだ後、突拍子もないことを口にした。彼女の言葉はまるで、ランプの魔人のようなものだった。
 それは、冗談を言うような様子でもなくただ淡々と、事実を述べるように告げられた。

「……はい?」

 内容の理解が出来ていなかった。三つ願いを叶えてくれるだって?おおよそ初対面の人間にかける言葉ではないし、そうでなくても正気とは思えない。まるで現世ではないどこかに迷い込んでしまったようだった。
 彼女の意図が読めない。怪しむ俺の様子に彼女は付け加えるように言った。

「もちろん、私に出来る範囲ならっていう条件付きですけど。魔法使いじゃないので」
「いや、そういうことじゃなくて……いきなり何を言い出したんだろうって」

 別に何をお願いしようかと考えて黙っていたわけじゃない。相変わらず彼女は無表情で、その暗い目の奥の感情は一切読み取れない。

「あなたが困っているっていうから」

 会話が成立しているようで、嚙み合っていない。いまだ、俺視点での彼女に関する情報は何もなかった。
 確かに、俺は彼女の困っていますかという質問に、はいと答えたが、そこからなんでも願いを叶えてあげますというのは少々話が飛躍しすぎていた。

「いや……結構です」

 どう考えても怪しい話だとしか思えなかった。こんな可愛い子と話す機会なんて滅多にないし、俺に警戒心がなければ諸手をあげて付いて行ったところだろう。だが生憎、そこまで思考放棄してはいない。美人局的なもので今にも物陰から屈強な男達が出てくるのではないかという心配が勝っていた。

「なんでもいいんですよ。私はあなたを助けたいだけ」

 彼女は俺の言葉に、ため息をついたが諦め悪く粘ってくる。

「なんでもって……」
「なんでもはなんでも」

 彼女は一体、俺の何を知っているのだろう。最近の女子高生は見ず知らずの男にこんなことを言うようになったのだろうかと心配する。だめだろ色々、と思う。
 俺はもう一度彼女を見た。その顔は、変わらず無表情で暗い影がかかっているが、それを補って余りある華があった。普段なら、ここで立ち去ってしまっていたかもしれない。だが、今日の俺の心は、不安定であった。
 彼女の可愛さとこの時の情緒、それを後から思い出しても、これからする発言を思うと、きっとどうかしていたんだと思う。


「じゃあ俺の彼女になってよ」


 言ってから、俺はしまったと口を抑えた。一体俺は何を口走った?
 こんなこと言うつもりなくて、俺はこれまで早川さん一筋であったというのに。
 取り返しのつかないことを言ってしまった。初対面の女子に対していきなり付き合ってほしいだなんて。告白? これは告白になるのだろうか、そんなつもりは全くなかったのに。
 突然、こんなことを言われたら、ドン引きだろう。

「分かった。それが一つ目の願いね」

 だが、彼女は笑うでも嫌な顔を見せるでもなくただ普通に、頷いた。

「いや、えっと……本気?」

 想像していた反応とは大きく異なるその返事に、思わずこちらが聞き返してしまった。

「あなたが言ったんでしょ?」

 彼女は不思議そうな顔で答える。仮にも告白されてここまで感情を出さずにいられるものなのか? と胡乱に思う。
 俺は彼女になって欲しいって言ったんだが、ちゃんと意味わかって返事してるよな。

「言ったけど、冗談というかなんというか」

 彼女は、そんな俺の様子などお構いなしで目線を落とし、スマホを操作し始める。そうして、俺に画面を見せてくる。

「これ私の連絡先。呼んでくれたらいつでも行くから」
「いや……俺まだ君の名前も知らないし。そもそも会ったばかりで、何が何やら分かってないというか」

 あたふたとする俺に、怪訝そうな顔を浮かべて名乗る。

「私の名前は水野綾(みずのあや)、十七歳。君の名前は?」

 ここに来てようやく彼女の名前と年齢が分かった。水野綾、やっぱり初めて聞く名前で聞き覚えはないし彼女も俺のことを知っていて話しかけてきた訳ではないようだった。
 尚更本気かと疑問が深まる。しかし、名乗られたのであれば俺も返さないわけにはいかなかった。

「高崎陣……同じく十七歳の高校二年生」

 水野は、こくりと頷く。

「陣くんね。これからよろしく」

 いきなり呼び捨てだった。俺のことを陣と呼ぶのは、家族と隆也だけなので違和感が拭えない。

「よろしくって……水野さんは一体」
「綾。綾でいいよ、付き合ってるんだから」

 水野さんのペースに俺は全くついていけていなかった。それにやっぱり付き合っていることになっているらしい。本当にそれでいいのか。
 聞きたいことや言いたいことはあるのだが、喉に閊えて声にならなかった。初対面で呼び捨てなんて言うのも俺には難易度が高すぎた。

「水野さんって」
「陣くんは彼女のことを、苗字にさん付けで呼ぶタイプなのかな。綾でいいよ」
「……水野さん」
「綾」
「……水野」

 俺の精一杯の譲歩に水野は不満そうな顔を浮かべたが、今はそれでいいよとでも言うように渋々頷いた。どうやらお許しが出たらしい。

「陣くんは、身長いくつ?」
「最後に計ったときで百七十二……いや、こないだ百七十三になったんだっけ」
「巨人だね」
「別に……平均身長ぐらいじゃないのか」
「そうなの? 私はあんまり詳しくないけど」

 自分から話を振ってきたくせに、水野はあまり興味なさそうだった。

「そういう水野は、いくつなんだよ」
「私? 私は、百五十五センチかな」
「ちっさ」
「そう? 平均ぐらいじゃないかな」

 小柄な水野と俺の身長差はざっくり二十センチ差。ちょうど肩のあたりに彼女の頭が来ている。

「あと願い事は二つだよ。他には何かある?」
「いや、特にない……けど」
「分かった」

 水野がどこまで本気で言っているのか分からなかった。今なら全部嘘でしたと言われても、何も驚かないし納得できる。
だがもしも水野綾という名前が本当で、付き合うというのも全部本気だとしたら? 俺は今とんでもないことを話しているのではないだろうか。そしてそもそも俺は本当にこの関係を望んでいるのだろうか?

「また思いついたら言ってね。じゃあバイバイ」

 そう言って、彼女はくるりと背を向け、立ち去ろうとする。待ってと声をかけようとして、息が詰まる。なんと声をかけたらいい。呼び止めて何を言う?
 考えているうちに俺の視界から水野の姿は消え、夕暮れの道には俺以外の姿は見えなくなっていた。残された俺は一体何が起こったのか分からず、ただしばらくその場所に立ち尽くしていた。




 
 その夜、俺は何故か部屋の掃除をしていた。夕方のあの出来事のことを考えていると、無性にそうしなければならないという使命感に駆られて体が動いていた。テスト前に突然掃除を始めるあの感覚に近いだろうか。嫌なこと、やらなくちゃいけないことを後回しにするあれだ。整理のつかない脳内を、部屋を片付けることによって物理的に整理しようとしていた。
 元々物の多い部屋ではなかったが、片付けた部屋にあるものといえば、勉強机、ベッド、収納棚、買ってからろくに読まずに放置されている小説に漫画、それにギターが置かれただけのシンプルな部屋。インテリアのようなものはなく、味気ないと言われればその通りだが、すっきり整理された部屋は、心なしか普段より広いように感じて達成感を味わっていた。

 一段落したところで、俺はもう一度今日あった出来事を思い出した。
 彼女が出来た。それ自体は凄く喜ばしいことでずっと欲しいと思っていたことでもある。でも、その念願の相手は早川さんではなく、今日出会ったばかりでよく知りもしない女の子。
 俺はこの先どんな顔をして早川さんに会えばいいんだろう。
 そう考えて、いやいやと首を振った。早川さんからすれば俺に彼女が出来たかどうかなんて明日の天気よりも心底どうでもいいだろう。彼女にとって俺はモブも同然なのだから。そのことでうしろめたさを感じるのはお門違いってやつではないのだろうか。

 だとすると、今俺が考えるべきなのは水野とのことをどうするかだった。だが、そちらは情報が少なすぎて納得できるような答えは出なかった。
 そもそも水野はまともな人なのか。いや、まともな訳ないよな……。
 人をからかって遊ぶタイプには見えなかったが、ただ通りがかって声をかけただけの男子高校生と付き合うなんて正気とは思えない。
 そもそも俺は水野を好きじゃないし、口をついて出てしまっただけだ。あれだけ可愛い子に告白をOKされたとはいえ嬉しさや感動よりも先に、戸惑っているというのが本音だった。
 三つの願いというのも、何を言っているのかよく分からないし、全てが突然すぎる。考えれば考えるほど思考の泥沼に落ちていくようだった。

 その時、俺のスマホが軽快な通知音とともに震え、宙に浮いた意識を引き戻す。
 何事かと目を向ければ、そこには件の水野からのメッセージが届いていた。

『起きてる?』

 ただそれだけの内容。だが、その一言で今日の出来事が、夢や幻の類でなくちゃんと現実であったと実感させられた。こうして連絡先を交換したのは嘘ではなかったのだから。
 時刻は、夜十時を回った頃。まだ寝るには早く、俺の目は冴え切っている。だが、すぐに返事をすることは躊躇われた。
 まだ、水野との距離感を図りかねていたのだ。このまま何も答えず、連絡先を削除すれば今日のことは全部なかったことになるんじゃないかとも思う。でも、果たしてそれでいいのか? 彼女のあの表情、考えていること。俺は何も知らない。願いを聞いてもらったのは俺なのに、彼女の方がよっぽど助けを求めているように見えた。ここで結論を出すには早すぎるような気がした。

『起きてるよ』

 俺はたっぷり三分程悩んだ一言を返した。そのメッセージは送った瞬間、まるでスマホの前で待っていたかのように、すぐに既読になる。

『明日の放課後、暇ですか?』

 そのことに驚いているうちにまた続けざまに返信が送られる。
 水野からのメッセージは、女子高生、仮にも彼女からとは思えないほど、淡白なものだ。
 年頃の乙女らしく絵文字もスタンプも使われていない彼女の文章は、暗い表情だった彼女の姿と重なり、実際に言っているのが簡単に脳内でイメージできる。

『暇だよ』
『じゃあ明日、古咲(ふるさき)駅に来てください』

 間髪入れずに返信が来るので、一息つく間もない。俺はたったこの一言を送るだけでも色々と考えているのだがそんなのお構いなしだ。
 古咲駅とは、俺の学校からは一駅離れた駅で、行けない距離ではないのだが、離れていることもありうちの学校の生徒は少ない。知り合いに見られたくない待ち合わせ場所としてはうってつけであった。
 水野から見た俺の印象を考えれば、いいものに映ってはいないだろうということは、流石に自覚している。助けてあげようと思った人間に、願いを聞いてあげようとしたら初対面で交際を申し込まれたのだから。だから、こうして誘ってくれるのも意外だった。
 そもそも、願いを聞いてあげるのも意味が分からないという話はあるが、それは置いておいて。どうして彼女になって欲しいという意味不明な願いを許可してくれたのかも、こうして話しかけてくれる理由も。俺はまだ彼女のことを何も知らなかった。

 断る理由も思いつかなかった俺は、分かったと返す。水野からは、おやすみとだけ来て、それで連絡は途絶えた。
 嵐のように突然現れ、要件だけ伝えて去っていったが、俺からこれ以上会話を続けようとはしなかった。分からないことだらけだがそういった疑問は、明日改めて聞けばいいと思ったから。
 俺は、今日のことを相談しようかと隆也を頭に思い浮かべたがやめた。あいつに相談すると、可愛いなら何でもいいんじゃね、とでも言ってまともに相談に乗ってくれないのが簡単に想像できる。わざわざ自分からひけらかすことでもないし話すのはまた今度だな、と納得する。

 俺は、日課である夜のギター練習をして、全てを忘れることにした。今日はもう考えるのはやめだ。明日のことはきっと明日の自分が何とかしてくれる。
 このどこか他人任せの俺の性根が様々な問題を後回しにして、その結果また新たな問題を生み出しているのではないかと気付いてはいるが、知らんぷりだ。
 ギターに夢中になっている間は全てのことを忘れられる。最初は早川さんに好かれたいと不純な動機で始めたギターも存外、俺に向いていたのかもしれない。流石にプロ並みとまではいかないが、譜面を見ればある程度なぞるように弾くことが出来る程度にはこの数年で成長していた。鼻歌を口ずさみながら、奏でる音に身を委ねた。





「ぼーっとしてどうしたよ」
「いや、なんでもない」

 普段からあまり授業を熱心に聞くタイプでは無かったが、今日は一段と気が抜けていて、ノートの隅に無数の棒人間を描く作業を数回繰り返していれば、気付けば昼休みになっていた。
 いつもの様に、近くの席を持って来て、俺の隣に隆也が座る。

「なんかあったなら聞くけど」
「強いて言うなら、自分でも分からない自分の気持ちに翻弄されてるってとこかな。目に見えない何かと戦ってる気分だ」
「的を得ないな。ポエムか?」
「ポエムを言いたくなる気分の時だってあるだろ」
「俺にはないな、あったとしても恥ずかしくて言えないね」

 隆也との普段と何も変わらないやり取り。水野のことなんてまるで何かの夢のように思う。

「それでさ、聞いてくれよ。彼女が……」

 またしても始まった朝から何度も聞かされる隆也の愚痴という名ののろけ話を、右から左へ聞き流しながら考える。
 ここにいる誰も、俺がたった一日であんな美少女と付き合い始めただなんて思いもしないだろう。本当に付き合っているのかは怪しいところではあるが、とりあえず嘘はついていない。

「……陣、ちゃんと聞いてる?」
「聞いてるよ、隆也が酷いこと言って振られそうって話だっけ」
「俺がいつそんな話をしたんだよ」

 この親友も随分と浮かれたものだ。きっと話したくて仕方なかったのを我慢していたが、俺にその存在を明かしたことによって制限が外れたのだろう。正直、一ミリたりとも興味はないが、幸せそうな親友を見ていれば、水を差す気にはならなかった。
昼休みの教室内には、俺たち含めいくつかのグループが形成されている。俺たちのような少人数の集まりもあれば、早川さんがいるキラキラ輝くような中心人物の集まった女子のグループ、運動部の連中など。平穏そのものである光景に、平和というのはこういうことを言うのだろうとしみじみ感じる。
 昼の時間は、早川さんが樋口で過ごしているわけでないというのは、俺にとって少しの救いでもあった。それが、どちらからの提案かは分からないが、きっとお互いに友人との付き合いがあって各々の時間を過ごしているのだろう。もちろんその分、放課後は部活前に会いに来ていたりと関係に曇りはなさそうなのがなんとも心苦しいが。

「それはそうとして、隆也。ちゃんとあれ、練習してるか?」
「う、まぁやってはいるけど」
「ならいいんだけど。浮かれすぎて忘れてたとか言わないでくれよ」
「分かってるよ」

 釘を刺したところで、昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴る。午後の授業のスタートだ。放課後には、水野との約束がある。あと少し辛抱の時間だった。




 
 長い一日を終え、放課後、俺は言われた通り古咲駅へと向かった。本当に来てくれるのか、どのあたりで待ち合せなのか。懸念は尽きなかったがそういったものは、着いた瞬間吹きとんだ。

「目立ちすぎだよ、水野」

 声をかけた水野は、昨日と同じ、見知らぬ制服に身を包んでいて、俺のことを認識するとぺこりと頭を下げた。

「そんなつもりないんだけどね」

 水野は、不思議そうに首をかしげた。
 俺たちの周りには、人だかりが出来ていた。正確に言うなら水野の周り、だろうか。彼女を見て、ひそひそと噂話をする声が聞こえてくる。
 遠目からでも一瞬で分かるほどの存在感の強さ。こんな田舎に似合わぬオーラは皆の共通認識だったようだ。その気がなくても注目を集めてしまう。それほどまでに水野は、この場に似合わぬ特異な存在だった。待ち合わせをするうえでここまで向いている能力もないだろう。遠目でも一瞬で見つけることが出来た。
 そんな美少女と待ち合わせをしているのがこんな男だなんて、野次馬の期待外れもいい所だろうが、何故だかその視線も誇らしい。

「とりあえず、移動しようか」

 とはいえ、視線に慣れていない俺にとってその提案は救いの船であった。


 俺たちは先程までの人通りが多い正面出入り口から移動し、木陰のベンチに並んで座る。隣に座る彼女は、相変わらずの超絶容姿であり自分なんかが何故ここにいられるのか分からなくなる。
 心ここにあらずというように虚空を見つめる彼女の横顔は、とても綺麗であった。その横顔に思わず見惚れてしまう。何も会話がないこの空気に水野は何も感じていないのだろうか。
 言葉に出来ない気まずさが立ち込める。呼び出したのだから何か喋ってはくれないだろうかと願うが、あいにくそんな様子はない。仕方なく俺から話しかけることにした。

「えっと、ごめん。待たせたかな?」

 俺の言葉に、水野の意識が現実へと戻ってくる。

「そんなに待ってないよ。むしろ思っていたより早かったぐらい」

 具体的に時間を決めていなかったから、もしかすると水野はかなり前からあそこにいたんじゃないだろうか。俺が来た時にはすでに人だかりが出来ていたことを考えると、時間が経っていてもおかしくないし、あの様子では何人かに声をかけられているのではないだろうか。
 水野を外で待たせるのは危なっかしすぎる。今度からは、ちゃんと時間を決めようと心に決めた。

「それで、用事って何だったの?」

 社交辞令とも言える当たり障りのない会話も程ほどに本題へ切り込むことにした。今日呼び出された理由、それを考えて今日一日少し浮いた気持ちで過ごしてきた。なんせ、女子と待ち合わせなんて初めてだったのだ。それが、初の彼女ともなれば昂るのは無理もない。

「用事なんてないよ」

 だが水野は、そんな俺の気持ちなど意にも介さず、あっけらかんとした様子でそう答えた。

「ない……? 何かあるから呼び出したんじゃ?」
「付き合っている彼女が、用もなく放課後にただ会いたいって言うのはおかしい?」

 赤面することもなくそんなことを言う水野に、俺の顔が熱くなる。きっと鏡で見れば、耳まで赤くなっているだろう。
 そりゃ、普通のカップルであれば何の用事もなく呼び出すのもあるかもしれない。だが、まだ俺たちにそれだけの関係値があるとは思っていなかった。会いたかったなんていう、それだけの理由で呼び出しなんて。そのことを恥ずかしいとも思っていなさそうなのが、また凄い。これが経験値の差だろうか。
 水野ほどの容姿であれば、もちろんそう言った経験は俺なんかとは比較にならないのだろうが、少し刺激が強かった。いくらなんでも過剰反応が過ぎたなと、咳払いで誤魔化す。

「おかしくはないけど……ただそれだけなのね」
「それだけだよ」

 また気まずい沈黙が流れる。感じているのは俺だけかもしれないけれど。
 彼女の首筋に滴る一筋の汗とその肌の白さにどきりと胸が鳴る。
 相変わらず彼女のペースは俺なんかには追い付けないほど早い。でも、これをはっきりさせないことには俺は心置きなく次に進むことが出来ない。勇気を出して聞くことにした。

「俺たちって本当に付き合ってるの?」

 我ながら、随分と気持ちの悪い質問だったなと思う。本当に付き合っているの? だなんてなんとめんどくさい男だろうか。だが誓って変な意味じゃなく、単純にこの関係を知りたかったのだ。その結果がこんなくさいセリフになってしまったのは不可抗力だろう。

「付き合ってるよ。昨日、願い事を聞いてあげたじゃん」

 水野の答えは、昨日と同じであった。と同時に俺が尋ねたいことでもある。

「その……願い事って結局どういうこと?」
「話した通りだよ。私が、何でも三つだけ願い事を叶えてあげる。でも、例えば不老不死にして欲しいだとか私に出来る範疇を 超えていることは無理。私は何か特別な力があるわけでもない普通の女の子だからね」

 聞いたときにも思ったが、自分の言っていることをきちんと理解しているのだろうか。こんな超絶容姿の女子高生が何でも言うことを聞いてくれるなんて、まるで男の夢のような話じゃないか。そんなの否が応でも破廉恥な方向に想像が膨らんでしまう。
 もし願いを言うのが自分じゃなかったら、といくらでも最悪の想像が出来てしまった。俺がとんでもないお願いをしたらどうするつもりなんだろう。とんでもないというのは、それはもう……あれだよあれ。
 顔色変えずに受け入れてくれそうなのがまた怖い。

「その、何でもって。嫌なことだったらどうするの?」

 俺だって普通の男子高校生。思うところはあるが、水野を前にして実際にそれを口に出すには勇気も度胸も何もかも足りなかった。それらがあれば言っていたかもしれないと思う自分が汚い。

「私がやりたくてやってるんだから嫌なことなんてないよ。言われれば何でも」

 本当にこの人は……。もっと自分の価値を考えてほしい。危なっかしくて外を歩かせられない。

「それ、他の人にも言ってないよね?」
「言ってないよ、陣くんだけ」

 俺だけという言葉に不覚にも意識してしまうのが憎い。
 ただこうして心配するように善人ぶっても、俺の最初の願いは付き合って欲しいだなんていう欲にまみれたことを言っているのだ。今更取り繕うことはできない。
 だって仕方ないだろ、あの時、彼女が欲しくて仕方なかったのだから。人肌恋しくて、彼女がいるという生活に憧れてしまった。でも、だからといってこんな無理やり言うことを聞かせるような形というのは、俺だって本意じゃない。水野は俺のことなど好きではないだろうし、俺もまた水野に好意があって言ったわけじゃないのだから。

「どうして、俺の願いを聞いてくれるんだ?」

 当然の疑問。俺の彼女であろうと接してくれていることから、本気で叶えようとしていることは何となく理解できる。それだけに、何故こんなことを俺だけにしているのかが気になった。
 水野は、俺の質問に、考えるように黙りこくる。彼女からの返事はいつも淀みなく一瞬で帰ってきていた。まるでよく出来たAIじゃないかとでも思っていたが、どうやら違ったらしい。

「それを聞くのが二つ目の願い?」

 じっくり考えた末に水野が答える。そのたった一言で、言いたくないことなのだと、分かりすぎるほど分かった。言葉にしないだけでその裏には強い拒絶があった。

「そんなに言いたくないことなら聞かないことにする」

 誰だって言いたくないことの一つや二つある。もちろん俺にだって。それをなんでもいうことを聞いてくれるという願い事を使ってまで掘り起こすほど野暮なことはしたくなかった。
 なので、俺はもう一つ聞きたかったことを聞くことにした。

「じゃあ、三つ願いを叶えてくれた後はどうなるんだ?」
「それも秘密。もし知りたいなら……」
「願い事で、ってわけね」

 水野はこくりと頷く。
 何となく彼女のことが分かったように思う。理由はともあれ、彼女は俺の願いを三つまで叶えようとしてくれている。
 俺の一つ目の願いである彼女になって欲しいという願いは、実際に忠実にこなしてくれていてその容姿、立ち振る舞いには非の打ちどころがない。その行動原理と目的は、未だ不透明で不気味にも感じるが、今こうして話している彼女から悪意は感じなかった。

 だとしたら、後は俺次第。俺の気持ち次第でこの関係が決まる。こんな可愛い子と付き合えるなんて普通に生きていたら、俺の人生ではありえなかっただろう。普通の出会いとは言えないとはいえ、このチャンスを棒に振ると思うと、手放しがたさに襲われる。
 だが、魅力を感じるのと恋愛感情はまた別軸だ。恋とは、可愛いから好きなんていう安直なものじゃない。沢山の積み重ねがあった上で、その先に芽生えるのが愛情であって一目惚れなんてものを俺は信じて居なかった。
 第一、俺はまだ早川さんのことが好きだし、こんな気持ちで付き合ってもいいのだろうか。水野も好きでもない男と付き合うのは嫌だろう。これから仲良くなっていけば、普通のカップルになれる日が来るのか?

 正解なんてどこにもないのかもしれない。だが、とにかく俺には正解が分からなかった。それでも、確かなのは、水野は爆発的に可愛くて、俺は猛烈に彼女が欲しい。その点で、需要と供給は成り立っていた。水野は俺に何かを求めている訳じゃないのだから焦る必要はないと思えた。

「色々、思うところはあるけど分かった。でも、とりあえずお試しってことで。それでいいかな?」
「私は何でも大丈夫だよ。お試しでも使い捨てでも君の自由」

 投げ槍ともとれるそれを、冗談でもなんでもなく言ってのける水野に苦い笑みが零れる。

「そこまで不誠実なことする気はないけど……これからよろしく水野」

 こうして俺たちの奇妙な関係は始まった。