「凜」
柔らかな声で名前を呼ばれ、そちらに視線を向けると硝子玉のような澄んだ瞳がじっと見つめ、わたしを映す。
「凜は今……幸せ?」
その声はずいぶんと穏やかなものだった。
それはきっともう彼に未練がなくなったからだろう。
ついに君と過ごす最後の時間だ。
君が本当に天国へと旅立つ時がきてしまった。
覚悟はしていたはずなのに、ぎゅっと胸が締め付けられて苦しくて、痛い。
「……伊吹のおかげで、すごく幸せだよ」
彼が安心してあの世へいけるようにと、はらはらと落ちる涙を拭い、顔をくしゃくしゃにしながら、あふれんばかりの笑顔を見せた。
すると、その瞬間、彼の身体がピカリと光って足元から段々と透けていき、消えていくのがわかった。
やっぱり、彼はわたしが『幸せ』だと告げると成仏するようになっていたんだ。
そう、彼はわたしが『幸せ』だと言おうとした時はいつも言葉を遮って止めてきて不思議に思っていたけれど、こういうことだったのか。
「凜、卒業おめでとう。また、いつか凜がおばあさんになったらあの世で会おう。それまで待ってるから」
「ありがとう……伊吹……っ」
「ほんと泣き虫なのは変わんねえな」
わたしの瞳からこぼれて頬を伝う涙を彼が親指で優しくそっと拭ってくれて、そのまま頬に手を当てた。
「うるさい……っ」
もう残された時間は少ない。
触れられないとわかっていながらわたしは彼の頬に手を当てた。
するり、といつもならすり抜けるはずなのに今日は感触がある。
―――わたしから伊吹に触れることができた。
「い……ぶきっ」
最後の最後で起きた奇跡にますます気持ちが溢れ、涙が幾度となく頬を伝い止まらなくなる。
「これは凜が起こした奇跡だね」
伊吹が優しく笑いながらわたしの額と自分の額をくっつけた。
久しぶりに触れた彼に温度はないけれど、それ以上に心が温かくなった。
そして、彼の体はどんどんと白い光に呑まれて消えていき、やがて、わたしが作った卒業証明書がふわりと宙を舞って、ひらひらと地面に虚しく落ちた。
―――凜のこと、ずっと見守ってるから。
本当に消える間際、彼が口にした言葉はそれだった。
後悔なんてまるでない穏やかで幸せそうな笑顔を浮かべて彼はわたしの名前からいなくなった。
「以上を持ちまして、根来伊吹、新田凜の卒業式を閉会いたします……っ」
寂しいとか、ついに消えてしまったとか、これでよかったんだとか、色々な気持ちを心に抱えながらも、何とか絞り出した声は誰もいない教室の中に溶けて消えた。
君との卒業式も無事に終わり、窓から吹き込んだ風のせいでわたしの髪をゆらりと揺らす。
床に落ちた賞状を拾うと、涙の跡が残っていて胸が切なく疼いたけれどそのままカバンの中にしまった。
これはわたしの賞状と一緒に大切に残しておこう。
なんとなく、このまま帰る気にはなれず、先程まで彼が座っていたはずの机に手を置いた。
「約束、守ってくれてありがとう」
大きく息を吸って、ふぅ、と長く吐き出した。
いつまでもメソメソしていられない。
わたしは君から卒業したんだから、前を向いて歩いていく。
「凜ちゃん!まだこんなところにいたの?みんな打ち上げ行くって張り切ってるよ!凜ちゃんも早く行こ!」
勢いよく教室のドアが開けられ、麻衣ちゃんが生き生きとした顔を覗かせて早く早くと手招きしている。
「今行く!」
と、カバンを肩にかけて彼女の元へ駆け出す。
もう、わたしのそばに君はいない。
でも、君が残してくれた奇跡の日々を胸に抱いてちゃんと自分の未来の為に生きるから。
だから……一分一秒、見逃さずにちゃんと見守っていてね。