「雪が降りそうだね」

 雅弘の言葉に美緒は「そうですね」と返す。寒くなったら嫌だな、と思っていたら雅弘は笑った。

「ホワイトクリスマスになるといいね。ロマンチックだ」

 明るいその声に、美緒の背筋が伸びていくような気がした。
 二人はガレージに停めてある車に乗り、美緒が受診している病院まで向かう。雅弘は由梨の美容室だけではなく、病院内にある美容室でも週に二回ほど働いていた。美緒の診察があるときは、彼女の送迎のためにその日に合わせてシフトを変えてくれる。そうでもしないと、美緒が恐縮して一人で病院に行ってしまおうとするから。仕事のついでだと言った時、いつもよそよそしい美緒が少しだけ和らぐような表情をしたのを雅弘はよく覚えている。

 みんな、誰かに迷惑をかけながら生きているんだよ。雅弘は心の中で美緒に語り掛ける。ワガママを言って、それを受け入れて、そこから信頼関係が生まれていく。だから、もっともっと甘えて欲しかった。せっかく家族になったのだから。

 病院に着き、受付のあたりで二人は別れた。美緒は診察のために脳外科があるフロアまで昇っていく。腫瘍はもう見る影もないけれど、再発や転移の可能性があるため数か月に一度検査をする必要があった。それに、今の美緒は貧血の状態でその薬も貰わなきゃいけない。CT検査をして採血も終えて、医者から呼ばれるまでじっと待合室で待ち続ける。その間、美緒は顔をあげず、目を閉じていた。病院にはたくさんの人がいる。その分たくさんの顔がある。美緒はそれを見ないように、まるで甲羅の中に引きこもる亀みたいにじっと身動きを取ることないまま過ごした。一時間ほどして、ようやっと診察室から呼ばれる。美緒はカチコチに固まった体を少し伸ばしてから診察室に入った。

「今回も問題ありませんでした。貧血の薬は引き続きだしておきますね」

 必要事項だけを淡々と告げる医者の言葉に小さく頷いて、すぐに診察が終わった。問題がなかったことには胸を撫でおろす。でも、いつものことだけど、診察を受ける時間より検査や待ち時間の方が長いのは何だか腹立たしい気分になってしまう。美緒は会計を待っている間にコンビニで買った軽めのお昼ご飯を食べて、バスに乗って次の目的地に向かった。

 俊との待ち合わせはいつも、美緒が通院している病院と俊が通っている大学の中間地点にある繁華街だった。待ち合わせ場所のベンチに座り、美緒はまた顔を伏せた。クリスマスだからか、街はごく普通のカップルや家族連れで賑わっている。街を行く人々の顔が見えないように、美緒はずっと下を向いていた。

 美緒はしばらくの間そうやって、俊が来るのを待つ。すると目の前に、ひらりと何かが落ちてくることに気づいた。美緒がそれを受け止めようと手を出すと、それは美緒の手に乗ってすぐに溶けてしまった。雪だ。雅弘が言っていたホワイトクリスマスになったんだ、と美緒は空を見上げる。相変わらずどんよりとした雲が立ち込めていたけれど、ふわりと舞い落ちるそれがとてもロマンティックで愛しさすら感じるようになる。その時、美緒自身が浮足立っていることに気づいた。自分を律するように手を固く握る。あまり浮かれすぎないようにと何度も心の中で念じた。確かに、今の自分は俊と『付き合っている』けれど、彼が求めているのはきっと【今の美緒】じゃなくて……失われた美緒なのだから。自分はその代わりなんだから、と。

 待ち合わせの時間から少し遅れて、美緒の視界に男の物の靴のつま先が飛び込んできた。美緒は顔をあげる、そこには俊がいた。

「悪い、遅くなった」

 人の顔が分からなくなってしまった美緒は、待ち合わせをするのも一苦労だった。だって近づいて来る相手が自分の知り合いなのか見分ける方法がないから。けれど、不思議と俊の事だけはすぐに分かった。彼の顔も分からないけれど、ぼんやりと温かみのある色がそこにあるように彼女には見えていた。美緒はこれを、過去の美緒の気持ちが関係しているんだと思っていた。記憶がなくなってしまう前の美緒も彼の事が好きだったから、きっと特別に見えるに違いないって。

「ううん、大丈夫」
「大丈夫なわけないだろ、ほら」

 そう言って俊は美緒の手を取った。指先がキンと冷たくなっている。それを温めるように大きな手のひらで包み込む。美緒はびっくりして手を離そうとするけれど、俊はぎゅっと強く握る。

「まずはどっかで温まろう。行くぞ」

 そのまま指を絡めとるように彼は深く美緒と手を繋いだ。俊が優しく美緒に触れるたびに、心臓が締め付けられるように苦しくなってしまう。顔が少し熱っぽくなって、恥ずかしくて仕方ない。彼に女の子として扱ってもらうことは嬉しいけれど、美緒は慣れないままだった。

「俊君、あの、忙しいのに誘ってくれてありがとう」

 俊は今、医学部の六年生。最終学年ももう終盤に差し掛かっていて、今は実習か医者になるための国家試験の勉強以外していないと言っていた。大変な時期だけどデートしてくれることが嬉しく、けれど、それ以上に申し訳なくなってしまう。

「なんだよ、当たり前だろ。クリスマスなんだから、俺だってデートくらいしたいよ」

 きゅっと美緒が手に力を込めると、俊もそれに返事をするように握り直した。こんな風に歩いていると、まるで自分も普通の女の人みたいだ。少し浮足立つような気持になってきた美緒を、すれ違った誰かの声が、あっという間に地の底まで落として行ってしまった。

「何あの人、やばくない?」

 その心無い言葉が向けられた先が自分の事だと美緒は思った。頭の中が、まるで指先と同じくらい、いやそれ以上に冷たくなっていく。俊の手を振りほどき、美緒はバッグを漁った。ニット帽を見つけてそれを深く被る。どこにでもいる普通の人になりたいのに、まるで足枷のような後遺症が美緒と普通の生活を切り離してしまう。

「美緒の事じゃないよ。美緒じゃなくて――」
「ごめん、ごめんなさい」

 俊の言葉を遮るように美緒は同じ言葉を繰り返した。彼はいつも優しくて「大丈夫。美緒が何か言われたわけじゃないんだ」と言ってくれる。でも、美緒はそれを脱ぐことができなかった。きっと誰かが自分の頭を見てしまったに違いない。由梨に丁寧にヘアセットしてもらったけれど、病院にいる間に脱毛の箇所が見えるようになってしまったんだ。待っている間に直しに行けば良かった、いや、初めから帽子を被っておけば良かった。そうしておけば、美緒が嫌な気持ちになることも俊に恥ずかしい思いをさせることもなかったのに。

 わずかに震える美緒の手を、俊は再び握った。

「カフェに行って温かいものでも飲んでさ、少し落ち着こうか。今日、ちょっといい店予約したんだ」