食事の間も、美緒の口数は少ないままだった。由梨はすがるように雅弘の顔を見る。姉夫婦はともに、いつまで経っても他人行儀のままだった美緒の事を心配していた。由梨は何度も「もっと甘えていい」とか「もっと本音を言っていいんだよ」と美緒に言いたかったけれど、その度に雅弘が止めていた。それは彼自身も美緒の事が心配で仕方がなかったからこそ。
「美緒ちゃんが僕たちを家族として受け入れてくれるようになるまで待とう。幸いなことに、時間はたくさんあるんだから。少しずつ家族になっていこう」
由梨の胸が張り裂けそうになるたびに、雅弘がそう言って優しく由梨を抱き留めてくれる。彼がいなかったら、もしかしたら二人の家族としての形はとっくに壊れてしまっていたかもしれない。
「デートなら、お姉ちゃんの服貸してあげる」
「え、で、でも……」
美緒がいつものトレーナーとジーンズで外出しようとしているのを察した由梨が鋭い目つきで美緒を見ていた。その声音も少し鋭く聞こえて、美緒はびくりと肩を震わせる。
「あとメイクもしてあげるからね、早く着替えて降りてきてよ」
そんな事をしてもらうのは申し訳ない、助けを求めるように雅弘を見るけれど、彼は楽しそうに笑っていた。塩サケに醤油をかけようとしているので、それを見て由梨が「塩分!」と叱っている。美緒はどうしようと困りながら、ご飯を一口食べた。メイクなんてしても、何か変わる訳じゃないのに……。
朝食を食べ終えて、さっそく由梨は三階にある自分の部屋に向かう。時間はあまりないから、パパッと美緒に似合いそうな服を選んでいく。似合って、デートにもピッタリな服をぶつぶつ言いながら探していると、もうずいぶん前に買って数回しか着なかったワインレッド色のニットワンピースが出てきた。クリーニングの袋を外してリビングで待つ美緒に差し出す。
「お、いいね。そんな服持ってたんだ」
食器を洗っている雅弘も顔をそちらに向けて、ワンピースを褒める。
「若い時に買って、何回かしか着なかったやつ。いいでしょ、着ておいで」
押し付けられるように渡されて、美緒は断ることも出来ず仏間に追いやられた。パジャマからワンピースに着替えていく。体のラインに沿うような作りになっているけれど、少しやせ型の美緒の体型からは少し浮いているようにも見えた。似合っているのか分からなくて美緒は部屋から出てくる。
「お、いいじゃん。その服あげるよ」
「で、でも……もらう訳には」
「お姉ちゃんもう着ないもん。それに、昔はよく私のおさがり喜んで着てたんだよ、美緒は」
由梨の中に残っている思い出を丸ごと着ているみたいで、少しだけ心があったかくなるような感覚を覚えた。美緒が小さく頷くと由梨は「暖かいタイツ履いておいで。持っているでしょ?」ともう一度美緒を部屋に押し込んでいった。
「美緒ちゃん、由梨さんのおさがり着る子だったんだね。僕は兄貴のおさがり着るの嫌だったなぁ」
キッチンに立つ雅弘の隣に由梨はこっそり近づく。そしてすぐ隣の部屋にいる美緒に聞こえないように、そっと小さな声でこう言った。
「ううん。美緒も嫌だって怒ってた」
「え? 嘘ついたの?!」
雅弘の声が大きくて、由梨は「シーッ」と唇に人差し指を当てる。
「たまにはいいでしょ、これくらい」
「姉として胸が痛んだりもしないの?」
「ああでもしないと、また適当な服着て俊君とデートするのよ、あの子。俊君にも悪いでしょ」
「まあ確かにそうだけど……」
雅弘は俊の事を思い浮かべる。彼が俊と知り合ったのは、美緒が病院と退院した当日だった。由梨から美緒の幼馴染の男の子についての話は聞いていたけれど、美緒と俊の関係はもっと軽いものだと思い込んでいたから、彼の美緒への想いの大きさを目の当たりにした時とても驚いたことを今も覚えている。常に美緒の事を想っていたその健気でたくましい姿は、男としても見習いたいときもあった。そんな話をしている内に服を整えた美緒が仏間から出てくる。由梨はその腕を引っ張って美容室のある一階まで降ろし、スタイリングチェアに座らせた。
「メイクするから、目、閉じて」
美緒は目を閉じた。いや、この椅子に座るときは必ずそうしている。目の前には大きな鏡があって、それに自分の姿が映りこむ。その度に自分の顔が分からないことが怖くなってしまうから、その前に何も見ないようにと目をぎゅっと瞑る。由梨は「少し力抜いてよ」と言いながら美緒の顔にファンデーションを乗せていく。顔にパタパタと見えないものを塗りつけられて、次に由梨は髪に触れた。いくつも残った脱毛の場所が見えにくくなるようにヘアスタイルを整えていく。その長さは、かつての美緒の長い髪に比べるととても短いものだった。けれど、だいぶ伸びてきて毛先は肩に触れそう。アレンジの幅が広がってきたことを由梨はこっそり喜んでいた。
「はい、おしまい。少しでも顔色が良く見えるようにしておいたから」
「う、うん。ありがとう」
美緒は鏡を見ないように立ち上がる。そんな事を言われても、美緒はどうしても「意味ないのに」なんてネガティブな事を考えてしまう。
「お姉ちゃん、コートとか持ってきてあげるからここで待ってな」
由梨が軽快な足取りで階段を昇って行ったと思ったら、今度は雅弘と一緒に降りてくる。彼の手には車のキーが握られていた。由梨はコートとバッグを渡していく。
「帽子は?」
美緒が不安げにそう聞くと、由梨はバッグを指さした。脱毛の部分を見られたくない美緒にとって帽子は外出の時の必需品だった。不安がっている美緒の背中を由梨が押していく。
「大丈夫、見えないようにしてあるから。ほら、行ってらっしゃい」
「行ってきます!」
まだおどおどとしている美緒の代わりに雅弘が元気にそう返した。二人は外に出る。空は濃いグレーの雲で覆われていた。