目覚まし時計が鳴るよりも先に、キッチンから聞こえてくる炊飯器の焚き上がりを知らせるアラームで美緒は目を覚ます。カーテンから差し込む冬の柔らかな朝日を見て、また朝が来てしまったと彼女は思った。朝になるたびに、昨日の自分と何も変わらないことにがっかりしてしまう。もし【以前の美緒】に戻ることができれば、みんな大喜びしてくれるのに違いないのに。けれど今日も【私】は【私】のままで、家族や知人に気を遣わせてしまって、その度に自己嫌悪で胸が苦しくなるばかり。そんな日々を送るのがしんどくて、朝が来るたびに早く一日が終わってしまえばいいのに、なんて思ってしまう。二十五歳になった美緒は、いつも後ろ向きな事ばっかり考えていた。

ゆっくりと体を起こして、何よりも先に仏壇の扉を開ける。そこには美緒の両親が眠っているらしいけれど、美緒は全く覚えていない存在だった。けれどその繋がりが消えてしまわないように、朝になったら真っ先に扉を開けて手を合わせる。この部屋で寝起きするようになった日から習慣にするようにした。

 美緒の脳内にできた腫瘍の摘出手術を終えて、もう八年も経っていた。元々は三階に美緒の部屋があったらしいけれど、貧血が続いてふらふらしてしまうことがある美緒を姉の由梨がとても心配して、階段の上り下りを減らすために二階にあるリビングやキッチンと繋がっている仏間に美緒の部屋を移動させた。元々の部屋への思い入れは【今の美緒】には全くなかったから、彼女にはどこで寝起きしても問題はなかった。けれど、姉に迷惑をかけてしまっていることだけが心の中で抜けない棘のように今も刺さったまま。

 辛くて長い治療は無事にすべて終わり、腫瘍は寛解した。けれど、それですっかり元通り……という訳にもいかなかった。病気や手術の後遺症は想定されていた記憶障害だけではなく、さらに深刻な症状も残ってしまった。美緒は仏壇に置かれた二枚の写真を見る、そこにはお父さんとお母さんの顔があるはずだけど、美緒にはそれが分からなかった。どちらの顔も、薄いベージュ色の絵の具が塗りつぶされたように見えてしまい、どんな表情をしているのかさえ分からない。検査をした医者は美緒が相貌失認の状態であると告げた。手術を終えた後からもうずっとこの状態で、新しく知り合った人どころか以前から付き合いのある人々の顔も全く分からない。記憶が残っていればその表情を思い出すことができたのかもしれないけれど、すっかり空っぽになってしまった美緒には分からないままだった。
 
 このままでは再び元通りのような日常生活を送れるかも不透明だった。病気の治療に専念するために休学していた高校も行きづらくなってしまい、結局中退して、今は姉夫婦が営む美容室で簡単なアシスタントのような仕事をさせてもらっている。けれど体力もあまりないから、フルタイムで働くことが出来なくて、それが更に申し訳なくて……たまに、逃げ出したくなってしまう時がある。

 仏間の戸を開けると、キッチンにいる男の人がその音に気づいて振り返った。

「おはよう、美緒ちゃん。起こしちゃった?」
「い、いいえ。おはようございます、あの、手伝いますよ」
「いいの? あ、それなら先に顔を洗っておいでよ」

 その声が明るくて、彼が笑っていることは伝わってきた。彼は姉の由梨と結婚した竹田 雅弘。雅弘は美緒に「お兄ちゃんって呼んでいいんだよ」と気軽に話しかけてくれるけれど、美緒にその壁を越える勇気はなかったから少しよそよそしいまま。美緒は言われた通り洗面所に向かい、ぬるま湯を出してから顔を洗った。鏡に映る自分の顔も、今の美緒には分からなかった。目や鼻、口がある場所に触れてもそれがどんな形なのか美緒の目には見えてこないし、記憶を辿っても自分がどんな顔だったかも分からない。濡れた顔を強引に拭いてくと、伸ばしている最中のショートヘアも濡れてしまったことに気づいた。美緒はタオルで叩くように水気を拭って、置いてあるブラシで髪をとかしていく。治療で使用した薬とストレスの影響で、頭には円形の脱毛の痕がいくつか残ってしまった。美緒はそれを隠すように髪を整えて、もう一度キッチンに向かう。雅弘が食器棚からお茶碗を取り出していたので、美緒はそれを受け取って炊飯器を開けた。ふわっと炊き立てのご飯の匂いが広がっていく。ほかほかのご飯をよそっていると、美容室の掃除を終えた姉が戻ってきた。

「おはようございます、お姉さん」
「……うん、おはよう、美緒」

 二人の間には、以前のような家族としての気安さではなくしこりのような違和感があった。美緒は記憶を失くしてから、姉に迷惑をかけていることが申し訳なく思っていたし、由梨もそれを感じ取ってしまい、自ら近づくことができなかった。由梨は魚焼きグリルの中で待っていた塩サケの切り身をお皿に盛りつけていく。その間で雅弘がお味噌汁の味見をしている。

「美緒、私が運ぶから貸して」

 お盆に茶碗を乗せて運ぼうとする美緒に、由梨がそう声をかける。由梨は美緒の事を心配しては手を貸そうとしてくれるけれど、それは美緒にとって少し強引にも見えた。美緒が戸惑っていることに気づいた雅弘が、美緒を手招きする。

「美緒ちゃん、お味噌汁の味見してもらってもいい?」

 美緒を引き寄せて、少しだけ味噌汁が入った小皿を渡す。美緒は心の中でお礼を言いながら、それを受け取った。由梨との関係に美緒が戸惑うたびに、雅弘が二人のいい緩衝材になってくれていた。

「少し薄味ですか?」
「そうでしょ? 減塩の味噌に変えたんだ」
「あー、この前健康診断で血圧高めって言われたから」

 由梨は運びながら「良い事だ」と嬉しそうに言って頷いていた。

「それでは、いただきます」

 雅弘の声に合わせて、美緒と由梨も手を合わせた。わかめと豆腐の味噌汁にごはん、塩サケ、ほうれん草のおひたしと言った純和風メニュー。雅弘はとても料理上手で、この家に引っ越してきた日からご飯を作ってくれるようになった。美緒が手術をする前は彼女が朝食を作る係だったらしいけれど……雅弘の手際の良さを見ていると、自分がキッチンに立って同じことをしていたなんて信じられなかった。

「美緒は、今日病院よね?」
「はい」

 朝食を食べながら、みんなの今日の予定を確認していく。美緒は診察、由梨は予約が入っているお客さんの事、雅弘は備品の発注について。これは少し忘れっぽくなってしまった美緒にその日の予定を思い出させるために始めた習慣だったけれど、いつのまにかそれぞれがスケジュールを確認しあうための大切な時間になっていた。

「病院の後はタクシーで帰ってくるんだよ。お姉ちゃんも雅弘さんも忙しいんだから」
「由梨さん、今日はクリスマスだよ? 美緒ちゃん、病院の後はデートでしょ?」

 雅弘はカレンダーを指さす。今日の日付の部分には、「クリスマス」「病院」「俊くん」と書かれている。由梨は「そうだった」と一人で何度も頷く。師走の忙しさのせいで、今日がクリスマスだったこともすっかり忘れてしまっていたみたいだった。

「楽しんできてね、美緒ちゃん」
「……はい」