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水の中から浮かび上がってくるような浮遊感、目を覚ました美緒は、まず自分が地上にいることに驚いた。眠っていた間、まるで溺れたように息が苦しくて、ずっともがいていたのは夢の中だけだったんだとほっと安心する。最初に目に飛び込んできたのは明るい蛍光灯の光、次に視界に入ったのは由梨が心配そうに見つめる顔だった。
「美緒! 大丈夫? 痛いところない?」
「お姉ちゃん? ここは……?」
「病院よ。あんた、学校で倒れたのよ? 覚えてる?」
美緒は今日の事を朝から振り返っていく。しかし、お昼休み頃からその記憶が途切れていた。焦っている様子の由梨に「なんとなく」と返すと、由梨は大きく息を吐いた。
「学校から連絡が来て、心臓が口から飛び出るかと思ったわよ。友達と、あと俊君にもちゃんとありがとうって言っておきなさいよ」
どうやら、俊は救急車に乗って病院まで付いてきてくれたらしい。美緒が「わかった」と頷き、起き上がろうとする。しかし、由梨はそれを止めた。
「まだ寝てなさい。俊君から聞いたわよ、最近ずっと頭痛いっていっぱい薬飲んでたって。通りでうちの鎮痛剤がすぐになくなる訳よ。どうしてお姉ちゃんに言わなかったの?」
由梨に話すと過剰に心配するから、なんてことは言えなかった。美緒の手を包み込む由梨の手が氷みたいに冷たい、きっと目が覚めるまで不安で仕方なかったに違いない。美緒は「ごめんなさい」と言うだけにとどめた。
「あんたが寝てる間にいくつか検査したんだけど、お医者さんがもう少し詳しく診た方がいいって。だから、入院して検査してもらうことにしたから」
「え―……」
「えー、じゃない。この機会に悪い所全部見つけて治してもらいなさい。お姉ちゃん、看護師さんに起きたって言いに行くから」
美緒は真っ白な病室に残される。不思議と、目が覚めてから頭痛を感じることはなかった。腕に繋がっている点滴のおかげかもしれない。このまま何事もなく検査を終わらせて早く家に帰りたいな、美緒はそう思いながら目を閉じる。再び、強い眠気がやって来て、美緒はすとんと眠りについていた。
次の日は朝から様々な検査をされて、目が回るくらい忙しかった。血液検査では何本も採血されて、MRIというまるで工事中のトンネルに入れられる検査に耐えて……数日の入院の内に美緒はすっかり疲れ果てしまった。これなら、学校で勉強していた方が楽かもと思えるくらい。
検査がすべて終わり、退院前に結果を聞くために美緒と由梨は診察室に向かっていた。この時の美緒は「やっと終わった」とすっかり羽を伸ばしていた。由梨にスマートフォンを取り上げられてしまっていたから、帰ったらすぐに俊と友達に連絡しないと、と先の事ばかりを考えていた。待合室で少しだけ待って、呼び出された二人は診察室に向かう。そこにはまだ若く見える医者と、ベテランの風格を見せる医者の二人がいた。少し険しいような表情をしている二人の医者を見て、美緒は小さく首を傾げていた。由梨だけは、それを見て急に胸騒ぎを覚えたらしく、手首に爪を立てるようにぎゅっと掴み、美緒に気づかれないように深呼吸をしていた。
「これが武田美緒さんの脳のMRI画像なのですが……」
若い医者が二人に見せる。灰色で表された美緒の頭、楕円形のようなそれの右端に真っ白な部分があった。
「こちら、見えますか? この白い部分ですが、腫瘍であると考えられます」
唐突な宣告だった。美緒は自分の耳を疑う。由梨は医者に向かって前のめりになっていった。
「み、美緒の頭に、腫瘍があるってことですか?」
由梨はまるで叫び声をあげるように声を張り上げた。美緒は自分の頭を抑える、いつも痛みを感じていた右耳の上あたり。それは腫瘍の場所とも一致していた。まるで血液が氷水になってしまったみたいに体中が冷たくなっていく。あの痛みが自分の命を脅かしていたなんて、全く分からなかった。もっと早く姉に相談して検査していたら良かったの? 私、死んじゃうの? どうして私なの? すがる様に由梨の横顔を見つめたけれど、由梨の顔は真っ青を通り越して白くなっていて、小刻みに顎を震わせていた。二人とも現実を受け入れることができない、それに気づいているはずなのに医者は話を進めていく。
「良性か悪性か、ステージについては病理検査をしなければわかりません。それ以外にも精密検査する必要があるので、また入院をして検査をすることをお勧めします」
その声は淡々としていて、悪く言えば抑揚がない。
「脳にできる腫瘍は必ず手術で摘出する必要があり、今の状態を見ていると、化学療法や放射線治療と組み合わせる可能性があります。そして……」
滑らかに話していた医者は、そこで言葉を区切った。ただでさえショックで打ちのめされているのに、これ以上何を言うの? 美緒は恨みがましく若い医者を見つめると、彼ではなくベテランの医者が話を始める。
「位置がね、あまり良くないんですよ。手術後に後遺症が残る可能性があります」
「後遺症……?」
美緒よりも先に由梨が口を開いた。
「最悪の場合は、記憶障害――今までの記憶がなくなってしまうようなものです。我々はそのように想定しています」
美緒が感じているのは、自らがなくなってしまうような喪失感だった。足元からガラガラと地面が崩れ落ちていって、その中に落ちて行ってしまうような感覚。お姉ちゃんも、俊も、桃ちゃんも凪もそこにいるのに、美緒だけがいなくなってしまう。まだ十七年しか生きていない、けれど今までの思い出は美緒にとってかけがえのないものだった。それに、お父さんとお母さんには記憶の中でしか出会えないのに、どうして? どうして自分だけが?
呆然としたままの美緒の隣で、由梨が椅子から立ち、その場に膝をついていた。冷たい床に手と額を付けて、そのまま二人の医者に懇願していく。
「お願いします、妹を治してください! 命だけは助けてください! お金が必要なら何とかしますから、どうか、どうか!」
「お姉さん、落ち着いて下さい。全力を尽くしますから、どうか安心して」
由梨の悲痛な叫びはきっと、診察室の外にまで聞こえていたに違いない。けれど美緒にはそれがスクリーンを隔てた、作り物の映画のように見えた。自分の事ではないと思い込みたくて、けれどピリッと頭に走る小さな痛みは、その白い物体の存在を知らしめている。言われるがままに検査入院の日取りを決めた二人は、重たい足取りで病院を出た。
「美緒、タクシーに乗って帰ろう」
いつも以上に優しい由梨の声が、今の美緒にはしゃくにさわった。肩に添えられる冷たい手を振り払い、美緒は下を向いたまま口を開く。
「一人で帰る」
「でも、途中で何かあったら……」
「大丈夫だから! 一人になりたいの!」
美緒はそう叫び、バス停に停まっていたバスに飛び乗った。由梨の足は縫い付けられたみたいに動かなくて追いかけることも出来ず、バスは妹を、たった一人の家族を乗せたまま走り出してしまう。由梨はカバンからスマホを取り出して、電話をかける。自分の言葉に耳を貸さなくても、きっと【あの子】なら美緒に寄り添ってくれる――そう信じて、長いコール音を聞きながら出てくれるのを待った。