「俺は、美緒が好きだ。美緒がいなかったら、俺、多分生きてない。俺にとって美緒はかけがえのない存在なんだ」

 美緒は顔を伏せる。見えなくても、彼の視線がこちらを射抜くくらいまっすぐ向いていることがわかった。二人の間には、沈黙が流れていった。俊はじっと美緒の言葉を待ち続けていた。

(……でも、俊君が好きなのは、きっと……)

 俊は【今の美緒】のことを一ミリも知らない。彼が知っているのは【過去の美緒】だけで、今の自分の事を知ったら好きじゃなくなるに決まっている。美緒はその手を離そうと、俊と繋がっていた手を少しだけ緩める。その瞬間、胸には焦りにも似た感情がよぎっていった。この手だけは絶対に離してはいけないと、体が、魂が叫んでいるような気がした。それは、きっと【過去の美緒】からのメッセージに違いない、と彼女は小さく頷く。彼女が自分自身であり続けるために、きっと俊は欠かせない存在なのだ、と。

「……私、俊君の事をあまり良く知らないから。俊君の事を、一から教えて欲しい、です」

 いつもと変わらない美緒の表情、声、温度。それなのに、今目の前にいるのは全くの別人なんじゃないか……不安に思っていたのは俊も同じだった。だから、彼は安堵の息を漏らす。大丈夫、自分と美緒の関係は終わってしまったんじゃない。ここから、また始めることができる。

「分かった。」

 随分遠い過去の出来事を思い出していた。きっと隣に座る俊も同じに違いない、だって、繋いでいる手の温度があの時と同じだったから。美緒がきゅっと握ると、俊もその手に力を込める。時を経て、二人はともに生きていくことに決めた。

「ねえ、俊君。帰りにあの公園に寄って行かない?」
「俺も同じこと考えてた」

 満席になっているバスがゆっくりと止まり、ドアが開いた。杖をついているおばあさんが乗り込んでくるのを見て、俊は席を立つ。今でも変わらない俊の習慣に、美緒はもう慣れっこになっている。

「ここ、どうぞ」
「あら、ありがとう」
 
 おばあさんがゆっくりと座ろうとするので、俊は手を貸す。

「とてもきれいな服を着ているのね、お嬢さん。まるで花嫁さんみたいね」

 美緒の服装を見て、彼女はそんな風に声をあげた。目立ってしまったみたいで恥ずかしがる美緒に変わって、席のすぐ近くに立っている俊が答える。

「これから役所に行って、婚姻届を出すんです」
「あら、本当に花嫁さんだったのね。おめでとう、二人とも」
「ありがとうございます」

 俊が頭を下げるのを見て、美緒も真似をした。おばあさんは楽しそうに笑っているのが聞こえる。美緒はそれを聞いて、少し驚いていた。赤の他人、しかもバスで隣り合っただけの人に祝福されるなんて思わなかったから。
 バスは役所の前にたどり着く、二人はおばあさんに再びお礼を言ってからバスを降りる。

「記入漏れ、ないよな」
「うん、大丈夫だと思う」

 もう一度二人が記入して、由梨と俊の父が保証人欄を書き込んだ婚姻届を隅々まで確認する。そして二人は手を繋いで、窓口に提出した。

「おめでとうございます」

 受け取った窓口の担当者は少し堅苦しい口調でそう言って、届はそのまま受理されていった。

「……なんか、呆気なかったな」
「そうだね」

 提出まであんなに緊張していたのに、想像していた以上にあっさりと受理されてしまった。まるで夫婦になった実感というものが湧かないまま、二人は役所を出ていく。ちょうど美緒の自宅方面へ向かうバスが来る時刻だったため、二人はどこか気が抜けた様子のままバスに乗った。約束していた通り、自宅よりも手前で前に降りて、公園に寄っていく。

「わ、もう満開に近いな」

 俊は桜を見上げながらそう呟いた。美緒はその後ろで、少し迷ってからえいっと俊の手を握る。俊は驚いた様子で肩を震わせた。美緒から触れてくることはほとんどないため、動揺を隠せない。

「な、なに?」

 美緒は大きく息を吸って、少し声を震わせながらこう言った。

「至らない事ばかりだけど、どうぞよろしくお願いします。……私と結婚したいと言ってくれた時、嬉しかった」
「何だよ、それだったら、俺の方こそ……」

 そこまで言って、俊はある事を思い出していた。

「いや、先にプロポーズしたのは美緒だよ。俺じゃない」
「え?」
「俺が入院した時に、美緒が言ってくれたんだ。俺とこれからも一緒に生きていきたいって」

 俊は目を閉じる。あの時の事がまだ昨日の事のようにありありと思い出せた。

「美緒だって自分の病気の事で辛いはずなのに、一緒に生きていこうって言ってくれた。それがどれだけ俺の力になったか……きっと、今の美緒にも昔の美緒にも分からないよ」

 美緒は俊の手を更に強く握って、過去の自分に思いを馳せた。彼が入院している時に会ったことも、そんな事を言ったことも、記憶のどこにも残っていない。けれど、その言葉が、あの時の【約束】があったから、今こうして二人は一緒にいることができたに違いない。

「そろそろ帰ろうか、みんな待ってるし」
「……うん!」