美緒が約束を忘れても俺が絶対に守るから、頑張れ。負けるな



少し震えるような文字で、それだけ綴られていた。その手紙を読んだ瞬間、【美緒】の目から涙が溢れ出していた。
 思い出せないその【約束】が、自分自身にとってどれだけ大事な物だったのか、その涙が教えてくれる。美緒は手紙をぎゅっと抱きしめていた。負けたくない、この時初めてそう思った。【約束】を果たすその日まで、くじけたりしない。絶対に。美緒は空を見上げる、この手紙を書いてくれた人も同じ空を見ているかもしれない。そう思うだけで、過去の自分自身とも繋がっているような気がした。


***
 

「荷物はもうないですか?」
「はい。ありがとうございます、竹田さん。ここまで良くしてくれて」
「いやいや、これくらいお安い御用ですよ」

 暖かくなって、ようやっと美緒は退院することができた。治療薬のおかげで残っていた病巣はほとんどなくなり、リハビリの甲斐あってちゃんと歩けるようにもなった。今後は通院で様子を見ることになった。これから、由梨にとっては二人の家へ、美緒にとっては初めての場所に向かう。長い入院生活のせいで荷物がたくさんあるのを見かねて、雅弘が「美容室休みだから、車出しますよ」なんて言ってくれた。由梨はその言葉に甘えることにして、二人で次々に荷物を積んでいく。

「美緒、行くわよ」
「……はいっ」

 美緒の記憶は元に戻らないままだった。そして、人の顔が分からない症状もまだ続いている。美緒は病院のロビーをあちこちと見渡していたけれど、由梨に声をかけられて、言われるまま玄関にある車に向かう。美緒の手にはピンク色のお守りとあの手紙が握られている。これに触れていたら、何だか勇気が湧いてくるような感覚がある。実を言うと、車に乗るのが初めてだったから少し怖かった。

「シートベルトした? 大丈夫?」
「え? あ……」
「ほら、これ」

 戸惑う美緒の代わりに、隣に座った由梨がシートベルトを付けてくれる。後部座席の二人がしっかりベルトをしたのを見てから、雅弘はゆっくりと車を走らせていく。

「気分が悪くなったら言ってね、美緒ちゃん。その都度休憩しよう」
「ありがとうございます」

 滑らかに車は街の中を駆け抜けていく。入院している時は病室から見下ろしていた風景が、今目の前に流れていくのは何だか不思議な感覚だった。

「大丈夫? 酔ってない?」

 由梨が心配をして、何度も同じことを聞いてくる。その度に美緒は首を横に振っていた。見慣れないこの景色がとても新鮮だったけれど、それと同時に不安になってくる。果たして自分は馴染めるのかだろうか? ここで生きていた記憶は全くないので、未知の世界に飛び込んだみたいだった。

 そろそろ家だよ、と由梨が口を開く。緊張した美緒はすっと背筋を伸ばす。フロントガラスから景色を見ると、桜の花びらがひらひらと何枚も舞っていくのが見えた。ふと視線を横に向けると、桜の木がいくつもある公園が目に飛び込んでくる。

「……あ」

 あっという間に通り過ぎて行ってしまったその公園を見ようと、美緒は振り返った。初めて見る場所なのに、どうしてだろう? 大切なものをそこに置き忘れてしまったかのような胸騒ぎを覚えた。

「あ、あの、止めてください」
「え?」

 雅弘は急なお願いにも関わらず、すぐに路肩に車を停めた。美緒はドアを開けて、まだ覚束なさの残る足取りで公園に向かう。

「ちょっと、美緒! どうしたの?」

 由梨と雅弘が美緒のあとを追う。美緒は公園の中に足を踏み入れていた。

 強い風が吹き抜けていく。桜が散って、花びらが彼女の視界を奪った。目を閉じてそれをやりすごして、美緒は再び目を開けた。桜の木を見上げるように、青年が一人立っていた。美緒はゆっくりとその人に近づいていき、後ろから彼の手に触れた。彼は驚いたように振り返り、ハッと息を飲んだ。そして、次の瞬間――美緒は彼に抱きしめられていた。

「……ごめん」

 彼が耳元でそう囁く。聞いたこともない声、見覚えもないその姿。彼が何者なのか、今の美緒には分からない。けれど、ずっとこうしてほしかったんだと美緒は思った。美緒は彼に近づくように身を任せる。

 これが、あの手紙に書いてあった【約束】なんだと美緒は気づいた。優しく温かな体温に包まれて、美緒はそっと涙を流していた。