「かお……」
「顔?」
「顔が、わかりません。人の顔が」

 目の前にいる医者の顔も、どんな表情をしているのかも分からない。まるでのっぺらぼうになってしまったように見える。彼女がゆっくりとした口調で懸命にそれを伝えると、医者は慌て始めた。彼以外の医者がやって来て、彼女の周りで話し合いをしたり、いくつかの検査を受けたけれど、その間も症状は治らないままだった。

「検査の結果、武田さんは現在、相貌失認の状態であるということがわかりました」

 数日後、医者がそう診断した。目の前にいる人が、以前彼女の症状について説明してくれた人と同じなのかも分からなかった。

「これからの生活については、ゆっくり考えていきましょう。まずは腫瘍の治療を優先して……そうだ、今日はお見舞いの方がいらしていますよ」

 医者は「どうぞ」と病室の出入り口あたりに声をかけた。不安そうな足取りで、女の人が入ってくる。彼女は足元から、まるで祈るように少しずつ見上げていく。どうかその人の顔が見えますように。けれど、その祈りはただ虚しいだけだった。

「……美緒、分かる?」

 その人の声が震えていた事だけは今でも覚えている。きっと彼女も祈っていたに違いない。どうか、妹が自分の事を、姉の事だけは覚えていますように、と。しかし、美緒と呼ばれた少女にはそれが誰なのかも、どんな表情をしているのかも分からないままだった。

「……ごめんなさい」
「ううん、大丈夫。気にしなくていいからね、お医者さんから全部聞いているから。私、美緒のお姉ちゃんよ、家族よ」

 ぽつり、と彼女が横になっているベッドに水滴が落ちていった。それが今目の前にいる人が流している涙であると気づくには、今の彼女には少しだけ時間がかかった。

 意識を取り戻してしばらく間を置いてから、抗がん剤による治療が始まった。医者から説明を受けてはいたけれど、想像していた以上に副作用が重たく感じられた。吐き気によって食欲もなくなって、頻繁にめまいを起こすようになった。頭に触れるたびに髪の毛がはらりと落ちていく。彼女はニット帽を被り、一日の大半をベッドに横たわって過ごす。そんな日々を過ごしていた。窓の向こうでは、葉が色づいてきたと思ったらすぐに落ちてしまい、次第に雪が降るようになっていた。彼女は私物だというケープを肩にかける。ぬくもりに包まれていると、吐き気が少しだけ和らぐような気がした。

「薬、よく効いていますよ」

 医者がベッドのそばに立ち、彼女を見下ろす。力なく目を開けるが、視界はぼんやりとしていて医者が付けている名札の文字が読めなかった。彼女は「この人は一体誰なんだろう」と思っていることに気づかないまま、医者は明るい声を出した。

「これなら治るかもしれませんね。良かったですね、武田さん」

 彼女の体を蝕んできた病気が治ったとしても、記憶が元に戻らない限り、目の前にいる人の顔が分かるようにならない限り、それは本当に治ったと言えるの? 彼女はそんな恨み言を胸に秘めながら話を聞いた。頷くことも出来ずにいると、医者は「それでは」と言っていなくなってしまう。一人残された病室で、彼女は息を吐いた。今はとにかく、深く、長く眠っていたい。自分が何者なのか、これからどうなっていくのか、それを考えるのがとても怖かった。

「美緒、美緒? 大丈夫!?」

 心配するような女の人の声が聞こえて、彼女はハッと目を覚ました。体中が汗にまみれていて、呼吸が浅く苦しい。起き上がろうとすると、女の人が「寝てなさい、大丈夫だから」と優しい声をかけてくれる。彼女はベッドサイドにある時計を見た、そろそろ面会時間が終わるころ。あの人――武田美緒の姉という人が訪ねてくる時間だった。

「怖い夢でも見ていたの?」

 何も覚えていない彼女はゆっくりと首を振る。その時初めて、頭の奥で、わずかな光が瞬くような感覚を覚えた。もしかしたら、それが夢だったのかもしれない。

「そう、無理しないでね。替えのタオルとパジャマ持ってきたからね。洗濯物はこっち?」

 その人はカゴに入った使用済みのタオルや下着を持ってきたバッグの中に押し込んでいく。

「……迷惑かけてごめんなさい」
「迷惑なんて、そんな」

 振り返ったその人が、今私の姿を見てどんな表情をしているのだろう? 悲しい顔、怒った顔? それとも戸惑っているのかな? 姉と名乗る人は毎日来てくれるけれど、何度会っても上手く話をすることができなかった。二人の間にはとても気まずい空気と時間だけが流れていく。

「それじゃ、お姉ちゃんもう行くから。また明日ね」

 そう言って手を振る彼女が出ていった後、いつも廊下からすすり泣くような声が聞こえてくる。また泣かせちゃった、心が重たくなるほどの後悔と虚しさを感じて、彼女は目を閉じた。
 手術を終えた後の【美緒】はまさしく空っぽで、どうして自分がここにいるのか、どうしたらいいのかも分からないままだった。

 年が明けるころには、少しだけ体調が良くなる日が増えてきた。ある日、姉は「お客さんだよ」と女の子を二人連れてきた。耳にはそれぞれ、黄色と青のイヤリングが揺れている。

「美緒ちゃん、私の事、分かる?」

 その声が震えていた。きっと由梨から話を聞いたに違いない。彼女は申し訳ないと思いながら首を横に振った。

「私たち、美緒の友達だったんだよ」
「……友達?」

 いまいちピンと来ないその言葉を、頭の中でもう一度繰り返す。由梨が美緒のベッドサイドにある戸棚を開けて、小さな木の箱を取り出した。

「ほら、ここにみんなと同じイヤリングが入ってるから」

  木箱は中々開かなくて苦労していると、黄色のイヤリングの子が代わりに開けてくれた。