生徒たちは全員ホテルの部屋に戻る様に指示があり、その大群は口々に何かを言いあいながら移動を始めていた。けれど美緒はその場から動くことができないままだった。美緒と俊の関係をよく知っている同級生たちは、瞳が真っ暗になった美緒をちらりと見ては顔をさっと背けた。その仕草だけで、彼らが心の中で「かわいそう」と思っているのがよく分かった。

「……ちょっと待ってて」

 美緒を支えていた凪が立ち上がった。桃子がその代わりに、ぐらりと揺れる美緒を抱き留める。でも、憔悴してしまった今の美緒に、大丈夫だよなんて軽くて曖昧な言葉がかけられるわけがない。桃子だって、先ほどの話に強いショックを受けていた。どうしてあの俊くんが? 事故ってどういうこと? 意識不明って、危ないってことなの? 分からないことが多くて、ただ茫然としたまま、まるで機械みたいにずっと美緒の背中を撫でる事しかできない。
 凪はすぐに戻ってきた。その後ろに京平がいるのが見える。京平はどこか申し訳なさそうにうつむいている。

「美緒ちゃん、ごめん」

 京平は美緒に向かって深く頭を下げた。

「……京平君は、わるくないよ」

 喉を振り絞る様に出した美緒の声はまだ小刻みに震えている。うなだれている京平にもかける言葉がなかった。

「牧村、知ってる範囲でいいから、美緒に話してあげて。お願い」
「分かってる」

 それが自分の役割だと言わんばかりに京平は頭をあげる。しかし、美緒の目を見ることができなかった。まるで希望が消えてしまったかのような真っ黒な瞳、それの中心が京平を映していた。再び京平が俯くのを見て、桃子は我慢ならないと言わんばかりに声をあげた。

「ねぇっ! 事故って、どういうことなの?」

 責め立てるような桃子を凪が諫めようとする。けれど、京平はそれを止めた。
 
「……バイクとぶつかったんだよ、俊。子どもを、助けようとして」

 それは、とても俊らしい話だった。
 昼頃、誰かと電話をしていたのは京平も見ていた。けれど、どこで昼ごはんを食べるかの方が彼にとっては重大な問題で、あまり俊の事に意識を向けることはなかった。俊はその最中に、道路をきょろきょろと見ながらタイミングを見計らっている子どもを見つけたらしい。彼の事だから、きっとその子が横断歩道でもない場所で道路を渡ろうとしていることに気づいたのだろう。いつもの調子で注意しに行こうとしたんだな、と美緒はその姿を想像した。しかし、俊が考えていた以上に子どもが素早く道路に飛び出して行ってしまった事、しかもそのすぐ近くまでバイクが迫って来ていた事が、彼にとっての不運だった。俊は「危ない!」と叫び、子どもを助けようとしたらしい。京平は慌てて俊を止めようとしたけれど、指先は彼のシャツをかするだけで、捕まえることができなかった。

「バイクの方も子どもに気づいてハンドル切ろうとしたんだけど間に合わなくて、子どもをかばおうとしていた俊にぶつかったんだよ」

 バイクと衝突した俊はアスファルトに擦られるように弾かれていく。バイクも同じように転倒してしまい、タンクからガソリンが漏れ出していた。バイクが転倒した時にアスファルトとバイクの摩擦によって火花が散っていて、それに京平が瞬きしている間にガソリンに引火してしまった。俊の体にもガソリンがかかっていたらしく、一気に、その体が燃え上がっていった。衝撃のあまり身動きができなかった京平たちの代わりに、周りにいた人が近くのコンビニにあった消火器で俊についた火を消してくれていたけれど、真っ白だったシャツは黒い煤になっていた。京平が「俊は」と口にした瞬間、美緒は小さく叫び出していた。まるでこれ以上聞きたくないと言わんばかりに耳を塞ぐ。

「美緒ちゃん……」

 桃子と凪は顔を見合わせた。桃子は美緒を部屋に連れて行き、凪はそのまま京平から話を聞くことに決めた。美緒と桃子が大広間から出ていくのを見て、京平はため息を漏らす。

「俺がもう少し早く気づいていれば……俊を止めていれば。美緒ちゃんには謝っても謝りきれない」
「浅香君の容態は? 何か知ってる?」

 京平は救急車に同乗して病院までついていった。けれど、事故の状況だけは聞かれて、俊が今どうなっているのかは教えてもらえなかったらしい。ただ、じっとベンチに座ってばたばたと大急ぎで動き回る医師や看護師に目を向けて、連絡を受けてやって来た保健担当の先生と入れ替わりでホテルに戻ってきた。だから、主任の先生が話していた以上の事は京平も分からないままだった。

「でも、もしかしたら火傷が残るかもって医者の人が話していたのは聞こえた」

 京平の声はとても静かに、けれど遠くまで響いていった。凪は唇を噛んだ。こんな時に、美緒が辛い思いをしている時に事故なんて起きなくてもいいじゃない! 心の中で何度も叫ぶ。凪は美緒にどこまで話そうか迷いながら、京平と別れて、自分の部屋に向かう。ドアを開けようとしたとき、内側からそっと開いた。桃子が薄暗い顔のまま出てくる。

「美緒は?」
「寝ちゃった……のかな? なんか意識を失ったみたいにも見えたけど」

 桃子は心配になって美緒の呼吸を耳を澄ませて確認したけれど、それは穏やかなようにも聞こえた。凪は桃子を廊下の隅まで引っ張っていき、京平が話していた事を桃子にも教えた。

「美緒にも話した方が良いと思う?」
「でも、こんなの辛すぎるよ。美緒ちゃん、ただでさえ病気のことだってあるのに、俊君がまさか、こんなことになるなんて」

 桃子の目からは涙が溢れ出す。凪は桃子を包み込む様に抱きしめた。凪からもポロポロと涙が溢れ出す。二人はしばらく、身を寄せ合いながら涙を流していた。

「美緒が聞きたいって言ったら話をしよう。ね?」

 凪に抱きしめられながら、桃子は何度も頷いていた。二人は部屋に戻って、美緒の様子を確認する。顔は真っ白でまるで生気がなく、見た時は二人とも驚いたけれど、ちゃんと息はしていた。二人は美緒の様子を気にしながら、部屋の電気を消してベッドに入った。眠ることはできなかったけれど、目を閉じて夜が過ぎていくのを待つしかなかった。

 真っ暗な室内。美緒は深く深く、眠りの底にいた。今起きていることを現実であると認めたくなくて、まるで逃げるみたいに。
 美緒はその深い眠りの中で俊に会っていた。でもそれは今の俊の姿ではなく、美緒が俊と一緒にいたいなと思うようになった幼い頃の彼だった。俊の隣に座る美緒自身も小さかった。