美緒は手術を受ける前に、どうしても修学旅行に行きたかった。そこを、凪や桃子、そして俊へ、それぞれに自分の気持ちを打ち明ける場所にしたかった。それを伝えた時、もちろん医者は難色を示したし、由梨は「危ないからやめなさい」と怒り出す。けれど、美緒の気持ちを変えることもせず、由梨に「でも!」と強く言い返す。医者は二人が言い争いを始めるよりも前に「よく話し合ってきてください」と言ってその話を終えてしまい、美緒と由梨は診察室を追い出された。

「お姉ちゃん、絶対に許さないからね、そんなの。無茶に決まってるでしょ!」

 由梨は会計している時も、バスに乗っている時も、バス停に降りて帰ろうとしている時もずっと同じことを言っていた。もう美緒の耳にタコができてしまいそうになった時、自宅の前に誰かがいるのが見えた。それは俊だった。

「今日退院だって聞いたから。……どうだった?」

 俊は美緒と由梨、両方の顔を見た。そして、由梨が怒っているように見えるのが不思議だったようで、少し首を傾げる。由梨は俊をリビングに通して、暑かったでしょとエアコンをつけて冷たいジュースを俊に差し出した。美緒はその間に洗濯ものをスーツケースから出して、洗濯機に放り込んだ。ぐるぐると回るモーターの音を聞きながら、美緒は「私も飲みたい」と冷蔵庫を開けた。グラスに氷をいっぱい入れて、ジュースを注いでいく。炭酸のしゅわっと弾ける音を聞くと、何だかずっと喉が渇いているような気になってくる。美緒は立ちながら一口飲むと、由梨が「コラ!」と短い言葉で叱った。

「座って飲みなさい! ……聞いてよ、俊君。修学旅行に行きたいなんて言うのよ、この子」

 由梨は大きくため息をつきながら、俊にそうぼやいた。

「無理に決まってるでしょ? ただでさえ体調がよくないのに……旅先で何かあったらどうするつもりなのよ」
「でも……」
「でも、じゃないの。行きたい気持ちはよく分かるけど。お姉ちゃんは美緒の事心配なんだよ? ほら、俊君からも言ってやってよ」

 俊を味方にしようとしたのに、由梨にとって俊から飛び出してくる言葉は追い風じゃなくて追い打ちをかけられるようなものだった。

「由梨姉ぇ、俺からもお願いします」
「え?」
「俺がちゃんと美緒の様子見るようにするから、美緒を修学旅行に行かせてください」

 俊はそう言って頭を下げた。それには由梨だけじゃなくて、美緒も驚いていた。だって、心配性なところがある俊なら絶対に止めると思っていたから。美緒はその隣に座り、同じように頭を下げる。

「お願いします、お姉ちゃん」

 じっと頭を下げている二人と、戸惑う由梨。先に根負けしたのは、由梨の方だった。

「あー、もう! わかった、わかったわよ! まずはお医者さんに相談して、最終的に決めるから」
「いいの? ありがとう、お姉ちゃん!」

 飛び跳ねるように喜ぶ美緒を、俊はふっと優しげな表情で見つめていた。由梨はその表情を見て、胸が突き動かされるような気持になった。まるで運命だったみたいに、切っても切れない絆で結ばれているような二人。由梨は美緒の気持ちも分かっていたし、たった今、俊の心の内も一気に理解した。互いを想い合っているのに、どうしてこんな残酷な星の元に生まれてきてしまってのだろう。どうか、二人とも幸せになれるように、由梨は少しうつむきながらそう願った。どこかの空をよぎっている流れ星でもいいから、私のささやかな願いを叶えてくれますように、と。

 数日後、美緒と由梨は病院に向かう。保護者として、美緒を修学旅行に行かせる決断をしたと話す由梨を、まるで医者は温かく見つめている。その後、少しだけ話し合いをしていくつか約束事を取り決めた。まずは、引率をする先生、特に保健担当の先生には事前に話しておくこと。医者も診断書を作ってくれて、これのおかげで学校との話し合いはわりとスムーズだった……先生方も止めようとしたけれど。医者は他にも、北海道の病院に勤める知り合いの医師に美緒の事を話しておくと言ってくれた。もしもの時は助けてくれるように、美緒も由梨も、そのもしもが来ないよう祈りながら話を聞いた。そして最後に、強めの鎮痛剤が処方された。もしこの薬も効かなくなってしまったら、修学旅行を切り上げて戻ってくるように。医者は念を押していた。

「美緒、高校はどうするの?」

 帰り道、夕日に照らされながら由梨がそう美緒に尋ねる。

「せっかくだから卒業したいけど……できるかな?」

 後遺症が残れば、通うことも難しくなるかもしれない。美緒は少しだけ諦め始めていた。

「できるよ、きっと。先生に話に行くとき、休学の相談もしておこうか? いつでも学校に戻れるようにさ」

 その言葉に美緒は小さく頷いた。
後日、リュックの中に入れっぱなしだった進路調査票はそのままに、美緒は休学に関する書類を受け取ることになった。少しずつ、後ろを振り返る間もないまま、手術に向けた準備が始まっていく。まるでもう止まることのない列車に乗せられてしまったみたいだった。

***

 修学旅行の前日、美緒は荷造りを始めていた。一度経験をしたせいか、とてもスムーズに次から次へと荷物を詰めていく。美緒は処方された薬をいつでも飲めるようにリュックのポケットに仕舞った。その時、部屋のドアがノックされた。いいよ、と答えると由梨が入ってくる。

「手伝うよ」
「大丈夫だよ、ほとんど終わったから」

 着替えや下着を半ば無理やり詰めているのを見て、由梨は小さく息を吐いた。そしてそれらを取り出して、丁寧に畳んでいってくれる。美緒は慣れたつもりでいたけれど、やっぱり由梨の方が何倍も上手だった。

「本当に修学旅行になんて行って大丈夫? やっぱり、今からでもやめておいた方が……」
「やめてよ、もう決めた事なんだから」

 由梨は納得がいかないような難しい表情をしながら、胸のあたりを抑えた。

「なんか胸騒ぎがするんだよね。何か悪いことが起きるんじゃないかって思って、落ち着かないのよ」
「だから、大丈夫だって」