「お姉ちゃんがそろそろ髪切りおいでって言ってたよ」
「あー、そういえば全然切ってないもんな。今度行くよ」
「うん、分かった。伝えておくね」
美緒と俊、二人は赤ちゃんの頃から一緒にいる幼馴染だった。たまたま母親同士が同じ産婦人科に通っていたことで縁が生まれた。生まれる予定日も家も近いという事で二人が意気投合して、先に俊、その少し後に美緒が生まれてからもしょっちゅう家族連れで会っていた。だから、美緒にとって俊は家族のように近い存在だった。本当は、もっと違う関係になりたいんだけど……美緒はその想いを秘めながら、再び俊を見上げた。
俊は小さな頃からとっても賢くて、学年で一番勉強ができた。同じ高校には通っているけれど、美緒は普通クラスの三組、俊は特別進学クラスの一組に在籍している。彼は模試でもいつもいい成績を取っていて、その優秀さは学校の中でも有名だった。そのせいで、彼はとてもモテる。美緒がいつもヒヤヒヤしてしまうくらいに。けれど、俊は告白されてもいつも断るし、美緒が俊ととても親しい事も彼の頭の良さと同じくらい有名になったから、高二になることには告白されることも少なくなった。
美緒はしょっちゅう友達から「付き合わないの?」「早く告白しなよ」なんて言われていた。赤ちゃんの時から一緒にいて、気づいた時には好きになっていた。けれど、今の『幼馴染』っていう関係が心地良いのと、中々自分の中で踏ん切りがつかなかったせいで未だに告白できず仕舞い。いつかこの関係が変わる日が来てしまうのかな。美緒の頭には不安と期待が渦巻いている。関係が変わるなら、幼馴染でもお友達じゃなく、もっとステップアップした間柄になりたい。そう、恋人同士みたいな――。
そんな事を考えていたのは美緒だけじゃなく、俊も同じだった。俊はいつの間にか小さくなっていた美緒を横目で見る。輪郭や首筋がスッキリしていて、その白い肌に触れてみたいなんて思ったのは一度や二度じゃない。小さな頃はしょっちゅう握っていた手もいつの間にか女の子らしくなっていて、自分のそれと比べるととても小さい。子どもの頃は良かったな、いつでも美緒と手を繋ぐことができて。それを恥ずかしいと思うようになったのは、彼が美緒の事が好きであると自覚した頃。まるで春になったら桜の花が咲くように、自然に美緒の事が好きになっていた。もし彼女に触れたら自分の気持ちがテレパシーみたいに美緒に伝わってしまうんじゃないか、そんな非科学的な事を考えることもしばしば。さっきだって、朝日に照らされて走ってくる美緒がきれいだと思ってしまって、もう自分は重症みたいだと美緒に気づかれないようにため息をつく。俊だって告白したいと思っていたけれど、彼のプライドがそのタイミングは今じゃないっていつも頭の中で主張している。まずは二年後に迫った受験を潜り抜けて、その先、美緒を幸せにできる立派な大人になれたら……そんな気の遠い事を考えていた。俊も友達に「早く告白しないと、美緒ちゃん彼氏できるかもよ」なんて言われているけれど。
もう一度俊が横目で美緒を見た時、美緒は眉をしかめた。ずきんと鋭い痛みが美緒の頭を貫いていく。
「――いった」
美緒の小さな声に、俊は耳をそばだてた。美緒は右耳の上あたりをぎゅっと手で押さえ、痛みが通り過ぎていくのを待つ。少しそれが治まってきたらリュックの中からミネラルウォーターと鎮痛剤を出して、一緒に飲んでいく。
「頭痛いの、まだ治らないの?」
心配そうに聞いてくる俊に申し訳なさを感じながら頷く。今年の春ごろから時々感じていた頭痛、季節が移り変わるにつれて、それはどんどん痛みを増していった。特に、右耳のあたりに感じる痛みが強烈で立ち眩みしてしまう時もある。美緒が飲んでいる鎮痛剤の量が増えていくのは俊も気づいていた。
「やっぱり病院行った方がいいよ」
俊は美緒を心配していつもそう言うけれど、美緒は首を横に振る。
「薬飲めば落ち着くから大丈夫だって」
「でも、このところ頻繁に飲んでるだろ」
「平気だってば、もう」
心配してくれる俊をどうやってかわそうか、美緒がそう考えていた時ちょうどいいタイミングでバスがやって来た。二人はそれに乗る。冷たいクーラーの風が熱くなっていた体を冷ましてくれて、とても気持ちいい。美緒がほっと息を吐くと空いている一人掛けの座席に座った。俊もその前の座席に座る。あっという間にバスは満席になっていく。リュックに水を仕舞っていると、俊が振り返った。
「今度美容室に行ったら、由梨姉ぇに話しするから」
「えー! やめてよ」
由梨に余計な心配をかけたくなくて、美緒は唇を尖らせる。でも、俊の中ではもう決定事項になっているのか、彼は正面を向いて美緒の抗議にも耳を貸そうとしない。美緒は窓の外を見ながら肩を落とす。どうやってお姉ちゃんを誤魔化そうか、そんな事考えているうちにバスはスムーズに進み、隣のバス停に停まった。そこから一人、杖をついたおばあさんが乗り込んできた。美緒がどうしようかと悩むよりも先に、俊は座っていた座席を空けた。
「ここ、どうぞ」
おばあさんは俊に「ありがとう」と言って座席につく。それを確認してから、バスはゆっくりと走り出していった。
二人が高校に通うために使っているバスの終点には、市内で一番大きな病院がある。そのため、お年寄りや怪我をしている人が乗ることも多い。けれど、バスの中はすぐに満席になって、優先席すら空いていないときもある。その度に、俊は座っていた席から立ち上がってすぐに譲ってあげていた。俊はお人好しというか、誰にでも親切にすることがある。お年寄りや小さな子どもに対しては特に優しい。この前なんか、横断歩道のない場所で道路を渡ろうとしていた小学生を引き留めて注意していた。
「ちゃんと信号のあるところを渡らないと危ないだろ。車に轢かれたらどうするんだ?」
小学生の子はバツの悪そうな顔をしていたけれど、俊のその横顔は真剣そのものだったから、彼がその子を心配して言っているのは伝わったに違いない。美緒は俊のそんな優しくて正義感が強い所も好きだったし、ずっと尊敬していた。自分も誰かの役に立てることができたらいいな、そう考えることもある。けれど、今日だって立ち上がる勇気が出ないまま。
「俊、カバン持つよ」
「ん。ありがと」
勇気を出す代わりに立ちっぱなしになった俊からカバンを預かって、膝の上に乗せる。ずっしりとした重みを感じながら、美緒は再び窓の向こうを見た。生まれ育った町が目の前を流れていく。春になったら桜の花で満開になる並木の間をバスは走り抜けていった。美緒に胸には「誰かの役にも立てないままなのに、私はどんな大人になれるのかな?」「大人になったとき、私は一体どこでどんな人生を歩んでいるのだろう?」そんな不安が芽生えるようになっていた。
学校につくと、教室前の廊下で仲良しの友達二人が雑誌を覗き込んで何やら楽しそうに話しているのが見えてきた。
「あー、そういえば全然切ってないもんな。今度行くよ」
「うん、分かった。伝えておくね」
美緒と俊、二人は赤ちゃんの頃から一緒にいる幼馴染だった。たまたま母親同士が同じ産婦人科に通っていたことで縁が生まれた。生まれる予定日も家も近いという事で二人が意気投合して、先に俊、その少し後に美緒が生まれてからもしょっちゅう家族連れで会っていた。だから、美緒にとって俊は家族のように近い存在だった。本当は、もっと違う関係になりたいんだけど……美緒はその想いを秘めながら、再び俊を見上げた。
俊は小さな頃からとっても賢くて、学年で一番勉強ができた。同じ高校には通っているけれど、美緒は普通クラスの三組、俊は特別進学クラスの一組に在籍している。彼は模試でもいつもいい成績を取っていて、その優秀さは学校の中でも有名だった。そのせいで、彼はとてもモテる。美緒がいつもヒヤヒヤしてしまうくらいに。けれど、俊は告白されてもいつも断るし、美緒が俊ととても親しい事も彼の頭の良さと同じくらい有名になったから、高二になることには告白されることも少なくなった。
美緒はしょっちゅう友達から「付き合わないの?」「早く告白しなよ」なんて言われていた。赤ちゃんの時から一緒にいて、気づいた時には好きになっていた。けれど、今の『幼馴染』っていう関係が心地良いのと、中々自分の中で踏ん切りがつかなかったせいで未だに告白できず仕舞い。いつかこの関係が変わる日が来てしまうのかな。美緒の頭には不安と期待が渦巻いている。関係が変わるなら、幼馴染でもお友達じゃなく、もっとステップアップした間柄になりたい。そう、恋人同士みたいな――。
そんな事を考えていたのは美緒だけじゃなく、俊も同じだった。俊はいつの間にか小さくなっていた美緒を横目で見る。輪郭や首筋がスッキリしていて、その白い肌に触れてみたいなんて思ったのは一度や二度じゃない。小さな頃はしょっちゅう握っていた手もいつの間にか女の子らしくなっていて、自分のそれと比べるととても小さい。子どもの頃は良かったな、いつでも美緒と手を繋ぐことができて。それを恥ずかしいと思うようになったのは、彼が美緒の事が好きであると自覚した頃。まるで春になったら桜の花が咲くように、自然に美緒の事が好きになっていた。もし彼女に触れたら自分の気持ちがテレパシーみたいに美緒に伝わってしまうんじゃないか、そんな非科学的な事を考えることもしばしば。さっきだって、朝日に照らされて走ってくる美緒がきれいだと思ってしまって、もう自分は重症みたいだと美緒に気づかれないようにため息をつく。俊だって告白したいと思っていたけれど、彼のプライドがそのタイミングは今じゃないっていつも頭の中で主張している。まずは二年後に迫った受験を潜り抜けて、その先、美緒を幸せにできる立派な大人になれたら……そんな気の遠い事を考えていた。俊も友達に「早く告白しないと、美緒ちゃん彼氏できるかもよ」なんて言われているけれど。
もう一度俊が横目で美緒を見た時、美緒は眉をしかめた。ずきんと鋭い痛みが美緒の頭を貫いていく。
「――いった」
美緒の小さな声に、俊は耳をそばだてた。美緒は右耳の上あたりをぎゅっと手で押さえ、痛みが通り過ぎていくのを待つ。少しそれが治まってきたらリュックの中からミネラルウォーターと鎮痛剤を出して、一緒に飲んでいく。
「頭痛いの、まだ治らないの?」
心配そうに聞いてくる俊に申し訳なさを感じながら頷く。今年の春ごろから時々感じていた頭痛、季節が移り変わるにつれて、それはどんどん痛みを増していった。特に、右耳のあたりに感じる痛みが強烈で立ち眩みしてしまう時もある。美緒が飲んでいる鎮痛剤の量が増えていくのは俊も気づいていた。
「やっぱり病院行った方がいいよ」
俊は美緒を心配していつもそう言うけれど、美緒は首を横に振る。
「薬飲めば落ち着くから大丈夫だって」
「でも、このところ頻繁に飲んでるだろ」
「平気だってば、もう」
心配してくれる俊をどうやってかわそうか、美緒がそう考えていた時ちょうどいいタイミングでバスがやって来た。二人はそれに乗る。冷たいクーラーの風が熱くなっていた体を冷ましてくれて、とても気持ちいい。美緒がほっと息を吐くと空いている一人掛けの座席に座った。俊もその前の座席に座る。あっという間にバスは満席になっていく。リュックに水を仕舞っていると、俊が振り返った。
「今度美容室に行ったら、由梨姉ぇに話しするから」
「えー! やめてよ」
由梨に余計な心配をかけたくなくて、美緒は唇を尖らせる。でも、俊の中ではもう決定事項になっているのか、彼は正面を向いて美緒の抗議にも耳を貸そうとしない。美緒は窓の外を見ながら肩を落とす。どうやってお姉ちゃんを誤魔化そうか、そんな事考えているうちにバスはスムーズに進み、隣のバス停に停まった。そこから一人、杖をついたおばあさんが乗り込んできた。美緒がどうしようかと悩むよりも先に、俊は座っていた座席を空けた。
「ここ、どうぞ」
おばあさんは俊に「ありがとう」と言って座席につく。それを確認してから、バスはゆっくりと走り出していった。
二人が高校に通うために使っているバスの終点には、市内で一番大きな病院がある。そのため、お年寄りや怪我をしている人が乗ることも多い。けれど、バスの中はすぐに満席になって、優先席すら空いていないときもある。その度に、俊は座っていた席から立ち上がってすぐに譲ってあげていた。俊はお人好しというか、誰にでも親切にすることがある。お年寄りや小さな子どもに対しては特に優しい。この前なんか、横断歩道のない場所で道路を渡ろうとしていた小学生を引き留めて注意していた。
「ちゃんと信号のあるところを渡らないと危ないだろ。車に轢かれたらどうするんだ?」
小学生の子はバツの悪そうな顔をしていたけれど、俊のその横顔は真剣そのものだったから、彼がその子を心配して言っているのは伝わったに違いない。美緒は俊のそんな優しくて正義感が強い所も好きだったし、ずっと尊敬していた。自分も誰かの役に立てることができたらいいな、そう考えることもある。けれど、今日だって立ち上がる勇気が出ないまま。
「俊、カバン持つよ」
「ん。ありがと」
勇気を出す代わりに立ちっぱなしになった俊からカバンを預かって、膝の上に乗せる。ずっしりとした重みを感じながら、美緒は再び窓の向こうを見た。生まれ育った町が目の前を流れていく。春になったら桜の花で満開になる並木の間をバスは走り抜けていった。美緒に胸には「誰かの役にも立てないままなのに、私はどんな大人になれるのかな?」「大人になったとき、私は一体どこでどんな人生を歩んでいるのだろう?」そんな不安が芽生えるようになっていた。
学校につくと、教室前の廊下で仲良しの友達二人が雑誌を覗き込んで何やら楽しそうに話しているのが見えてきた。