朝、俊は美緒をバス停で待つのが好きだった。ちょっと駆け足で近づいて来る笑った美緒を見たくて、約束の時間よりも少し前に着くように家を早く出るのが習慣になっていた。今日もいつもと同じ時間に出たはず……だった。

「……美緒?」

 俊の数メートル先に、見慣れた後姿がある。そこには、昨日退院したばかりの美緒がいた。長い二つ結びが夏の熱気を乗せた風と一緒にたなびく。その姿を見て、俊の足はまるで地面に縫い付けられたように動けなくなっていた。美緒の背中は、大きな恐怖や不安で今でも押しつぶされそうなくらい小さくなっている。俊は強く拳を握った。昨晩、美緒を家に送り届けた後、インターネットで色々と美緒の病気に関して調べた。どうにかして自分で治すことができないかと思ったけれど、出てくるのは胡散臭いお茶やバカみたいに高いサプリメントといった民間療法ばかり。そんなもので治るわけがない。けれど、調べていくうちに分かったのは、今の俊には美緒の病気を治すことも出来ない事。祈ることしかできないなんて……ただ、自分は無力であることを一晩で思い知った。

 そのまま眠ることも出来ず、俊は考えを巡らせた。そして、今の自分にできるのは【今の美緒】とたくさん思い出を作ることだということに気づく。後遺症で俊の事を忘れてしまっても、二人の話をしていたらいずれ思い出すかもしれない。そんな淡い期待を抱きながら、俊はポケットからスマートフォンを取り出した。カメラアプリを立ち上げて、美緒の姿を画面に写す。

「美緒!」

 俊がその名前を呼び、美緒が振り返った瞬間、彼はシャッターを切った。夏の日差しを受けて、驚いた表情を見せるその姿は、いつも通りの美緒に見えた。

「俊?」

 美緒は少しムッとしたように俊に詰め寄る。写真を撮る様な気分でもないのに、どうしてこんな不意打ちみたいな事をするのだろう? ふつふつと怒りがこみあげてくる。美緒が少し怒っていることに気づいた俊は、写したばかりの写真を見せた。

「勝手に人の写真撮らないで!」
「ゴメン! でも、ほら、いい写真だろ?」

 そこにあるのは、いつも通りの美緒の姿だった。確かにいい写真かもしれないけれど、驚いた表情をしていて笑ってもいないし……何だか気持ちが複雑になっていく。

「これから、美緒の写真いっぱい撮っていってもいい?」
「……どうして?」
「何もかもが終わった後に、二人で美緒の写真を見て『こんなことあったな』って思い出すために」

 美緒は俯く。その写真を見ても、何も思い出せない未来が彼女には見えていた。俊は思い切って、美緒の手を握った。美緒はハッと顔をあげる。

「あの頃はとても大変だったけれど……今は幸せで良かったなって笑いながら話ができるよ、この写真を見たら、きっと」

 その手はまるで火に触れるように熱かった。そこから、俊の優しさが伝わってくる。

「でも、これからは黙って写真を撮るのは無し、ね」

 その優しさを振りほどくことも出来ず、美緒は折れるしかなかった。俊は安堵の息を漏らす。

「美緒、学校行って大丈夫なのか?」
「……うん。痛み止めの薬も貰ってるし、それに、私が行きたいの」

 美緒は夏休み中に精密検査をすることになっていた。宣告を受けて一夜過ごしたけれど、やはりまだ現実を受け入れがたいまま。けれど以前と変わらない生活を送りたくて、美緒は学校に通い続けることに決めた。由梨は心配していたけれど、家にいるよりも学校にいた方が、気がまぎれるかもしれない。

「それに、終業式まであと少しだし」
「分かった。俺も力を貸すから、何かあったら俺にすぐ言って」
「……ありがとう。あのね、お願いがあるの」
「ん? 何?」
「私の病気の事、誰にも言わないで」

 美緒の瞳が潤んでいく。俊はその姿を見て何もいう事ができず、頷くしかなかった。彼が深く頷く姿を見て、美緒はほんのわずかだけどほっとすることができた。
俊がいてくれると、少しだけ心が軽くなる様な気がする。美緒のそんな気持ちを知ってか知らずか、終業式までの間、俊は登下校だけじゃなく休み時間も一緒にいてくれるようになった。
しかしその二人の様子が、凪と桃子にはどこか重苦しくて、辛そうに見えていた。

「何かあったのかな? 何かあったんだよね……ずっと変だもん、二人とも」

 桃子は二人がいない隙を見て、凪にそう尋ねる。

「確かに、美緒が退院してから様子がおかしいのは確かだけど、美緒が言わないなら私たちには何もできないんじゃない?」
「でも、私も美緒ちゃんの力になりたいよ? 俊君に聞いたら何か教えてくれないかな?」

 凪は桃子の案に首を横に振る。

「浅香君が、美緒が内緒にしたがっていることを簡単に教えてくれるとは思わない」
「でも、でも……私、ちょっと聞いてみる! じっとしていられないよ!」

 俊がいるクラスまで桃子は走って行ってしまう。凪は止めることも出来ず、彼女が帰ってくるのを待った。桃子はすぐに戻ってきた。

「何も知らないって言われた……」
「だと思った」
「知らないわけないのに……」
「美緒が話してくれるようになるまで待とうよ、ね?」

 桃子が渋々頷くのを見て、凪は息を漏らす。本当はとても美緒の事をとても心配しているのに、それを表に出さないようにしていた。

「私たちは、美緒に少しでも気持ちが楽になるよう、普通に過ごしていた方がいいんだよ。三人で何か楽しい事をしてさ、気を紛らわせたり」

 凪の言葉を聞いて、桃子は何か思いついたように顔をがばっと勢いよくあげていた。