また俊君に迷惑をかけてしまったな。美緒は彼に対してずっと心苦しい思いを抱えたままだった。

***

 俊が「ちょっといい店」と言っていたお店は、美緒にとっては「とても、すっごく良いお店」にしか見えなかった。入るとウェイターが「浅香様ですね」とすぐに声をかけて、コートを預かろうと背後にスタンバイをしている。美緒はコートを渡し、ワインレッドのワンピースを見て安堵する。いつもと同じ格好じゃなくて、可愛い服を借りてきて本当に良かった。そうじゃなかったらこの場に浮いてしまうところだった……そう思った時、ウェイターがまだ待っていることに気づいた。きっと帽子を脱ぐのを待っているに違いない。美緒はどうしようかと戸惑っていると、俊はすかさず二人の間に割って入り「このままで」と小さな声で伝えた。それだけで事情を汲み取ってくれたのか、ウェイターは何も言わず席まで案内してくれた。向かった先がお店の奥にある誰にも見られない個室で、美緒は少しだけリラックスすることができた。でも、とても高級そうなお店で美緒はふとあることに気づいてしまう。

「あの、お金……」
「来て早々お金の心配かよ」

 小さくなっていく美緒を見て、俊は噴き出すように笑った。美緒は今日、病院の診察代とお小遣い程度のお金しか持っていない。昼食とカフェでいくらか使ってしまって、今財布に残っている程度では足りないかもしれないという不安がこみ上げてくる。

「大丈夫、今日は俺のおごり」
「で、でも……」
「クリスマスぐらいいい格好させてよ。まあ、俺も母さんからお金借りてるんだけどね」

 就職したら返す予定になんだ、と俊は笑った。それでも恐縮してしまった美緒はメニューをろくに見ることも出来なくて、俊が色々と気遣って次々に料理を注文してくれる。

「京平って知ってるっけ?」
「俊君の友達の?」
「そう。アイツに教えてもらったんだ。格好つけるにはオススメだって」

 テーブルにはクリスマス限定の前菜がテーブルに載る。赤と緑のソースがお皿のふちを彩っていて、食べるのがもったいないなと美緒は思った。その顔がようやっと綻んだのを見て、俊は胸を撫でおろす。すっと強張ったままだったらどうしよう、そんな不安が渦巻いていた俊もようやっとリラックスすることができた。今日のデートだけは失敗させたくなかった彼は美緒に気づかれないように、まるで自らを鼓舞するように喉を鳴らした。今日は、普通のデートで終わらせるつもりはさらさらない。

「どうだった?」

 食事を終えて、二人はレストランを出る。美緒が微笑みながら「美味しかった」と答える姿を見て、俊はホッとした。確かに食べている間、美緒の表情は堅苦しいものから柔らかいものに変わっていって、彼女が落ち着いてきているのが伝わってきた。俊は美緒の手を引く。きっと、これでもう帰ると思っているんだろうな。俊がそう考えながら美緒を見た。彼女はいつもと少し様子が異なる俊に気づいたのか、戸惑うように首を傾げている。

「あと一か所だけ、寄りたいところがあるんだ。いい?」

 美緒は拒むことなく小さく頷いた。俊についていくように歩いていくと、行きついた先は最近オープンしたと話題になっていた高層ビルだった。俊がエレベーターに乗ろうとするので、美緒も一緒に乗り込む。ぎゅうぎゅう詰めだったエレベーターがたどり着いたのは、最上階の展望台フロアだった。美緒はとっさに顔を伏せる。そこにはたくさんのカップルが、人がいたから。変に思われないように帽子を目深く被る。俊は少し怯えて強張っている美緒の手を握って、できるだけ人が少ない場所まで歩いた。

「俺たちが住んでるのはあっちの方かな?」

 俊が指さす方向を美緒も見つめる。人々が住む街の明かりが、まるで夜空に浮かぶ星のようにキラキラと瞬いていた。あの光のどこかに美緒の家もある。きっと今頃、由梨と雅弘はケーキでも食べているのかな? その光景を思い浮かべて、少しだけ美緒は笑った。

「あのさ、美緒」

 その俊の声がいつもとは少し違うように聞こえた。美緒は顔をあげる。俊が何を考えているのか、その表情が分からない彼女には分からない。俊は自分の気持ちを伝えるために、美緒の手を強く握り、大きく息を吸う。

「俺と結婚してくれないか?」
「……え?」

 一世一代のその言葉を告げるとき、俊は今まで感じたことがない緊張に包まれていた。今日デートすると決まってから、絶対にプロポーズしようと考えていた。しかしその言葉は、美緒にとっては思いがけないものだった。少しだけ体を引くと、その分俊が近づいて来る。

「これから国家試験を受けて、無事に医者になれたら今以上に忙しくなる。美緒と会う時間もなくなるかもしれない。だから、少しでも一緒にいたいから、俺の奥さんになって一緒に暮らして欲しい」
「……で、でも」
「俺は、美緒とまた離れ離れになるのは嫌なんだ」

 美緒はすぐに返事をすることができなかった。少しだけ間を置いて、そっと「考えさせてください」と答えるだけで精いっぱいだった。

***

 年が明けて少し経ってから、美緒は友達と会う約束をしていた。凪と桃子、二人は美緒の高校のときからの友達、らしい。待ち合わせしているカフェに向かうと、しずくの形をしたイヤリングを身に着けている二人が美緒に向かって手を振った。修学旅行で買ったらしいお揃いのイヤリングが、美緒にとって二人の目印だった。明るいイエローの桃子、落ち着いたブルーの凪。普段はあまりアクセサリーを身に着けない美緒だけど、二人に会う時は必ずそれと同じイヤリングをするようにしていた。

「美緒ちゃん、あけおめ~」
「桃子ちゃん、明けましておめでとう」

 いつも元気な桃子は今、動物病院で働いている。動物が大好きだから天職だと言っていたけれど、最近は来院する動物たちに怖がられてしまうと以前少し泣きそうな声で話していた。

「凪ちゃんも、おめでとうございます」
「うん」

 凪ちゃんはストレートの黒髪を耳にかけた。外国人向けの旅行会社で働いている凪は年末年始も忙しかったらしく、ようやっと休みが取れるようになったから、と今日の誘いが来た。美緒が席に着くとすぐにウェイターが来て、注文を取っていく。美緒は温かい紅茶を頼んだ。