あれから、ずっとずっと考え続けている。母の強さとは何か。私には何が足りていないのか。どうすれば母のようになれるのか。
「——ゲームセット&マッチ。ウォンバイ七星結花。カウント6―3.6―2」
 テクニック?フィジカル?それが足りてないのは当たり前だ。お母さんはトッププロなんだから、私程度じゃ及ばない。けどその二つは、毎日毎日、必死に練習を積み重ねていけば、きっといずれは届くだろう。ならば足りないのはメンタルだと、やっぱり問いはそこに行き着く。
「——ゲームセット&マッチ。ウォンバイ七星結花。カウント6―1.6―4」
 かつて母は、とある海外メディアのインタビューで強さの秘訣を問われた時に、こう答えた。
 ——魔法の言葉があるのよ。挫けそうな時は、それを唱えることにしているの。
 その言葉は今の私には言えない。だからきっと、それが私と母を隔てるものだ。
「——ゲームセット&マッチ。ウォンバイ七星結花。カウント6―4.6―3」
 けれど、少しずつ答えは見えて来ているように思う。テニスとテニス以外。私と「私」。それは切り離して考えるんじゃない。融合させるんだ。弱さは強さにも変えられる。大切な人が——春斗が傍に居るだけで「私」はずっと強く居られる。独りじゃないだけでこんなにも心強いんだって、そんなことに気が付けた。
「——ゲームセット&マッチ。ウォンバイ七星結花。カウント7―5.6―0」
 そして、思い出したこともある。テニスは苦しいだけじゃないってこと。テニスって本当は楽しいんだってことを、私はちゃんと思い出せた。だから、もう大丈夫。見失わずに、迷わずに、私は目指すべき場所に進んでいける。
「——ゲームセット&マッチ。ウォンバイ七星結花。カウント6―3.4―6,6―1」
 でも。それでも、足りないのだ。
 欠けている。あの憧れた背中に追いつくために、大事なピースが私にはまだ欠けている。ならば見つけなきゃいけない。探して、考えなければならない。
 私が強く在る為に。これ以上誰にも負けない為に。
 私に足りないものは、なんだ。

「明日、決勝だよな。なんか今からすげえ緊張してきた……」
「なんで春斗が緊張してるの?」
 全日本ジュニア選手権大会の決勝を控えた前日の夜。私は家のベランダに出て、向かいの家の春斗と話をしていた。もう長らくこのベランダでお喋りもしていなかったから、少しだけ面はゆい心地がする。それだけじゃなくて、春斗との関係が前とは少し変わったことも。
「でもコーチも同じこと言ってた。あの人、試合前はいっつもそうなんだよね」
「あー、そういやそうだったな。橋本コーチ、毎回胃薬飲んでた気がする」
「そうそう。今日も飲んでた」
「何だそれ、重症かよ」
 春斗が呆れたように笑って、私も同じように笑みを零す。
「まあおかげで私はあんまり緊張しないんだけどね」
「自分よりパニックになってる人見ると冷静になるやつだな。あれ?だとすると、あのコーチ、なかなか有能じゃないか?」
「春斗、それ褒めてるの?皮肉にしか聞こえないんだけど」
「褒めてる褒めてる。なんだかんだお世話になりっぱなしだったし」
「だねー。コーチに言われたもん、私。春斗の背中を蹴っ飛ばしてやったのは俺だから、感謝しろよって」
「……いやほんと、返す言葉が無いな。俺が全面的に悪かった。ごめんな、結花」
 冗談めかして言うと、春斗が渋い顔になった。仲直りしてから、春斗に頻繁に謝られる。でも確かによく考えて見ると、大体の原因は春斗にある気がした。何も言わずに避け始めたのも春斗だし、勝手に離れていったのも春斗だし。 だから、少しくらい我儘を言ってもいいだろう。
「じゃあちゃんと言って」
「なにを」
「今は私をどう思ってるか」
 じっと春斗を見つめると、だんだんその顔が赤くなってくる。可愛い。すごく可愛い。それからややあって春斗は天を仰ぐと、覚悟を決めたように息を吐いた。
「好きだよ。ていうか、今はじゃなくて、最初から結花のことがずっと好きだ」
 それをちゃんと春斗の口から聞けるのが嬉しくて、聞く度、今は夢じゃないんだって分かって、胸がきゅうと痛くなる。たまらず私の口からも言葉が零れた。
「私も!私も春斗のこと大好きだよ!」
「……ありがと。けど悪い、火力強すぎて普通に死ぬから勘弁してくれ……」
 顔を両手で覆って、春斗はベランダの手すりにぐだっと横たわった。知ってたけど、春斗はいろいろ不器用だ。あと一人で考え込んで、あんまり言葉にしてくれない。だからこうやってちゃんと気持ちを確認するのは大切なのだ。なんて、ちょっと理論武装。ほんとはたくさん言って欲しいだけ。好きって言って貰えると、私は安心できるから。
「勝てねえ……。勝てる気がしねえ……」
「そりゃあそうだよ。私は——」
 呻く春斗に軽口で答えようとする。でも、言いかけた言葉は途中で途切れてしまった。
 ——誰にも負けないから。
 まだ、私がそれを言えるだけの答えは見つかっていない。お母さんの背中に追いつく為のあと一歩が足りなくて、その感覚はひどくもどかしい。
「大丈夫だ。結花なら勝てる——なんて、俺が無責任に言えることじゃないか。えっと、だから、そう。結花なら勝てると、俺は信じてる。信じて応援してるから」
「……うん、ありがとう」
 黙り込んだ私に、春斗が優しくそう言ってくれる。とっても暖かくて心強い言葉に、勇気を貰える。だから私はもう竦まずに戦っていけると、そう思う。けれど。
 ——結花はもっと結花自身を信じてあげればいい。
 いまだ分からない答えの意味を考えながら、私は口に出すことで覚悟をもう一度固くする。
「私、今度こそは絶対に負けない。明日で、ちゃんと答えを見つけてみせる」
「ああ、頑張れ。応援してる」
 春斗の言葉に頷いて、私は笑った。
「なんか懐かしいね。前もこんな風にやってたよね」
「そうだったな」
 そうして私と春斗は色んな話をした。十六年積み重ねた時間を振り返るように。すれ違っていた時間を埋め合うように。
 鈴虫がりーりーと鳴いている。晩夏の夜風が吹き抜けて、私と春斗の髪をさわりと揺らす。いくら一緒に居ても、どれだけ話しても、やっぱり全然足りなくて。
「……じゃあ、そろそろ私寝るね。お休み、春斗」
「お休み、結花」
 だからきっと、これからもずっとこうやって話せていければいいなと思った。とりあえずは明日。ちゃんと優勝の報告が出来るように。けれどその為に、私にはもう一人、ちゃんと話さないといけない人が居るのだ。

 × × ×

「結花。さっき、春斗君と話していたのか」
「え、うん。聞こえてた?」
 覚悟を決めてリビングに降りていくと、珍しいことにお父さんから声をかけられた。私が少し驚きながら頷くと、父が何というかすごく微妙な顔をした。渋いお茶をがぶがぶ飲んだくらいな表情で、お父さんはコホンと咳払いをする。
「あー、その、なんだ。別に話すのは構わないんだが、夏場は窓が空いているから、その……」
「……もしかして、全部筒抜け?」
 おそるおそる問いかけると、父は気まずそうに首肯した。
「うそでしょー!!??」
 思わず頭を抱えて叫ぶ。すると、なんか向かいの家からも同じような叫びが聞こえて来たような気がしたけど、今はそれどころじゃなかった。だって、全部聞かれてたってことはつまり——。
「結花、いつの間に春斗君とお付き合いを始めたんだ……?」
 つまり、そういうことだ。父がおずおずと問うてきて、私は顔中が真っ赤になるのが分かった。最悪だ。あの会話がよりによってお父さんに聞かれているとか恥ずかしすぎて死ねる。
「……少し前、から、です」
「……そうか」
 蚊の泣くような声で私が答えると父が短く頷き、それきりリビングは沈黙に包まれた。なんだろう、これ。ものすごく気まずい。普段の沈黙の数十倍は気まずい。それからややあって、眉間にしわを寄せた父は重々しく口を開いた。
「……まあ、でも、春斗君なら、まあ、うん、まあ」
「お父さん、まあしか言えてないよ」
 たまらず突っ込むと、父は少し表情を緩ませた。それは久しぶりに見る父の笑みで、だから私もつい笑ってしまった。
「それじゃあ今度、春斗君をうちに招待しようか」
「ふふ」
 すると笑みを納めた父が真面目くさった顔で言うので、更に私は噴き出してしまう。どうやら想像以上にお父さんとしては複雑な心境のようだ。頑張れ、春斗。
「笑うところか、今」
「うん、なんかおかしくて……!」
 笑いっぱなしのまま、私は思う。多分、嬉しかったのだ。
 お父さんが動揺してるのも心配してくれるのも、今みたいに他愛の無い話が出来たことも。だから今だった。ちゃんと話すなら、今しかなかった。
「——ねえ、お父さん。大事な話があるの。聞いてくれる?」
「……ああ」
 姿勢を正して真っすぐに父を見つめると、父もまた表情を引き締める。そして私は意を決して口を開いた。
「前に言われたよね、無理してテニスしてるんじゃないかって。そうだったよ。私は無理してた。どうしてもお母さんみたいになれなくて、上手くいかなくて、多分色んな事を見失っていた。だからお父さんにも八つ当たりをしちゃった。ごめんね」
「いいや、構わない」
「うん、ありがと。それでね、明日大事な試合があるの。まだ、どうしたらいいかちゃんと答えは出てないけど。でも、だから、お父さんにも見に来て欲しい。応援、して欲しい」
 そこまで言い切る。すると父は深々と息を吐いてから、やがて眩しそうに目を細めて私を見た。
「結花、いい表情をするようになったな。……お母さんとそっくりだよ」
「——っ」
「済まなかった」
 それから父は私に頭を下げる。真っすぐに、綺麗に、真摯に。
「私は、見ていられなかったんだ。いつからか、結花のテニスはとても苦しそうなものになってしまったから。だから見るのが辛くて、ずっと遠ざけてきてしまった。済まなかった」
「……そっか。テニスを憎んでた訳じゃなかったんだ」
「憎む?まさか、そんなことはない。テニスがなければ私とお母さんは会えても居ないんだ。感謝はすれど憎むなどしないさ」
 父は穏やかに首を振った。それで私と父の間にあった——もしかしたら、私が勝手に作っていたのかもしれない溝は暖かく溶けて消えていくのが分かった。
「じゃあ、ちゃんと来てね。——私を、見ていて」
「……分かった。仕事が終わり次第、急いで向かう」
 父がもう一度、眩しそうに私を見る。そして、お父さんが告げた。
「……頑張れ結花。応援している」
「——うん」
 きっとそれは、私がずっとずっと欲しかった、お父さんからの言葉だった。そうして私がこれまでの私を超える為の戦いが、始まる。

 × × ×

「只今より全日本ジュニア選手権大会女子の部シングルス決勝戦を始めます。ベストオブ3セットマッチ。七星結花サーブプレイ」
 主審のコールと共に観衆から拍手が沸き起こり、それから試合の始まりを告げる静寂がやってくる。決勝の対戦相手はもちろんのこと、暮埼舞香。
 私からすれば、今回はこの前無様に負けた試合のリベンジマッチといえた。集中力、気力、体力、共に万全。多分、過去最高の状態で試合に入れている。もう泥の中では藻掻いていない。
 ——さあ行こうか、私。
 見つけ出せ。導き出せ。これからも続く道を征く為の答えを。
 瞑目する。小さく息を吐く。頭を戦闘モードに切り替える。世界を小さな箱庭に収束。観測範囲を極限まで狭め、その分知覚を限界まで研ぎ澄ませる。暮埼さんの一挙手一投足、息遣いすら見逃さぬように。そして私は、指先に神経を集中させてトスを挙げた。
「——はっ」
 ファーストサーブはセンターへ。手応えのあるサーブはしかし、コースを読んでいた暮埼さんがフォアサイド深くにしっかりリターンしてくる。そのボールに対して後ろに下がる選択肢は有り得ない。無尽蔵のスタミナと強靭なフットワーク、屈指の守備力を持つ暮埼さん相手に、長いラリー勝負を挑むのは無謀だ。何よりそれは私のテニスではない。
「——」
 深いボールに対して、あえてベースラインの内側に踏み込む。跳ね上がる前、相手の時間を奪う早いタイミングでライジング気味にストレートに展開。だが、攻めることと急くことは全くの別物だ。この程度のショットでネットに詰めれば、暮埼さんの強烈なカウンターの餌食になることは分かり切っている。
 軌道の高いスピンでバックに帰って来たボールを、再びライジングのバックで叩いてストレートへ。暮埼さんを左右に振り回しつつ、チャンスボールが来るのをじっくりと伺う。
 焦るな、焦れるな、攻め急ぐな。強引な攻めはリスクが大きく、無謀な攻撃は鉄壁の前には通用しない。攻勢の手を緩めないままポイントを取り切ることが暮埼さんを崩す唯一の方法だ。
「よしっ、」
「——ノットオーバー」
 身体は軽い。ボールの回転する音まで聞こえてくるようだ。
見える。やるべきこと、選択肢。全てが明確で、頭の中で考えた作戦を無意識の領域で身体が実行してくれる。
 エース。エラー。ウィナー。エラー。ウィナー。
 ある程度のミスは仕方ない。この攻撃的テニスで戦う以上、それは織り込み済みだ。だからミスが出たなら、それ以上のウィナーを奪えば良いだけの話。何一つ、怖がることはない。これでいい。これがいい。これが私のテニスだ。
「ゲームカウント2—1,七星リード」
 橋本コーチとの予測通り、案の定ゲームは立ち上がりから消耗戦の様相を呈した。ベースラインから二歩下がった場所を主戦場とする暮埼さんと、一歩内側で戦う私。
 幼い頃から幾度も試合をしてきたせいか、それとも対極的なプレースタイルのせいか、私たちの試合はお互いのリズムががっちりと噛み合う。打つ前から、大体打って来る方向が予測できるのだ。そのせいでラリーは普段よりも多く続き、結果、プレーの質は否応にも引き上げられる。どこまでもいける手ごたえを感じながら、ストローカー同士、激しい打ち合いを広げた。
「ゲームカウント3―3」
 試合中、一切の乱れや感情の起伏も見せず、ポイントを取っても失っても淡々とプレーを続ける暮埼さん。そんな彼女の姿はどこか空恐ろしいまでで、それがナンバーワン足る由縁ともいえる。
 そして、イージーミスをほとんどしないこの難敵との試合は、基本的に決め切るかミスをさせられるかでポイントが積み重なっていく形だ。だから大抵の場合、暮埼さんの対戦相手は、増え続ける自分のミスとポイントが決まらない苛立ちに次第に押しつぶされ、攻めが中途半端になった末に自滅していく。暮埼さんの戦術は高校女子テニス界の間では蟻地獄と呼ばれていた。言うまでもなく、この前は私がドツボに嵌った形だ。私のテニスを見失ってしまった原因でもある。
「ゲームカウント5—4」
 しかしそれでも、崩れることなく攻撃を続けていれば如何なる鉄壁にも亀裂は走る。暮埼さんに今日初めての綻びが出たのは、第一セットも終盤を迎えた第10ゲームだった。
カウント15―15。暮埼さんのセカンドサーブから始まったこのポイントでは、これまで冷静にプレーを続けていた暮埼さんが一転、攻勢に出た。でもそれは積極的というよりは半ば強引な攻撃だ。一向に崩れる気配のない私に対して、恐らく相手が先に痺れを切らしたのだろう。
 ——よし、来た!
 そして私は、この瞬間を待ち続けていた。敵が攻勢に出たならば、その分守りに隙が生まれる。その僅かな綻びをみすみす見逃す選択肢は無い。
「——っ、」
 暮埼さんがペースラインに一歩近づき、自ら先に先にとラリーを展開していく。それを私は必死に追って返しながら、カウンターの機会を伺う。完全に攻守が反転した、これまでとは主導権が真逆のラリーだ。
ショートクロスで追い出されたボールを滞空時間の長いカットスライスで沈め、力のあるフォアストロークには敢えてこれまで打って来なかった中ロブ気味のスピンで対応する。全ては一瞬、主導権を奪い返せる瞬間の為に。
 十五球もの長いラリーの末、暮埼さんが苦し紛れのドロップを打つ。私は歯を食いしばって足を鞭うち、ネット前にダッシュ。ギリギリのところでドロップを拾い、刹那の間に暮埼さんの身体の重心を視認、その予測とは反対方向——フォア側に手首の動きだけでボールを持っていく。逆をつかれた相手は体勢を崩されながら、高々と空に逃れるロブをあげた。
 ボールを追って、青く澄み切った夏の空を見上げる。
 一歩、二歩、後ろに下がって細かく立ち位置を修正。ボールの落下点の真下に入る。左手を伸ばしてボールとの距離を測り、3,2,1,今。バチン、と思いきりスマッシュを叩きつけた。一度相手のコートで強くバウンドしたボールは大きく跳ね、そのままコート後方の観客席に入っていく。
「——ノットアップ、カウント15―30」
「カモン!!!」
 私が握り拳を作って大きく叫ぶと、コートをぐるりと取り囲んだ観客達がドッと湧いた。
「すげえラリー!!」「レベルたっか!!」「流石全国決勝だわ……」「このままブレイク!」
 沈黙を保ってラリーに見入っていた分を発散するように、歓声が沸き起こる。それで、流れが来たと確信した。いける。まずはここで第一セットを取り切れ、結花。
 シーソーのようにポイントを取り合い、カウントは30—40。
 今日最初となるブレイクポイントであり、私のセットポイントだ。
 直前のラリーでの疲労を引きずったせいか、暮埼さんのファーストサーブは大きくフォルト。
 そこで私はリターンの位置を更に一歩前にあげた。セカンドサーブを叩くのは、私の得意なプレーだ。恐らくは、セオリー通りバックハンドにスピンが来るはず——。
 ぱあん、と乾いた音。直後、考えるより先に身体が動く。踏み込み、テイクバック。バックハンドを一閃、ダウン・ザ・ラインへ。
「——カモン!」
 相手を一歩も動かせない完璧なリターンエースを叩き込み、私は第一セットを先取した。コートサイドの陣営に向かってガッツポーズ。同じく立ち上がってガッツポーズを作った橋本コーチと、応援に来てくれた春斗と目が合う。言葉は交わせないけれど、一人じゃないという事実に強い勇気を貰った。
 さあ、あと一セットとれば優勝だ、頑張ろう。
 思考を切り替えるようにそう言い聞かせて私はベンチに戻る。
 陣営席に残った一つの空白から目を逸らすように、タオルで汗だくの顔を拭った。

 × × ×

 第二セットになると、試合は全く別の様相を呈した。テニスにおいて、セット毎に試合展開が変わるのはままあることだ。それは選手を取り巻く要因に変化が生じるためだ。
 例えば三セットマッチの試合で、第一セットを奪取した側と落とした側ではメンタル状況は大きく異なる。セットを取った側は流れに乗ったり、少し勝利を意識したりもするだろうし、失った側からすれば、落ち込むかもしれないがある種開き直ったりもし得る。
 また、疲労という要因も無視はできない。この試合でいえば、第一セット終了時点で既に試合時間は一時間を越えており、更に天候は炎天下。如何にトレーニングを積んでいるアスリートといえども、疲労の蓄積は避け難い。
「ゲームカウント3—1、暮埼リード」
 そうした要因が絡み合い刻一刻と流れが変化していく状況の中、第二セットを有利に進めていったのは私ではなく、暮埼さんだった。
 暮埼さんは第一セットの最後で見せた乱れが嘘のように再び鉄壁の守備力を取り戻していて、そのポーカーフェイスからは疲労の色は読み取れない。そんな暮埼さんに、少しずつ追い詰められていくのが分かった。打っても、打っても、決まらず、嫌なところへ返ってくるボール。
 疲労で重くなって思い通りに動いてくれなくなる身体と、ともすれば途切れてしまいそうな集中。万力で押し潰されるような圧迫感と閉塞感に私の磨き上げた矛の切れ味が鈍らされ、ずぶずぶと足が砂の中に沈む感覚。
「ゲームカウント4―2」
 思考が鈍ればプレーの質が落ちる。プレーの質が落ちれば劣勢になる。劣勢になると、メンタルが崩れ出す。その循環はたとえトッププロであろうとも変わらず、その状況から如何に立て直すかに真価が問われるのだ。
 そして、以前の私はそこで折れてしまっていた。コートの中の孤独に耐え切れず、抱え込んだ重圧を堪え切れず、ぺしゃんこに潰れて崩れていた。
 でも今は違う。これまでの私ではないということを、私はこの試合で証明してみせなければならなかった。これから果てしなく続いていく遠い頂きまでの道のりを、胸を張って歩んでいくために。戦い抜く覚悟と自信を手にするために。
「ゲームカウント5―3、暮埼リード」
「はあっ、——!」 
 ボールを追う、打つ、決める、決められる。これ以上セットを落とせない暮埼さんは、終盤にかけてもう一段階ギアをあげていた。
 焦りからの攻めではない、守備の為の攻撃だ。私に息つく暇を与えない、立て直す猶予を与えてくれない。 暮埼さんはこれまでとは変わった速いテンポで、私から一点一点をもぎ取って行く。
 届かない。届かない。届かない。折れてはいない、でも、あと少しだけ届かない。ブレイクされた1ゲームが果てしなく遠い。
「ゲームカウント5―4」
 暮埼さんのサーブをなんとか返すと、意表をつくサーブ&ボレーで決められる。コースを読んでリターンを返し、ベースラインの上での激しい打ち合いの末、私のショットがネットに引っ掛かる。
 一か八かで強引にフォアストレートに叩きこんでネットを奪うも、鋭角なショットクロスに鮮やかなパッシングで抜かれる。
 相手のセットポイント、今日一番のフラットサーブに飛びつくも、ラケットの先に掠っただけでボールは返らない。
「カモーン!!」
 直後、普段は冷静沈着な暮埼さんが感情を露わに叫び、何度も何度も頷いて強く拳を握っていた。彼女も相当に苦しかったのが見て取れる仕草だ。そこまで追い詰めたのは確かだった。だから、これまでとは違くて、ちゃんと戦えているはずで。
 でも、足りない。
 私の矛が、彼女の盾を突き通すにはまだ足りない。
「はあっ、はあっ、はあっ、——」
 ベンチに戻って荒い呼吸を何とか整える。保冷材で首元を冷やし、失った水分と塩分を補給する。万全には程遠い、疲労は限界に近い。でもあと一セット、戦わなくてはならなかった。
 考えろ、考えろ、考えろ。
 どうしたら勝てる?どうしたら倒せる?どうしたら崩せる?
 何が足りないのか、私には。この矛には何が——。
「——」
 それで、思う。もしも私がお母さんだったら勝てるだろうか。
 なんて、そんなことは考えるまでもなかった。幾千、幾万と繰り返し見た母のプレー映像が脳裏に過ぎり、その姿をコートに幻視する。彼女が、母が負けるはずがない。私が勝てないのは、お母さんのようになれていないからだ。私が七星愛美のようになれたら負ける訳が無い。そう信じて、ここまでやって来た。
 でも、本当に?
 本当に、私は七星愛美のようになれているのだろうか。
 ダメだ、これは弱気な考えだ。私は首を振ってその不安を払い落とそうとする。届いていないなら、今ここで届かせるしかない。
 ちらりと陣営席を見ると、橋本コーチは私を鼓舞するように何度も頷いていて、春斗を見ると「がんばれ」と口の動きで伝えてくれていた。
 応援されている、信じられている、期待されている。だから、やれるはずだ、勝てるはずだ。母のようになれるはずだ。
「——タイム」
 何度も言い聞かせていると、主審が試合の再開を告げる。
 私は今一度陣営を振り返って、それから振り切るよう、再びベースラインへと走った。
 さあ、あと一セットだ。
 見つけ出せ、答えを。戦い抜け、試合を。
 そして勝利をもぎ取ってみせろ。ここからが本当の戦いだぞ。

 × × ×

「頑張れ、結花……」
 灼熱のコートで一人戦い続ける結花を見つめ、俺は祈るように呟く。フルセットに入ってから、結花の表情はずっと苦しげだ。
 第二セットを落としたのが心理的プレッシャーになっているのか、疲労のせいか、あるいはその両方か、プレーに第一セットほどのキレが無い。なんとかサービスゲームをキープし続けているものの、流れは圧倒的に相手の暮埼の方にある。一瞬で崩れ落ちそうな危うい均衡といえた。すると、俺の隣で試合をジッと見つめている橋本コーチがぼそりと呟く。
「……まずいな。結花のプレーに迷いが出てる」
「迷い、ですか」
「ああ、あいつの悪い癖だ。最近になって何か吹っ切れたように見えたんだけどな。実際、第二セットまではよく耐えてたし」
 そしてコーチは歯がゆそうに拳をギュッと握った。
「結花、自分を信じてやれ……。七星愛美でも、その娘でもない。他でもないお前自身が積み重ねて来た努力を、もっと信じてあげてもいいんだ」 
 自分を信じる。それは簡単なように見えて、とても難しいことだと思った。結果が出なければ、どうしても自分を疑ってしまうからだ。本当にこれでいいのか、これは間違っているのではないかと自己問答を繰り返した末、やがて自身を見失い、自信を喪失してしまう。
 まして、七星結花はそうなのだろう。幼い頃から偉大な母を目標として、その姿をひたすらに追って来た彼女には。
 七星結花がテニスをする限り彼女は母と比べられる。きっと、結花自身も比べてしまうのは避けられない。ならば、そんな彼女にとって、敗北は自己を否定されるのと同義なのかもしれない。負けるような七星結花は七星愛美の娘とは呼べないと。
 ならば、結花は今でも呪縛に囚われているのだろうか。母への憧れという名の、心の深くに根付いた感情に。
「負けるな、頑張れ、結花……!」
 だが、それに気が付いたところで俺に出来ることなど無かった。
 近くに行って励ますことも、俺の有り余る体力を分けてあげることも、何も。 
 テニスはひどく孤独なスポーツだ。どんなに苦しくても、試合中は一人で戦うしかない。どんなに何かをしてあげたくとも、俺には鼓舞する声援を送ることしか許されない。それは、ひどく歯がゆくてたまらなかった。もっと何か、力になる何かをしてあげたい、支えてあげたいと強く思う。
 でも、俺に結花の呪縛を解く術は無い。仮に出来る人が居るとすれば、それは、七星愛美本人か、あるいは——。
「すみません、仕事が長引いてしまって。……春斗君、今、どういう状況だい?」
 瞬間、そんな声と共に、陣営席に一人の男性が現れた。

 × × ×

「ゲームカウント6―5、暮埼リード」
 ファイナルセットの均衡が崩れたのは、私のサーブゲームである第十一ゲームだった。辛うじてキープを続けていた私は、ファーストサーブの確率が低下したこのゲームでブレイクを許してしまう。 
つまり、次のゲームは暮埼さんのサービングフォアザマッチ。キープされた瞬間に負けが決まる、決して譲れぬゲームである。
「——大丈夫、落ち着いて。一点ずつ、一点ずつ……」
 コートチェンジの間に設けられる一分間の休憩時間。私は、切れかけた集中の糸を必死で維持する。ここで気持ちを切らしてしまったら、それこそ終わりだ。でも、まだだ。まだ終わってない。ここで終わる訳にはいかない。
 タイムを終え、リターンの位置に入る。試合時間はもう三時間近い。肉体はとうに限界を超えていて、もはや私を維持しているのは気力だけだ。けれど、暮埼さんも流石に疲労の色は隠し切れておらず、第一セット程の守備力は無い。それが私に残された唯一の突破口だった。
「——!」
 暮埼さんが放ったファーストサーブは、キレのあるスライス回転で私から逃げるように外へと弾んでいく。スピードは無いけどコースが良い。届くか届かないかギリギリだ。届け——、精一杯伸ばしたラケットにボールが当たる感触。
「——アウト!」 
 しかし、私のリターンは僅かサイドラインを外れる。
「惜しい……」「いや良いサーブだった」「このファーストポイントはデカいな。」「ここ挽回!」
 暮埼さんが己を鼓舞するようにガッツポーズを作り、観客の声が響き渡る。大丈夫、大丈夫。汗でグリップが滑らないようにウェアで手を拭い、ふーと一度大きく息を吐く。先は考えるな、目の前の一球だけに集中しろ、私。
カウント15—0。
 今度もスライスサーブがセンターを切り裂くように放たれる。それを読んでいた私はタイミングを合わせるようにリターンをバック側へ打つ。追いついた暮埼さんが丁寧にストレートへ展開、でも少し浅い。私はすかさず一歩前へ踏み込み、早いタイミングでクロスのオープンコートへフォアを叩き込んだ。
「カモン!」
 暮埼さんですら追いつかない、いや、彼女も走れる体力はそれほど残っていないのか。私は握り拳を作って叫ぶ。弱気にならないためのおまじないだ。
 これで15―15。
 ここだ。ここでリードさえ奪えれば——そんな私の考えを嘲笑うように、暮埼さんが堅実なストロークでミスを誘ってくる。少し急いたのが裏目に出て、私のバックがネットにかかった。もったいないミスだった。けど引きずる必要は無い。切り替えて集中。
 カウント30―15。少し心拍数が上がる。ここを落としたら相手のマッチポイントが来てしまう——そんな考えを即座に削ぎ落す。次のサーブ、今度は恐らくバックに——。
「フォルト!」
 暮埼さんが勝ちを意識して力が入ったのか、ファーストサーブは大きくオーバーする。ここはプレッシャーをよりかける場面だ。私はセカンドサーブに対してじりと前に詰める。さあ、来い。打ち込んでやる——。
「フォルト!ダブルフォルト。カウント30―30」
「うおマジか!!」「珍しい!」「流石にプレッシャーあったか……」
 珍しい暮埼さんのダブルフォルトに会場がざわつく。助かった。ラッキーなポイントに私は一つ息をつく。でもこれで追いついた。次だ。次に勝負をかけろ。ここしかないぞ。
「——」
 少しサーブに間が空く。暮埼さんが時間を取っている。恐らく気持ちを切り替えてくる。もうミスは期待できない。
デュースサイドは全体的にワイドが多い、多分大事な場面ではワイドに打って来る傾向が——カシュっと、ボールを擦り上げる音。ファーストからスピンサーブか!
 確率を意識して打たれたサーブは私のボディに食い込むように跳ねる。身体を左に倒しながら、フォアでブロックリターン。まずい、甘い。歯噛みしながら攻撃に備える。
 けれど打ち込まれはせず、ネットの数メートル上を通した綺麗なスピンが私のバックハンド深くを狙ってくる。苦し紛れにスライスでクロスに返球。しかし再び暮埼さんは同じエリアに返してきた。打ち込むには難しい、かといってフォアで回り込むのも難しい、絶妙なボールだ。私はリスクの低いスライスでしのぐしかない。
 結果、長いバックハンドのクロスラリーが行われる。
 一球、二球、三球、四球、五球。相手の狙いは私にミスをさせることだ。自分から攻めてはこない。それはさっきのスピンボールで明確になった。暮埼さんも弱気になっている。ならリスクは取らなくてもいい——それでいいのか、七星結花。七星愛美ならそうはしない。
 あの決勝戦で私は何を見た?果敢に攻め続ける、そんな姿に私は憧れたんじゃないの?
 ぱあん、と打球音。誘うように僅か浅いボールが飛んでくる。
 七星愛美の代名詞。片手バックハンドのダウン・ザ・ラインにおあつらえ向きのそのボール。打て、打て、打て、打て!打たなければ意味が無い。お前は一生、彼女に届かない——!
 半ば強迫観念じみた声に、私は刹那の間、逡巡してしまった。テニスにおいては、その逡巡こそが命取りになると知っていたはずなのに。
「——っ!!」
 踏み込み、一閃。僅かな迷いがラケットのスイングスピードを鈍らせる。ラケットがボールを押し潰し、空気を裂いて飛び、だがネットを越すことは能わない。
「ノットオーバー、カウント40―30」
 三時間を超す死闘の果て、やって来た暮埼舞香のマッチポイント。
 観客が皆総立ちで何かを叫んでいる。でも、その声は私には聞こえない。
 ネットにボールが引っ掛かる残像が焼き付いたまま、離れてくれない。幾度も反芻されるミスのイメージが、私から攻める勇気を奪い去っていく。心臓がドクン、と大きく脈を打った。
 身体中に絡みつく泥。覚える息苦しさ。思考が、どんどんと弱気の私に浸食されていく。また、勝てないのか。これだけやっても、まだ届かないのか。ならば私は、お母さんのようには——。
 刹那、声が聞こえた。

「結花、下向くなあああああああああああああ!!!」

 観客の歓声を切り裂いて、私の元へ真っすぐに。聞き逃すはずのない春斗の声だ。顔を上げると即座に目が合った。春斗は拳を握って自身の胸を叩き、橋本コーチは何度も頷いている。そして——。
「お父、さん——」
 その隣には父が居た。
 いつの間に来たのとか、来るのが遅いとか、言いたいことはたくさんあった。でも、父の優しい眼差しが私を見ていて応援してくれている。たったそれだけで十分だった。目が合った瞬間、お父さんが口を開く。
 ——結花、お前はお前の為にテニスをしろ。
 父の静かな声。そんなのはこの距離で届くはずが無いのに、不思議と私には聞こえた。いや、きっと私だけに聞こえていた。 
 私は、私の為に——。
「——ああ、そっか」
 それで、すとんと腑に落ちた。あと一歩、あと少し。答えを前にして広がっていた霧が、すーっと晴れていくのがわかった。
ドクン、と心臓が鳴る。さっきまでの緊張じゃない。
 ドクン、ドクン、ドクン、ドクン。
 これは、この胸の高鳴りは、高揚だ。久しく感じていなかった、忘れていた、極限状態にのみ訪れるこの感覚。
「——私、分かった。思い出したよ、お母さん」
 何の為に、私はこの果て無き険しい道を進むのだろうか。
 それは、今まで幾度も幾度も考え続けて来た問い。見失って彷徨って、迷って泣いて分からなくて、投げ出したくなって。でも。
 ——決まってる。私は、お母さんのようになりたいから。
 その想いは決して揺るがない。
 何千何億回問い直しても、それだけは間違いない。
 たとえそれが私を縛る呪いだったとしても。
 その想いのせいで、私はここまで苦しんだのだとしても。
 何があっても、その答えだけは絶対に譲れない。
 でも、と思う。でもそれなら私は、どうしてお母さんのようになりたいのだろう?プレーがかっこいいから?私のお母さんだから?
「違うでしょ。そんな生温いものじゃないって」
 始まりは確かに憧れだった。私のお母さんだから、私は彼女に憧れた。けれど、いつしかそれだけじゃなくなった。
 約束をして、誓いを立てて、がむしゃらにテニスに打ち込んで。
 私は最初に、テニスの楽しさを知った。やがて、辛さと、厳しさと、激しさと。痛みと、苦しみと、悔しさを知った。何度も何度も壁にぶつかっては折れかけて、嫌になっては泣き喚き。積み重ねた時間と、引き下がれない道のりと、譲れない意地に雁字搦めに囚われて。
 それでも。
 それでも、ここまでやって来たのは。
 それでも、この先も歩んで行こうと思えるのは。
「そうだよね、そうだった」
 私が見つけ出した、答え。
 それはあまりに単純すぎて、馬鹿らしくなってつい笑ってしまう。

 ——私がお母さんに憧れたのは、七星愛美が強いからだ。

 揺るぎなく、絶対的な存在。
 私は彼女の強さに焦がれて、だから彼女のように強くなりたいと、その姿を追い求めてきた。でもそれは、ちょっと考えれば分かる、一番大事なことを忘れている。
 何故なら、強さに憧れるのは。七星愛美のように強くなりたいと願う、動機は。本当に、心底呆れるくらいに単純で——。
「——私、勝ちたいんだった」
 アスリートとして誰もが抱く、最も純粋な衝動だから。
 そう、私は勝ちたい。
 負けたくない、じゃない。負ける訳にはいかない、も違う。
 負けることは許されない、なんて、どこまで検討外れな考えをしていたのか。才能だとか、意地だとか下らない。そんなの、本当は全部どうでもいいことだったんだ。
 勝つ喜びを初めて知った瞬間から。勝利することでしか満たされない、限りない飢えを知ってしまった、あの瞬間から。勝利失くしては生きられなくて、勝つ為に出来ることなら何でもやって、相手がどんな人間だろうと、どんな願いを持っていようと、己の全身全霊を賭けて叩き潰す。
 我儘で、利己的で、エゴイズム剥き出しの衝動。それ以外に、アスリート(七星結花)がテニスコートに立つ理由なんか要らなかった。
 そうだ。勝ちたい。勝って、勝って、勝って、勝って、ひたすらに勝ち続けていたい。その為に、強さを欲した。七星愛美のように、絶対的な強さを欲した。彼女のように強く、強く、強く、強く、強くなって。どこまでも果てしなく続く道を越えて、頂点に君臨する最強のテニスプレイヤー。 それこそが私の憧れた七星愛美で、それこそが七星結花のテニスの意味だ。
 なればこそ。どうすれば七星愛美のようになれるかなんて、その答えは言うまでもない。
 ——勝つ。
 ただ、それだけ。勝利。必要なのはその二文字だけだ。
「あはははは、なんで忘れてたかな、私」
 呟いて、これはヤバいなと思った。知らず口角が上がってしまう。多分、挑発的な笑みってやつを浮かべてるんだろう。
でも、仕方ない。如何ともし難い飢餓とか、満たされることない欲望とか、どうしようもない渇きとか。この魂に刻み付けられた最大最強の衝動ってやつを、思い出しちゃったんだから。
「——」
 私はぐっとリターンの構えを取って、狩るべき獲物を睨みつける。
 暮埼舞香。
 散々苦しめられてきた憎きライバル、越えるべき高い壁。
 ——今からその壁、ど真ん中をぶち抜いてやる。
 上げられたトスが高々と空を舞った。

 × × ×

「カモン——!」
 鮮やかなフォアのダウン・ザ・ラインが決まり、結花が俺たちの居る陣営席に指をさす。それに答えるように、俺もまた立ち上がって叫びをあげた。土壇場でのブレイクバック成功。これでゲームカウントは6—6だ。
 相手のマッチポイントを凌ぎきった結花は、そこから明らかにプレーの質が変わった。疲労もピークで、一つのミスが命取りになる場面にも関わらず、より一層の早さと厳しさで持って果敢に攻め続けている。
 現在の試合時間、三時間十二分。日本高校女子テニスの頂点を決めるこの死闘を一目見んと、有明の会場の一番コートの観客席は満員だ。一ポイントごとにプレーを称える歓声が沸き、戦う二人に熱い声援が飛ぶ。両者の試合に魅了された観客もまた、決着のタイブレイクに向けてより熱量が増していた。
 タイブレイク、カウント0―0。
 結花は先のゲームを奪取した勢いのまま、フラットサーブをセンターラインぎりぎりにぶち込む。スピードはおよそ百六十キロ近く、触るのが精いっぱいであろう会心のサーブは、しかし驚くべき反応速度で暮埼がリターンする。だが生憎、サービスラインとベースライン中間あたりで跳ねたボールは、結花の領域。クロス、ストレート、どちらでも打てる体勢でボールに入ると、結花は打つ一瞬前まで狙うコースを悟らせない。
「——」
 直後、インパクト。得意のフォアストレートが炸裂し、ノータッチエース。
「うおおおおお!!」「七星さんやっば!」「覚醒してる!」「手が付けられねえ!」
 湧く観衆とは裏腹に結花は冷静を極めている。小さく拳を握り、すぐさまリターンの体勢へ。
 カウントは結花から1―0。
 サーブ権の移った暮埼も非常に落ち着いていた。マッチポイントを逃したとは思えない程の冷静さで、サーブから主導権を握って離さない。結花に十分な体勢で打たせぬよう左右に振り回し、最後は前に詰めてボレーで決め切ることに成功する。
これでカウントは1―1。
 二人のプレーは、今まで三時間も試合をしてきたとは思えぬほどのクオリティだった。恐らくはお互いがお互いのプレーに触発されて、十二分に力が発揮されている。精神と肉体の限界を超えた先——最後の力を振り絞ってゾーンに至った彼女らの死闘は、最早高校生のレベルではない。このレベルのプレーを維持できれば、世界でも十分に戦えるはずだった。
 カウント1―2、2—2、3―2、3―3。
 サーブ権が二ポイントごとに入れ替わるタイブレイクにおいては、一本相手のサーブを破ることをミニブレイクと呼ぶ。しかし両者共に相手にミニブレイクを許すことはなく、得点がコツコツと積み重ねられていく。合計ポイントが6の倍数になったところでコートチェンジ。
 入れ変わる間に結花がチラリと俺たちの居る陣営席を見る。結花の表情は、何かが明らかに変わったかのように、この試合の中で最も自信に満ち溢れていた。
 カウント3―3。
 デュースサイドからの暮埼のファーストサーブが、タイブレイクで初めてフォルトする。直後、二歩ググっと結花がリターン位置をあげ、セカンドサーブを叩きに行く。リターンを得意とする結花にとってはチャンス、一方、暮埼にかかるプレッシャーは増大する。
「——カモン!」
 しかし、暮埼は何とこの場面でダブルファーストを選択。強引にエースを狙いにいったサーブは僅か結花のラケット届かず、サービスエース。暮埼のあまりの強心臓っぷりに観客席からはどよめきが起き、結花が悔しげに天を仰ぐ。
 カウント3―4。サーブ権は結花へ。
 決着の瞬間が迫るにつれ、否が応でも一ポイントの重みは増してゆく。結花は足を小刻みに動かし、とんとん、とボールをつく。
 アドバンテージサイドからのサーブは、弧を描いて暮埼のバック側に高く跳ねる。コートの追い出された暮埼は、止むを得ずストレートに返球。結花がフォアクロスで無人のオープンコートへ。打つと同時にネットに詰め、返って来たボールを丁寧にボレーで前に沈める。懸命に暮埼は走るも追いつかず、てん、てん、とボールはツーバウンド。教科書通りの展開だが、それをこの場面で冷静に決め切れる人間がどれだけ居るというのか。
 カウント4―4。カウント5―4。カウント5―5。
 なおもサーブをキープし合い、現在のサーブ権は暮埼。ここをキープすれば再び暮埼にマッチポイントが訪れる一方、ミニブレイクをくらえば絶体絶命のピンチに追い詰められる場面。珍しく暮埼がサーブの前に何度もボールをつき、——アンダーサーブ。
「「「——!!」」」
 声にならないどよめき。信じられないとばかり幾人が首を左右に振る。ここでアンダーサーブを仕掛けるとはなんという胆力か。だがリスクの高いプレーはそれだけ暮埼が追い詰められていることの証に他ならない。ここを取れさえすればと、ボールの行方を俺は追う。
「っ!?」
 完全に意表をつかれた結花は、辛うじてボールをスライスで拾った。しかし暮埼の狙い通り、結花はネット前におびき出された形となる。こうなれば暮埼の独壇場だ。暮埼は得意のパッシングショットをショートクロスに沈め、直後ポーカーフェイスが流石に僅か安堵に崩れた。何度も何度も頷き、自身を鼓舞する暮埼。
「ここで決めて、暮埼さん!」「しのげー!!」「頑張れ二人とも!!」
 再びの暮埼のマッチポイントに歓声が飛び交う。一方、俺は心臓が口から飛び出そうで、声を出すことすら能わない。隣を見ると結花のお父さんもコーチも青い顔をしていて、俺たちの中で一番余裕があるのがプレーをしている結花本人という有様だった。
 頑張れ、踏ん張れ、取ってくれ——!
 カウント5―6。静寂の後、結花が深く、深く、息を吐く。
 ——トン、トン、トン、トン、トン、と。
 ボールを突く回数は五度。いつも通りの彼女のルーティーン。その頬から汗が滴り落ち、トスが晴天に舞った。弾けるような打球音が木霊する。
「——カモン!!!」
 センターライン真上、誰も追いつけない最高のサービスエース。
「「「しゃあああああああああああ!!!」」」
 結花の叫びに合わせて、思わず立ち上がって叫ぶ。遠くコートの上で躍動する結花があまりに眩しくて、その輝きに瞳を奪われて目を離すことが出来ない。けれど、今更劣等感を抱いたりはしなかった。ただ彼女の隣に居て、それを応援できていることが誇らしくてたまらない。
 カウント6―6。
 得点は並び、しかし今度は結花のサーブ。結花がここをキープすれば、試合を通じて初となるマッチポイントが訪れる場面だ。
 さあここだ。結花、一本!半ば祈るように、俺は心中で叫ぶ。瞬間、サーブの構えを取った結花がニヤリと不敵に笑ったのが見えた。
 ——まさか、あいつ。
 俺の予感は的中し、結花がアンダーサーブを放つ。
 直後、時が凍りついた。シュルシュルと下回転のかかったボールはぎりぎりのところでネットを越え、直後にてんてんと跳ねて転がる。先のサービスエースが焼き付いていたのか、暮埼は一歩も反応できていなかった。
「うおおおおおおおおおおおおおおおお!!!」「やり返しやがった!!!」「どうなってんだこの試合!!!」「ヤバい、ヤバすぎる!!!」
 絶叫にも近い歓声があがり、観客は総立ちで頭を抱えた。
 そんな光景を前にして、俺は笑うしかない。同じテニスプレイヤーとして、どうしてあのプレーを選択できるのか意味が分からなかった。本当にすげえよ、あいつ。
 そして結花がマッチポイントを迎えた。
 鳴り止むことを知らぬ声援が響く中、主審がジェスチャーで静まるように指示し、ようやく沈黙が訪れる。
 暮埼がトスアップ、渾身のサーブを打ち込む。両者共に死んでも取りたいこのポイントは、今日の試合の中で最長の激しいラリーとなった。どちらも一歩も引かない全力の打ち合い。クロスにストレートに切り返し返球し、目まぐるしく主導権が入れ替わる。コートとシューズが擦れてきゅきゅと音を立て、二人の息遣いすら聞こえてくる程に張り詰めた緊張と静寂の中、行き交う魂のこもった一球一球。瞬きも許しはしない超絶ラリーは、やがて幾多の往復の末に一つの硬直状態に陥った。
 バックハンド同士のクロスでの打ち合い——その光景で、俺は一つの記憶を思い出す。
 二〇十二年年ウィンブルドン選手権、女子シングルス決勝戦。
 七星愛美が、セルナのチャンピョンシップポイントで展開したラリー。僅かにサイドラインを割ってしまった渾身のダウン・ザ・ラインを、今のラリーを見ているとどうしても思い出してしまう。
 だから俺は祈った。決めてくれ、と。あの時決まらなかったショットを、今ここで決めてくれ、と。
「——」
 コマ送りの世界の中、結花が動く。
 一歩前に右足を踏み込み、ラケットを大きくテイクバック。
 結花は、僅かな迷いもなくバックハンドのダウン・ザ・ラインを狙っていた。故に俺は、その立ち姿にかつての七星愛美を幻視し——否、けれどもその幻は、眼前の少女の輝きに塗り潰されて消える。
汗を飛ばし、髪を頬に張り付かせ、歯を食いしばって。揺るぎなく、真っすぐに前だけを見据える凛とした横顔に、俺は心の底から見惚れていた。
 呼吸を忘れ、魂を奪われ、ただ結花の姿だけが網膜に焼き付く。
 美しかった。凄絶な美にぞくりと身体が震えて鳥肌が止まらない。
 結花が振り抜いたラケットが、ボールを捉える。
 刹那、群青色のコートを緑の閃光が駆け抜ける。
「——」
 誰もが、その行方を追って。
 誰もが、その一瞬を見つめて。
 そして——。

 × × ×

 楽しい。楽しい。楽しい。楽しい。楽しい。楽しい。楽しい。
 頭がおかしくなりそうだ。もうおかしくなっているかもしれない。
 でも仕方ない。だって全部が見えるんだもん。
 相手の動き、打つべき場所、選択するショット。何もかもが高速演算で弾き出されて、その瞬間には身体が動いている。こんなに思い通りにテニスが出来たことなんて今までで一度だってなかった。
 しかもそれだけじゃない。それだけ私が完璧なテニスをしてるのに、何故かボールが返ってくるんだよ。意味分かんないでしょ。ヤバすぎるよ、暮埼さん。私達、最高じゃん。多分今だったら、私、どこまでだって走っていける。
「——はは」
 だから、試合してるのに笑っちゃう。
 なんでアンダーサーブなの?こんなの予想できる訳ない。
 でも、それならいいよね。私だって——。
「——」
 遊びみたいな発想で、私はサーブの構えから意趣返しにアンダーサーブを繰り出す。時が凍り付くって、こういう事を指すんだろう。
 てんてんとボールが2バウンドして、一瞬の静寂の後、ものすごい歓声が私の耳朶を打った。わあわあと反響して混ざり合って、意味を為さない歓声。やばい、気持ちよすぎるよ、これ。日本のジュニアの大会でこれなら、一体全体グランドスラムの決勝だったらどうなっちゃうんだろう。想像するだけで鳥肌がたった。早く。はやくそこまで行きたいなあ。
 カウント7―6。
 いよいよチャンピオンシップポイントだ。このポイント取ったら試合が終わっちゃうのが少しだけ残念な気がするけど、仕方ない。きっとこれから何度だって、こういう試合が出来るはずだから。
 コートの向こう側。暮埼さんがトスアップ。気が付いた時には私はボールに追いついてラケットを振り抜いている。思考を越えたその先で、限界を超えたラリーが続く。やがて運命の導きのように、ラリーは一つの形に収束する。バックハンドのクロスラリーへと。
 だから、その瞬間に私の胸中に沸き起こった感情は、感謝だった。
 ありがとう。
 このショットを打たせてくれてありがとう。
 ねえ、お母さん、見ていてよ。
 私の道も、この武器で切り払って進むから。
「——ふ」
 身体が動く。
 幾百、幾千、母の映像を見ただろう。
 幾万、幾億、どれほど練習しただろう。
 このテニス人生の中で、数えきれないほど積み重ねてきたショット。私が最も得意とする武器、片手バックハンドのダウン・ザ・ライン。それを繰り出すために右足が一歩前に出る。
グッとラケットを引いて、ボールを引き付けて。
「——お母さん?」

 ——インパクトの寸前、永遠にも似た刹那の間に、私は母の姿を幻視した。

 あの日のウィンブルドンと変わらずに、私と寸分違わぬ形でラケットを構えて。やがて、母の幻影が近づいて来る。あるいは、私が追いついている。重なって、溶け合って、融合して。
 お母さんが、そっと私の右腕に手を添えた。
 力入り過ぎよ、もっとリラックスして、って言いたいみたいに。
 まるで幼子にラケットの持ち方を教えるような、優しい、優しい手つきだった。
 気が付けば私はまだ小さくて、自分の身体と同じくらいの大きさのラケットを握っていた。見上げる先、母が優しく笑って、父が穏やかに微笑んでいる。
 ——この子、きっと上手くなるわ。何て言ったって私の子だもの。
 それは知らない景色のはずなのに、泣きたいほどに懐かしく。
 記憶の中の母が、私を見つめた。
 ——結花。魔法の言葉を教えてあげる。きっとね、生きていたら必ず辛い時は来る。これでいいのかって、全てを疑いたくなる時が来るわ。だから、その時が来たらこう唱えなさい。
 それは、海外メディアのインタビューで、母が強さの秘訣を聞かれた時に告げた言葉。いつかそれを言える自信が持てたら、胸を張って言いたかった言葉。
 時間が再び動き出す。母の姿が消えていく。
 見据えるは、前。もう、後ろは振り向かない。
 ねえ、だってそうでしょお母さん。なんていっても——。

「「——私こそが、最強だから」」

 心で唱えると同時、インパクト。
 ラケットを振り抜いた姿勢のまま、私はボールを見つめる。
 ネットを越えて、一度大きく跳ねて、コート後ろのフェンスに突き刺さって。
「——」
 静寂。
 誰も口を開かない、誰も身動き一つ取れない。
 凍り付いた数瞬の後、主審のコールが響き渡る。
「ノットアップ!ウォンバイ七星結花、カウント6―4,4―6,7―6!!!!」
「——っ!!」
 それを聞いた瞬間全身から力が抜けて、コートに倒れ込んだ。
 勝った?私が、勝った?
 全く現実味が無くて、未だに信じられなくて。
「「「「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!」」」」
 しかし、空気を震わすような歓声が。
「結花ああああああああああああああああ!!!」
「よく戦ったな結花!!!偉い!!!」
 私の名前を呼ぶ声が、祝福の叫びが次々に聞こえてきて、それでようやく実感が湧いた。
「——あ、」
 勝ったと理解すると同時、制御できない涙が溢れ出して、思わず両手で顔を覆った。熱い。涙が、熱い。
 今までテニスをしてきて、負けて泣くことはたくさんあったけど。
勝って泣くのはこれが初めてで、だから、どうしていいか分からない。それでも、荒れ狂う感情のまま、空に拳を突き上げる。
 勝った、勝ったよ、お母さん。私、勝ったよ——!!
 何度も、何度も、何度も。何度も、何度も、何度だって。
 止むことのない歓声の中、拳を突き上げ、泣いて、笑って。
 そして、澄み切った青い空に固く誓った。

 これから何度だって、今よりずっと高い場所で、私は勝って見せるから。そして、いつかきっと、世界で一番高い頂きでトロフィーを掲げて見せるから——。