灼熱の太陽と、滴る汗。アスファルトの陽炎はゆらゆらと頼りなく揺れて、まるで存在が覚束ない。
「消えちまえ」
 呟いてそれを蹴り飛ばそうとしてみても、虚しく足は空を切るだけだ。遠いサイレンが光化学スモック注意報の発令を告げる、夏真っ盛りの午後二時過ぎ。俺は行くあてもなく、ただただ街中を彷徨っていた。
 無論、本来ならば部活をしている時間帯だ。学校に行けば、幽鬼のようにボールを追う部員たちが居るのは間違いない。けれど。
 ――二度と部活に顔を出すな。
「うっせえな、行く訳ねえだろ」
 告げられた言葉が脳裏に過ぎって、俺は苛立ちのまま吐き捨てる。
 もう既に終わったことだ。今さら考えることに意味などない。そう、終わったのだ、何もかも。
 ——ごめん、ごめんね、春斗。
 ――ごめん、気付いてあげられてなくてごめん、苦しめてごめん。
 ――ありがとう。私ね、あの時から春斗のこと、ずっとずっと、……大好きでした。
 不意に蘇った声に、唇を血が滲むほどに噛み締める。自己への殺意で視界は赤く染まり、自分の首をへし折ってやりたくなる。謝られることなど何一つ無い。あいつが悪いことなど一つとしてない。
 糾弾されるべきは俺で、だから、そんな言葉を言って貰える資格など俺には無かった。
「ざけんな」
 網膜に焼き付いて離れないのは、結花の泣き顔。これ以上泣かせたくなくて、ずっと笑っていてほしくて。世界で一番大事だから、絶対にその手を離すまいと思っていたのに。 目を逸らして逃げ続けた果ての果て、その代償が結花の涙だ。
「死ね、くそ、死ね」
 許さない。許されない。それは、決して取り返せない過ちで、贖えない俺の罪だった。血が流れて膿もうが構わずに、俺は決して消えないように己の心の傷を抉る。自ら投げ捨てたものを悼み、この手で壊したものを振り返って、延々と自傷を繰り返す。
 七星結花——物心ついた時には俺の隣に居た、幼馴染の女の子。
 何をするでも一緒で、いつも俺の後ろを着いて来て、幼い頃は妹のように思っていて。泣き虫なあいつは、放っておくとすぐに転んでわんわん泣くから、一秒も目が離せなくて。俺がずっと傍に居て守ってあげるんだと、当たり前のように思っていた。
「——」
 でもいつからか、あいつは一人で歩けるようになっていた。
 ちゃんと前を向いて、行くべき道を見つけ、自分の足で一歩ずつ歩いていく結花。俺の後ろに隠れていた臆病で泣き虫な女の子は、もうそこには居ない。
 そんな風に少しずつ変わっていく彼女を、俺はずっと見ていた。初めは後ろを振り返りながら、やがて隣に並ぶ横顔を、いつしかその背を見送って。
「——」
 遠く手の届かない場所へ進んでいくあいつと裏腹に、俺は一歩も進めてはいない。壁を前にして、ぐずぐずと。どこまでも逃げて、ぐるぐると。堕ちて彷徨って腐った挙句、掴めるものは何も無く、空っぽの俺には、最早どこにも行く場所は無かった。
なのに。
「——は?」
 俺は公園のベンチに座り込んで、緑に染まったテニスコートを眺めていた。
 ここはどこだと一瞬思って、すぐに見慣れた景色だと分かる。五鷹市市営のテニスコート。小さな頃から数え切れぬほどに通い詰めた、俺のテニスの始まりの場所だ。
 なんで今更こんなところに。
 己の女々しさ加減に心底吐き気がした。だが、親に部活に行くと嘘をついて出て来た以上、部活の終了時間まではどこかで暇を潰さなくてはならない。俺は大きくため息をついて背負ったラケバを下ろすと、ベンチの横に立てかけた。
「……よくやるわ、こんなクソ暑いのに」
 そのまま何とはなしに目の前のオムニコートを見つめてみる。気温三十五度を超えている真夏日のくせに、六面あるコートはほとんど埋まっていた。
 おじいさん方の集まり。主婦らしきおばさん達の集団。真っ黒に日焼けした、俺と同い年くらいの男子二人。大学サークルらしき華やかな学生たち。コートに居る人々は年齢も性別も実力も何もかも違うのに、しかし、皆一様に飛び交うボールを笑顔で追っている。
「あれ、もしかして春斗か?久しぶりだな!」
 その時、不意に驚きを帯びた声が俺の横で聞こえた。見ると、体格の良い男性がぞろぞろとジュニアラケットを持った低学年らしき小学生を引きつれている。
「……コーチ、」
 見違えるはずもない。俺がチビの頃からMTCを辞めるまで十年余り、ずっとお世話になっていた、橋本コーチだ。コーチはニッと変わらない笑顔を浮かべて俺の元に近づいて来た。
「二年振りくらいか!?背伸びたな春斗!なんか顔も大人っぽくなってねえか?」
「お久しぶりです。いや、変わってないですよ……。それより、コーチはどうして?」
「ちょっとジュニアのレッスンでな!ほら、春斗も昔やったろ?」
「ああ、はい、やりましたね……」
 記憶を手繰ると覚えがある。MTCのコートが埋まっている時は、こっちでも時折練習したものだ。俺が少し懐かしくなっているとコーチが首を傾げた。
「んで、春斗はここでボーっとして何してんだ。今日は部活オフなのか?」
「……いや、俺は——」
 何を言うべきか言葉に迷い、俺は黙りかける。
 すると橋本コーチの後ろで小学生の集団がわあわあ騒ぎ始めた。
「コーチ、何してんだよー」「はやく練習しようぜー!」「熱いしもういいよ……」「なんでわたしたちが外なの」「それ。インドアだと冷房あるのに」「不公平だぞー」
 総勢八人もの生徒が話を始めると、その勢いはもの凄い。
「分かった分かった、文句言わない。じゃあ練習始めるから、コート入って二周ランニングな」
「「「はーい」」」
 橋本コーチが苦笑しつつ指示を出すと、小学生は一斉にコートに向かって駆け出した。こうなると、そろそろ頃合いだろう。俺は逃げるように橋本コーチに会釈をする。
「じゃ、俺はこれで……」
「ちょいちょい待てよ春斗。よく知らないけど暇なんだろ?なら手伝ってくれよ」
「……はい?」
 予想外の言葉に、立ち去ろうと浮かしかけた腰が止まる。だが、俺の返事は言うまでもない。
「無理ですって。俺とか全然指導とか出来るレベルじゃないし、したことないし」
「あはは、だいじょぶだいじょぶ。この年齢の子だとぶっちゃけテニスで遊ぶ感じだから!頼むよー、子供のお守り大変なんだよ~。バイト代もちょこっとあげるからさ」
 しかし、そう懇願されては流石に断り辛かった。まして長い間お世話になった橋本コーチ相手ならば、なおさらに。
「……分かりました」
「サンキュー春斗!助かるぜ!」
 そうして俺は、なし崩し的にジュニアの練習に付き合うことになった。

 × × ×

「うおりゃー!水の呼吸、壱の型、水面切り!」
 流行りの漫画の必殺技を唱えながら、一人の男子が全力でラケットを振り回す。すると、ばかーんとジュニアテニス用のオレンジボールが遠くの空に吹っ飛んでいった。
「すげえ、めっちゃ飛んだ!」「ふっ、流石は炭次郎だぜ」「次オレなー!見てろよー!」
 ドヤ顔の少年とそれを見て騒ぎ立てる友人達。
 いや、テニスって飛距離を競う競技じゃねえんだけど。フォームもあったもんじゃないし。俺が戸惑っていると、橋本コーチが横で笑いながら口を開いた。
「いいぞー、ちゃんとラケット触れてるな!そうそう、思いっきり吹っ飛ばせ!!」
 それでいいのか?
 疑問に思いつつ、とりあえず俺は球出しを続ける。
「んじゃ次は、コートに納まるように打ってみよう!けど、加減してラケットを振るんじゃないぞ!振り方を変えるんだ!」「おー、入った!」「いいじゃん、それ、そのスイングだ!」
 すると、やがてコーチが身振り手振りでスイングの見本を見せて、生徒たちが見よう見まねでそれを実践する。成功すると嬉しそうにはしゃぎ、失敗したら頭を抱える小学生たち。コーチは、そんな彼らを褒めたり改善点を指摘したりしながらレッスンを進めていった。
 球出しの後はラリー、それから試合形式。終始、明るい雰囲気で進む練習。
「ぜってえ勝つ!」「は、負けねえし!」「いいぞ、走れ!走ってボールを拾うんだ!」
 響き渡る笑い声と飛び交うボール。
 それを見守りながら、俺は深々と息を吐いて天を仰いだ。
 ——、なんて。彼らはなんて、楽しそうにテニスをするのだろう。
 一点毎に大騒ぎをして、ボールをひたすらに追いかける小学生たち。真っすぐに、ただ目の前の一球だけに向き合って、彼ら は全力でテニスをしていて。
 そんな生徒たちの笑顔は、俺にはあまりに眩しかった。どこまでもキラキラ輝くその姿を前に、油断すれば涙が零れてしまいそうなほどに。
「ああ——、いいなあ……」
 だから、口からぽろりと零れたのは言うつもりもない言葉だった。
 それで、思う。例えば、いつかの昔。遠い遠い、記憶の彼方。決して届かぬ、遥かな過去に。
『うおー、やっぱ俺すげえ、天才かも!コーチ、結花、見てたか!?』
 もしかしたら。
 俺も彼らのようにテニスをしていた時があったのかもしれない。
 今はもう失くしてしまって、思い出すことも出来ないけれど——。

「お疲れ、助かったぜ春斗。これバイト代のサイダー」
「マジすか。報酬しょぼすぎません?」
「はは、冗談だ。ほらお給料」
「うわ、ありがとうございます……」
 橋本コーチからお給料千円とサイダー缶を一本受け取り、俺はぺこりと頭を下げる。するとコーチもベンチにどかっと座り、缶のプルタブをカシュっと開けた。
「うっま。炎天下の後のこれは効くわ……。本当はビール飲みたいけど」
「ビールはダメでしょ……」
 追従するように俺もキンキンに冷えたサイダーを煽ると、シュワシュワと爽やかな炭酸が弾ける。喉が渇いていたのもあってごくごく飲んでいると、橋本コーチが、それでと口を開いた。
「春斗、お前なにか悩んでるんだろ。俺でよければ、バイトのお礼で話聞くぜ?」
「っ!」
 優しげな口調で言われ、思わず俺の喉が詰まる。
 なんで分かるんだよ、この人。
「はは、なんで分かったって顔してんな」
「いや、……まあ、はい」
「そりゃあお前らがチビの頃から知ってるんだぞ。顔を見てれば大体分かる」
 橋本コーチは苦笑して、それからアルミ缶を強く握った。
「……けど、だからこそ前は済まなかったな。苦しんでいるお前に、俺は適切な言葉を届けられなかった」
「そんなことは——」
「あるよ。諦めろと言うのも俺の役目だった。そういう職業でもあるんだ、ジュニアのテニスコーチっていうのは」
 橋本コーチは真剣に俺を見つめて、すまなかったなともう一度繰り返す。俺は一体、それになんと答えればいいのか。
別に気にしていない?いいや、それは嘘だ。だが、仮にあの時コーチに「諦めろ」と言われたとしても、受け入れるはずも無かった。
 言うべき言葉も分からぬまま、生まれた沈黙を埋めるようにサイダーを口につける。ごくごくと全部全部、澄んだ透明な清涼飲料水を飲み干し、俺は大きく一息つく。
「——俺、分かんなくなったんですよ」
 すると、今まで言えなかった言葉が不思議と出て来てくれた。
「分からない?」
「はい。なんで俺、テニスなんかしてるんだろうって、MTC辞めてからずっと思ってます」
 それからはもう、止まらなかった。
 見ない振りして溜め込んで来た全てが、次々と溢れ出て来る。
 挫折感、空虚、無意味さ。部活での確執と、俺のやらかしと、今は途方に暮れていること。劣等感、嫉妬、羨望、恋慕。結花に対する鬱屈した感情と、俺が傷つけてしまったこと。思いつくままに全部を吐き出した。
 論理も無く、まとまりもない、胸の中にある感情を垂れ流すだけの言葉。本当に、話を聞かされている方はたまったものじゃないと思う。こんなドロドロでぐちゃぐちゃの醜い心なんか、俺なら間違ったって聞いていられない。
 けれど、橋本コーチはそれを黙って受け止めてくれていた。だから、その好意に俺は甘えた。もしかしたら、ただ誰かに聞いて欲しかっただけなのかもしれなかった。
「そうか」
 そうして、溜まり続けた俺の黒い心の内を言い切った後、橋本コーチは短く頷いた。それからコーチは頭を掻くと、澄み切った空を見上げて笑う。
「なんつーか、青いなー……。眩しいぜ、ほんとに」
「なんですか、それ」
「悪い、つい本音が。で、春斗。俺になんか言って欲しいか?」
 コーチは笑みを納めると、俺を見やってそんなことを問うてくる。
 なんかって何だよ、なんかって。
 同情なら要らない。共感して欲しい訳でもない。
 でも、欲しい言葉は一つだけあった。
 今のままじゃ、何処へ行けばいいかも分からないから。
「……俺、これからどうすりゃいいですかね」
「知らないよ、そんなの。お前の事なんだからお前が決めるしかないだろ。けどそうだな、一つだけコーチとしてアドバイスしてやる」
 そこで言葉を切って、橋本コーチは真剣に俺を見つめた。
 十年前から変わらない、優しげに俺を見守るその瞳で。
「——逃げるな。向き合え。目を逸らすな。そうすればきっと答えは出る」
 問うたのは答えで、貰えたものは答える為の解法だった。
 でも、その通りだった。目を逸らして逃げ続けた果ての果てに、今の俺がここに居るから。
「逃げるな、向き合え、目を逸らすな……」
 染み込ませるように口に出し、立ち上がってコーチに頭を下げた。
「ありがとうございました。なんかすっきりしました。あと、十年間お世話になりました」
 MTCを辞めた日にちゃんと言えなかった言葉を、今ここで代わりに言うべきだと思った。言うと、コーチは目を何度も瞬きさせて、俺の頭をぐしゃぐしゃと撫でた。
「やめろやめろ、そういうのやめろ!」
「ちょ、痛いですって」
「うるせえ!話聞いてやった分だ!」
 やけくそかよ。しばらく俺が為すがままにされていると、ややあってコーチが深く息を吐く。
「あと、ついでと言っちゃあれだけどさ。こっちのはお前ら二人じゃないと解決出来ないから言うわ。——昨日、結花がダウンした」
「——は?」
 瞬間、俺は自身の耳を疑った。
「なん、どういう——」
「軽度の熱中症だよ。けど、あいつ最近鬼気迫る勢いでテニスしてたから、何かあったんだろうなとは思ってた。はい、俺から伝えるべきことは以上だ。ほら分かったらさっさと行け結花はもうすぐ全国控えてんだぞこのヘタレ野郎が、今すぐ全力で走って行って来い!」
「っ!!」
 バシッと背中をぶっ叩かれる。ひりひりするぐらいに、熱い一撃。
 でも、それで決まった。全部コーチにおんぶにだっこで、ほとほと呆れるくらいにくそカッコ悪くてダサいけど。
 ——流石に、これ以上は逃げられねえ。

 × × ×

「はあっ——、はあっ——、はあっ——!!」
 走る。全力でアスファルトを蹴って走る。心臓の苦痛など無視して、走る。陽光に目を焼かれ、苛烈な日差しに肌を焼かれ、熱された空気で息が苦しくても、決して速度を緩めはしない。
 会ってどうするか、会うことは許されるのか。
 うるせえ、黙れ。逃げるな、向き合え、目を逸らすな。
「——っち、」
 くそ、けど本当に自己嫌悪で死にたくなる。どこまでも身勝手で自己本位だな、お前は。自分から手放した挙句、傷つけて泣かせたくせに、あまりに都合が良すぎるだろう。さっさと死にさらせよ、卑怯で汚いクソヘタレ野郎が。
「っとに、殺すぞ、お前」
 分かっている。こんな俺みたいなクズでは、到底あいつには釣り合わない。理解している。あいつには、もっとずっと相応しい人間が居るのは間違いない。
 それでも、走る。拳を握って、胸を、腿を殴り付けて、走る。理屈じゃない。論理なんかじゃ説明出来ない。言葉になんか当てはめられない。
「——っ、はっ、はっ、は、あ」
 垂れて来た汗が目に入り、視界が滲む。乱暴に手で拭い去って、また足を動かす。どこに居るか、なんて愚問だ。知っている。見つけられる。どんな人混みの中でも、あいつだけは見つけられる。自宅をすっ飛ばし、ただ走る。少し前、俺があいつを傷つけてしまった場所へ向かって。
「——結花、」
 展望台に近づくほど、心臓の鼓動が激しく荒れ狂うのが分かる。
 歯を食いしばって、ともすれば竦みそうになる足を叱咤する。
「結花!!」
 辿り着いた場所で、腹の底から全力でその名を叫んだ。
 案の定、彼女は一人でそこに居た。
「……はる、と?」
 目が合った瞬間、結花の瞳が見開かれる。か細い声で名前を呼ばれる。彼女の澄んで綺麗な瞳が俺を映して、今は儚く揺れていた。
「っ、」
 そんな結花を前にして、胸が詰まった。言うべき言葉、伝えたいこと。想いが無尽蔵に溢れて滅茶苦茶で纏まらなくて、どうやって言葉にすればいいか、どれから伝えたらいいかが分からなくなる。
「結花」
 それから深く息を吸い込んで、ただ、名前を呼んだ。
 幾千、幾万、人生で最も多く口にしたその名を呼び、俺は結花を真っすぐに見つめる。交錯する視線は、けれど、すぐに逸らされて。  
 結花は顔を俯かせたまま、一歩、二歩と、後ずさる。
「どう、して——?」
 やがて、震える声音で問われたのは理由だった。
 どうして。なぜ、来たのか。なぜ、なぜ、なぜ——。
「お前が、心配だったから。きっと、ここに居ると思った」
「——んで、」
「え?」
「なんでよ!なんでそんなこと、今になって言うの!?」
 言って、結花の顔がくしゃりと歪んだ。俺を睨むその瞳は潤んでいて、今にも泣き出しそうだった。その姿に、胸が剣で刺し貫かれたようにズキリと痛む。
 でも、こんな程度じゃない。結花はもっとずっと痛いはずだ。だから、何かを言わなくてはならないと思った。けれど、俺が口を開く前に、結花が声を荒げる。
「放っておいてくれって言ったのは春斗でしょ!?終わりにしてくれって春斗が言ったんじゃん!だから私は、もう傷つけないようにって、なのに、なんで!!」
「——、ごめん」
「なんで、来るの……。諦めようとしてたのに、さよならって、言ったのに……」
「ごめんな、結花」
 今更、謝ってどうなるのか。許されないのは知っている。過去は変えられなくて、言った言葉は取り消せなくて、俺が犯した過ちは、何があっても拭えはしない。
 ああ、知っている。知っているんだ、そんなことは。
 それでも俺は一歩、足を進めた。二歩踏み込んで、結花の元へ近づいた。結花が自らの身体を抱くようにして、いやいやと首を振る。
「なんで、なんでよ。なんで冷たくするの?なんで避けるの?なんで名前で呼んでくれなくなったの?……私と居るのが辛かったから、嫌になったから、でしょ?」
「違う、そうじゃない」
「違わない!だって春斗がこの前そう言ったじゃん!無理だって、そう言った……!なら、もう私に関わらなければいいのに……!」
 そして、結花が血を吐くように叫ぶ。
「——分かんないよ、分かんない!春斗が何を考えてるのか、私は全然分かんない!!」
 その瞳から、ボロボロと、大粒の涙が零れ落ちる。
 結花が、泣いている。二度と泣かせたくなかったのに、泣いて欲しくなかったのに、また、俺が泣かせた。頭が真っ白になる。どうすれば、俺はどんな言葉をかけてやればいい。その涙を止めてあげる方法が、俺には結局、今の今まで分からないままで。
「——」
 それでも、身体が動いていた。肩を震わせて泣きじゃくる結花に手を伸ばす。伸ばした手は、もう虚空を切らない。宝物に触れるように、俺はそっと結花を抱き締めた。
「ごめん、ほんとに、ごめん。……いつもこんなのばっかりだ」
 腕の中で、びくりと結花が震える。でも、抵抗はされなかったから、ほんの少し力を込める。結花の身体は小さくて、儚くて、頼りなくて。変わらないなと、そう思う。小さい頃から何一つ、変わっていない。一番近くにいて、一番目を離せなくて、一番大事で、——誰よりも傍に居たいと思う。
 けれど。これまで俺は、それをちゃんと言葉にしたことがあっただろうか。否、ある訳が無い。臆病で逃げてばかりで、自分のことで精一杯だった俺が、そんなことを出来るはずがない。
 なら、当たり前だ。結花が分からないのは、当然だ。全部全部、俺が悪い。でも、だからこそ。
「今からちゃんと、言葉にするから。……聞いてくれ」
「——ん、」
 抱擁を解いて、真っすぐに結花を見つめる。
 結花が啜り上げるようにして、小さく頷く。
「俺は」
 言って、俺は息を吸った。本当は、伝えるべきタイミングは今じゃない。多分それはもっと昔に沢山あって、それを逃して来たばかりに、こんなにも結花を傷つけてしまった。
 それでも。もしもまだ間に合うのなら。もしもまだやり直せるのなら。もう一度、もう一回、彼女の手を掴むことが出来るのならば。
「俺は、結花が好きだ」
 告げるべき言葉は一つだった。
「——、え、」
 結花が、ポカンとした顔で俺を見ている。
 やがて、再びその瞳が潤んでいく。
「……嘘」
「嘘じゃねえ。ずっと前から好きだった」
「……、うそ。だって春斗、ずっと、私のこと避けてた……」
「それは、」
 結花が好きで、好きだから、傍に居るのが辛くなって。
 でも、それ以上に俺を縛って、今も俺を苛み続けているのは——。
「……俺は約束を破った。ちゃんと守れなかった。投げ出して、逃げだして、諦めたんだ。だから、結花の傍に居る資格は無いって、そう思って」
 それは懺悔に近かった。
 溜め込んでいたもの、ずっとずっと、言えなかったこと。
「それに、俺は結花に嫉妬、していた。俺が出来なかったことを、俺の夢を、結花は今も追っていて、それが羨ましかった。近づいたらそれをぶつけてしまいそうで、怖かった」
 だからごめんと、俺は言った。それで俺は、今この瞬間になってようやく夢をちゃんと終わらせることが出来たのだと思った。
「——いいよ、謝らないで、春斗。……私ね、約束なんて本当は別に要らないの」
 すると結花が胸に手を当てて、俺を見つめる。
 祈るように、希う様に、彼女がささやかな想いを口にする。
「だから、代わりに傍に居て。ただ、それだけでいいから。私の手を、離さないでいて」
 僅かに頬を赤く染めて、結花が泣き笑いの表情を浮かべる。そんな結花を前に、俺は呼吸を忘れた。その笑顔は、あまりに綺麗だった。誇張抜きに、世界で一番美しいとそう確信した。瞬間、愛しさが溢れて、俺は再び結花を抱き締めた。
「わ、ちょ、春斗——」
「——傍に居る。ずっと傍に居るから。もう、一人にしないから。二度と離さないから」
「……うん」
 そして、結花を抱き締めたまま、俺は心に誓った。
 今度こそ、たとえ何があっても。
 もう泣かせはしないと、固く、固く。 

 × × ×

 ぐるりと四方をフェンスに囲まれた、継ぎ接ぎだらけのオムニコート。昔は足しげく通い詰めた市営のコートに、それから少しして俺と結花はやってきていた。顔なじみの受付のおじさんに会釈し、コート脇のベンチにラケバを置く。すると早速結花がラケットとボールを取り出して、ウキウキとした表情で俺を急かした。
「ほら、早くやろうよ春斗。最初ショートラリーからでいいよね?」
「そんな急がなくてもいいだろ……。二時間もあるんだから」
「だって春斗とテニスするの久しぶりなんだもん。早く打ちたいじゃん」
 少し拗ねたように結花が口を尖らす。その幼い仕草のせいで俺は昔を思い出してしまった。
「そういえば、そんなこと言って朝五時くらいにうちに来たことあったよな、結花。あの時は幼馴染ながらこいつ頭おかしいんじゃないかと思った」
「それ、いつの話?知らないし、そんなの。あれは早く起き過ぎちゃって暇だったから仕方ないでしょ」
「いや、覚えてるじゃん」
「いいから。ん、ボール」
 渡された数球のボールをポケットに入れながら、俺と結花はネットを挟んで向かい合った。まずはアップも兼ねて、お互いコートの真ん中辺りに立って行う短いラリー——ショートラリーからだ。足を小刻みに動かしながらボールとの距離を調節し、丁寧に相手に打ち返していく。短い距離だからボールはすぐに返って来て、会話とラリーがぽんぽん飛び交った。
「なんか懐かしいな」
「ね。春斗が向かいに居るの、凄い違和感」
「それこっちの台詞。にしても、結花ほんとフォームがお母さんそっくりだな」
「そりゃずっと見てるからね。自然にこうなる……いや、自然にはならないけど」
「自然には無理だろ。そういや、うちの部にナダル完コピして膝ぶっ壊した奴がいたわ」
「うわあ。それはダメだよ。ナダルは人間には出来ない動きしてるもん……」
「BIG4は人間じゃなくてテニス星人だからな……」
 男子テニスのトッププロのヤバさに慄きつつ、俺と結花はお互いベースラインまで下がった。結花からぽーんとボールが出され、通常のロングラリーに移行する。
「——」
 ぱあん、ぱあん、と打球音が響き、ボールがコートを往復する。この距離になると流石に会話は出来ないけど、時に、ラリーは言葉よりも雄弁に相手の意図を伝えてくれる。
 例えば、結花が打つショットは基本的にネットの少し上を通してくるショットだ。フラット気味で真っすぐの軌道で飛んでくるボールは勢いがあって攻撃的。がんがん攻めるスタイルの結花らしいボールだった。そのボールに面を合わせて打ち返していると、次第に結花のボールに激しさと厳しさが増していった。最初は中央に集めてくれていたのが、左右にボールを打ち分けてくるようになる。
 そのボールを追って、俺もそれ以上主導権を取られないように厳しいコースを狙って打ち返し、その分結花がまた打って来る。打ち返し、鮮やかにエースを決められ、決め返し、また最初から。高速でボールが飛び交って繰り返されるラリーに、俺はどんどん没頭していった。
 コースを読まれていたらあえてその逆を狙い、相手の打ってくるコースを予測して走り、打って。ポイントも、サーブも、コートチェンジも、何もない。 ただボールをお互いに打ち合うだけの、本当にそれだけの時間だった。そのラリーを俺たちは何度も、何度も、何度も、延々と、延々と、繰り返す。
 一球ごとにラリーの展開は変わって、結花が伝えてくるショットの意図も変わって、見せてくる表情がころころ変わるから、飽きることなんてない。勝たなきゃだとか、負けたくないとか、これを決めなければとか、普段テニスをやっている中で染み付いてしまった汚泥のような余計なものが削ぎ落されていって、思考が目の前の一球だけに純化されていく。
 このボールを、バックハンドのショートクロスへ。返って来た短めのスライスをフォアで回り込んでアプローチショット、そのままするするとネット前に詰める。結花が走り込んできてパッシングの体勢、ストレートかクロスか——嘘だろ、ロブか。その体勢からロブ打てるとか、上手すぎだろ。
 結花の放ったロブがふわりと浮き上がって頭上を超えていき、俺は慌ててそのボールを追う。なんとか間に合って振り向きざま、苦し紛れにロブを上げ返す——届くか、いや浅い。俺のロブは中途半端にあがり、今度は逆にネットに詰めていた結花がスマッシュの体勢に入る。これはもう一か八かだ。俺はスマッシュを打たれる前に予測してフォア側に走る。
 ラッキー、ドンピシャ、結花のスマッシュが俺の予測した方向に放たれる。そのボールに俺は面だけ作って当ててブロック。結花の居ない場所へ返してこれで形成逆転、とはならない。 俺の打ったボールはネットにガン詰めの結花に鮮やかなボレーを決められてしまう。
「やった、完璧ー!」
「あー、ちくしょー!結花、もう一回!」
「いいよ、どんどん決めてあげる」
 ガッツポーズをして顔を綻ばせた結花に向かって叫んで、もう一度ベースラインへ。顔が自然の笑顔の形になっていたのが、自分でも分かった。
 楽しい。本当に、楽しくて、楽しくて、たまらなかった。こんなにテニスを楽しく感じるなんていつ以来だろう。そんなのはもう思い出すことも出来ないくらいに遠い遥か昔で。けれど確かに抱いていたはずの感情の残滓が胸にあって、それが今になって蘇っていた。
「カモン!!」
 打ち抜いたフォアのダウン・ザ・ラインが完璧に決まり、気が付いたら大きく拳を握っている。次だ、もっと打ちたい。もっと上手くなって、もっとテニスがしたい。
 コートの向こう側、結花が汗だくになりながらも不敵に笑った。
 するとその次のラリーではもう完全に崩されて振り回され、挙句ラストに時が止まるくらいに芸術的なドロップショットで決められる。
「よし!」
「上手すぎだろ、今の!」
 喜色を浮かべる結花に思わず賛辞を送ってしまう。流石はアスリート、筋金入りの負けず嫌いだ。さあ次だ、今度はどうやって崩そう、どのように打って来るだろうか——。
 そんな風に夢中になってテニスをしている時間は一瞬で、あっという間に二時間が過ぎ去っていた。
「疲れたあああああああ!!」
 最後のラリーが途切れると同時、俺はさながらグランドスラムで優勝を決めた瞬間のようにコートに倒れ込んで叫ぶ。全身を包む疲労感と爽快感が心地良すぎて、笑ってしまった。すると、こちらのコートにやって来たのか、ひょいと結花が俺の視界に顔をのぞかせる。
「お疲れ、春斗!」 
 結花もまたその表情に充実感を滲ませながら、瞳をキラキラさせていた。
「ね、ね、すっごい楽しかったよね!こんなに気持ちよくテニスしたの久しぶりなんだけど、もービックリするくらい調子も上がったし、ほんとに楽しかった!」
「いやもう、マジで楽しかった……」
 結花に追従しながら立ち上がり、俺はこの感覚を噛み締めた。
 もう二度と、見失って迷ってしまわないように。
 ——逃げるな、向き合え、目を逸らすな。
 だから、俺は結花に宣言する。
「——結花。やっぱり俺、部活戻る」
「ほんと!?良かったー……」
 俺が言うと、結花がほっとしたように吐息を吐き、それから得意げな笑顔を見せた。
「じゃあ私の狙い通りだ」
「え?どういうこと」
「テニスしたら春斗も一回やりたくなるかなって思って、誘ったの。そしたら案の定こうなったから、結局春斗もテニス馬鹿だったってことだね。ほら、私と一緒」
「え、それなんか不本意だな……」
「なんでよ!いいでしょ、テニス馬鹿でも!」
 ムッと膨れて憤慨した結花を宥めつつ、俺は思う。
 テニス馬鹿、か。言い得て妙な表現だ。これまであんなに苦しんで来たはずなのに、楽しさを思い出した途端にまたテニスがやりたくなるなんて、本当に馬鹿以外の何者でもない。でも、そんな風に思える自分が嬉しいのもまた確かだった。
「結花、サンキュな」
 だから、ちゃんと俺は皆に謝まって、見つけ出した俺の答えを伝えなければならなかった。もう一度、最初から全てをやり直すために。

 × × ×

 久しぶりに訪れた馴染み深いテニスコートでは、今日も炎天下の中で部員たちが鬼の形相でボールを追っていた。活気のある掛け声と途切れることのない打球音。試合をもうすぐに控えているせいか、より一層緊張感を持って練習が行われている。
「——」
 俺はそれをコート脇のフェンス越しに見つめながら、ごくりと今日何度目か分からない唾を呑んだ。最後の最後でコートに踏み入る決心がつかないまま、かれこれ一時間ぐらい立ち尽くしている気がする。運動もしていないのに垂れてくる汗を拭って、俺は大きく息を吐いた。
 行け、行け、行け。このまま部活辞めたら、きっと、一生後悔する。そうやって俺は俺の弱気な心を叱咤する。
 諦めて、目を背けて、投げ出して。でも、逃げっぱなしでは居たくはなかった。もう一度、もう一回やり直したいと、そういう風に思えるようになった。だから。
「——失礼します!!」
 練習がひと段落し、皆が休憩を始めたタイミングを見計らって、俺はコートに続くドアを開ける。そして、己を奮い立たせるように腹の底から声を出して、コートに一礼した。
 瞬間、騒がしかったテニスコートが静まり返る。部員たちと顧問が一斉に俺の方を見た。驚愕、疑念、怒り、呆れ。恐らく色んな想いが込められているだろう視線を一身に受け、俺は全力で走り寄る。
「この前は本当にすみませんでした!全部俺が間違っていました!」
 そのまま皆の前に立つと、俺は真摯に頭を下げた。
 簡単に許して貰えるなどとは思っていない。だがこれ以外には方法が無かった。疑いようもなく俺が悪かった以上、せめて、誠実に謝罪するしかない。
 頭上、重苦しい沈黙が満ちた。誰も何も言わず、ただ黙って俺を見つめているのだろう。頭を下げたままだから皆がどんな表情をしているのか分からない。けれど、俺はいかなる糾弾も甘んじて受け止める覚悟を決めていた。それだけのことをしたし、そうする権利が皆にはあると思った。
「……なあ、皆川」
 どのくらい間があったのか、頭上から平井の声が聞こえた。
 顔をあげると、目の前に見慣れた部長の顔。平井は冷めた、あるいは凍てつく怒りに満ちた表情で、俺を睨んでいる。
「お前さ、俺らが試合前だって分かってんだろ。そのくせ急に投げ出して意味分かんねえんだよ。こんなくそ暑い中練習して、それでも試合に出れねえ奴も居るんだよ。そいつらの分も責任もってプレーするのが試合出る奴の義務だろうが。どの面下げて戻って来てんだよ、なあ」
「……すまん」
 平井の言葉は、ひどく胸に刺さった。その通りだとばかりに頷いている部員が居るのも見えた。
 ——お前は何のためにテニスやってんだよ!?どうせプロにもなれやしねえ!たかだか部活程度に熱くなって、それこそ無駄だろ!!こんなくそ暑い中でやるテニスに、何の意味があるってんだよ!!
 俺は、俺が言ってしまった事を思い出して唇を噛む。それは俺だけじゃなくて、今も部活で頑張っている部員全員を否定するような言葉だった。プロになるためにテニスをする。以前の俺はそれだけだった。それ以外にテニスをする意味など無かった。でも考えてみれば、理由なんてそれだけじゃなかったんだ。
 おばさんたちやおじいさんたち、ちびっこたちがテニスをしているのを見た。何のためにテニスをするかなんて、本当に人それぞれだった。
 だから、無駄なんかじゃない、無駄なんてことは有り得ない。今までやって来たことが、流した汗が、悔しい涙が。費やした日々が、努力した時間が、夢中になってボールを追う瞬間が。意味が無いなんて、そんなことは決してなかったのだ。あまりに単純で当たり前の答えに、俺は今になってようやく気が付くことが出来た。
「今更だと思う。すげえ迷惑かけたのも分かる。一回逃げた奴なんか受け入れがたいのは分かるし、嫌な思いをさせたのも本当に申し訳ないと思ってる。あの時は本当にどうかしてた」
「それが分かってんなら——」
「——でも、思い出せたんだ」
 平井を遮るように、俺は続けた。平井と他の部員と顧問に視線をやって、俺は、俺の答えを口にする。
「俺がテニスをする理由を、俺はやっと見つけられたから。だから、もう一回だけチャンスを下さい。謝って許されるなら何度でも謝るし、許されなくても俺が出来ることなら何でもするから。……だからどうか、俺にもう一度ここでテニスをさせて下さい。——お願いします」
 声が震えないように歯を食いしばって、涙が滲まないように全霊で堪えて、俺は頭を下げる。
「——」
「——皆川、一つ聞かせろ」
「はい」
 やがて、言葉を失った平井の代わりに口を開いたのは顧問の吉田だった。吉田は厳しい表情を崩さぬまま、だが、サングラス越しに真剣に俺を見ているのが何故か分かった。
 だから、もしかしたら俺はこれまで一度だって顧問の目を見たことがなかったのかもしれない。向き合ったことが無かったのかもしれない。そして吉田が腕を組んだまま、重々しく口を開く。
「そこまで言うなら聞かせろ。——お前が見つけた、テニスをする理由はなんだ?」
 何を問われるのかと身構えていたから、その質問に俺は少し拍子抜けしてしまう。なんで、テニスをするのか。これまでずっと問い続けてきて、けれど、その答えなんて本当に一番単純なものだ。
 長らく見失っていた感情。いつからか忘れてしまっていた原初の気持ち。
「俺がテニスをするのは、——テニスが好きだから。それをやっと思い出すことが出来ました」
「——」
 再びの沈黙が場を満たす。けれどその沈黙は先と違って、呆気にとられたような沈黙だ。ややあって、山島がぼそっと呟いた。
「……え?皆川ってあんなキャラだったっけ」
「「「——っぶは!!」」」
 瞬間、誰かが噴き出して、それから堰を切ったように爆笑が巻き起こる。
「おい山島やめろ!!」「それオレも思ったけど、空気読んで言わなかったんだよ!」「テニスが、好きだから(キリッ)www」「やめ、死ぬ、笑い死ぬ!!!」「うわなんか俺が恥ずかしくなってきた!!」「皆川、俺らを殺す気か!」「やべえな、今くっそ青春してるじゃん!」
 そんな皆の様子に、今度は俺が呆気に取られる方だった。
「お前ら、いや、くは、これ、っふ、笑い事じゃねえ、っははは、あー無理、これは無理だ!」
 諫めようとした平井までもがつられて吹き出すと、皆してゲラゲラ笑い転げ出して、最早収集がつかなくなっている。
俺が言うのも違う気がするけど、それでいいのか、お前ら……。
 これは許されたのだろうかと俺が顧問を見やると、吉田までもが頬をひくひくさせて、ぷるぷる肩を震わせていた。
 マジかよ、なんで俺がギャグ言ったみたいになってんだよ。こっちは結構真剣な答えだったんだけど。状況に理解が追いつかず俺が唖然としていると、吉田がこほんと咳払いした。
「……そうだな、見た所、部員が受け入れているようだから、復帰は認めてやろう。ただし、いきなり練習参加していいぞ、とはならない。犯した間違いはちゃんと償え」
「はい、分かっています」
「なら、まずは外周トレーニングしてこい。二周、三十分以内だ」
 そう言うと吉田が俺の元へ歩いてきて、すれ違いざまに小さく囁いた。
「自分の過ちを認めて謝罪するのは、ひどく勇気がいることだ。お前は逃げずにちゃんと向き合った。頑張ったな、皆川。二度とやるなよ」
「——、」
 それで一瞬、言葉に詰まった。その間に顧問は、俺の肩をポンと叩いて歩き去ってしまう。何も言わせる気はないらしい。だから俺はその背を見送って大きく頭を下げた。
「ありがとうございました」
 体育会系の暑苦しい顧問が、俺はあまり好きではないけど。他の人からは慕われている理由が、ほんの少しだけ分かった気がした。
「おら皆川、さっさと外周行ってこい。そんで後でまたテニスでボコすから覚悟しとけよこの野郎。てめえが居ないと張り合いがなくてつまんねえんだよ」
「はいよ、今度からはそう簡単に負けねえから」
 平井の憎まれ口に憎まれ口を返して、俺は学校の周りを走るトレーニングに向かう。
 今日も今日とて馬鹿みたいに暑いのに、不思議とうんざりはしなかった。一歩、外周ルートに踏み出しかけて、俺は足元に目をやる。 
 使い古したシューズの靴紐が緩んでいて、走っている最中に解けてしまいそうだ。
「——よし、いくか」
 屈んで、二度と解けてしまわぬように、紐をきつくきつく結び直し。抜けるように青い空へ向かって、俺はもう一度走り始めた。

 × × ×

 都団体——正式名称、都立高等学校テニス選手権大会。
 ダブルス二本、シングルス三本の計五本で、八月下旬に二日間の日程で行われる団体戦だ。ベスト16までが出揃う一日目を危なげなく突破した我が五鷹高校テニス部は、その流れのままに二日目も破竹の勢いで勝ち上がっていった。
 準々決勝、準決勝。シード校を次々と撃破していくメンバーの快進撃を、俺はコートサイドから応援していた。無論、当然だ。試合直前に部活を放棄した奴を、復帰して早々試合に出させる訳がない。それを許してしまったら、他の真面目に練習してきた部員に示しがつかない。だから、今回の俺は応援に徹するのが役目のはずだった。
「——先生、一つだけ良いでしょうか。これは自分の意見だけでなく部員の総意なんですが——決勝戦は、皆川を出させてください。お願いします」
 しかし、第一シードである小松谷高校との決勝戦を控えたミーティング。車座になって部員全員が集まったその場所で、平井が突然そう切り出した。すると、決勝用のオーダー用紙を片手に吉田が問う。
「……何故、皆川を出させたいんだ?」
「優勝を狙うなら、それが最善だからです。俺は——、俺たち全員、ここで優勝するために練習してきた。だったらここで皆川を出さない理由がない。皆、誰もがそう思っています」
「なるほど。……皆川はどうだ?お前はどう思う?」
「俺、は——」
 吉田に水を向けられ、俺は言葉に詰まる。正直、そんな風に言われるのは予想外だった。あの醜態を晒した後で、部活に復帰させてもらえただけでも御の字だと思っていたからだ。 
 だが、けれど、それでも。
「——皆が許してくれるなら、俺はその期待に応えたいです」
「そうか……」
 俺の答えに顧問は深々と頷き、それからぐるりとテニス部全員を見渡した。
「正直に言う。俺は今回、皆川を試合に出すつもりはなかった。時に、目の前の試合に勝つ事よりも、人間として大事にすべきことがある。それを学ぶことも含めての部活だからな。テニスが上手いだけでは、必死に頑張ってきた皆を差し置いて、試合に出す理由にはならない」
 そこまで言って、一度吉田は言葉を切る。そして、再び紡がれた言葉は、聞いたことが無いほどに穏やかだった。
「——だが。お前たちは、過ちを犯した皆川を許し、もう一度受け入れた。皆川も、復帰してからは見違えた。テニスは個人競技だが、それでもお前たちは良いチームになった」
 だから、と言って、吉田が俺を真っすぐに見る。
「皆川、試合に出ろ。そして、勝ってみせろ。勝利こそが、部員の想いに応える術だ」
「——はい!」
 柄にもなく、大きな返事が出た。
 瞬間、平井が立ち上がって掛け声を出す。
「おっしゃあ!!おいお前ら、円陣組むぞ円陣!」
「いいねえ熱くて!」「燃えて来たなあ!」「声出してけよ、最後だぞ!」「早くしろ皆川!」
 焼け付くような日差しの元、馬鹿みたいに暑苦しい皆で集まって肩を組む。見渡すと、全員、真っ赤に日焼けしながらも良い顔をしていた。どこまでも真剣で、どこまでも楽しそうな、そんな顔。俺は、どんな表情をしているだろう。ぐっと円陣が沈む。平井が叫び声をあげる。
「目指すは!」「「「優勝!!」」」
「追うのは!」「「「一球!!」」」
「何があっても!」「「「足は止めるな!」」」
「いくぞ鷹高、ファイ!!」「「「オーーー!!!!」」」
 重なって響いた声は心の奥まで揺さぶってきて、組んだ肩から伝導してくる熱が、熱い。ぞくぞくと身体が震えて、めらめらと魂が燃えた。
 くそ、熱いんだよ、この野郎。
 それでも、この熱さはこれっぽっちも不快じゃなかった。
「うおおおお優勝すっぞ!!!」「ぜってえ勝つ!!」「死ぬ気で応援してやる!!」「勝って焼肉打ち上げじゃあ!!」「優勝以外は要らねえ!!」「勝つ勝つ勝つ勝つ勝つ!!」
 円陣がほどけても冷めやらぬ熱で、部員たちが口々に雄叫びをあげる。その一体感は、これまで経験したことが無かった、団体戦ならではの雰囲気で。
「皆川、オーダーを受付に出してきてくれ。——頼んだぞ」
 その中、吉田が持っていたオーダー用紙を俺に手渡してきた。
「よし、お前ら、気合が入ったならコートに移動だ!」
「「「はい!!」」」
 そのまま吉田は、部員たちを先導してコートに向かっていく。試合メンバーが順番に書かれた手元の用紙には、ボールペンで丁寧に、シングルス1:皆川春斗と書かれている。
「いつ書いたんだよ、これ……」
 平井から意見が出た後、用紙に名前を書いている時間なんか全くなかったくせに。
「やっぱ苦手だわ、あの人」
 思わずその背を見やってぼやく。でも、気合が入ったのは紛れもなく確かだった。
 ——そして、都団体の決勝戦が始まる。

 × × ×

 小松谷高校との戦いは、白熱した試合展開となった。
 ダブルス2、北戸・町谷ペア。圧倒的に格上な相手に対して必死に喰らいついたものの、スコアは4―6で敗北。
「くっそ負けたあああああ、すまん!!」「あああ、あと少しだったのにいいいいい!!」
「ドンマイ!良かったぞ!」「いけるいける!」「こっからだ!!」「まだまだ終わってねえ!」
 だが、誰も気落ちはしていない。フェンス越しで一ポイントごとに声を張り上げながら、俺達はコートで戦う仲間を全力で応援する。
 続いてダブルス1は平井・石原ペア。こちらとしては、エースの平井が出るダブルスとシングルスの二本は死守しなければ勝利が見えてこないという厳しい状況の中、試合はもつれ、タイブレイクに突入する。
「ナイスショット!!」「いいぞ、思い切りやれ!!」「石原、神ってね!?フェデラーやん!」
 すると、ここぞの場面で吹っ切れた石原がびっくりのスーパープレーを連発し、接戦の末になんとか一勝をもぎ取ることに成功した。
「うおおおおおおおおおらあああああああああ!」「勝ったでえええええええええええ!!」
「よくやった!」「いける、いけるぞ、これ!!」「なんか神が降臨してたな今!!」
 陣営に帰って来た石原と平井が大はしゃぎし、俺達は二人を手荒に祝福する。
 それから1―1で迎えたシングルス3。堅実なプレーが持ち味の山島だったが、重圧のせいか力を出し切ることが出来ず、2―6でこの対戦カードを落としてしまう。
「すまん……」「ドンマイ!ドンマイ!切り替えろ!」「あと二本とれば良いだけだ!!」
 四番手、シングルス2。ルール上一人だけ許可されているダブルヘッダーの平井がシングルスにも出場する。もう一敗も許されない、崖っぷちに追い込まれた状況。しかし、こういう場面で勝ち切ることが出来るのが、平井のエース足る由縁だった。疲労の色が濃く出る中でも、意地と根性と気合とかなにやらで、平井が試合を終わらせない。
 汗だくで顔を真っ赤にしながらも決して闘志だけは失わないその姿に、俺はテニスの実力だけでない奴の強さを垣間見た気がした。
 そうして、マッチポイントの最後のラリー。二十球以上という長い長い打ち合いの末、相手の打ったボールが僅かにベースラインをオーバーする。瞬間、平井が拳を天に突き上げ、五鷹高校陣営で歓喜が爆発した。
「「「しゃおらああああああああああああああああああああああああああああああ!!!」」」
「カモーーン!」「うわ勝ったあああああああ!!!」「取ったぞ!流石は平井!!!!」
 レギュラーメンバーも控えも、総勢二十名を越す部員全員が、総立ちになって叫ぶ。
 ゲームカウント7―5。一時間以上にも及ぶ白熱する試合展開を制した平井が、くたくたの身体を引きずりながら陣営の元へ帰って来た。
「よくやったああ!!」「頼りになるわ!!」「かっこよすぎかよ、ちくしょー!!」
 部員たちに一通りもみくちゃにされ、それから平井がようやく俺の方を向いた。
「ちゃんとお前に繋いだぞ。……わざわざ戻って来たんだ。意地、見せてみろよ」
 この野郎。今にも死にそうな顔で、気力も体力も使い果たしたくせに、よく言いやがる。目の前でお前のプレー見せられた挙句そんなこと言われたら、燃えない訳がないだろうが。
「——当たり前だろ。絶対、勝つ」
 一言。それ以外は、わざわざ口で語る必要は無いと思った。後はプレーで応えるだけだ。
 バチンと全力で右手を相手の右手に叩きつけ合って、俺はオムニコートに足を踏み入れる。何処までも澄み切った青の夏の空と、深い深い、緑色のコート。
 ——ここだと。
 やっぱり俺の居るべき場所は此処なんだと、俺はその瞬間に確信した。
「皆川、勝たなきゃ殺す!」「勝てば英雄だぞ!!負けたら殺すけどな!!」「てめえ何のために戻ってきたんだ、勝てやこの野郎!!」「死んでも勝て!」「意地でも勝て!」「むしろ殺せ!」
「「「テニスが好き、だから!!」」」
 それから次々に背中に声援が聞こえてくる。でもこれ別に応援されてねえな。むしろ脅迫だろ。最後とかめちゃくちゃ煽られてるし。
 なんて下らない思考を出来るくらいには、想像以上に落ち着いていた。適度な緊張と、挑戦と、集中。無駄な力みも過度な気負いも無くて、こんな理想的な状態で試合に臨めるのは初めてだ。ぶっちゃけ、今までのどの試合よりも負ける気がしなかった。コートサイドに向かうと、ベンチコーチとして顧問の吉田がどっしりと座っている。
「どうだ、調子は?」
「いいっすね。ワクワクしてます」
「よし。敢えてシングル1にお前を置いた理由は分かるよな。……頼んだぞ、皆川」
「うす」
 吉田も力が入っているのか、言動がいつもに増して暑苦しい。
 だが、後ろで応援している部員たちと、目の前の顧問と。他の誰かからこんなにも勝利を望まれている感覚は、とても高揚するものだった。やってやる、と。自分の為だけじゃない勝利を、強く強く渇望してしまう。普段は個人競技だからこそ味わえないこの感覚こそが、団体戦の醍醐味なのかもしれない。
「しゃ、いきますか」
 軽く足踏みしながらコートに入る。対戦相手は小松谷高校エースの新坂——都大会個人でもよく見かける相手だ。実力的にも俺とそう相違はない。厳しい試合になることが予想された。
「アップ?ダウン?」
「アップで」
 言うと、新坂がくるくるとラケットを回す。ラケットのロゴが上向きに倒れたらアップ、下向きならダウン、これを当てた方がサーブ権を選べる。基本的にテニスはサービス側が有利だから、いかに自分のサーブゲームをキープしつつ相手サーブをブレイクするかが、勝利の鍵だ。
「アップだな」
「じゃあサービスで」
 ラケットのロゴの向きが的中したので俺はサーブを選び、駆け足でベースラインまで下がった。それから新坂に向かって球出しをして、ラリーを開始する。
 ぱあん、ぱあん、と打ち合う俺と新坂。ウォームアップは三分間で、この間に相手がどんな球質のボールを打つかとか、どんなテニススタイルなのかを予測するのだ。
 新坂は恵まれた体格を生かした、力のあるストロークとサーブが持ち味の、典型的なパワーテニス。色んな相手と試合してきた経験から言えば、わりと与しやすい相手ではある。プレーが分かりやすいため、予測が容易だからだ。
「——よし」
「さ、実力出してこい、皆川」
 アップを終えるとベンチに戻り、スポドリを僅かに口に含む。顧問の手に手を叩きつけ、俺は再びコートに戻った。縦幅23.77m、横幅10.97m。自分と倒すべき敵以外は存在しない、この場所はまさしく戦場だ。ゆっくりとサーブのポジションにつき、俺はコート全体を見つめる。
「いけー!!」「まず一本!!」「早めにブレイク!!」「立ち上がりから攻めてけ!!」
 五鷹高校と小松谷高校、それぞれの陣営の声援が混じり合って木霊する。決勝戦の最終試合ともあって、お互いボルテージは最高潮だ。その溢れんばかりの声援を受け、武者震いがした。知らず口角が釣り上がって、ヒリヒリするような空気感に気分が昂る。
 やべえなこれ。楽しすぎる。試合って、こんなに楽しかったっけ。
「ワンセットマッチ、五鷹高校サーブ、プレイ」
 主審がコールをした瞬間、コートが水を打ったように静まり返る。
 短く息を吐いて、俺はトスをとん、とん、とん、とん、とんと五度ついた。そのルーティーンの間に思考から余計なものが削ぎ落されて鮮明になり、感覚は鋭敏に。視界が、自身と敵を取り巻く僅かな長方形の中だけに収束する。相手のバックを狙って、ふわりとトスをあげた。
「——」
 重心を後ろ足から前足へ、膝を折り曲げ、ジャンプの瞬間に下半身の力を解放する。腕を鞭のように使いながらラケットを奔らせ、トスの最高打点でインパクト。理想的なフラットサーブが、サービスラインのオンライン上を刹那のうちに切り裂いた。
 サービスエース。しかも相手が一歩も動けない完璧なサーブだ。
「——ノットアップ。15―0」
「カモン!」
「しゃああああああああ!!」「いいぞ皆川!」「ナイスサーブ!!」「もう一本!!」「
 俺が拳を握って叫んだ直後、追従するように部員たちの声が爆発する。それからまた次のポイント。逆サイドでサーブの姿勢に入り、狙はもう一度センター、フラットで——そこまで考えて、思考は止まった。余計な力が抜け、無意識の領域で身体が動く。 
「——ノットアップ。30―0」
 次の瞬間には、サービスエースが決まっている。
「——ノットアップ。40―0」
 その次にも、もう一本。これで三連続サービスエース。あっという間にゲームポイントだ。そこまで来て、これはやばいかもしれない、と俺は気が付いた。
 ごくごく偶に、打ったボールが狙った場所に何でも入る瞬間が訪れることがある。いわゆる「ゾーン」に入ったという現象で、相手の打つボールが止まって見えたり、相手の未来の動きが見えたり、打つべき場所が光って見えたりするのだ。もちろん現象は人それぞれだが、一つ言えるのは「ゾーン」に入れるのは理想的な精神状態にある時だけで、それも意識的に入るのは難しいということ。けれど、今の俺は「ゾーン」に近い場所に居るのが分かる。
 カウント40―0。
 俺が打ったサーブに対して新坂が飛びついて返してくる。返球はコートの中央深く、攻められにくく守りやすい場所に返球してきた。
 そのボールに対し、俺はフォアハンドで回り込む。打つタイミングはボールがバウンドした直後。上がりっぱなを逆クロスへ叩き込む——相手の時間を奪う、速攻のライジングショット。
 普段はミスするリスクが高すぎて打たない球だが、今は必ず入る確信があった。俺の打った球はネットすれすれの弾道で新坂のバックサイドへ突き刺さる。新坂はぎりぎり触るだけ、帰ってくるのは短めのふわりとしたボールだ。
俺は一瞬でネットに詰めて、そのボールをドロップボレーで沈めた。わざわざドロップボレーをしなくても決まるシチュエーションだったが、敢えて難しいショットを打つことで相手の勢いを削るのが目的だ。
「うめええええ!!!」「上手ドロきたああ!!!」「繊細なタッチ!!」「えっろ!!」
 流れるような一連のプレーに五鷹高校陣営が湧き、対象的に小松谷陣営は静まり返る。いい感じだ。俺は一つ深く息を吐いてコートチェンジの為にベンチに引き上げた。
 そして続く第二ゲームは、今度は新坂からのサーブである。俺はベースラインでリターンの構えを取りながら、ここが分岐点だなと冷静に思う。ここでブレイク出来れば完全に流れを奪うことが出来る。だがキープされてしまえば相手も落ち着きを取り戻してしまうだろう。だからこそ、勝つためにこのブレイクは必須だった。
 カウント0―0。
 新坂がトスをあげ、それに合わせるようにスプリットステップを踏む。新坂のサーブは強烈だ、ワイドかセンターかボディか、まずは面を合わせて——しかし、新坂の打ったサーブは大きく跳ねるスピンサーブで、早いフラットを予測していた俺は大きくタイミングを外される。
 マジか、ファーストサーブからいきなりスピンサーブかよ。
 辛うじて返したリターンは甘く、ストロークで打ち込まれる想定で俺は動く。だが更に予想外なことに、新坂は深いエリアにスピードより回転を重視したスピンボールを繋げて来た。これでは、俺の好む早い展開のラリーにはならない。
結果として、第一ゲームとは打って変わって、ペースの落ちた長いラリーをせざるを得なくなった。恐らく新坂は、ゲームを落ち着かせるために敢えて粘り強いプレーに切り替えたのだろう。その想定外の変化に対応しきれず、俺は第二ゲームをブレイクすることは出来なかった。


 × × ×

 第二ゲームを新坂がしっかりキープしたことで、試合は硬直状態に移行した。一進一退の攻防。お互いがベースラインで激しく打ちあいながら、けれど俺も新坂もぎりぎりの所でブレイクしきれない展開が続く。団体戦の五本目ということもあって、お互いの意地が ぶつかり合うようなゲームだった。
 その中で、僅かでも隙を見せれば一瞬で流れを持って行かれる緊迫感。自身だけでなくチーム全員の想いを背負って戦う重圧。ゲーム数を重ねるごとに近づいて来る敗北と勝利の二文字。
 それらに俺は——否、俺だけでなく新坂もじりじりと蝕まれていた。更に、拍車をかけるように灼熱の太陽が俺たちの下に降り注いでくる。蓄積していく疲労の中、ポイント間の二十五秒で喘ぐように酸素を求めるも、熱された空気が喉を犯し、止まることのない汗が身体から容赦なく水分を奪い去る。
 二ゲーム毎に挟まれるベンチでの一分間の休息でスポドリをがぶ飲みし、頭から冷たい水を被っても、過剰に熱を帯びた身体は平常には戻らない。
「——ゲームカウント3—2」
 応援の声は遠く、蝉の声すら聞こえない隔絶された長方形の戦場で、俺はひたすらにボールを追った。熱くて、苦しくて、もはや論理的思考を展開させる余裕はほぼ無い。ただそれでも、足だけは決して止めなかった。
 走れ、打て、走れ、打て。ボールに追いついて相手のコートに返し続ける限り、お前が負けることは有り得ない。本能に刻まれた感覚と、己を突き動かす勝利への渇望だけを頼りに、俺はひたすらに戦う。
「——ゲームカウント4—3」
 だからこれは既に、相手との戦いではなく、内なる自己との戦いだった。
 辛い、きつい、もう無理だ。やめたい、早くこの地獄の試合を終わりにしたい、と。ともすれば顔を出す、未だ消えることのない弱気な自己。そいつを俺は、思いきりラケットで強打する。
 お前は要らない。お前はもう、今の俺には必要ない。
 辛いだと?きついだと?もうやめたいだと?
 ざけんな、馬鹿言うな、甘えてんじゃねえ、このクソ野郎。
 辛さなら、これ以上のものをとっくの昔に幾度も味わってきただろ。きついというなら、夢に届かないと悟った瞬間の方が、幾億倍もきつかっただろうが。
「——ゲームカウント4―4、」
 諦めて、逃げて、投げ出して。そんなこと、もう二度とごめんだ。
 あんな情けない自分になんて絶対になってなるものか、二度と逃げてなどやるものか。逃げて逃げ続けた果ての果て、それでも、手を伸ばして握ってくれた子が居た。
 その子は一度だって逃げずに、ずっと一人で戦い続けていた。だから俺は、そんなあいつに恥じない自分で居たい。今度こそ、ちゃんと胸を張ってあいつの隣に居続けると、そう固く誓ったんだろうが。
「はあ——、はあ——、はあ——、はあ——、」
 暑い。水をくれ。きつい。足が止まりそうだ。辛い。息が出来なくなる。けれど、何があっても退く訳にはいかない。
 たとえこの試合が、遥か上のレベルまでどこまでも続いていくテニス競技の全体から見れば、取るに足らないちっぽけな一試合に過ぎなくても。それでも、この試合に意味が無いなんてことは有り得ない。
 勝ったところで、何が手に入るというのか。
 全力でプレーして、何を得られるというのか。
 嘘だろお前、本当にそれすらも分からなかったのか。
 ほら、こんなにもたくさんあるじゃねえか。

 ——答えは、今この瞬間の全てだよ。

 俺は今戦っていて、眼前には全力で向かってくる倒すべき敵が居る。苦しみの限界を超えた先にある高揚感と楽しさは、他の何にも代えがたい唯一無二の宝物だ。ならばそれだけで、ちっぽけな誇りと下らない意地と、俺が持てる全てを、全身全霊で賭ける価値が此処にある。
 どれだけ頑張っても、必死に命を燃やしても、必ず敗者と勝者が生まれてしまう——。競技の世界は残酷で、でもだからこそ、こんなにも熱く激しく煌めいている。
「カウント5―4,五鷹高校リード」
 くそ、いいな。俺ももっと上でテニスしてえな。
 もっともっと上手くなって、もっとたくさんこんなひりつく試合がしたい。人生全部賭けて、いつかグランドスラムの決勝で、満員の観衆の中でテニスをしたかった。無論、それは叶わぬ夢と知っている。けれど、今はそれでもいいと思えた。
「はあ——、はあ——、はあ——、はあ——」
 だってそうだろ。叶わないなら、走るのを辞めるのか?
 違う。たとえ夢は叶わなくとも、走り続ければ俺は前に進んで行けるのだ。一歩でも、少しでも、僅かでも。それでもきっと、今よりもっと上手くなれる。なら、俺は一体どこまで行けるのだろう。
 プロは無理だな。流石にそれは分かってる。でも逆に言えば、それくらいしか分からない。なら、やってみろよ。もう一度、限界まで走ってみせろ。俺が辿り着ける場所ならどこまでだって、この足が砕けて壊れるまで走り続けてみろ。きっとその場所で味わえる感覚は、今じゃ想像も出来ないくらいに眩しいはずだから。
「いけえええええええ!!!」「皆川あああああああああ、ここブレイクううううううう!!」「決めちまえ!!!」「頼む、皆川!!!」「テニスが好きなんだろおおおおおおおおお!!!」「俺たちに優勝トロフィーを掲げさせてくれえ!!!」「攻めろやああああああああああ!!」
 不意に、歓声が耳元に戻ってきた。太陽の日差しなんか比べものにならないくらいの、焼け付く熱の籠もった応援。それで、俺はつい笑ってしまった。
 なんだよ。テニス、最高かよ。
「——任せろ、ここで決める」
 ゲームカウント5—4、新坂のサーブゲームでカウントは30―40。迎えた俺のマッチポイント、この試合を通じて初めての——ブレイクポイント。さあ、ここだ。決めろ、俺。

 今この刹那が、己の限界を壊す瞬間(ブレイクポイント)だろ。

 短く息を吐く。目を一瞬瞑る。コートの向かい側、新坂がゆっくりとトスをあげる。コマ送りのように、世界が動いた。
放たれたサーブが弧を描いて俺のバック側に飛んでくる。たたたっと軽くステップ。一歩、後ろへ。二歩、横へ。三歩、前へ。膝を曲げ、ラケットを高い場所に構え、左手を前に。ボールが芝生に触れて弾む。腰の高さへ跳ねて、——今!!!
「——はあっ!!」
 ジャンプと同時、ラケットを一閃、真横へ振り抜く。
 狙う先はダウン・ザ・ライン。全身全霊を賭けた、回り込みフォアのジャンピングショットだ。緑の球が空中を駆ける。空気を切り裂き、風に乗って走っていく。ネットを越え、相手のコートへ。そして——。
「——」
 バウンド、後、一瞬の沈黙。弾んだボールの行方を誰もが目で追って、俺の打ったボールがもう一度地面で弾み。
「「「しゃああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!」」」
「「「勝ったああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」」」
 直後、歓喜が爆発した。観戦していた部員たちが、我先にとコートにダッシュして入ってくる。先頭を切ってくるのは、満面の笑顔を浮かべている平井だ。
「てめえ、この野郎!!!なに一番美味しいところ持っていってんだよ!!!」
 何故かキレられながら、ばしばし背中を平井に叩かれる。後ろから次々に増員がやってくる。
「優勝だああああああ!!」「うおおおおお勝ったあああ!!」「ひやひやさせやがって!!」「胃が潰れるかと思ったわ!!」「この野郎、ふざけんな!!」
 興奮のあまりテンションがおかしくなった奴らに、手荒い祝福でもみくちゃにされる。痛え、叩くな、くそ。痛いっつーの、あと熱い、むさくるしい。けど、それよりも——。
「っ、ははは、はははは、勝った、ちゃんと勝ったぞ、優勝だ!!」
「「「優勝だああああああああああああああああ!!!」」」
 そのまま全員で雄叫びを上げながら、俺達は円陣を組んで回り始めた。人差し指を頂点にさして、全力で跳ね回る俺たち。
「「「優勝、優勝、優勝、優勝!!!」」」
 ああ、そうか。これが部活なのか。これが仲間なのか。
 なんだよそれ、最高じゃねえか。普段はライバルとして、試合ではチームとして、一人の勝利を我が事として喜べる。それは 今までで初めて味わう感覚で、そして、心の底から嬉しかった。
 ちくしょう。だから、もう一回くらいは叫ばせてくれ。

「テニス、大好きだあああああああああ!!!」

 俺達の声が一つになって、遠くの空まで響いていく。
 ——きっとこの瞬間を、俺は生涯忘れないだろう。