ピコン、と机の上のスマホが通知を鳴らす。ベッドにうつ伏せで寝っ転がったままうとうとしていた私は、その音で目を開けた。
むくりと起き上がってスマホを取ると、画面の時刻は午後九時過ぎだ。夕ご飯を食べた後に少しだけ休むつもりだったのに、一時間も寝てしまっていたらしい。
通知に感謝しなきゃなと思いながら、込み上げて来た欠伸をふあと噛み殺し、私はラインを起動する。すると、クラスの親しい友人達とのグループの通知が100件を超えていた。
「何かあったのかな……」
訝しみながら私がグループを開くと、今もポンポンと会話が飛び交っている最中だった。
『でもほんとヤバかったらしいよ』『えー、なんか意外じゃない?』『それね』『あんまし皆川がキレるイメージ無いよね』『分かる』『クールって感じだし』『クラスで全然喋んないからなあ』『わたし、笑ってるの見たこと無いかも』『うちもだわ』『でも結花とは時々話してるよね』
「春斗?」
どうやら話題は春斗のことらしかったけれど、情報が断片的すぎて、何があったのかが分からない。少しの不安に駆られながら私はすいすい画面の上で指をフリックした。
『寝てたー……。何の話?』
すると、即座にメッセが返ってくる。
『お、噂をすれば結花登場じゃん』『今日も練習?お疲れー』『アスリートは大変だねえ』
陽子と里美と桃。顔は見てないのにそれぞれの反応が頭に浮かんできて、私は相好を崩す。
『ありがと。今日も暑かったよお……』
『おお、おいたわしや……』『で、何を話してたかだっけ』『皆川の話だよー。なんかね、皆川が部で殴り合いのケンカしたんだって』『あたしが男テニから聞きました』
「喧嘩……?」
その文字列を見て、私は少しびっくりする。
春斗がそんなことするとは思わなかったからだ。
『え、なんで?』
私の知る限り、春斗が人とケンカをしたことはない。少なくとも中学くらいまでは無かった。しかしささやかな驚きは、次に飛んできたメッセージによって粉々に吹き飛ばされる。
『原因は分かんない』『けど、それで部活辞めたらしい』
「——、——、——嘘」
危うくスマホを落としそうになる。それから見間違いだと願って、私はメッセージを読み直す。でも、何度読んでも書いてあることは変わらなかった。春斗が、テニスを辞めた?
「嘘……。嘘でしょ、春斗?」
『ごめん、ちょっと用事思い出した』
メッセを打ってからスマホをポケットにしまい、私は部屋着の上からジャージを羽織る。そのまま家を飛び出して、隣の春斗の家に向かった。春斗の口からちゃんと聞かされるまで、本当だとは信じられないから——、違う。きっと私は信じたくなかった。
だって約束したはずだ。もしもグランドスラム優勝なんて夢は叶わなくても、一緒に頑張ろうって。それだって、私と春斗はちゃんと約束したはずだった。だから春斗もめげずに部活やってるからって、私も頑張って来た。それなのに——。
「春斗……!」
春斗の家の前でチャイムを鳴らす。こんな時間に迷惑かなって一瞬思ったけど、居ても立っても居られなかった。すると、ややあってガチャリとドアが開く。
「春——」
「あら、結花ちゃん?久しぶりねえ」
「お、お久しぶりです……」
しかし、出て来たのは春斗のおばさんだった。おばさんは私の姿を認めると懐かしそうに目を細める。昔は見慣れていたはずで、でも最近はめっきり見る機会がなくなった、おばさんの柔和で穏やかな笑みだ。私はぺこりとお辞儀するとおずおずとおばさんに問う。
「あ、あの。春斗って、今居ますか……?」
「それがね、部活に行ったっきりまだ帰ってこないのよ。スマホも繋がらないし、どこをほっつき歩いてるんだか、あの子は。せっかく来てくれたのにごめんねえ」
「いえ、大丈夫です。……私、探してきます」
「え、いいのよわざわざ——」
言うな否や、私はおばさんの返事も聞かずにくるりと踵を返して駆け出した。
「あ、結花ちゃん、またうちに来てね!今度はゆっくりお話しましょ!」
暖かい言葉を背中に受けて、私は夜の街を走る。どこに居るかなんて考えなかった。街外れの丘、使われなくなった展望台。そこに春斗は居るんだって、私は確信していた。今までもずっとそうだったから。
あの展望台には誰も来なくて、だから、私が一人で泣くにはおあつらえ向きの場所で。最初に使い始めたのは、お母さんを亡くした直後。不意に辛くなった時、お星様になったお母さんの一番近くに居られるからって、それだけの理由で逃げ込んだ。誰にも気づかれないように一人で声を殺して泣いて、でも、やっぱり春斗には見つかった。
それから、あの展望台は私と春斗の秘密の場所になった。試合に負けて悔しかった時、練習がきつくて嫌になった時、親や先生に怒られた時。泣きたくなったら、いつも私たちはそこへ行った。そこに行けば、会えるから。私が泣いている時は、春斗が頭を撫でてくれて、手を握ってくれて、それだけで力を貰えた。春斗が泣いている時は、私が代わりに抱き締めると、胸が潰れるほどの愛しさを覚えた。そうやってもう一回頑張ろうって、立ち上がる勇気と暖かさを分け合った。
「——」
いつからか使わなくなった場所。いつからか寄り付くことも無くなった場所。けれど、今はそこに居るんだって何となく分かる。
泣いているのかな。それは分からない。
なんで辞めちゃったのかな。それも分からない。
それでも私は、ちゃんと春斗と話したくて——。
「春斗、やっぱり居た」
「結花。お前、なんで……」
なのに、私はまたも間違えた。展望台に寝っ転がって空を見上げていた春斗が私に気がついた瞬間、彼の表情が歪む。私を睨んで、拳を握りしめて、春斗が震える唇で言葉を発した。
「よりによって、なんでお前がここに来るんだよ……!」
「え、あ——」
その悲痛な声を聞いた瞬間、私は来てはいけなかったのだと、それだけで理解してしまった。それで頭が真っ白になって、言おうと思っていたことや聞きたいと思っていたことが全部全部、消し飛んだ。
「ちが、春斗、私は——」
「うるせえ喋んな!!お前からは何も聞きたくねえ!!」
「——っ!」
春斗が泣きそうな顔で立ち上がって叫ぶ。
その大声にビクッと身が竦んだ。怖い、と思った。春斗が怖いんじゃない。恐れたのは、今から訪れるはずの終わりだった。
思えば、これまでずっと、私も春斗も何も言っては来なかった。
遠ざかってから、お互いの考えや想いをちゃんと話したことは一回もなくて。聞いたら、口にしたら、決定的に終わってしまう気がして。何もかも壊れて失くしてしまう気がして、それを恐れて話すことを避け続けてきたのだ。
内に秘めて、押し殺して。圧縮して、潰して、蓋をして。溜め込んで、淀めて、呑み込んで。でも、今。黒く濁り切ったそれが限界を迎えて、爆発してしまう。春斗が声を震わせた。
「何しに来たんだよ!糾弾でもしに来たのか!嘲笑いにでも来たのか!?」
「違う、そんなことしないよ!私はただ、どうしてって、それが聞きたくて——」
「お前には分かんねえよ!才能の無いド底辺の気持ちなんか、テニスの才能に恵まれたトップのお前に分かる訳ねえだろ!お前は七星愛美の子供だもんな!!」
「——」
その言葉を聞いた瞬間、私の心が悲鳴をあげた。
やめて、やめてよ、春斗。そんなこと言わないで。そんな風に拒絶しないで。唇を噛んで、しかし言葉は出てこない。
ごめん、本当は考えたこともあるよ、春斗も私をそう思ってるのかもしれないって。私に負けてテニスを諦めて来た沢山の人に、同じことを言われてきたから。
七星愛美の子供、七星愛美の子供、七星愛美の子供、七星愛美の子供——。そうやって、無数の人が私をそう呼ぶ。あの七星愛美の娘だから勝てて当然なのだと、才能があるのは当たり前なのだと。
みんな私じゃなくて、お母さんを見てる。七星結花じゃなくて七星愛美の「娘」としか見ていない。
でも、だからこそ。春斗だけにはそんな風に言って欲しくなかった。ちゃんと私を見ていて欲しかった。けれど、私の願いは届かない。
「いいよな、才能がある奴は!努力したらそれがちゃんと報われてさ!お前もどうせ俺のこと馬鹿だなって思ってたんだろ!出来る訳ねえのに、無謀な夢だけ語って、無駄な努力を重ねる俺のことを!」
「違う、違う、違う!違うよ春斗!そんな風に思ったことなんて、私、一度もないよ!」
「信じられるか、そんなこと!」
必死に首を振って否定しても、訴えても、私の声は届かなかった。
視界が滲んで胸が詰まって、上手く息が出来なくなる。
信じて、ねえ、信じてよ、春斗。私、ずっと、春斗に支えられてきたんだよ?必死に頑張ってる春斗を見て。どれだけ目指す場所が遠くても諦めずに喰らいついて、歯を食い縛って戦ってる春斗に私は勇気をもらっていたの。
だから、ありがとうって言いたいのに。
その言葉は口に出来ない。言う資格すら私には無かった。
だって、目の前の春斗は泣いていた。悲痛な顔で、慟哭していた。
「いい加減放っておいてくれ!勘弁してくれ……!もう許してくれ……!無理なんだ、疲れたんだよ、俺は……!約束破ってごめん、ちゃんと守れなくてごめん、泣かせてごめん、傷つけてごめん。でも、だからもう、お願いだから——見限ってくれ。見捨ててくれ。これ以上、俺に期待しないでくれ……!」
血を吐く様な、春斗の叫び。
ぼろぼろと涙を流して、彼は私に懇願した。
「——はる、と」
痛かった。胸が痛かった、心が痛かった。
痛い、痛い、痛い、いたい、いたい、いたい、いたい、春斗の傍に、居たい。抱き締めてあげたい。泣かないでって言ってあげたい。
でも、それが許されないのだと今分かった。今になってようやく理解した。私は知らなかった。私が春斗をこんなに苦しめていたことも、こんなにも春斗を追い詰めてしまっていたことも、今になって言われるまで、これっぽっちも気が付きもしなかったのだ。
どこまで傲慢なのか、私は。
どこまで自己本位なのか、私は。
——何が、傍にいてくれるだけで良かった、だ。
春斗を苦しめているのが私自身なんだって、そんなことも理解せずに。その願いがどれだけ春斗にとって残酷だったのか、考えようともせずに。
「ごめん、ごめんね、春斗」
今更謝っても遅いのは分かっている。意味が無いのも分かってる。
私は、春斗の傍に居てはならなかった。
「ごめん、気付いてあげられてなくてごめん、苦しめてごめん」
なのに、ぽろぽろぽろぽろ、意思とは無関係に涙が零れる。言葉が零れる。だからせめて、最後に伝えることを許して欲しかった。
「——ありがとう。私ね、あの時から春斗のこと、ずっとずっと、……大好きでした」
返事を聞くことはしない。
それから私は春斗に背を向けて走った。ただ春斗から遠ざかるために、それだけのために走り続けた。胸が張り裂けそうなんて、そんな言葉じゃ足りなくて。血が流れるなんて生易しいものじゃなくて、苦しくて、苦しくて、苦しくて。
でも、これで終わりだから。全部全部、終わりだから。
約束も、初恋も、この想いも、全部今日で終わりにするから。
さよなら、ごめんね、春斗。
誰よりも、何よりも。優しいあなたが大好きでした——。
× × ×
昼下がりの霊園は静謐な空気に満ちていた。お墓参りには多数の人がやってきているはずなのに話し声一つすらなく、人の事情など知ったことかとばかりに、蝉だけが変わらずその存在を声高に主張している。
「——」
お盆の最中、私と父は二人そろって母の墓参りに来ていた。お母さんが亡くなってから十年、毎年欠かさず行っている墓参り。私はそれがあまり好きではない。普段は意識しないでいられる母の不在を、殊更目の前に突きつけられている感覚がするからだ。かといって行きたくないなどと言えるはずもなく、今年も私はここにいる。
父が墓石に水をかけ、花を供える。もう慣れ切った線香の匂いが香って、私はそっと手を合わせて瞑目した。
お母さん。語りかける言葉を迷う。墓参りに来てまでこんなことを言っていいのか分からない。けれど、聞かずには居られなかった。
私、どうしたらいいのかな。
幻視するのは、凄絶なまでに美しく、苛烈な程に眩い姿。テニスコートに揺るぎなく佇む七星愛美は絶対性の象徴だ。ゆえに、きっとお母さんならこんな風に迷ったりしない。こんな風に悩んだりしない。過ぎたことを引きずって、いつまでもくよくよしたりはしないだろう。
七星愛美は強いから。彼女が負けることなど有り得ないから。
ならば、私も強くならなければならなかった。強く、強く、強く、強く、もっと強く、誰よりも強く、何よりも強く。そうでなければ、どうして七星愛美の娘だといえようか。負けるような私に、どうして価値があるなどいえるだろうか。
——いいよな、才能がある奴は!
そう、私には才能がある、私は恵まれている。私は、無数の誰かを蹴落として、無数の誰かの夢を踏み躙って、ここまで来た。ならば私には、私が倒して来た無数の人間の想いを背負う責任があった。七星愛美の娘として強く在る義務があった。
立ち止まることなど許されていない。許されてはならない。弱音は吐くな。強くなれ。泣いている暇があるなら練習しろ。後悔している時間があるなら、その分もっとテニスについて考えろ。それしかない、それ以外の私に意味は無いのだから。
強くなるために、私に「私」は必要ない。
「——私はグランドスラムを優勝する」
口に出すのは変わらぬ誓い。一人でも、違えることは有り得ぬ覚悟。自分に言い聞かせるように、それを私は母の前で何度も口にする。だから、その時の私が隣で私を見つめる父の眼差しに気が付くことは無かった。
帰りの車でも、霊園の静けさを引きずっているかのように静かだった。ハンドルを握る父の横顔からは考えを伺い知ることが出来ず、私は肘をついて助手席の窓から空を見上げた。
相も変わらず真っ青な空。穢れを知らぬ青は、いっそ無神経な程に清々しい。けれど、あの澄み切った青もいつかは黒々とした積乱雲に濁るのだろう。一度黒が混じってしまえば、元の色は永久に喪われる。初めの頃の純粋さを取り戻す術など、何処にもない。
深々とため息をつくと、知らず父とタイミングが被る。ちらりと父を見やると目が合ってしまった。
「……なに?」
何か言いたげな父の瞳に耐え切れず、私は問う。いつも言葉を呑み込んでばかりで、何も伝えてはくれない父。でも、溜め込むくらいならいっそはっきり言って欲しかった。
知っているから。テニスが憎いことも、テニスをやって欲しくないことも、ちゃんと。
「——結花。テニス、楽しいか?」
「——、え?」
しかし父が話した言葉はそうではなかった。想定外な問いに、私は思わず問い返してしまう。すると父は正面を向いて運転したまま、もう一度言葉を繰り返した。
「テニスは、楽しいか?無理してやってはいないか?」
「っ!」
糾弾するでもなく、諭すでもなく、それはひどく穏やかな声音だった。まるで、心配でもするような口調だ。それが私の癪に障った。
「楽しいって……。私はそんなレベルじゃないの、分かるでしょ?競技でやってるんだから、楽しいとか、楽しくないとか、そんなこと言ってられない」
「……そうか。だがお母さんは、テニスをする時はいつでも楽しそうだったぞ。苦しそうなお前とは違う。……苦しいなら、結花が無理してテニスをする必要は——」
「うるさい!お母さんと私は違うの!」
父を遮って、声を荒げる。聞きたくない。そんな言葉は要らない。
無理してるかって?当たり前でしょ、無理しているに決まってる。
無理でもしなきゃ、こんな辛いことやってられない。
けど、だからって辞められると思う?だいたい、今辞めて何になるというの?
全 部全部、積み重ねて来たこの十年が、他の全てを犠牲にしてきた私の人生が、ただ無駄になるだけだ。そんなの受け入れられる訳が無い、認められずはずがない。
「私は私の意志でやってるの!きついのも全部呑み込んでやってる!それを無責任に軽々しく口出ししないでよ!」
「——、すまない」
そのまま父は苦しそうな顔で黙り込んだ。重たい沈黙が車内を満たした後、少し冷静になった私はやっぱり後悔した。
八つ当たりだ、こんなの。お父さんは心配してくれているだけだったのに、怒鳴ってしまった。なのに、ごめんの一言が言えない。そんな簡単なことが父相手だとどうしてか出来ない。何度口を開いても、ちゃんと言おうと思っても、その言葉が私の口から出ることはついぞ能わない。
だから、思う。こんな風に苦しむくらいなら、いっそ弱い「私」なんかいなくなってしまえばいいのに——。
× × ×
ボールを打つ。雑念は要らない。思考を目の前の一球だけに純化させる。
「——、」
二対一でのポイント形式の練習では、通常のシングルスよりも数段早くボールが返ってくる。相手は二人がそれぞれデュースサイドとアドサイドを担当している為に、基本的に大きく動く必要が無いからだ。そして、ボールに簡単に追いつけるということは、しっかりとした体勢でショットを打てるということ。
アドサイドの相手が打ったボールはフラット気味のストレート。それを私はベースライン上をスライドして、フォアハンドでショートクロスに叩き込む。普通のシングルスなら決まるカウンターだ。
しかしコートを二分して二人で守っている相手だと話は違う。デュースサイド担当が悠々と私のショットに追いつき、構えに入る。その動きを注視。時間は無い。判断を迷っている暇はない。フォームや視線など、対戦相手の挙動からコースを予測して打たれる方向へ一歩でも早く動き出さねば、到底ボールには間に合わない。
「——、」
展開としては、私が相手を外に追い出したことになっている。であれば打てる範囲は絞られ、狙うとしたらストレートか——。思考と同時、身体は無意識に動き出している。
キュキュキュとシューズが擦らせながらボールとの距離を測り、パアンと来たボールにバックで面だけ合わせてオープンコートへ、流れるようにネット前に詰める。アドサイドの相手がボールに入るのに合わせてスプリットステップを踏む。カウンター狙いのクロスのパッシングを読み、柔らかいタッチでボレーを前に沈める。
「——オッケー、良い展開だ!ネットプレーの選択肢を常に持って上手く使っていけよ!」
橋本コーチの声を聞きながら、また次のポイントを始める。
展開が早くなりがちで、普段よりたくさんの距離を動かなければならないこの練習は、肉体的にも精神的にもきついものがある。
けれど、きついというのはテニスにおいては不要な思考だ。もっと研ぎ澄ませ。より没頭しろ。相手を倒すこと、敵に勝つこと、その方法だけに集中すればいい。
実際、テニスをしている間に喜怒哀楽は必要ないことに、私は今更気が付いていた。本当にテニスで勝つ為なら、感情を捨て去ってしまうのが最も正しく合理的な選択なのだ。テニスはメンタルスポーツであり、メンタル状態によってプレーの質が大きく変わる。だからこそ、如何なる状況でもブレない精神が要求される。
だが、それならいっそ何も感じなくなればいい。怒りも苦しさも恐怖も、楽しさも嬉しさも愛しさも、悔しさだってプレーにおいてはノイズになる。ならば、淡々と目の前の一ポイントを取る為に在る、無感情にテニスをするだけのマシンになる。それが、七星結花が弱点を克服するにはベストの方法に違いなかった。
全日本ジュニア——正式名称、DUNLOP全日本ジュニア選手権。毎年八月の下旬に開催される日本テニス協会主催の全国大会だ。
この大会で好成績を残した選手には、世界スーパージュニアテニス選手権や、JOCジュニアオリンピックカップ等、世界大会への出場権が与えられる。つまり、プロを目指す上では絶対に負けられない非常に大事な大会だ。
そして、全日本をもうすぐに控えた今日は、アカデミー間で協力して有力な関東の選手を集めて練習試合を行うことになっていた。本番前の大事な調整になる試合。一セットマッチで色んな人と対戦しながら、私は強い手応えを感じていた。
「——」
身体が軽い。余計なものは全て削ぎ落されて、一振りの矛として切っ先が鋭く磨かれている感覚。縦幅23.77m、横幅10.97mの長方形の世界の中、あるのは自分と殺すべき相手だけだった。
私の立ち位置はベースラインの一歩前。相手の時間を奪う速攻の攻撃的テニススタイル。届くべき目標を七星愛美に規定した以上、これを極める以外に道は無い。
「——」
今は何試合目だったか忘れたけど、コートの向こうの対戦相手は動きが鈍い。鈍いというか、遅い。暮埼舞香対策で二対一の練習を積んだおかげが、それと比べると私には圧倒的に時間があった。取るべき攻撃の選択肢が幾つも見える。ストロークの打ち合いでも崩せる、ネットに詰めてもいい。こちらが多く選択肢を保持していると、相手は予測が困難になる。結果、私が打つ瞬間に僅かに相手の動きを止められるから、面白いくらいに点が決まる。
吐き気を飲み下し、チャンスボールをフォアでオープンコートに叩き込む。もう以前のように迷うことはない。迷うという思考が入る余地は無い。ラケットでボールを押し潰す感覚。真っすぐにショットが相手コートに突き刺さり、私のポイントになる。
「——」
デュースサイドでサーブから展開。ファーストサーブはスライスでワイドに、スピードとコースを厳しく、相手を一球でコートに追い出す。返って来たボールはセンターに跳ねる。頭痛、回り込みフォア。クロスにもストレートにも打てる。必死にコートへ戻る相手を見ながらセオリー通りオープンコートへ、と見せかけてあえてもう一度フォアサイドへ。逆をつかれた相手からボールは返って来ない。
「——」
暑い。カウントが曖昧で分からないから、目の前のポイントだけを集中して取る。相手がベンチに戻るからゲームらしい。ベンチに戻る。日陰のベンチでスポドリの入ったジャグを飲む。保冷材で首筋を冷やす。再び炎天下のコートへ。耳鳴り。リターンに集中。大体、コースの打ち分けはワイドに六割、センター三割、ボディに一割くらいだ。なら最初はワイドの確率が高い。ドンピシャで予測が的中、一歩前に入っていってストレートにリターンをぶち込む。相手は一歩も動けない。
「——」
今度は長めのラリーになった。相手が後ろに下がって私の打ったボールを拾う。吐き気。劣勢になると私の対戦相手は大体そうする傾向にあった。なるほど確かに合理的だ。ベースラインから下がれば時間的猶予が生まれ、ボールは拾いやすくなる。速攻の相手に対し、軌道の高いボールでラリーのペースを落とすつもりのようだ。
でも生憎、それは私の思う壺だ。吐き気がする。何しろ目下取り組んでいるのは、高校女子で最も高い守備力を誇る暮埼舞香を崩す対策。付け焼刃の守備では、丁度いい練習台になる程度しかない。
例えば、後ろに下がった相手に有効なのはネットプレー。後ろに居る分、返球スピードも落ちるから、こちらもネットに詰める時間的猶予が生まれる。スライスを掬い上げるようなフォアアプローチ、からのボレー。頭が痛い。勢いを殺すように前に落とせば、相手はコート後方から走ってこないといけない。ギリギリで追いついて相手が私の頭上を抜こうとする。甘いからスマッシュで叩き込んでお終い。
「——」
他にも有効なショットはある。ラリー中、ぎりぎりまでバックにボールを退き付け、インパクトの直前、グリップの握りを変えてドロップ。意表をつかれた相手が前にダッシュするも届かない。相手を下がらせておいてのドロップショット。完璧だ。
「——」
ハードコートの上でゆらゆらと揺れる陽炎。コートが陽光を反射するせいで、頭上からも足元からも炙られる感覚。そういえばオーストラリアンオープンでは、コートで目玉焼きが焼けるくらいまで温度が上がるらしい。ぐつぐつぐつぐつ、脳味噌が煮詰まる。サーブを打つ、リターンが返ってくる、ラリーをする気も無く半ば強引にエースを決める。気付けば試合は終わっていた。全部で1セット×5試合分。カウント6—3,6―2,6―3、6―1,6―0。本番の試合を前に、十分すぎる出来といえた。
× × ×
気持ちが悪い。頭が割れるように痛くて、視界がちかちかと明滅している。
「ほら、とりあえず首筋と脇を冷やして。あとは水分な水分。水、足りてるか」
「あります……」
橋本コーチの言葉に小さく頷き、私は日陰のベンチで横になった。完全に熱中症の症状だ。額に保冷剤をあてて目をつぶりながら、私はあまりの愚かさ加減に泣きたくなった。
「……すみません、迷惑かけて」
「ほんとだよ。どう考えても、今日は無理する場面じゃないだろ」
「すみません……」
返す言葉も無い。体調管理も出来ないなんて本当に選手として失格だ。けれど。
「……でも今日、すごく調子よかったので。多分、それで」
「いやまあ、確かにプレー自体は前より良くなってた。迷いが消えた感じがした。けどな」
ところが、コーチは私とは真逆の事を言ってくる。
「調子は良くないだろ。危ういから、ちょっと休ませようと思ってた矢先にこれだよ……」
「危うい?何がですか」
言葉の意味が分からなくて、私は目をつぶって寝転がったまま問うた。すると、コーチは呆れ混じりの吐息を漏らす。
「結花が、だよ。余裕が無くて前のめり。アスリートにありがちなんだよ。没頭し過ぎた結果、身体の出す危険信号に気が付かずに、怪我するか潰れるかって。実際今日だって体調不良に気付いてなかったろ、結花」
言われて私は黙り込む。確かに、気が付いてなかった。いや、もしかしたら無意識で無視していたのかもしれない。
「だから、明日の練習は無しな。ゆっくりと心と体を休めること。いいな」
しかし、コーチの言う事には納得できない。せっかく感覚を掴みかけているのに、休んだら台無しだ。そうして、返事をしない私にコーチはもう一度深くため息をついた。表情は見えないけど、多分呆れた顔をしている。
「あのな結花、何を焦ってるのか知らないが、余裕を持て。メリハリだよメリハリ。テニスに集中するのはいい。けど、それ以外もちゃんと大切に——」
「——ない」
「え?」
「それ以外なんて、私には無い」
気が付けば、そんな言葉が漏れていた。熱中症のせいで思考が麻痺しているからだろう。熱に浮かされ、うわ言のように私は呟く。
「私にあるのはテニスだけ。だから、休んでる暇なんてないの」
今度はコーチが黙り込む番だった。しばらく考え込むような間が空いた後、コーチが静かに口を開く。
「あるよ。だってお前、この前まで色々悩んでただろ。それがテニス以外だよ」
「それは……」
でも、悩んだって苦しむだけだ。意味は無い。ならいっそ、考えなければいい。そう思って私は「私」を切り捨てたのだ。
「でも、それだと試合で勝てない」
「かもな。けど、今のままでもいずれ勝てなくなる。知ってるか?ウィンブルドン決勝の最終セット、最後の最後の極限状態で、七星愛美は応援してくれる夫と娘を支えに戦っていたって」
「——」
知っている。当たり前だ。お母さんのインタビュー記事や映像は全部全部、読んだから。そうして橋本コーチは私に告げる。
「だから、テニスを言い訳に見ないふりをするなよ。ちゃんと悩んで答えを出せ。結花が上を目指すなら、それは絶対に避けて通れない問題なんだから」
はい、とは言えなかった。その答えが分からないから、今の今までずっと苦しんでいるのだ。
「そこまで言うなら、コーチが答え教えてよ」
「答え、ね。——結花はもっと結花自身を信じてあげればいい。それだけだよ」
「——」
私を、信じる。何それ、言ってる意味が分からないってば。
「……コーチ、それ全然答えになってない」
「はは、じゃあもっと考えるんだな。どうせ、結花の答えは結花にしか出せない」
そう言ってから、コーチはあからさまに声のトーンを落とした。
「けど、もう一つの方はなあ……、どうすっかなあ……」
もう一つ。それにひどく思い当たる節があって、だから私は強く唇を噛んで胸に奔る疼痛を無理やり押し込める。
それはいい。もうとっくに終わったことだ。終わらせたことだ。だから考えるな、私。
——なんて。
どうしたら、そんなことが出来るんだろうか。
テニスと、テニス以外。私と、「私」。全部全部切り落として削ぎ落して研ぎ澄ませて、敵を貫く一振りの矛に為ったとして。
けれど、それがお母さんの強さの秘訣でないのだとしたら。
私は。
強く在る為に、どんな答えに辿り着けばいいのだろう——?
むくりと起き上がってスマホを取ると、画面の時刻は午後九時過ぎだ。夕ご飯を食べた後に少しだけ休むつもりだったのに、一時間も寝てしまっていたらしい。
通知に感謝しなきゃなと思いながら、込み上げて来た欠伸をふあと噛み殺し、私はラインを起動する。すると、クラスの親しい友人達とのグループの通知が100件を超えていた。
「何かあったのかな……」
訝しみながら私がグループを開くと、今もポンポンと会話が飛び交っている最中だった。
『でもほんとヤバかったらしいよ』『えー、なんか意外じゃない?』『それね』『あんまし皆川がキレるイメージ無いよね』『分かる』『クールって感じだし』『クラスで全然喋んないからなあ』『わたし、笑ってるの見たこと無いかも』『うちもだわ』『でも結花とは時々話してるよね』
「春斗?」
どうやら話題は春斗のことらしかったけれど、情報が断片的すぎて、何があったのかが分からない。少しの不安に駆られながら私はすいすい画面の上で指をフリックした。
『寝てたー……。何の話?』
すると、即座にメッセが返ってくる。
『お、噂をすれば結花登場じゃん』『今日も練習?お疲れー』『アスリートは大変だねえ』
陽子と里美と桃。顔は見てないのにそれぞれの反応が頭に浮かんできて、私は相好を崩す。
『ありがと。今日も暑かったよお……』
『おお、おいたわしや……』『で、何を話してたかだっけ』『皆川の話だよー。なんかね、皆川が部で殴り合いのケンカしたんだって』『あたしが男テニから聞きました』
「喧嘩……?」
その文字列を見て、私は少しびっくりする。
春斗がそんなことするとは思わなかったからだ。
『え、なんで?』
私の知る限り、春斗が人とケンカをしたことはない。少なくとも中学くらいまでは無かった。しかしささやかな驚きは、次に飛んできたメッセージによって粉々に吹き飛ばされる。
『原因は分かんない』『けど、それで部活辞めたらしい』
「——、——、——嘘」
危うくスマホを落としそうになる。それから見間違いだと願って、私はメッセージを読み直す。でも、何度読んでも書いてあることは変わらなかった。春斗が、テニスを辞めた?
「嘘……。嘘でしょ、春斗?」
『ごめん、ちょっと用事思い出した』
メッセを打ってからスマホをポケットにしまい、私は部屋着の上からジャージを羽織る。そのまま家を飛び出して、隣の春斗の家に向かった。春斗の口からちゃんと聞かされるまで、本当だとは信じられないから——、違う。きっと私は信じたくなかった。
だって約束したはずだ。もしもグランドスラム優勝なんて夢は叶わなくても、一緒に頑張ろうって。それだって、私と春斗はちゃんと約束したはずだった。だから春斗もめげずに部活やってるからって、私も頑張って来た。それなのに——。
「春斗……!」
春斗の家の前でチャイムを鳴らす。こんな時間に迷惑かなって一瞬思ったけど、居ても立っても居られなかった。すると、ややあってガチャリとドアが開く。
「春——」
「あら、結花ちゃん?久しぶりねえ」
「お、お久しぶりです……」
しかし、出て来たのは春斗のおばさんだった。おばさんは私の姿を認めると懐かしそうに目を細める。昔は見慣れていたはずで、でも最近はめっきり見る機会がなくなった、おばさんの柔和で穏やかな笑みだ。私はぺこりとお辞儀するとおずおずとおばさんに問う。
「あ、あの。春斗って、今居ますか……?」
「それがね、部活に行ったっきりまだ帰ってこないのよ。スマホも繋がらないし、どこをほっつき歩いてるんだか、あの子は。せっかく来てくれたのにごめんねえ」
「いえ、大丈夫です。……私、探してきます」
「え、いいのよわざわざ——」
言うな否や、私はおばさんの返事も聞かずにくるりと踵を返して駆け出した。
「あ、結花ちゃん、またうちに来てね!今度はゆっくりお話しましょ!」
暖かい言葉を背中に受けて、私は夜の街を走る。どこに居るかなんて考えなかった。街外れの丘、使われなくなった展望台。そこに春斗は居るんだって、私は確信していた。今までもずっとそうだったから。
あの展望台には誰も来なくて、だから、私が一人で泣くにはおあつらえ向きの場所で。最初に使い始めたのは、お母さんを亡くした直後。不意に辛くなった時、お星様になったお母さんの一番近くに居られるからって、それだけの理由で逃げ込んだ。誰にも気づかれないように一人で声を殺して泣いて、でも、やっぱり春斗には見つかった。
それから、あの展望台は私と春斗の秘密の場所になった。試合に負けて悔しかった時、練習がきつくて嫌になった時、親や先生に怒られた時。泣きたくなったら、いつも私たちはそこへ行った。そこに行けば、会えるから。私が泣いている時は、春斗が頭を撫でてくれて、手を握ってくれて、それだけで力を貰えた。春斗が泣いている時は、私が代わりに抱き締めると、胸が潰れるほどの愛しさを覚えた。そうやってもう一回頑張ろうって、立ち上がる勇気と暖かさを分け合った。
「——」
いつからか使わなくなった場所。いつからか寄り付くことも無くなった場所。けれど、今はそこに居るんだって何となく分かる。
泣いているのかな。それは分からない。
なんで辞めちゃったのかな。それも分からない。
それでも私は、ちゃんと春斗と話したくて——。
「春斗、やっぱり居た」
「結花。お前、なんで……」
なのに、私はまたも間違えた。展望台に寝っ転がって空を見上げていた春斗が私に気がついた瞬間、彼の表情が歪む。私を睨んで、拳を握りしめて、春斗が震える唇で言葉を発した。
「よりによって、なんでお前がここに来るんだよ……!」
「え、あ——」
その悲痛な声を聞いた瞬間、私は来てはいけなかったのだと、それだけで理解してしまった。それで頭が真っ白になって、言おうと思っていたことや聞きたいと思っていたことが全部全部、消し飛んだ。
「ちが、春斗、私は——」
「うるせえ喋んな!!お前からは何も聞きたくねえ!!」
「——っ!」
春斗が泣きそうな顔で立ち上がって叫ぶ。
その大声にビクッと身が竦んだ。怖い、と思った。春斗が怖いんじゃない。恐れたのは、今から訪れるはずの終わりだった。
思えば、これまでずっと、私も春斗も何も言っては来なかった。
遠ざかってから、お互いの考えや想いをちゃんと話したことは一回もなくて。聞いたら、口にしたら、決定的に終わってしまう気がして。何もかも壊れて失くしてしまう気がして、それを恐れて話すことを避け続けてきたのだ。
内に秘めて、押し殺して。圧縮して、潰して、蓋をして。溜め込んで、淀めて、呑み込んで。でも、今。黒く濁り切ったそれが限界を迎えて、爆発してしまう。春斗が声を震わせた。
「何しに来たんだよ!糾弾でもしに来たのか!嘲笑いにでも来たのか!?」
「違う、そんなことしないよ!私はただ、どうしてって、それが聞きたくて——」
「お前には分かんねえよ!才能の無いド底辺の気持ちなんか、テニスの才能に恵まれたトップのお前に分かる訳ねえだろ!お前は七星愛美の子供だもんな!!」
「——」
その言葉を聞いた瞬間、私の心が悲鳴をあげた。
やめて、やめてよ、春斗。そんなこと言わないで。そんな風に拒絶しないで。唇を噛んで、しかし言葉は出てこない。
ごめん、本当は考えたこともあるよ、春斗も私をそう思ってるのかもしれないって。私に負けてテニスを諦めて来た沢山の人に、同じことを言われてきたから。
七星愛美の子供、七星愛美の子供、七星愛美の子供、七星愛美の子供——。そうやって、無数の人が私をそう呼ぶ。あの七星愛美の娘だから勝てて当然なのだと、才能があるのは当たり前なのだと。
みんな私じゃなくて、お母さんを見てる。七星結花じゃなくて七星愛美の「娘」としか見ていない。
でも、だからこそ。春斗だけにはそんな風に言って欲しくなかった。ちゃんと私を見ていて欲しかった。けれど、私の願いは届かない。
「いいよな、才能がある奴は!努力したらそれがちゃんと報われてさ!お前もどうせ俺のこと馬鹿だなって思ってたんだろ!出来る訳ねえのに、無謀な夢だけ語って、無駄な努力を重ねる俺のことを!」
「違う、違う、違う!違うよ春斗!そんな風に思ったことなんて、私、一度もないよ!」
「信じられるか、そんなこと!」
必死に首を振って否定しても、訴えても、私の声は届かなかった。
視界が滲んで胸が詰まって、上手く息が出来なくなる。
信じて、ねえ、信じてよ、春斗。私、ずっと、春斗に支えられてきたんだよ?必死に頑張ってる春斗を見て。どれだけ目指す場所が遠くても諦めずに喰らいついて、歯を食い縛って戦ってる春斗に私は勇気をもらっていたの。
だから、ありがとうって言いたいのに。
その言葉は口に出来ない。言う資格すら私には無かった。
だって、目の前の春斗は泣いていた。悲痛な顔で、慟哭していた。
「いい加減放っておいてくれ!勘弁してくれ……!もう許してくれ……!無理なんだ、疲れたんだよ、俺は……!約束破ってごめん、ちゃんと守れなくてごめん、泣かせてごめん、傷つけてごめん。でも、だからもう、お願いだから——見限ってくれ。見捨ててくれ。これ以上、俺に期待しないでくれ……!」
血を吐く様な、春斗の叫び。
ぼろぼろと涙を流して、彼は私に懇願した。
「——はる、と」
痛かった。胸が痛かった、心が痛かった。
痛い、痛い、痛い、いたい、いたい、いたい、いたい、春斗の傍に、居たい。抱き締めてあげたい。泣かないでって言ってあげたい。
でも、それが許されないのだと今分かった。今になってようやく理解した。私は知らなかった。私が春斗をこんなに苦しめていたことも、こんなにも春斗を追い詰めてしまっていたことも、今になって言われるまで、これっぽっちも気が付きもしなかったのだ。
どこまで傲慢なのか、私は。
どこまで自己本位なのか、私は。
——何が、傍にいてくれるだけで良かった、だ。
春斗を苦しめているのが私自身なんだって、そんなことも理解せずに。その願いがどれだけ春斗にとって残酷だったのか、考えようともせずに。
「ごめん、ごめんね、春斗」
今更謝っても遅いのは分かっている。意味が無いのも分かってる。
私は、春斗の傍に居てはならなかった。
「ごめん、気付いてあげられてなくてごめん、苦しめてごめん」
なのに、ぽろぽろぽろぽろ、意思とは無関係に涙が零れる。言葉が零れる。だからせめて、最後に伝えることを許して欲しかった。
「——ありがとう。私ね、あの時から春斗のこと、ずっとずっと、……大好きでした」
返事を聞くことはしない。
それから私は春斗に背を向けて走った。ただ春斗から遠ざかるために、それだけのために走り続けた。胸が張り裂けそうなんて、そんな言葉じゃ足りなくて。血が流れるなんて生易しいものじゃなくて、苦しくて、苦しくて、苦しくて。
でも、これで終わりだから。全部全部、終わりだから。
約束も、初恋も、この想いも、全部今日で終わりにするから。
さよなら、ごめんね、春斗。
誰よりも、何よりも。優しいあなたが大好きでした——。
× × ×
昼下がりの霊園は静謐な空気に満ちていた。お墓参りには多数の人がやってきているはずなのに話し声一つすらなく、人の事情など知ったことかとばかりに、蝉だけが変わらずその存在を声高に主張している。
「——」
お盆の最中、私と父は二人そろって母の墓参りに来ていた。お母さんが亡くなってから十年、毎年欠かさず行っている墓参り。私はそれがあまり好きではない。普段は意識しないでいられる母の不在を、殊更目の前に突きつけられている感覚がするからだ。かといって行きたくないなどと言えるはずもなく、今年も私はここにいる。
父が墓石に水をかけ、花を供える。もう慣れ切った線香の匂いが香って、私はそっと手を合わせて瞑目した。
お母さん。語りかける言葉を迷う。墓参りに来てまでこんなことを言っていいのか分からない。けれど、聞かずには居られなかった。
私、どうしたらいいのかな。
幻視するのは、凄絶なまでに美しく、苛烈な程に眩い姿。テニスコートに揺るぎなく佇む七星愛美は絶対性の象徴だ。ゆえに、きっとお母さんならこんな風に迷ったりしない。こんな風に悩んだりしない。過ぎたことを引きずって、いつまでもくよくよしたりはしないだろう。
七星愛美は強いから。彼女が負けることなど有り得ないから。
ならば、私も強くならなければならなかった。強く、強く、強く、強く、もっと強く、誰よりも強く、何よりも強く。そうでなければ、どうして七星愛美の娘だといえようか。負けるような私に、どうして価値があるなどいえるだろうか。
——いいよな、才能がある奴は!
そう、私には才能がある、私は恵まれている。私は、無数の誰かを蹴落として、無数の誰かの夢を踏み躙って、ここまで来た。ならば私には、私が倒して来た無数の人間の想いを背負う責任があった。七星愛美の娘として強く在る義務があった。
立ち止まることなど許されていない。許されてはならない。弱音は吐くな。強くなれ。泣いている暇があるなら練習しろ。後悔している時間があるなら、その分もっとテニスについて考えろ。それしかない、それ以外の私に意味は無いのだから。
強くなるために、私に「私」は必要ない。
「——私はグランドスラムを優勝する」
口に出すのは変わらぬ誓い。一人でも、違えることは有り得ぬ覚悟。自分に言い聞かせるように、それを私は母の前で何度も口にする。だから、その時の私が隣で私を見つめる父の眼差しに気が付くことは無かった。
帰りの車でも、霊園の静けさを引きずっているかのように静かだった。ハンドルを握る父の横顔からは考えを伺い知ることが出来ず、私は肘をついて助手席の窓から空を見上げた。
相も変わらず真っ青な空。穢れを知らぬ青は、いっそ無神経な程に清々しい。けれど、あの澄み切った青もいつかは黒々とした積乱雲に濁るのだろう。一度黒が混じってしまえば、元の色は永久に喪われる。初めの頃の純粋さを取り戻す術など、何処にもない。
深々とため息をつくと、知らず父とタイミングが被る。ちらりと父を見やると目が合ってしまった。
「……なに?」
何か言いたげな父の瞳に耐え切れず、私は問う。いつも言葉を呑み込んでばかりで、何も伝えてはくれない父。でも、溜め込むくらいならいっそはっきり言って欲しかった。
知っているから。テニスが憎いことも、テニスをやって欲しくないことも、ちゃんと。
「——結花。テニス、楽しいか?」
「——、え?」
しかし父が話した言葉はそうではなかった。想定外な問いに、私は思わず問い返してしまう。すると父は正面を向いて運転したまま、もう一度言葉を繰り返した。
「テニスは、楽しいか?無理してやってはいないか?」
「っ!」
糾弾するでもなく、諭すでもなく、それはひどく穏やかな声音だった。まるで、心配でもするような口調だ。それが私の癪に障った。
「楽しいって……。私はそんなレベルじゃないの、分かるでしょ?競技でやってるんだから、楽しいとか、楽しくないとか、そんなこと言ってられない」
「……そうか。だがお母さんは、テニスをする時はいつでも楽しそうだったぞ。苦しそうなお前とは違う。……苦しいなら、結花が無理してテニスをする必要は——」
「うるさい!お母さんと私は違うの!」
父を遮って、声を荒げる。聞きたくない。そんな言葉は要らない。
無理してるかって?当たり前でしょ、無理しているに決まってる。
無理でもしなきゃ、こんな辛いことやってられない。
けど、だからって辞められると思う?だいたい、今辞めて何になるというの?
全 部全部、積み重ねて来たこの十年が、他の全てを犠牲にしてきた私の人生が、ただ無駄になるだけだ。そんなの受け入れられる訳が無い、認められずはずがない。
「私は私の意志でやってるの!きついのも全部呑み込んでやってる!それを無責任に軽々しく口出ししないでよ!」
「——、すまない」
そのまま父は苦しそうな顔で黙り込んだ。重たい沈黙が車内を満たした後、少し冷静になった私はやっぱり後悔した。
八つ当たりだ、こんなの。お父さんは心配してくれているだけだったのに、怒鳴ってしまった。なのに、ごめんの一言が言えない。そんな簡単なことが父相手だとどうしてか出来ない。何度口を開いても、ちゃんと言おうと思っても、その言葉が私の口から出ることはついぞ能わない。
だから、思う。こんな風に苦しむくらいなら、いっそ弱い「私」なんかいなくなってしまえばいいのに——。
× × ×
ボールを打つ。雑念は要らない。思考を目の前の一球だけに純化させる。
「——、」
二対一でのポイント形式の練習では、通常のシングルスよりも数段早くボールが返ってくる。相手は二人がそれぞれデュースサイドとアドサイドを担当している為に、基本的に大きく動く必要が無いからだ。そして、ボールに簡単に追いつけるということは、しっかりとした体勢でショットを打てるということ。
アドサイドの相手が打ったボールはフラット気味のストレート。それを私はベースライン上をスライドして、フォアハンドでショートクロスに叩き込む。普通のシングルスなら決まるカウンターだ。
しかしコートを二分して二人で守っている相手だと話は違う。デュースサイド担当が悠々と私のショットに追いつき、構えに入る。その動きを注視。時間は無い。判断を迷っている暇はない。フォームや視線など、対戦相手の挙動からコースを予測して打たれる方向へ一歩でも早く動き出さねば、到底ボールには間に合わない。
「——、」
展開としては、私が相手を外に追い出したことになっている。であれば打てる範囲は絞られ、狙うとしたらストレートか——。思考と同時、身体は無意識に動き出している。
キュキュキュとシューズが擦らせながらボールとの距離を測り、パアンと来たボールにバックで面だけ合わせてオープンコートへ、流れるようにネット前に詰める。アドサイドの相手がボールに入るのに合わせてスプリットステップを踏む。カウンター狙いのクロスのパッシングを読み、柔らかいタッチでボレーを前に沈める。
「——オッケー、良い展開だ!ネットプレーの選択肢を常に持って上手く使っていけよ!」
橋本コーチの声を聞きながら、また次のポイントを始める。
展開が早くなりがちで、普段よりたくさんの距離を動かなければならないこの練習は、肉体的にも精神的にもきついものがある。
けれど、きついというのはテニスにおいては不要な思考だ。もっと研ぎ澄ませ。より没頭しろ。相手を倒すこと、敵に勝つこと、その方法だけに集中すればいい。
実際、テニスをしている間に喜怒哀楽は必要ないことに、私は今更気が付いていた。本当にテニスで勝つ為なら、感情を捨て去ってしまうのが最も正しく合理的な選択なのだ。テニスはメンタルスポーツであり、メンタル状態によってプレーの質が大きく変わる。だからこそ、如何なる状況でもブレない精神が要求される。
だが、それならいっそ何も感じなくなればいい。怒りも苦しさも恐怖も、楽しさも嬉しさも愛しさも、悔しさだってプレーにおいてはノイズになる。ならば、淡々と目の前の一ポイントを取る為に在る、無感情にテニスをするだけのマシンになる。それが、七星結花が弱点を克服するにはベストの方法に違いなかった。
全日本ジュニア——正式名称、DUNLOP全日本ジュニア選手権。毎年八月の下旬に開催される日本テニス協会主催の全国大会だ。
この大会で好成績を残した選手には、世界スーパージュニアテニス選手権や、JOCジュニアオリンピックカップ等、世界大会への出場権が与えられる。つまり、プロを目指す上では絶対に負けられない非常に大事な大会だ。
そして、全日本をもうすぐに控えた今日は、アカデミー間で協力して有力な関東の選手を集めて練習試合を行うことになっていた。本番前の大事な調整になる試合。一セットマッチで色んな人と対戦しながら、私は強い手応えを感じていた。
「——」
身体が軽い。余計なものは全て削ぎ落されて、一振りの矛として切っ先が鋭く磨かれている感覚。縦幅23.77m、横幅10.97mの長方形の世界の中、あるのは自分と殺すべき相手だけだった。
私の立ち位置はベースラインの一歩前。相手の時間を奪う速攻の攻撃的テニススタイル。届くべき目標を七星愛美に規定した以上、これを極める以外に道は無い。
「——」
今は何試合目だったか忘れたけど、コートの向こうの対戦相手は動きが鈍い。鈍いというか、遅い。暮埼舞香対策で二対一の練習を積んだおかげが、それと比べると私には圧倒的に時間があった。取るべき攻撃の選択肢が幾つも見える。ストロークの打ち合いでも崩せる、ネットに詰めてもいい。こちらが多く選択肢を保持していると、相手は予測が困難になる。結果、私が打つ瞬間に僅かに相手の動きを止められるから、面白いくらいに点が決まる。
吐き気を飲み下し、チャンスボールをフォアでオープンコートに叩き込む。もう以前のように迷うことはない。迷うという思考が入る余地は無い。ラケットでボールを押し潰す感覚。真っすぐにショットが相手コートに突き刺さり、私のポイントになる。
「——」
デュースサイドでサーブから展開。ファーストサーブはスライスでワイドに、スピードとコースを厳しく、相手を一球でコートに追い出す。返って来たボールはセンターに跳ねる。頭痛、回り込みフォア。クロスにもストレートにも打てる。必死にコートへ戻る相手を見ながらセオリー通りオープンコートへ、と見せかけてあえてもう一度フォアサイドへ。逆をつかれた相手からボールは返って来ない。
「——」
暑い。カウントが曖昧で分からないから、目の前のポイントだけを集中して取る。相手がベンチに戻るからゲームらしい。ベンチに戻る。日陰のベンチでスポドリの入ったジャグを飲む。保冷材で首筋を冷やす。再び炎天下のコートへ。耳鳴り。リターンに集中。大体、コースの打ち分けはワイドに六割、センター三割、ボディに一割くらいだ。なら最初はワイドの確率が高い。ドンピシャで予測が的中、一歩前に入っていってストレートにリターンをぶち込む。相手は一歩も動けない。
「——」
今度は長めのラリーになった。相手が後ろに下がって私の打ったボールを拾う。吐き気。劣勢になると私の対戦相手は大体そうする傾向にあった。なるほど確かに合理的だ。ベースラインから下がれば時間的猶予が生まれ、ボールは拾いやすくなる。速攻の相手に対し、軌道の高いボールでラリーのペースを落とすつもりのようだ。
でも生憎、それは私の思う壺だ。吐き気がする。何しろ目下取り組んでいるのは、高校女子で最も高い守備力を誇る暮埼舞香を崩す対策。付け焼刃の守備では、丁度いい練習台になる程度しかない。
例えば、後ろに下がった相手に有効なのはネットプレー。後ろに居る分、返球スピードも落ちるから、こちらもネットに詰める時間的猶予が生まれる。スライスを掬い上げるようなフォアアプローチ、からのボレー。頭が痛い。勢いを殺すように前に落とせば、相手はコート後方から走ってこないといけない。ギリギリで追いついて相手が私の頭上を抜こうとする。甘いからスマッシュで叩き込んでお終い。
「——」
他にも有効なショットはある。ラリー中、ぎりぎりまでバックにボールを退き付け、インパクトの直前、グリップの握りを変えてドロップ。意表をつかれた相手が前にダッシュするも届かない。相手を下がらせておいてのドロップショット。完璧だ。
「——」
ハードコートの上でゆらゆらと揺れる陽炎。コートが陽光を反射するせいで、頭上からも足元からも炙られる感覚。そういえばオーストラリアンオープンでは、コートで目玉焼きが焼けるくらいまで温度が上がるらしい。ぐつぐつぐつぐつ、脳味噌が煮詰まる。サーブを打つ、リターンが返ってくる、ラリーをする気も無く半ば強引にエースを決める。気付けば試合は終わっていた。全部で1セット×5試合分。カウント6—3,6―2,6―3、6―1,6―0。本番の試合を前に、十分すぎる出来といえた。
× × ×
気持ちが悪い。頭が割れるように痛くて、視界がちかちかと明滅している。
「ほら、とりあえず首筋と脇を冷やして。あとは水分な水分。水、足りてるか」
「あります……」
橋本コーチの言葉に小さく頷き、私は日陰のベンチで横になった。完全に熱中症の症状だ。額に保冷剤をあてて目をつぶりながら、私はあまりの愚かさ加減に泣きたくなった。
「……すみません、迷惑かけて」
「ほんとだよ。どう考えても、今日は無理する場面じゃないだろ」
「すみません……」
返す言葉も無い。体調管理も出来ないなんて本当に選手として失格だ。けれど。
「……でも今日、すごく調子よかったので。多分、それで」
「いやまあ、確かにプレー自体は前より良くなってた。迷いが消えた感じがした。けどな」
ところが、コーチは私とは真逆の事を言ってくる。
「調子は良くないだろ。危ういから、ちょっと休ませようと思ってた矢先にこれだよ……」
「危うい?何がですか」
言葉の意味が分からなくて、私は目をつぶって寝転がったまま問うた。すると、コーチは呆れ混じりの吐息を漏らす。
「結花が、だよ。余裕が無くて前のめり。アスリートにありがちなんだよ。没頭し過ぎた結果、身体の出す危険信号に気が付かずに、怪我するか潰れるかって。実際今日だって体調不良に気付いてなかったろ、結花」
言われて私は黙り込む。確かに、気が付いてなかった。いや、もしかしたら無意識で無視していたのかもしれない。
「だから、明日の練習は無しな。ゆっくりと心と体を休めること。いいな」
しかし、コーチの言う事には納得できない。せっかく感覚を掴みかけているのに、休んだら台無しだ。そうして、返事をしない私にコーチはもう一度深くため息をついた。表情は見えないけど、多分呆れた顔をしている。
「あのな結花、何を焦ってるのか知らないが、余裕を持て。メリハリだよメリハリ。テニスに集中するのはいい。けど、それ以外もちゃんと大切に——」
「——ない」
「え?」
「それ以外なんて、私には無い」
気が付けば、そんな言葉が漏れていた。熱中症のせいで思考が麻痺しているからだろう。熱に浮かされ、うわ言のように私は呟く。
「私にあるのはテニスだけ。だから、休んでる暇なんてないの」
今度はコーチが黙り込む番だった。しばらく考え込むような間が空いた後、コーチが静かに口を開く。
「あるよ。だってお前、この前まで色々悩んでただろ。それがテニス以外だよ」
「それは……」
でも、悩んだって苦しむだけだ。意味は無い。ならいっそ、考えなければいい。そう思って私は「私」を切り捨てたのだ。
「でも、それだと試合で勝てない」
「かもな。けど、今のままでもいずれ勝てなくなる。知ってるか?ウィンブルドン決勝の最終セット、最後の最後の極限状態で、七星愛美は応援してくれる夫と娘を支えに戦っていたって」
「——」
知っている。当たり前だ。お母さんのインタビュー記事や映像は全部全部、読んだから。そうして橋本コーチは私に告げる。
「だから、テニスを言い訳に見ないふりをするなよ。ちゃんと悩んで答えを出せ。結花が上を目指すなら、それは絶対に避けて通れない問題なんだから」
はい、とは言えなかった。その答えが分からないから、今の今までずっと苦しんでいるのだ。
「そこまで言うなら、コーチが答え教えてよ」
「答え、ね。——結花はもっと結花自身を信じてあげればいい。それだけだよ」
「——」
私を、信じる。何それ、言ってる意味が分からないってば。
「……コーチ、それ全然答えになってない」
「はは、じゃあもっと考えるんだな。どうせ、結花の答えは結花にしか出せない」
そう言ってから、コーチはあからさまに声のトーンを落とした。
「けど、もう一つの方はなあ……、どうすっかなあ……」
もう一つ。それにひどく思い当たる節があって、だから私は強く唇を噛んで胸に奔る疼痛を無理やり押し込める。
それはいい。もうとっくに終わったことだ。終わらせたことだ。だから考えるな、私。
——なんて。
どうしたら、そんなことが出来るんだろうか。
テニスと、テニス以外。私と、「私」。全部全部切り落として削ぎ落して研ぎ澄ませて、敵を貫く一振りの矛に為ったとして。
けれど、それがお母さんの強さの秘訣でないのだとしたら。
私は。
強く在る為に、どんな答えに辿り着けばいいのだろう——?