夏休みに入ると、うだるような暑さが更に激しくなった。連日のように最高気温が三十五度越えを記録し、朝のニュースのお天気キャスターが熱中症の危険を警告する毎日だ。だがそんなことはお構いなしに五鷹高校テニス部の活動は行われていた。
「……暑、——」
 ジリジリと肌を焼く灼熱の太陽。陽光を反射したアスファルトは今にも溶けそうに陽炎を揺らめかせ、常軌を逸した蝉の叫びが脳を犯してくる。
「くそ、うるせえんだよ、死ね……!」
 俺は頭上の木々を睨みつけながら悪態を吐き、乱暴にランニングシューズで地面を蹴った。校舎周辺、総計三キロをぐるっと一周する走り込みトレーニング——外周トレも既に二周目の半分近く。俺は滝の汗を流しながら、無理矢理荒くなる呼吸を抑えつける。
 それにしても、暑い。水分が不足しているのか、蝉の騒音のせいか、それとも煮えくり返る苛立ちのせいか、俺の視界が一瞬ぐらりと揺れた。だが、立ち止まることは許されていない。何故なら、この外周は俺にだけ課せられた、顧問からのペナルティだからだ。

「——皆川。お前、なんで無断で部活を休んだ?」
 数日前。俺は顧問である吉田に職員室に呼び出され、無断欠席について問い詰められていた。テニス部顧問である吉田は体育会系出身らしく、礼儀やルール違反には殊更に厳しい。案の定、今も吉田は怒り心頭の様子だった。
「部活を休む時は必ず俺に連絡する。それがこの部のルールだったよな?」
「……すみません」
 荒い口調で続ける吉田にぼそりと俺は謝罪をする。正直、俺はこの顧問が苦手——否、嫌いだった。
「すみません、じゃなくて。俺は、お前がルールを破った理由を聞いてるんだ。分かるか?」
「……」
 うるせえな、お前と話したくなかったからだよ。
 高圧的な吉田の物言いに反射的に舌打ちをしそうになり、俺はそれを懸命に自制する。それでも、この詰問に何の意味があるのかと思わずにはいられない。確かに無断で部活をさぼった俺に非がある。それは理解している。だから俺が怒られるのは当然のことだ。
 だが。
「大体な、お前はレギュラーの自覚が足りてなさすぎる。レギュラーが練習サボったら、他の真面目に練習している部員に示しがつかないだろ。ここは部活だ。テニスが強ければ何しても許される訳じゃない。言ってること分かるよな?練習の時もお前だけ全然声出てないしよ」
「……はい」
 俺とこの顧問は致命的なまでに反りが合わない。偉そうな言い様、前時代的な体育会系思考、無駄な根性論や非合理的な精神論。吉田の言動の一々が俺の癪に障る。
 なら聞くけど、球出し時の声出しに何の意味があるんだよ。ナイスショットとか適当に叫んでたら上手くなるのかよ。ならねえだろ。
 そんな無駄なことをしてるなら、打ってる奴のフォームとか見て指摘し合った方が上達するに決まってんだろ、馬鹿じゃねえのか。
 喉の上まで出かかった悪態を飲み下し、俺は唇を結む。こういう時は決して反論してはいけない。反論しても余計に面倒なことになるだけだ。すると吉田が大きくため息をついた。
「いいか、二度は無いぞ。次やったら試合に出さないからな。とりあえず今回はペナルティで一週間、練習時に外周二周。二周走ったら、コート練に参加して来い。いいな?」
「……分かりました」
 そうして、俺は罰走を課せられた訳だった。

 × × ×

「——、——、——は」
 何とか二周を走り切る。この炎天下では、それだけでウェアが絞れるほどに汗で濡れていた。
 俺は異常に熱くなった身体を冷やす為、グラウンド脇の水飲み場に向かい、蛇口をひねって頭から水を被る。しばらく冷水を浴びていると、ようやく呼吸と苛立ちが落ち着いてくれた。
 そのまま何とはなしに、青く晴れ渡った夏の空を見上げる。決して手に届かず、眩しさで目を焼かれるほどに、遠い空。
「なにやってんだか」
 冷却され、冷静になった頭に浮かぶのは、どうしようもない馬鹿らしさだった。こんなことに何の意味があるというのか。俺は一体、何の為にこんなことをしているのか。問いかけに答えは無い。そして、答えが無いというのがどうしようもなく明確な答えだった。結局、今の俺には何の意味も、何の価値も有りはしないのだ。
「……戻るか」
 俺は真っすぐに澄んだあいつの瞳のような空から目を逸らし、重たい足をテニスコートに向ける。その時、テニスコートからこちらに歩いて来る人影と目が合った。
 真っ黒に日焼けした、負けん気の強そうな顔。うちの部のキャプテン兼エースの平井だ。平井は俺の姿を認めると、表情に苛立ちを浮かべてつかつかと歩み寄ってきた。
「皆川。お前、何してんだよ」
「は?見れば分かるだろ?外周終わって休憩中だ。今からコート戻るとこだよ」
 俺が肩を竦めて答えると、平井がちげえと首を振った。
「そうじゃない。俺が言ってんのは、こんな試合前の大事な時期に何をしてんだってことだ。吉田先生がサボりに厳しいこと知ってるだろ。なのに無断で休むとか馬鹿なんじゃねえの。ガチで優勝狙える位置に居るんだぞ、俺ら。外周なんかしてる場合じゃねえだろ」
「うるせえな……」
 暑苦しい部長に俺は呻くように応じる。
 都立団体優勝。それは、五鷹高校男子テニス部が掲げる最大の目標だ。吉田も平井も他の部員も、皆が皆、優勝という目標に向かって日々練習を重ねている。その熱の中、俺だけがゾンビのように冷え切ったままだ。もしかすると、蛇口の水で身体を冷やし過ぎたのかもしれない。
「は、」
 そんな下らない考えが浮かんで来て、つい俺は笑ってしまった。
 すると、水をガブ飲みしていた平井が顔を上げて俺を睨む。
「なに笑ってんだよ。やる気あんのか?お前がシングルで一勝、俺がダブルスとシングルで二勝。優勝するにはそれが必須だって分かってるよな?絶対優勝だかんな」
「……」
 平井の言葉に、俺は一瞬押し黙った。
 ああ、優勝しようぜ。
 返すべき返事は、考え得る限りそれ以外には無いはずなのに。
「はいはい、分かってるよ。勝ちゃいいんだろ」
「お前な……」
 投げやりな俺の返事に平井が何かを言いかける。それを無視して、俺はコートに向かった。三十五度を超える猛暑日。同じ炎天下に居るはずが、温度差で風邪を引きそうだ。
 ——たかが部活の試合如きに、なんでそんなに熱くなってんの?
 言いかけた言葉は胸の中に沈み込み、黒く淀んで溜まっていく。


 × × ×

 太陽が高度を上げるにつれ、より酷暑は厳しさを増していった。
 背面を部室棟、正面を大学病院に囲まれたテニスコートは風通しが悪く、まるで巨大な蒸し風呂のように感じられる。その中ではパアンパアンと木霊する打球音もどこか元気がなく、部員の誰も彼もが死にそうな顔でボールを追っていた。
「だらだらやるなよ!暑いのは分かるが、大事なのはメリハリだ!」
 元気なのは一人、日陰のベンチに座って声をあげる吉田だけだ。ならお前もこっちに来てやれよと毒づきながら、俺は球出しのボールをコートの指定されたエリアを狙って打つ。
「二十一!ナイスショット!」
 瞬間、コートの向こう側で球拾いグループの奴らがやけくそ気味に叫ぶ声が聞こえた。
 フォア、バック、フォア、バック。俺はベースライン上を移動しながら、交互に出される球をクロスコートの深くへ打っていく。一人二十球、レギュラーは四十球、コーンで区切られた縦横一メートル程のエリアに入れるまで、この地獄の練習メニューは終わらない。
「——は」
 俺の前に先にメニューをこなしていた他の部員は死屍累々で、俺も間もなくそこに仲間入りするだろうことは想像に難くない。急にアホらしくなって、俺は球出しをされたボールをバックハンドで思いきりぶっ叩いた。するとそのショットはコートを遥かオーバーして、ガシャンとフェンスに衝突する。
「皆川、集中しろ!お前は都団体の決勝でもそのプレーをするつもりか!?」
「——」
 するとすかさず吉田の怒声が飛んで来た。
 うるせえな、やる訳ねえだろ、馬鹿じゃねえの。
 口の中だけで俺は吐き捨て、再びフォアハンド側にスライドする。
 構えて、踏み込み、強くボールにスピンをかける。
 ネットより二メートル上。ほとんどミスをしない、ラリーのベースとなるショット。だが、余計な力が入ったのか俺のショットは狙いを外し、エリアの外にバウンドする。次、バック。構え、打ち、エリアには入らない。くそ、この下手くそ。
 フォア、バック、フォア、バック。打ち続けるうち、疲労と苛立ちが積み重なり、更にショットコントロールは乱れていく。ゴミみたいな、最悪の悪循環だ。やがて、球出しを担当している平井が痺れを切らしたのか、声を荒げた。
「皆川、いい加減終わらせろよ!!あと五球だぞ!」
 どうやらあいつも相当に苛立っているらしい。だが、苛立っているのは俺も同じだ。こっちだって早く終わらせてえんだよ、こんな練習。返事の代わりに、俺は歯を食いしばってボールをコートに叩き込んだ。

 午前九時から十三時までの練習のうち、前半二時間は全体の基礎練習。残りの二時間はレベル別に分けて試合形式の練習だ。コート数の都合からレギュラー組六人に割り当てられたのは一面で、今日はダブルス。だから幸い、三試合に一試合は休憩することが出来た。
「づかれたあああ……。死ぬわ、もう。きつすぎ……」
「だな……」
 平井・石原ペアと北戸・町谷ペアの試合を日陰のベンチで眺めながら、俺はペアである山島と雑談を交わす。山島は二リットルのジャグに入ったスポドリをごくごく飲むと、はあーと人心地ついた息を吐いた。
「生き返るうう……。てかこれもう運動していい気温じゃないでしょ。人死にが出るって」
「そういえば、さっき一年が一人保健室に行ってたな」
「え、マジで?いいな……」
 俺が言うと、山島が真っ赤に日焼けした顔で羨ましそうな声を漏らす。その余りに正直な反応に苦笑してしまった。山島は中学が一緒なこともあり、部内で一番親しい奴だ。
「山島。それ、顧問に聞かれたらレギュラー外されるぞ。やる気のない奴を試合に出すほど俺は甘くないんだー、とかなんとか言い出して」
「うっわ、超言いそうじゃん……。いや絶対言うなそれ。皆川、流石の理解度だな」
「まあな。実際この前言われたし」
 バリバリ体育会系の熱苦しい顧問に対しては、部員の中でも好き嫌いが分かれている。レギュラーでいえば部長の平井や、石原、北戸なんかは割と心酔している方で、逆に山島はそりが合っていない。だから自然、山島との会話は顧問の愚痴が多くなる傾向があった。
「皆川、この前部活さぼったもんなあ。蛮勇が過ぎるでしょ。なに、死に急いでるの?」
「急いでねえよ……。あの日は、ちょっと、……色々あって」
「はいはい、七星さんね」
 俺が濁した事を、さらりと山島が口にする。
「可愛くてスポーツも出来る幼馴染とか、なにそれマンガかよ羨ましすぎる。つーか、まだギクシャクしてんの?中学の時は仲良しだったじゃん、お前ら」
「……うるせえ、余計なお世話だ」
 俺は渋面を作りながら、山島の頭を軽く弾く。それから俺はジクジクと痛みを主張する傷跡に蓋をするように、息を吐いて瞼を閉じた。とうに終わった昔の話だ。過ぎ去った過去には戻れない。だから、後悔することに意味は無い。否、自ら投げ捨てたくせに、後悔するなど何様のつもりか。
「——お、試合終わったみたいだな」
 山島の呟きに瞳を開ける。見ると、平井と石原が意気揚々とベンチに向かって来ていた。どうやら、あいつらのペアが勝ったらしい。
「じゃ、皆川。やるかー」
「……ああ」
 重たい腰を上げて、俺は再び炎天下の地獄へと踏み出す。途端、むせかえるような暑さに一瞬視界が眩んだ。あいつも今テニスしてんのかなと、眩む視界の中でふとそんなことを考えた。

 × × ×

 部活を終え、くたくたになった身体を引きずるようにチャリを漕ぐ。ラケバを背負ったせいか背中は蒸れて、濡れたワイシャツが張り付く感覚が鬱陶しい。喉の渇きもひどく、砂漠を彷徨う人間の追体験をしているみたいだった。
「あちい……」
 顎から滴り落ちる汗を拭うと、俺は自動販売機を探してぐるりと視界を巡らせた。すると数十メートル先に赤い自販機が目に入って、たまらず立ち漕ぎでそこへ向かう。それから、なけなしの百三十円と引き換えに、落下してきたコーラの缶を自販機の底から取り出す。
 無駄遣い極まりないが、流石にこの暑さだから仕方が無い。しかし、カシュとプルタブを引いた途端、シュワシュワと勢いよく中身が噴き出してきて、溢れ出た黒々とした液体が俺の手を濡らした。慌てて口をつけるも大半の炭酸は抜けてしまって、気の抜けた砂糖水の味しかしない。
「……くそが」
 最悪だ。悪態をつき、俺は中途半端に中身の残った缶を握り潰す。
 自販機横のゴミ箱はペットボトルや持ち込まれた家庭ごみなどでパンパンで、蓋も締まらない有様だ。だが、俺はその上からコーラの缶を叩きつけて無理やり押し込んだ。
 ゴミが溢れようが知ったことじゃない。どうせ業者が勝手に回収するはずだし、そもそも悪いのは家庭ごみを持ち込むクズ共だ。俺は自販機に背を向けると、濡れたせいでコーラ特有のベタつきが残ったままの手でサドルを掴む。苛立ちのままペダルを乱暴に踏みつけようとした時、ポケットに入れたスマホがブルリと震えた。取り出して見ると、山島からメッセが来ている。
『さっき聞き忘れたんだが、来週末空いてる?暇なら花火大会行こうぜ。ちなみに女子も来る。クラスの女子の奴らが皆川も呼ぼうって言い出したんだが、何なのお前?殺すぞ?』
「キレんなよ……」
 それを読んで思わず呟いてしまう。でも、既読をつけないでおいたのは正解だった。正直、このクソ炎天下の中で突っ立って返信するのは面倒過ぎる。
「そういえば、もうそんな時期だったか」
 スマホを再びポケットにしまい、俺はチャリを漕ぎ出した。
 花火大会といえば、五鷹祭の花火のことだろう。ここらでは有名で、隣接する市からも見物人がやって来るくらいの規模の花火大会。五鷹市の夏の風物詩になっているイベントで、大体祭りの前は毎年誰と行くかで話題は持ちきりになるし、実際、この花火大会前後で多くのカップルが出来ていた。
「花火、ね……」
 行くか、行くまいか。逡巡しながら俺は青い空を見上げる。山島の誘いに、僅かばかり浮足立つような気持ちもしたのは事実だ。けれどそれより、躊躇いや後ろめたさを強く感じた。
 結花の姿が自然と脳裏に浮かんでくる。俺が花火大会に行ったら、あいつはどう感じるのだろう。何とも思わないだろうか、それとも何かを思うのだろうか。
「……別に関係無いだろ、あいつは」
 言葉に出して、俺は無理矢理に考えを打ち消した。あまりに自意識過剰でおぞましい。自分で自分が気持ち悪くなる。何を気にしているというのか、俺は。
 結花は俺の何でもない。俺だって結花の何でもない。俺と結花はただの幼馴染——それも疎遠になって、今はクラスメイト程度で、それ以上でも以下でもない。けれども、わざわざそう言い聞かせている時点で、俺の心は知れていた。
 ——ドロリと、黒く暗く濁り切った、醜悪な感情が首をもたげるのが分かった。
「——」
 ひゅーん、ばーんと遠く花火の音が聞こえた。今ではなく、いつか昔に聞いた音。ぱっ、ぱっと刹那のうちに断片的な光景が蘇り、鋭利な痛みが胸を刺す。闇夜を照らす鮮やかな色彩、はしゃいで空を見上げる結花。その綺麗な横顔を俺は毎年見つめていて、いつからか隣に居ることも無くなって。
 壊して離れて何かが終わり、だから続きに今がある。
 なればこそ、近づいてはならない。近づくことは許されていない。
 それでも俺は、考えずにはいられなかった。
 もしも。もし仮に十二年前のあの日に、俺があんな約束さえ口にしなければ。俺の、俺たちの現在は、果たして今とは違っていたのだろうか。

 × × ×

 気が付けば、MTCの前までやって来ていた。チャリに跨ったまま、俺はぼんやりと長年通っていたテニスアカデミーを見やる。
 年季の入ったクラブハウスも錆びた駐輪場も、何一つ変わっていないはずなのに、どこかひどく懐かしい。郷愁めいた痛みが疼き、俺はふと我に帰る。
「何してんだ、俺」
 出てくるのは心底呆れたため息だ。今更何をしたいのか。馬鹿げた己の行動にほとほと愛想が尽きて、俺はアカデミーに背を向けようとする。
「——っ!」
 瞬間、クラブハウスから出て来た人物の姿を認め、俺は反射的に自転車のペダルを強く踏んだ。出てきたのは結花だ。見つかる訳にはいかない。俺は身を隠す場所を探し、とりあえず目についた自販機の横にキキっとブレーキをかけて回り込む。
「タイミング悪すぎだろ……」
 驚きのせいか心臓が激しく脈打っていて、気持ちを落ち着かせるように深く息を吸う。それから慎重に顔を覗かせて見ると、結花がアカデミーの入り口付近で立ち止まって不思議そうにキョロキョロしていた。幸い俺の姿はぎりぎり見られていないようだ。危なかった。
 だが、念のためさっさと立ち去るべきだ。そう思って、俺は再び自転車を漕ぎ出そうとして——けれど、結花の後ろから次いで現れた人影を見て呼吸が止まった。見違えるはずがない、見紛うはずが無い。親しげな笑みを浮かべて結花に声をかけたそいつは——紛れもなく黒岩光輝だ。
「——なんで、黒岩がここに」
 不意にフラッシュバックする中学の記憶。
あの時と同じくうだるような暑さのなか、呆然と立ち尽くしたまま結花と黒岩が二人で話しながら歩いて行く姿を見送り、「皆川春斗」の残骸がうわ言のように呟いた。
「違う」
 ガシャンと自転車が音を立てて倒れる。だが、俺はそれにすら気が付かない。違う。違う。違う、違う、違う、違う、違う。この光景は違う、間違っている。頭の中でぐるぐると。訳の分からないことを捲し立てているのは、一体全体、誰なのか。そうじゃない、お前じゃない。そこに居るのは、結花の隣に居るのはお前じゃない。お前じゃなかったはずなんだ。本当はそこに俺が——。
「——本当は?」
 そこまで考えて、俺はぶは、と噴き出した。あまりのおかしさ加減に俺は笑い転げる。
 何が本当は、だ。今、この光景が本当だろうが。お前のそれはただの妄想だ。現実見ろよ。皆川春斗は七星結花の隣に居ない。他でもないお前自身のせいでそうなった。いい加減にしろよ、このカスが。
「ああ、ほんと、くっだらねえ」
 笑い過ぎてどうしようもなかった。人生でこんなに笑ったのは初めてだった。あまりに滑稽で面白すぎて、どうしようもない。
 早く死んでくれねえかな、こいつ。

 × × ×

「——ふ」
 余計な力が入らないように、息を吐きながらフォアハンドでボールを潰す。狙うはストレートのウィナーだ。パアンと打球音が響き、だが俺のショットは次の瞬間にはネットの白帯に逢えなく弾かれる。
「カモン!!」
 直後、コートの向こう側で平井が拳を握る。それを尻目に俺はベンチに引き上げ、ジャグのスポドリをごくごくと乱暴に飲み下した。
 今日はシングルスの試合形式の練習を行っている。こういう時は大抵、俺は平井と試合をすることになる。実力が拮抗していることもあるが、平井は俺をライバル視しているらしく、何かと試合をしたがるからだ。
 昨年は基本的に俺が勝ち、つい最近までは勝ったり負けたり、ここ数試合は俺の負けが増えて来ている。平井がぐんぐん上手くなっているのは、対戦している俺が一番良く分かっていた。
「ゲームカウント3―1、平井リード」
 審判席の北戸がコールし、平井がサーブの姿勢に入る。先のサービスゲームをブレイクされた俺は、早々に平井を追いかける立場となっていた。
 基本的にブレイクされた直後にブレイクバック出来なければ、流れは相手に持っていかれてしまう。まして、ワンセットしか無いなら猶更だ。試合全体を鑑みれば、このゲームの重要性は考えるまでもない。
「——」
 ——なのに。
 平井がサーブを打つ。ワイドに逃げるスライスサーブ。たん、たたん、とステップを合わせ、俺は強引にストレートにボールを叩き込もうとする。
 だが、リターンはまたもや白帯にぶち当たり、相手コートに返ることは能わない。てんてんと弾むボールを見て、どうしようもない苛立ちが込み上げて来た。
「くそ、この下手くそ!!」
 声を荒げ、俺は自分の腿を思いきり叩く。こんな無駄なリスクを負ってわざわざ難しいショットを打つとか明らかに馬鹿げている。
 今のポイントは堅実にクロスにリターンして、ラリーを作るべきだ。もちろん、そんなことは分かっている。染み付いたテニスの常識だし、考えるまでもなく、意味のないショット選択だったと頭では理解している。
 ——なのに。
「15―0」
 アドバンテージサイド、平井のサーブ。今度はワイドに跳ねるスピンサーブだった。ボールは高く弾み、打ち込むのは難しい。セオリーなら下がって、ボールが落ちて来た所を打つべきだ。
 だから俺は一歩前に踏み込んで、無理矢理にボールが弾む瞬間にライジングショットでリターンする。案の定、リターンはサイドラインを大きく割って返らない。
「なんで!」
 ラケットを放り投げたくなるのを、渾身の意志で自制する。
 なんで、だと。何言ってんだよ。お前にはそんなに難しいショットを打てる実力が無いんだから、ミスするのは当たり前だろ。
 頭の片隅、冷静な自己が冷ややかにそう言い捨てる。
 ——なのに。
 ——なのに。
 ——だから。
 俺は、その難しいショットを打たずにはいられない。だって決まるはずだ。テニスが上手ければ、実力があるのならば、もっと才能があるのなら。
 ——例えば、黒岩光輝なら、いとも簡単に決められるはずだ。
 でも、お前は違うだろう?都大会止まりの下手くそだ、才能の無い雑魚だもんな。
「黙れ」
「30―0」
 再びのフォアからのサーブ。もう二回チャンスはある。平井の構えから打ってくるコースを予測、ワイドにもう一本——ドンピシャ。俺はグッとラケットを引き、だが予想外にスライスが切れていてボールは大きく曲がる。
 そのせいでスイートスポットで捉えることは出来ず、ラケットのフレーム付近でリターンする羽目になってしまう。
「っ!」
 瞬間、パツンと音を立てて、何かが呆気なくぶつりと断ち切れた。
 ラケットを見ると、ポリエステル製のガットがラケットの上の方で切れている。
 通常、ガットの切れ方には二周類あって、ラケットの真ん中で切れるのはちゃんとボールを真ん中で捉えられている証拠の上手い人の切れ方。一方、ラケットの上で切れるのはボールを滅茶苦茶な場所で打っている下手くそな奴の切れ方だった。
「——は」
 気付けば、俺はガットの切れたラケットを手に乾いた笑いを漏らしていた。
「はは、」
 限界まで張り詰めていたその糸が、見る影もなく切れてしまっているのが分かった。
 ——俺、なんでテニスをしてるんだっけ。
 ああ、だから。長らく俺が問い続けて来た疑問には、とうとう答えが見つかってしまった。
 答えは、無だ。意義は無い。意味は無い。価値は無い。何も無い。俺がテニスをする意味は、もうこれっぽっちだって残ってなどいなかった。
「……だよな。知ってた」
 ラケバに替えのラケットを取りに行きながら、俺は自嘲気味に呟く。でも、本当はそんなの、ずっと前から分かっていた。
無意味で無価値。たかが部活、たかが低レベルの試合をこんなに必死になってやる意味など無いなんてとうの昔に理解していた。それを見ないふりして誤魔化して、騙しだましやって来ただけだ。
 俺はなんて無意味なことをしていたのだろうか。
 替えのラケットを持って戻ると試合が再開する。けれど俺に戦う気力もボールを追う意味も、もう微塵も残っていなかった。
 結局、そのまま呆気なく俺は平井に1―6で負けた。
 そして。

「——てめえ、ふざけてんじゃねえぞ!」

 試合が終わった瞬間、ラケットを投げ捨て、憤怒の形相で平井が俺の元に走ってきた。そのまま奴は俺の胸倉を掴み上げて、至近距離で怒鳴ってくる。
「やる気がねえなら帰れよ、この野郎!適当に無気力なプレーしやがって!お前みたいなのが居ると邪魔なんだよ!!」
 その声に打たれて、俺は納得した。きっと俺はその言葉を待っていたのだ。糾弾されるのを、諦められるのを。辞める言い訳を貰えるのを、どこかでずっと欲していた。それで図らずも薄く笑みが浮かぶ。
 分かったよ、帰る——そう、俺が言いかけたその直前。
「何笑ってんだよ!!だいたい意味分かんねえんだよ!団体戦前だっていうのに、なんで急にやる気失くしてんだよ!この前俺に負けたからか!?だから実は本気なんか出してないんです、とかいってスカしてんのかよ!?」
「——」
 目の前で叫ばれた言葉に、俺のちっぽけなプライドが苛立った。
 頭にカッと血が昇って、衝動のままに叫び返してしまう。
「っ、っせえな、意味分かんねえのは俺の方だよ!じゃあ聞くけどな、平井、お前は何のためにテニスやってんだよ!?どうせプロにもなれやしねえ!たかだか部活程度に熱くなって、それこそ無駄だろ!!こんなテニスに、何の意味があるってんだよ!!」
「てめえ、言ったな——!!」
 瞬間、右の頬に鈍い痛みが走った。平井に殴られたと理解して、この胸のムシャクシャを発散できる機会を得たことに歓喜した。先に手を出されたなら殴り返してもいいはずだ。
「痛ぇな!!」
 拳を握って目の前の男の顔面を狙う。ごしゃと殴った感覚と共にみぞうちに鈍痛。後はもう乱打戦だった。殴り、殴られ、蹴り、蹴られ。俺と平井の喧嘩が始まる。
「俺は前から思ってたけどな!いつもつまらなそうに部活やってて、うぜえんだよ皆川!!ちょっとテニスが上手いからって、周りを見下してんのか!?」
「ざけんな、俺が上手い訳ねえだろ!!!都大会止まりのクソ雑魚がテニス上手いとか、己惚れてんじゃねえよ!!」
 つかみ合い、口から次々に罵倒が飛び出す。その剣幕のせいか、俺たちの喧嘩を止めに入ってくる部員はいなかった。
 それからやがて、やってきた顧問が一喝する。
「平井!やめろ、落ち着け!!」
 顧問が平井の肩を羽交い絞めにして引きずっていく。
 俺が奴を追いかけてやろうと思うと同時、なだめるように肩を軽く叩かれた。振りかえって睨むと、山島が首を横に振って俺を見ている。それで僅かに冷静になった。俺は、ようやくやらかした事の重大さを悟った。
 すると、平井を宥めていた顧問が俺の元にやって来る。顧問はひどく冷たい目をしていた。
「俺は言ったよな、二度は無いと。やる気のない奴や和を乱す奴はこの部に要らない」
 俺に怒りもしなかったのは、既に見限っているからだろう。
 そして、顧問が短く宣告した。
「……帰れ。二度と部活に顔を出すな」
 一言。それだけ言い放つと、顧問はくるりと俺に背を向け、ぱんぱんと大きく手を叩いた。
「さあ、部活再開するぞ!!二年は試合、一年は練習な!一年の練習は俺が見るから、二年は平井の指示に従え!だらだらやらず、ちゃんと集中していこう!!」
「「「はい!!」」」
 部員たちが大きな声で返事をし、てんてんとコートに散っていく。
 部活は即座に活気を取り戻し、喧嘩など無かったかのように誰もが集中して練習を再開した。
 その光景を見ながら、俺はコートサイドで荷物を纏める。ラケバに水筒とタオルとラケットを乱暴に突っ込み、シューズを脱ぎ捨て上履きに履き替える。
 胸中を暗い安堵が満たしていた。もうテニスをやらなくて済むと思うと、心が軽くなった。縛られ続けていた呪いから解放されたようにも感じた。
 俺はテニスを辞めた訳じゃない。辞めさせられたんだ。だから、仕方ないんだ。誰に対して言い訳しているかも分からないまま、俺は何度も何度も繰り返し唱える。それから俺はテニスコートに背を向けた。振り返ることはしなかった。
「——」
 コートを後にして、誰も居ない更衣室に着いてから大きく息を吐く。壁に背中を預けて、ずるずると床に座り込む。汗の匂いと制汗剤の匂いの入り混じった更衣室は、エアコンがついていない。密閉された空間は、外とは違う不快な熱気が籠もっていた。
 開け放たれた窓から入ってくるグラウンドの野球部の掛け声やサッカー部のホイッスルの音を聞いていると、荒れ狂っていた心が段々と落ち着いてくる。
 やがて、その後に残ったのは底知れぬ空虚さだけだった。
「——終わった」
 コツン、と壁に後頭部を軽くぶつけて声を出すと、じわじわと実感が湧いて来た。
 終わった。全部、何もかも、終わった。
 だからもう、俺には何も無い。
 この手に握れるものは何一つ残っていない。
「くそ、くそ、くそ……!!」
 何故かジワリと視界が滲んできて、俺は声を殺して一人で泣いた。
 何の涙なのかはついぞ分からないまま、ただ、溢れてくる涙だけが止まらなかった。