まるで、底なし沼にズブズブと沈んでいるような感覚だった。
「ゲーム。暮埼リード5―1」
「——、——、——、」
藻掻けば藻掻いた分だけ、粘着質な泥と水草が身体中に絡みついて来る。重たい。ハードコートのはずなのに、ぬかるんだ地面に足をとられてボールを追うことが出来ない。苦しい。いくら呼吸しても新鮮な酸素が無い。泥が喉の奥に詰まって息がし辛い。
何とかして振りほどこうと私はラケットを振る。けど、泥が動きを鈍らせてスイングは中途半端になる。結果、私が打ったボールはフォアのサイドラインを大きくオーバーする。コートの向こうで暮埼さんが小さく拳を作るのが見えた。
「アウト!」
「15―0」
線審の人が大きく叫び、主審がカウントを淡々と告げる。ぱらぱらと観客席から拍手が聞こえる。ボールパーソンの人が、暮埼さんに新たなボールを供給する。
その光景を横目に、私は必死に重たい泥の中を掻き分けてアドバンテージサイドのリターンの位置に向かった。次のポイントまで二十秒。その僅かな時間で思考すべき戦略や予測などを全て放り投げて、私はただ空を仰いだ。今にも雨が降り出しそうなほど、分厚い雲に覆われた空を。
MUFG全国ジュニアテニストーナメント、女子シングルス決勝戦。それが、今私がしている試合の名前だ。1セット目を4―6で落とし、迎えた2セット目もスコアは現在1―5。相も変わらず、私は暮埼さんに良い様にやられていた。
暮埼舞香。彼女は私と同じく高二で、幼い頃からのライバルだ。憧れの選手としてシモナ・ハロプとラファエル・ナガルを公言している通り、そのプレースタイルはまさしく鉄壁。どこに打ってもいくら攻めても、全部ボールを拾われる。強靭なフットワークに基づく守備力と鋼のような精神力を武器に、彼女は高校女子テニス界のナンバーワンに君臨している。
「——」
ぱあん、と暮埼さんの打った早いフラットサーブがセンターに来る。飛びつこうとする意志とは裏腹に、私の身体の動きはのろまに過ぎた。届かず空を切るラケット。あっさりとサービスエースを決められ、また一段、身体に纏わりつく重みが増したのが分かった。
「30―0」
けどあと二点だ。あと二点で終わる。あと二点で終わってくれる。
——終わってくれる?
「は」
思わず脳裏を過ぎった思考に私はほとほと呆れた。それじゃまるで、私が負けを望んでいるみたいだ。そんなはずはない。そんなことは有り得ない。私は、負ける訳にはいかないのだ。
けれど、なんでだろうか。今回こそ負けないって、今度こそは負けられないって、試合前はそう思って、試合中もちゃんと暮埼さんを倒すプランを持って作戦を実行しているのに。
気が付けばいつの間にか、私は相手でなく「私」と戦っている。
ミスを重ねる度、アンフォーストエラーを犯す度、コートの向こうは見えなくなって、弱気な「私」が顔を出すのだ。
これ以上ミスしたくない。負けたくない。「私」が吐き出す泥の呪詛が私の動きを鈍らせて、結果ミスしてラケットが振れなくなる。それでまた迷ってミスして、挙句の果てに自滅する。
本当に、泥沼に嵌まるみたいな悪循環だ。そして一番愚かしいのが、理解してるくせに一向に改善の余地が見られない、私自身の弱さだった。
「——」
ぱあん、ぱあんとラリーが続く。切れ味を失った私の矛はただの無用の長物だ。眼前の盾を貫き通すことなど出来ようもなく、無理やりに突けばポキリと根元からへし折れるだろう。
暮埼さんのフォアが放つ強いスピンのかかったボールが、私のバック側のコート深くに突き刺さってくる。彼女の重たいボールは、サーフェースがハードということもあり、恐ろしいほどに高く跳ねる。高い打点では力が入りにくい片手バックハンドの私にとっては、最悪ともいえる相性。
だから、そういうラリーになった時の対処法は大体二つで、一つは後ろに下がってボールが落ちて来てから打つやり方。けれどこれは守備位置をコート後方に下げられる為に、コート内側に入ってプレーする私のテニスを放棄することになってしまう。
「っ、——」
故に行うのはもう一つの対処法だ。私は、暮埼さんのボールが高く弾む前、バウンド直後のタイミングで一歩前に踏み込んで叩く——いわゆるライジングと呼ばれるショットで返球する。
たたん、ぱあん、たたん、ぱあん、と異なるリズムで打ちあう私たちのラリー。執拗に私のバックを狙って来て、結果、バックハンドのクロスラリーが展開される。何球も続くクロスの打ち合い。このポイントだけは落とせなかった。私が落としたら相手のマッチポイントだ。
そうなれば負ける。負けてしまう。私は、七星愛美の娘なのに。
「あ——」
瞬間、私の瞳がコートに居るはずのない人の姿を捉えた。
揺るぎない強さを持った、格好いい背中。記憶の中で、実際の映像で、幾万幾億と見続けて来た、私の憧れの人の背中。世界最高で世界最強のテニス選手だった、七星愛美——お母さんが見える。
暮埼さんの打ったボールが少し浅く弾んだ。絶好のチャンスボールだ。だから、幻のお母さんはその瞬間に迷わず動いていた。
伝家の宝刀、七星愛美の代名詞。片手バックハンドから繰り出される彼女のダウン・ザ・ラインは、あらゆる守りも貫く絶対の矛。どんな時でも果敢に攻め続ける、彼女の超攻撃的テニスの象徴だ。
「——っ、」
であれば、私もそれを打てなければ話にならない。そうでなければ意味は無い。そうでない私に価値は無い。何故なら私は、七星結花。——七星愛美の娘だから。
歯を食いしばって、母の幻影をなぞるように動く。一歩踏み込み、ラケットをテイクバック。振りきれ。研ぎ澄ませ。一閃しろ。
「——」
その時、不意に声がする。
本当に出来るの?私に。お母さんと違って、国内でも優勝出来ない私なんかに。
そうして、私の形をした泥が私に絡みついて来る。身体中がずしりと重たくなる。その間にも母の背は遠ざかって、幻影は消えていって、どうしても追いつけなくて。何もかも振り払うように無理やり打ちに行ったボールは、大きくコートから外れてしまった。
結局、それからすぐに試合は終わった。
カウント4―6,1―6。
何にもならない、どうしようもなく無様なプレーをして、私は負けた。
それが六月——夏がやってくる、少し前の出来事で。
それ以来私は、先の見えない暗闇を彷徨い続けている。
あの日の約束と誓い。それだけを、進むべき道の標にして。幼子がぬいぐるみと共に眠るように、大事に胸に抱きしめながら——。
× × ×
十年前のあの日は、雨の匂いと線香の香りがしていた。私が覚えているのはそんな断片的な光景だけだ。
他には、黒服は着慣れなくてたくさんの真っ黒な人が居たこと。すすり泣く声とお坊さんの不思議なお経が響いていたこと。憔悴したお父さんの姿と写真の中で笑っているお母さんの姿。痛かったこと。寂しかったこと。哀しかったこと。辛かったこと。空っぽで、絶望して、泣いていたこと。そして何より——葬式が終わった後のこと。
恐らく、火葬が済むのを皆は控室で待っていた時だったはずだ。幼い私は、控室を飛び出して外を彷徨っていた。外は雨が降りしきっていて、喪服はびしょびしょ、顔は涙でぐしゃぐしゃだった。
一体あの時の私は何がしたかったのだろうか。その理由は定かではないけど、推測くらいはついた。多分、全部が全部嫌になったのだ。だって、その時のお父さんは虚ろな顔をしていて、私を見ていてなどくれなかった。他の会う人全員は、私を見て「可哀想に」と言っていた。それがたまらなく嫌だった。
私は「可哀想な子」なんだと突き付けられている気がして、お母さんが居なくなったことをこれでもかと私に分からせようとしているような気がして。だから、幼い私の行動は逃避に近い。現実から目を逸らし、遠ざかるための行動。でもどこへ行けばいいのかも分からなかったから、ただ彷徨うだけで。私は、帰るべき場所を見失った迷い子だった。
「うううう、」
小さな足が地を踏むたびに泥が跳ねて服が汚れる。寒さと心細さと寂しさに心が押し潰される。まるで世界に一人きりで取り残されたような感覚。けれど、その中でもこれだけははっきりと覚えている。雨に打たれて蹲る私を見つけてくれた瞬間のことは、今でも鮮明に。
「もどらないと、かぜひいちゃうぞ」
そんな声と共に、私を打っていた雨が不意に止んだ。びっくりして顔を上げると、白い傘が目に入った。それから視界が優しい顔の男の子の姿を捉えた。
「——はると、くん」
私はぼんやりとその名を呼ぶ。
春斗。彼は、私が生まれた頃から傍に居た幼馴染だ。お母さんと春斗のお母さんは中学以来の親友らしくて、お母さんがツアーに復帰してからは私は春斗のおうちで過ごすことが多かった。春斗は幼い頃から利発で、いつも私の手を引いてくれていた。 この時も同じように。
「ほら、たてる?」
「う、うん」
春斗は、座り込んだ私に向かって手を伸ばしてくれた。掴んだその手は暖かくて、触れ合った手だけじゃなくて、心までポカポカと温かくなる。繋いだ手は離さないまま、私は空いた手でごしごし涙を拭いて春斗に問うた。
「な、なんで、わたしがここにいるって、わかったの?」
「がんばって探したんだよ。そしたら、みつけた」
すると彼はそう言って胸を張って笑った。それで私は、その時になって気が付いた。私は、見つけて欲しかったのだと。そうやって、独りじゃないと言って欲しかったのだ。
小さな傘に二人で身を寄せ合い、手を繋いだままで火葬場に戻る。
その途中に、春斗が呟いた。
「あのさ。このまえ結花ちゃんのママの試合を見た時に、おれ思ったんだ。おれも、あんな風になりたいって」
「——!」
その言葉は、私が抱いていた思いと寸分も違わぬもので、思わず息を呑んでしまう。
「だからさ、約束しよう」
「約束?」
首を傾げた私に対して、春斗は真っすぐに、どこまでも真摯な瞳で頷いた。
「いっしょに頑張って、グランドスラムを優勝しよう。それで、結花ちゃんのママに言ってあげるんだ。おれたちが、ちゃんと夢を叶えたよーって!」
「——、あ——」
そんな春斗の言葉を聞いた瞬間、私の感情は決壊した。
涙が流れてくるのを止めることが出来なかった。
「う、ううううう——」
「な、なんで?おれ、いやなこといっちゃった?」
私の様子を見て、春斗が慌ててふためく。必死に首を振って、途切れ途切れの言葉で答えた。
「ち、ちが、う、わたし、うれ、しくて——」
そう、嬉しかったのだ。お母さんが事故にあってから、かけられる言葉は私を憐れむものばかりで、流れる涙は全部悲しい涙だった。
でも春斗は違った。春斗は、慰めでも憐みでもなく、私が前を向くための言葉をくれた。俯いていた私が顔を上げて進むための勇気をくれた。手を引いて連れて行こうとしてくれた。それが何より嬉しくて、約束してくれたことだけで救われると思った。
だから多分、その瞬間に、私は彼に恋をしたのだ。
「うん、約束」
それから小さな小指と小指を絡めて私と春斗は契った。
それは、忘れもしない春斗との大事な約束で。
そして、母に捧げた決して譲れぬ誓いでもあって。
きっとそれだけが、私を規定する全てだ。
× × ×
「はっ、はっ、はっ、——」
一定のペースでの呼吸とストライドを心掛けながら、暗い街中を駆けてゆく。時刻は午前五時過ぎ。夜明けはまだ遠く、大半の人は微睡の中で揺蕩っている頃合いだ。
そのせいか聞こえて来るのは、私自身の荒い息と遠くに響く電車の駆動音、風に吹かれる木々の葉くらいで、世界は静寂に満ちている。だから私はこの時間が好きだった。煩わしい周囲の雑音も、向けられる期待も今は無い。
これは日々のルーティーンの内の一つの、心と身体を整えるためのランニングで、そのはずなのに今朝はなかなか心を落ち着けることが敵わなかった。
「はっ、はっ、はっ、——」
——俺が何しようがお前には関係ないだろ。
「——っ、」
少し前に言われた言葉が脳裏を過ぎり、呼吸が乱れる。鋭い痛みが奔る胸を、ギュッと抑えて堪える。
突き放すような声音と冷たい眼差し、振りほどかれてしまった手。
多分、私は春斗に疎まれている。もしかしたら嫌われているのかもしれない。そう考えた時には、私の足は止まってしまった。
嫌だ。それは嫌だと、心が全力で叫ぶ。
でも、どうしていいかは分からない。ずっとテニスしかやって来なかったせいで、こういう時に取るべき行動を私は知らない。
「なんで」
もう数年ぐらい春斗の笑顔を見ていない気がした。以前は、一番近くで見ていた笑顔。私にだけ向けてくれていると己惚れていた、彼の優しい笑顔。そんなかつてを思い出す度、ただ胸が痛くて痛くてたまらなかった。
「なんでこんな風になっちゃったのかな——」
問いたくても、問えない。
私の疑問に、返事が返ってくることは決して無い。
× × ×
帰って来てシャワーで汗を流した後、制服に着替えてリビングへ向かう。すると、食卓には既に朝ご飯が用意されていた。焼き鮭の切り身にわかめの味噌汁、ご飯、ひじきの和え物、漬物と和で統一された朝食。食事は、管理栄養士の資格を持つ父が毎回作ってくれている。
「おはよ、お父さん」
「……ああ、おはよう」
それをありがたいなと思いながら、私は四人掛けのテーブルの一つの席に腰を下ろした。父の斜め向かい、そこが私の定位置だ。残りの席の空白にも慣れて久しく、もはや空白でなかった時期を思い出す方が困難だった。
「頂きます」
小さく呟き、箸を手に取る。それきり我が家の食卓には会話が無い。私も父も、黙々と食事を進めるだけだ。別に親子仲が悪いという訳ではなくて、むしろ友人たちが口にする父親への毛嫌い加減を鑑みれば、全然ましな方だろうとも思う。それでも、私と父の間には目には見えない溝が確かに在る。
「今日、練習の後にミーティングするついでに外で食べてくから、夜ご飯は大丈夫」
「……そうか、分かった。——」
「じゃあそういうことだから、お願い」
何か言いかけた父を遮るように私は言葉を続けた。ぎこちないやり取りはいつもの事だ。父は苦みばしった表情で緑茶を口に含み、何かを飲み下したように見える。
そんな父を見て、ごめんねと心の中だけで呟く。
私は、本当は知っている。父が、私にテニスをして欲しくないと思っていることなど、ずっと前から気が付いている。
「——ごちそうさまでした。いつもありがと」
「お粗末さま。食器は流しに置いておいてくれ。あと、弁当持って行くの忘れるなよ」
「うん」
私は軽く頷きを返すと、食器を片付けてリビングを後にした。
手にした弁当はずっしりと重く、それでなんだか泣きそうになった。
管理栄養士。今は医療現場で働く父は、かつては七星愛美専属の公認スポーツ栄養士だった。つまりは、世界中を飛び回る選手に帯同してそのパフォーマンスを食事面で支える、七星愛美陣営のメンバーだ。その日々を通してお父さんとお母さんは絆を育んだと、私は春斗の母から聞いていた。
ならばきっと、この朝ご飯も、お弁当も、栄養士の資格でさえも。
本当は私でなく、たった一人のために捧げられていたはずなのだ。
だから恐らく、父は最愛の人を奪ったテニスを憎んでいる。
だって、言わないけれど、言われたことはないけれど。母が亡くなってから、父が私の試合の応援に来てくれたことは一度でさえ無いのだから。
「——」
自室に戻ると、ラケットバックに乱雑にいろんなものを押し込んだ。教科書、ノート、着替え、弁当、筆箱、その他諸々。本来そんなものを入れるようにラケバは作られていないから、チャックを閉めるときは無理矢理だ。押し潰してぎゅうぎゅう圧縮して、なんとか内に納める。
「んしょ」
重たいラケバを背負い、仏壇へ向かう。
「——お母さん、おはよう。行ってきます」
いつも通り笑っている母に一言かけて、鈴を鳴らした。
× × ×
家を出た瞬間、すっかり昇った太陽の日差しの眩しさに目を細める。同時に、ムワッと漂って来たうだるような熱気に顔をしかめた。
「あっつ……」
まだ八時前だと言うのにこの暑さだと先が思いやられる。今日も厳しい一日になりそうだ。ブラウスの袖を捲りながら、私はうんざり気分で学校へと足を向ける。
瞬間、前方に見知った背中を見つけて心臓が小さく跳ねた。赤と黒を基調としたヨネックスのラケットバック。テニスの時に邪魔だからと短く刈り込まれている髪。間違いなく皆川春斗、その人だった。
「は——」
無意識のうちに、彼を呼ぶ名前が口を突いて出かける。小走りで傍に駆け寄って、丸まった春斗の背中を軽く叩きたくなる。でも、出来ない。踏み出す一歩目で、私は逡巡してしまう。
——そういうの止めろよ。鬱陶しいんだよ。同情とかしてんじゃねえ。
言われた言葉が蘇ってきて、私の心を鎖のように縛る。胸を刺す痛みに身が竦み、足を躊躇いが絡め取って来る。でもそれより、遠ざかっていく背中をただ見つめていることに恐怖を感じた。このまま私が立ち止まってしまえば、もう二度と触れられなくなる気がした。
それで私は勇気を振り絞って踏み出す。昔をなぞれば昔のように戻れるのではと願って、努めて明るく彼の名前を呼んだ。
「春斗、おはよ!」
とんと一歩で春斗の隣に並ぶ。私の方を向いた春斗は、呆気に取られた顔をしている。そんな春斗を見て、ああ春斗だなって思う。短い髪のくせにぴょこっと跳ねている寝ぐせ、猫みたいな眠たげな瞳。寝起きの悪い春斗は、だいたい朝はこんな感じだ。
私は、まだ起動していない陽斗の背をラケバ越しにべしべし叩く。
「また背中丸まってるじゃん。真っすぐ立ちなよ、ほら」
「ゆい——七星、お前、なんで」
「なんでって、歩いてたら春斗を見かけたから」
問われた理由は違うものだと知りながら、私はそう答えた。
「……で、用件はなんだよ」
春斗が深く息をつく。表情は陰鬱そのものだ。ここ最近、春斗はそんな顔をしていることが増えた。勝ち気な笑みも、笑うと出来るえくぼも、見なくなってしまった。
「別に、特に用がある訳じゃないけど……」
口に出した言葉は真っ赤な嘘だ。本当は聞きたいことが山ほどあった。なんでそんなに冷たいの、とか。なんでそんなに辛そうな顔をしてるの、とか。なんで私を名前で呼んでくれなくなったの、とか。問いかけは次から次へと溢れてくる。春斗の態度を見ていると不安になる。もう話しかけない方がいいのかとか、関わらない方がいいのかとか、そういう風にも思う。
「——」
でも、私が口にすることは決してない。問うてしまえば、何かが決定的に終わってしまうことは分かり切っている。だから、代わりに他愛のないことを話そうとして。
「あ、えと、その——」
それすら話せないことに愕然とした。分からない。何を話したらいいのかが、分からない。無形の何かが喉に詰まって、苦しいくらいに胸が詰まって、言葉が口から出てこない。
「き、昨日、春斗学校休んでたじゃない?大丈夫?」
それでも、黙ってしまう前に声を絞り出した。
なんとか話題が見つかって良かった。私の問いに、春斗が低い声で返事をする。
「……別にちょっと体調崩してただけ。ただの風邪だよ」
「なんか具合悪そうだったもんね。もう良くなったの?」
「だから学校来てんだろ」
「そっか、だよね、良かった」
それで会話とも呼べない会話は途切れた。
話さなきゃって思うと、何故か上手く話せなくなる。
「……」
気まずい沈黙、重たい時間。私は顔を俯かせた。隣で春斗がどんな表情をしているのか、見てしまうのが怖かった。ややあって春斗が大きくため息をついた。
「そういえば俺、やることあったわ。悪い、先に行くな」
「あ、……うん、ばいばい」
絶対嘘なんだろうなと思いながら、でも、呼び止める術など私には無かった。駆けていく春斗を見送りながら、私は安堵すら覚える。こんな時間を過ごしていたら、いつか取り返しがつかなくなりそうだったから。そして、遠くなる春斗の背を見てふと思う。
なんで春斗、今日は自転車じゃないんだろう。
そんなことすら、今の私では聞けなかった。
× × ×
松前テニスセンター——通称MTCは、テニス選手の松前優太郎が設立した東京都五鷹市にあるテニススクールだ。七星愛美を輩出したとして広く知られる、ジュニア選手の育成に力を入れている名門であり、私が通っているアカデミーでもある。
「——っ」
今日もMTC内では、キュキュキュとシューズとハードコートが擦れる音、ラケットでボールを弾く打球音、コーチの声が混ざり合って反響している。ここはインドアテニスコートなので、音が内側に籠り、それらの音が殊更に大きく聞こえてくるのだ。
私は一度、目を瞑ると大きく息を吐き、アドバンテージサイドでリターンの構えを取った。
今はゲームカウント5―4、得点は30―40。私のブレイクポイントであり、マッチポイントでもある。集中力を一層高めながらぐっと身体を沈め、私はコートの向こう側の対戦相手——金山美乃梨を注視した。フォア側かバック側か。美乃梨のフォームからサーブの方向を予測し、タンタンと細かくステップを踏む。
パアンと炸裂するサーブの打球音。美乃梨の放ったスピンサーブは、私のバックサイドに飛んでくる。バウンド後に大きく跳ねるスピンサーブは、相手に高い打点で打たせることを目的としているサーブだ。高い打点では身体から遠い場所でボールを打たないといけないので力が十全に入りにくく、そのためスピンサーブは敵に攻められにくい守りのサーブともいわれる。まして私は片手バックハンド。高い打点でバックを打つのは非常に難しい。
だから、ポイントをこれ以上落とせない場面でバック狙いのサーブを打つのはセオリーとして当然だった。けれど、セオリーである以上予測することも容易だ。
「——は!」
私はタタタッと一歩コートの内側に入り込むと、飛んで来たボールが跳ね上がる前にライジング気味にボールをバックハンドで叩く。狙い過たず、相手のストレートに飛ぶ私のショット。それに反応した美乃梨がフォアのスピンをかけてクロスコートに返してくる。
けど返球は浅く、美乃梨のボールはサービスラインとベースラインの中間ぐらいにポワンと跳ねた。打ちごろのボール。完全にチャンスボールだ。
もらった、と思った。後は、フォアで美乃梨のがら空きのバック側に叩き込めば良いだけ。本当にそれでお終いの、至極単純なウイニングショット。
「——っ、」
私は奥歯を噛み締めてラケットを高く構える。跳ねるボールを注視し、腰の高さよりも少し上に来る瞬間を待った。狙うはストレート。打ち込め、やり切れ、迷うな。怖がるな、攻めろ。前の試合みたいなミスはするな——。
ザザザ、と思考にノイズが奔る。身体に纏わりついてくる泥。
テニスを憎む父の顔が、どうしてか思い出される。
——テニスさえしていなければ。
陰鬱な表情の春斗が、どんどん遠くに歩き去って行く。
——テニスをしていたせいで。
プレーをする母の姿が、目の前で鮮明に蘇る。
——それでもテニスしかないのだから。
ミスをするな。七星なら、負けることは許されていない。
——でなければ私は何のために。
「——」
ラケットを握る右腕にグッと力を込めた。耳元で囁いて来る言葉を追い払うように、絡みついて来る泥を振り切るように、思い切りラケットでボールを打った。けれど、フラット気味の弾道で飛んでいったボールはサイドラインから大きく外れる。こんな余計な力が入っていれば、ミスするのは当たり前のことだった。
「——カモン!」
美乃梨がコートの向こう側でガッツポーズを作って叫ぶ。コートサイドで試合を見守っていた橋本コーチがため息をつき、力なく左右に首を振ったのが視界に入る。それで私は、汗が滴り落ちるのも気にせず、腰に手を当てて深く息を吐いた。
まただ。また。またまたまたまたまたまた。あの試合から毎回毎回性懲りもなく、一番大事な場面で、こんなイージーミスばかり。一体何度繰り返せば気が済むのか、私は。
「この、——」
自分で自分に嫌気が差して、ラケットを叩きつけたくなる。それを無理やり抑え込んで、私はコートの後ろに置いたタオルを手に取った。汗を拭い、タオルで顔を覆う。
切り替えろ、試合の途中だ、まだ負けてない。そうやって自分に何度も言い聞かせる。でも、プツンと集中の糸が切れてしまっているのは分かっていた。ここから立て直せる気がしないことも、分かっていた。
「……」
短く息を吐いて天を仰ぐと、視界が無機質な白い天井に遮られる。
それで、ふと思った。
まるで箱庭だ。テニス以外に何も知らず、テニス以外に何も無い。縦幅23.77m、横幅10.97mの長方形の箱に閉じ込められて、藻掻き苦しむ七星結花。そんな自分自身を、私はひどく滑稽に思った。
結局、美乃梨との練習試合はそれから3ゲーム連取され、5―7で負けた。
「結花、大丈夫?調子崩してるでしょ」
練習後、更衣室でシャワーを浴びている最中に美乃梨からそう聞かれた。私と美乃梨はMTCに通い始めた四歳から一緒だから、かれこれもう十年以上の付き合いだ。仕切りのせいで隣の美乃梨の表情は見えなくとも、気遣うような表情をしているのが手に取るように分かる。
「……そうかな?」
「そうだよ。見てれば分かるって」
けれどそれは美乃梨にしても同じらしい。私の曖昧な返事は即座に見抜かれてしまう。でも、あまり触れて欲しい話題では無かった。一番の親友であり、最も身近なライバルでもある美乃梨には殊更に。私が黙って髪を洗っていると、美乃梨が続ける。
「最近ずっとだよ。テニスしてても全然楽しそうじゃないもん。むしろ、苦しそう。無理してるっていうか。前みたいな攻撃的なテニスもあんまりないし」
そんなことまで分かるんだ。私は美乃梨の言葉に驚きを覚えながらも、シャワーの音で聞こえない振りをする。わざわざ言われなくても、全部自分で分かっている。おかしいのも、調子が狂ってるのも、苦しいのも、全部。
それで口を引き結んだ。口を開いてしまえば、友人にひどい八つ当たりをしそうで怖かった。それきり美乃梨との間に会話は無く、気まずい沈黙を誤魔化すように私はシャワーを頭から被る。全部、このモヤモヤまで綺麗に洗い流せればよかった。
× × ×
「結花。お前テニスしてる時、なにか余計なこと考えてないか?」
練習後。夕飯も兼ねたファミレスでのミーティングで、橋本コーチがそんなことを聞いてくる。幼い頃から今までずっとお世話になっていることもあって、コーチはおおよそのことは見通しているのだろう。案の定、コーチは私に語りかけるように言葉を続ける。
「別に気負い過ぎなくてもいいんだからな。七星愛美さんは確かに偉大なテニスプレーヤーだった。でも、遺志を継がなきゃなんて思う必要は無いんだぞ」
「……」
スプーンをドリアに突き刺して、私は黙ったままドリアに噛みついて飲み下した。
「結花は結花で自分のプレーを貫けばいい。お前はそれだけの実力をちゃんと持っているんだ。だから、それさえ出来ればきっと世界にも通用する——」
そのまま、コーチの真剣な言葉が頭の中を上滑りしていく。
メンタル、メンタル、メンタル。いつも、私が言われるのはそればっかりだ。テニスはメンタルのスポーツと呼ばれるくらい試合での精神状態が勝敗を大きく左右する。だから、メンタルが弱点なら克服するのは当然のことだ。それは私も理解している。
けれど。
——女子テニスの未来を担うニューヒロイン、七星結花。七星愛美の血を引く天才少女として世代のトップを走り続けてきた彼女だが、高校年代に入ってからは伸び悩みを見せているようにも感じられる。その原因はやはり、先日のMUFG決勝でも露呈したメンタル面の弱さだろう。ジュニア年代では飛び抜けた技術を誇り、良い時のプレーならば世界にも通用するクオリティを発揮する反面、メンタルが崩れた時のプレーはひどく散漫だ。半ば強引な攻撃やイージーミスが目立ち、第二セットはほとんど七星結花の自滅と言っても良かった。この致命的な欠点を克服しない限り、母から娘に託された悲願は文字通り夢物語に終わってしまうことが危惧される。果たして、夏の全日本までに修正が出来るのか——。
「うるさいな。言われなくても分かってるってば」
不意に、少し前に目に入ってしまったネットのスポーツ記事が思い出されて、私は気が付けばそう口に出していた。するとコーチが軽く目を開き、ややあって深くため息をついた。
「……そうか、そうだな。分かっては、いるんだよな」
ひどく歯がゆそうな表情で、声のトーンを落とす橋本コーチ。ストローでアイスコーヒーを啜りながら、コーチはそれきり難しい顔で黙り込んでしまった。
そうだ。弱点のメンタルを克服すればいい。気負わなくていい。自分のプレーを貫けばいい。そんなことは、私が一番理解している。
けど、克服って一体どうやって?
私のプレーなんかない。私の理想のテニスは、七星愛美のテニスそのものだ。果敢に攻め続ける超攻撃的なテニス。あらゆる守りも貫く絶対の矛。その姿を、そのプレーを、ずっと見て来た。ずっと憧れ続けて来た。母の代わりにグランドスラムを優勝する。今の今まで、その為だけにテニスをしてきた。
なのに、遺志を継がなくたっていいだって?今更、全部投げ出せって?ふざけないでよ、簡単に言わないでよ。
それなら、私は。私のテニス人生は、一体全体、何のために——。
× × ×
コーチとのミーティングを終える頃には、もう夜の八時を過ぎていた。一日分の疲労を引きずりながら、暗い夜道を歩く。両肩に食い込むラケットバッグは鉛のように重たく、いっそ投げ捨ててしまおうか、なんて思う。そんなこと、絶対にする訳ないけど。
「っ、——!」
言葉にならない感情のままに道端の小石を蹴飛ばす。石はころころ転がって、道路脇の下水道にぽちゃんと落ちた音がした。多分、そのまま流されていくのだろう。暗い暗い下水の中を、行く先も知らぬまま、漫然と。
「分かんない」
そのままふらふらと道を歩いていると、やがて目の前に三叉路が現れる。続く二つの道の先は何も見えない真っ暗闇で、どっちにいけばいいかさえも分からない。
それで、代わりに夜空を見上げた。輝く星のどれか、見守ってくれているはずのどれかを探して。
「分かんないよ、お母さん」
ねえ、だから教えてよ。
「私、どうすればいい——?」
どうやったら大事な試合に勝てるの?
どうしたらお母さんみたいにプレーが出来るの?
けれど、問いかけても答えを返してくれる人は居ない。夜空は分厚い雲に隠されて、星灯かりはこの地上には届かない。
「……」
そのまま俯くと、私は無意識の内に隣を見ていた。ずっと傍に居て、いつも手を引いてくれて、私を前に連れて行ってくれた人を探していた。
「……なに、してるんだか」
虚空の闇を瞳が捉え、私はほとほと呆れて自嘲する。バカだな、居る訳ないのに。
それで、私は今更のように気が付いた。私は独りぼっちなのだ。こんな広い世界に沢山の人が居るのに、私の傍には誰もいない。
がむしゃらに前に突き進んで。ひたすらにボールだけを追ってきて。全部斬り捨てて、ずっとずっと走り続けてきて。気が付いて振り返ってみれば、私の後ろには、誰も着いて来てなど居なかったのだ。
「いたい」
だから、立ち尽くした。目の前にぽっかりと穴をあけた暗闇を前に、それから一歩も進めなくなる。
「いたいよ」
テニスしかしてこなかった。教えられてきたのは上手くなる方法と敵を倒す方法だけで、胸に走るこの痛みを解決する方法なんて誰も私に教えてくれなかった。
痛い。いたいのに。傍にいたいのに、その方法が分からない。身体を包む寒々しい感覚は、まるで試合の時と同じくらいにひどく心細くて怖かった。
「——」
不意に暗闇がじわりと滲む。それを、必死に唇を噛んで耐えた。泣いてはダメだと思った。泣いていても、雨の中を探して手を握ってくれる人は居ないから。
「……一人は嫌だよ、春斗」
それでも、見えない空の星に手を伸ばして、誰にも届かない本音を吐露する。本当はきっと、「約束」が叶うかなんてどうでもよくて。 私の隣に居てくれれば、それだけでよかった。
春斗が一緒に頑張ってくれている。
それだけで私は十分だったのに——。
「ゲーム。暮埼リード5―1」
「——、——、——、」
藻掻けば藻掻いた分だけ、粘着質な泥と水草が身体中に絡みついて来る。重たい。ハードコートのはずなのに、ぬかるんだ地面に足をとられてボールを追うことが出来ない。苦しい。いくら呼吸しても新鮮な酸素が無い。泥が喉の奥に詰まって息がし辛い。
何とかして振りほどこうと私はラケットを振る。けど、泥が動きを鈍らせてスイングは中途半端になる。結果、私が打ったボールはフォアのサイドラインを大きくオーバーする。コートの向こうで暮埼さんが小さく拳を作るのが見えた。
「アウト!」
「15―0」
線審の人が大きく叫び、主審がカウントを淡々と告げる。ぱらぱらと観客席から拍手が聞こえる。ボールパーソンの人が、暮埼さんに新たなボールを供給する。
その光景を横目に、私は必死に重たい泥の中を掻き分けてアドバンテージサイドのリターンの位置に向かった。次のポイントまで二十秒。その僅かな時間で思考すべき戦略や予測などを全て放り投げて、私はただ空を仰いだ。今にも雨が降り出しそうなほど、分厚い雲に覆われた空を。
MUFG全国ジュニアテニストーナメント、女子シングルス決勝戦。それが、今私がしている試合の名前だ。1セット目を4―6で落とし、迎えた2セット目もスコアは現在1―5。相も変わらず、私は暮埼さんに良い様にやられていた。
暮埼舞香。彼女は私と同じく高二で、幼い頃からのライバルだ。憧れの選手としてシモナ・ハロプとラファエル・ナガルを公言している通り、そのプレースタイルはまさしく鉄壁。どこに打ってもいくら攻めても、全部ボールを拾われる。強靭なフットワークに基づく守備力と鋼のような精神力を武器に、彼女は高校女子テニス界のナンバーワンに君臨している。
「——」
ぱあん、と暮埼さんの打った早いフラットサーブがセンターに来る。飛びつこうとする意志とは裏腹に、私の身体の動きはのろまに過ぎた。届かず空を切るラケット。あっさりとサービスエースを決められ、また一段、身体に纏わりつく重みが増したのが分かった。
「30―0」
けどあと二点だ。あと二点で終わる。あと二点で終わってくれる。
——終わってくれる?
「は」
思わず脳裏を過ぎった思考に私はほとほと呆れた。それじゃまるで、私が負けを望んでいるみたいだ。そんなはずはない。そんなことは有り得ない。私は、負ける訳にはいかないのだ。
けれど、なんでだろうか。今回こそ負けないって、今度こそは負けられないって、試合前はそう思って、試合中もちゃんと暮埼さんを倒すプランを持って作戦を実行しているのに。
気が付けばいつの間にか、私は相手でなく「私」と戦っている。
ミスを重ねる度、アンフォーストエラーを犯す度、コートの向こうは見えなくなって、弱気な「私」が顔を出すのだ。
これ以上ミスしたくない。負けたくない。「私」が吐き出す泥の呪詛が私の動きを鈍らせて、結果ミスしてラケットが振れなくなる。それでまた迷ってミスして、挙句の果てに自滅する。
本当に、泥沼に嵌まるみたいな悪循環だ。そして一番愚かしいのが、理解してるくせに一向に改善の余地が見られない、私自身の弱さだった。
「——」
ぱあん、ぱあんとラリーが続く。切れ味を失った私の矛はただの無用の長物だ。眼前の盾を貫き通すことなど出来ようもなく、無理やりに突けばポキリと根元からへし折れるだろう。
暮埼さんのフォアが放つ強いスピンのかかったボールが、私のバック側のコート深くに突き刺さってくる。彼女の重たいボールは、サーフェースがハードということもあり、恐ろしいほどに高く跳ねる。高い打点では力が入りにくい片手バックハンドの私にとっては、最悪ともいえる相性。
だから、そういうラリーになった時の対処法は大体二つで、一つは後ろに下がってボールが落ちて来てから打つやり方。けれどこれは守備位置をコート後方に下げられる為に、コート内側に入ってプレーする私のテニスを放棄することになってしまう。
「っ、——」
故に行うのはもう一つの対処法だ。私は、暮埼さんのボールが高く弾む前、バウンド直後のタイミングで一歩前に踏み込んで叩く——いわゆるライジングと呼ばれるショットで返球する。
たたん、ぱあん、たたん、ぱあん、と異なるリズムで打ちあう私たちのラリー。執拗に私のバックを狙って来て、結果、バックハンドのクロスラリーが展開される。何球も続くクロスの打ち合い。このポイントだけは落とせなかった。私が落としたら相手のマッチポイントだ。
そうなれば負ける。負けてしまう。私は、七星愛美の娘なのに。
「あ——」
瞬間、私の瞳がコートに居るはずのない人の姿を捉えた。
揺るぎない強さを持った、格好いい背中。記憶の中で、実際の映像で、幾万幾億と見続けて来た、私の憧れの人の背中。世界最高で世界最強のテニス選手だった、七星愛美——お母さんが見える。
暮埼さんの打ったボールが少し浅く弾んだ。絶好のチャンスボールだ。だから、幻のお母さんはその瞬間に迷わず動いていた。
伝家の宝刀、七星愛美の代名詞。片手バックハンドから繰り出される彼女のダウン・ザ・ラインは、あらゆる守りも貫く絶対の矛。どんな時でも果敢に攻め続ける、彼女の超攻撃的テニスの象徴だ。
「——っ、」
であれば、私もそれを打てなければ話にならない。そうでなければ意味は無い。そうでない私に価値は無い。何故なら私は、七星結花。——七星愛美の娘だから。
歯を食いしばって、母の幻影をなぞるように動く。一歩踏み込み、ラケットをテイクバック。振りきれ。研ぎ澄ませ。一閃しろ。
「——」
その時、不意に声がする。
本当に出来るの?私に。お母さんと違って、国内でも優勝出来ない私なんかに。
そうして、私の形をした泥が私に絡みついて来る。身体中がずしりと重たくなる。その間にも母の背は遠ざかって、幻影は消えていって、どうしても追いつけなくて。何もかも振り払うように無理やり打ちに行ったボールは、大きくコートから外れてしまった。
結局、それからすぐに試合は終わった。
カウント4―6,1―6。
何にもならない、どうしようもなく無様なプレーをして、私は負けた。
それが六月——夏がやってくる、少し前の出来事で。
それ以来私は、先の見えない暗闇を彷徨い続けている。
あの日の約束と誓い。それだけを、進むべき道の標にして。幼子がぬいぐるみと共に眠るように、大事に胸に抱きしめながら——。
× × ×
十年前のあの日は、雨の匂いと線香の香りがしていた。私が覚えているのはそんな断片的な光景だけだ。
他には、黒服は着慣れなくてたくさんの真っ黒な人が居たこと。すすり泣く声とお坊さんの不思議なお経が響いていたこと。憔悴したお父さんの姿と写真の中で笑っているお母さんの姿。痛かったこと。寂しかったこと。哀しかったこと。辛かったこと。空っぽで、絶望して、泣いていたこと。そして何より——葬式が終わった後のこと。
恐らく、火葬が済むのを皆は控室で待っていた時だったはずだ。幼い私は、控室を飛び出して外を彷徨っていた。外は雨が降りしきっていて、喪服はびしょびしょ、顔は涙でぐしゃぐしゃだった。
一体あの時の私は何がしたかったのだろうか。その理由は定かではないけど、推測くらいはついた。多分、全部が全部嫌になったのだ。だって、その時のお父さんは虚ろな顔をしていて、私を見ていてなどくれなかった。他の会う人全員は、私を見て「可哀想に」と言っていた。それがたまらなく嫌だった。
私は「可哀想な子」なんだと突き付けられている気がして、お母さんが居なくなったことをこれでもかと私に分からせようとしているような気がして。だから、幼い私の行動は逃避に近い。現実から目を逸らし、遠ざかるための行動。でもどこへ行けばいいのかも分からなかったから、ただ彷徨うだけで。私は、帰るべき場所を見失った迷い子だった。
「うううう、」
小さな足が地を踏むたびに泥が跳ねて服が汚れる。寒さと心細さと寂しさに心が押し潰される。まるで世界に一人きりで取り残されたような感覚。けれど、その中でもこれだけははっきりと覚えている。雨に打たれて蹲る私を見つけてくれた瞬間のことは、今でも鮮明に。
「もどらないと、かぜひいちゃうぞ」
そんな声と共に、私を打っていた雨が不意に止んだ。びっくりして顔を上げると、白い傘が目に入った。それから視界が優しい顔の男の子の姿を捉えた。
「——はると、くん」
私はぼんやりとその名を呼ぶ。
春斗。彼は、私が生まれた頃から傍に居た幼馴染だ。お母さんと春斗のお母さんは中学以来の親友らしくて、お母さんがツアーに復帰してからは私は春斗のおうちで過ごすことが多かった。春斗は幼い頃から利発で、いつも私の手を引いてくれていた。 この時も同じように。
「ほら、たてる?」
「う、うん」
春斗は、座り込んだ私に向かって手を伸ばしてくれた。掴んだその手は暖かくて、触れ合った手だけじゃなくて、心までポカポカと温かくなる。繋いだ手は離さないまま、私は空いた手でごしごし涙を拭いて春斗に問うた。
「な、なんで、わたしがここにいるって、わかったの?」
「がんばって探したんだよ。そしたら、みつけた」
すると彼はそう言って胸を張って笑った。それで私は、その時になって気が付いた。私は、見つけて欲しかったのだと。そうやって、独りじゃないと言って欲しかったのだ。
小さな傘に二人で身を寄せ合い、手を繋いだままで火葬場に戻る。
その途中に、春斗が呟いた。
「あのさ。このまえ結花ちゃんのママの試合を見た時に、おれ思ったんだ。おれも、あんな風になりたいって」
「——!」
その言葉は、私が抱いていた思いと寸分も違わぬもので、思わず息を呑んでしまう。
「だからさ、約束しよう」
「約束?」
首を傾げた私に対して、春斗は真っすぐに、どこまでも真摯な瞳で頷いた。
「いっしょに頑張って、グランドスラムを優勝しよう。それで、結花ちゃんのママに言ってあげるんだ。おれたちが、ちゃんと夢を叶えたよーって!」
「——、あ——」
そんな春斗の言葉を聞いた瞬間、私の感情は決壊した。
涙が流れてくるのを止めることが出来なかった。
「う、ううううう——」
「な、なんで?おれ、いやなこといっちゃった?」
私の様子を見て、春斗が慌ててふためく。必死に首を振って、途切れ途切れの言葉で答えた。
「ち、ちが、う、わたし、うれ、しくて——」
そう、嬉しかったのだ。お母さんが事故にあってから、かけられる言葉は私を憐れむものばかりで、流れる涙は全部悲しい涙だった。
でも春斗は違った。春斗は、慰めでも憐みでもなく、私が前を向くための言葉をくれた。俯いていた私が顔を上げて進むための勇気をくれた。手を引いて連れて行こうとしてくれた。それが何より嬉しくて、約束してくれたことだけで救われると思った。
だから多分、その瞬間に、私は彼に恋をしたのだ。
「うん、約束」
それから小さな小指と小指を絡めて私と春斗は契った。
それは、忘れもしない春斗との大事な約束で。
そして、母に捧げた決して譲れぬ誓いでもあって。
きっとそれだけが、私を規定する全てだ。
× × ×
「はっ、はっ、はっ、——」
一定のペースでの呼吸とストライドを心掛けながら、暗い街中を駆けてゆく。時刻は午前五時過ぎ。夜明けはまだ遠く、大半の人は微睡の中で揺蕩っている頃合いだ。
そのせいか聞こえて来るのは、私自身の荒い息と遠くに響く電車の駆動音、風に吹かれる木々の葉くらいで、世界は静寂に満ちている。だから私はこの時間が好きだった。煩わしい周囲の雑音も、向けられる期待も今は無い。
これは日々のルーティーンの内の一つの、心と身体を整えるためのランニングで、そのはずなのに今朝はなかなか心を落ち着けることが敵わなかった。
「はっ、はっ、はっ、——」
——俺が何しようがお前には関係ないだろ。
「——っ、」
少し前に言われた言葉が脳裏を過ぎり、呼吸が乱れる。鋭い痛みが奔る胸を、ギュッと抑えて堪える。
突き放すような声音と冷たい眼差し、振りほどかれてしまった手。
多分、私は春斗に疎まれている。もしかしたら嫌われているのかもしれない。そう考えた時には、私の足は止まってしまった。
嫌だ。それは嫌だと、心が全力で叫ぶ。
でも、どうしていいかは分からない。ずっとテニスしかやって来なかったせいで、こういう時に取るべき行動を私は知らない。
「なんで」
もう数年ぐらい春斗の笑顔を見ていない気がした。以前は、一番近くで見ていた笑顔。私にだけ向けてくれていると己惚れていた、彼の優しい笑顔。そんなかつてを思い出す度、ただ胸が痛くて痛くてたまらなかった。
「なんでこんな風になっちゃったのかな——」
問いたくても、問えない。
私の疑問に、返事が返ってくることは決して無い。
× × ×
帰って来てシャワーで汗を流した後、制服に着替えてリビングへ向かう。すると、食卓には既に朝ご飯が用意されていた。焼き鮭の切り身にわかめの味噌汁、ご飯、ひじきの和え物、漬物と和で統一された朝食。食事は、管理栄養士の資格を持つ父が毎回作ってくれている。
「おはよ、お父さん」
「……ああ、おはよう」
それをありがたいなと思いながら、私は四人掛けのテーブルの一つの席に腰を下ろした。父の斜め向かい、そこが私の定位置だ。残りの席の空白にも慣れて久しく、もはや空白でなかった時期を思い出す方が困難だった。
「頂きます」
小さく呟き、箸を手に取る。それきり我が家の食卓には会話が無い。私も父も、黙々と食事を進めるだけだ。別に親子仲が悪いという訳ではなくて、むしろ友人たちが口にする父親への毛嫌い加減を鑑みれば、全然ましな方だろうとも思う。それでも、私と父の間には目には見えない溝が確かに在る。
「今日、練習の後にミーティングするついでに外で食べてくから、夜ご飯は大丈夫」
「……そうか、分かった。——」
「じゃあそういうことだから、お願い」
何か言いかけた父を遮るように私は言葉を続けた。ぎこちないやり取りはいつもの事だ。父は苦みばしった表情で緑茶を口に含み、何かを飲み下したように見える。
そんな父を見て、ごめんねと心の中だけで呟く。
私は、本当は知っている。父が、私にテニスをして欲しくないと思っていることなど、ずっと前から気が付いている。
「——ごちそうさまでした。いつもありがと」
「お粗末さま。食器は流しに置いておいてくれ。あと、弁当持って行くの忘れるなよ」
「うん」
私は軽く頷きを返すと、食器を片付けてリビングを後にした。
手にした弁当はずっしりと重く、それでなんだか泣きそうになった。
管理栄養士。今は医療現場で働く父は、かつては七星愛美専属の公認スポーツ栄養士だった。つまりは、世界中を飛び回る選手に帯同してそのパフォーマンスを食事面で支える、七星愛美陣営のメンバーだ。その日々を通してお父さんとお母さんは絆を育んだと、私は春斗の母から聞いていた。
ならばきっと、この朝ご飯も、お弁当も、栄養士の資格でさえも。
本当は私でなく、たった一人のために捧げられていたはずなのだ。
だから恐らく、父は最愛の人を奪ったテニスを憎んでいる。
だって、言わないけれど、言われたことはないけれど。母が亡くなってから、父が私の試合の応援に来てくれたことは一度でさえ無いのだから。
「——」
自室に戻ると、ラケットバックに乱雑にいろんなものを押し込んだ。教科書、ノート、着替え、弁当、筆箱、その他諸々。本来そんなものを入れるようにラケバは作られていないから、チャックを閉めるときは無理矢理だ。押し潰してぎゅうぎゅう圧縮して、なんとか内に納める。
「んしょ」
重たいラケバを背負い、仏壇へ向かう。
「——お母さん、おはよう。行ってきます」
いつも通り笑っている母に一言かけて、鈴を鳴らした。
× × ×
家を出た瞬間、すっかり昇った太陽の日差しの眩しさに目を細める。同時に、ムワッと漂って来たうだるような熱気に顔をしかめた。
「あっつ……」
まだ八時前だと言うのにこの暑さだと先が思いやられる。今日も厳しい一日になりそうだ。ブラウスの袖を捲りながら、私はうんざり気分で学校へと足を向ける。
瞬間、前方に見知った背中を見つけて心臓が小さく跳ねた。赤と黒を基調としたヨネックスのラケットバック。テニスの時に邪魔だからと短く刈り込まれている髪。間違いなく皆川春斗、その人だった。
「は——」
無意識のうちに、彼を呼ぶ名前が口を突いて出かける。小走りで傍に駆け寄って、丸まった春斗の背中を軽く叩きたくなる。でも、出来ない。踏み出す一歩目で、私は逡巡してしまう。
——そういうの止めろよ。鬱陶しいんだよ。同情とかしてんじゃねえ。
言われた言葉が蘇ってきて、私の心を鎖のように縛る。胸を刺す痛みに身が竦み、足を躊躇いが絡め取って来る。でもそれより、遠ざかっていく背中をただ見つめていることに恐怖を感じた。このまま私が立ち止まってしまえば、もう二度と触れられなくなる気がした。
それで私は勇気を振り絞って踏み出す。昔をなぞれば昔のように戻れるのではと願って、努めて明るく彼の名前を呼んだ。
「春斗、おはよ!」
とんと一歩で春斗の隣に並ぶ。私の方を向いた春斗は、呆気に取られた顔をしている。そんな春斗を見て、ああ春斗だなって思う。短い髪のくせにぴょこっと跳ねている寝ぐせ、猫みたいな眠たげな瞳。寝起きの悪い春斗は、だいたい朝はこんな感じだ。
私は、まだ起動していない陽斗の背をラケバ越しにべしべし叩く。
「また背中丸まってるじゃん。真っすぐ立ちなよ、ほら」
「ゆい——七星、お前、なんで」
「なんでって、歩いてたら春斗を見かけたから」
問われた理由は違うものだと知りながら、私はそう答えた。
「……で、用件はなんだよ」
春斗が深く息をつく。表情は陰鬱そのものだ。ここ最近、春斗はそんな顔をしていることが増えた。勝ち気な笑みも、笑うと出来るえくぼも、見なくなってしまった。
「別に、特に用がある訳じゃないけど……」
口に出した言葉は真っ赤な嘘だ。本当は聞きたいことが山ほどあった。なんでそんなに冷たいの、とか。なんでそんなに辛そうな顔をしてるの、とか。なんで私を名前で呼んでくれなくなったの、とか。問いかけは次から次へと溢れてくる。春斗の態度を見ていると不安になる。もう話しかけない方がいいのかとか、関わらない方がいいのかとか、そういう風にも思う。
「——」
でも、私が口にすることは決してない。問うてしまえば、何かが決定的に終わってしまうことは分かり切っている。だから、代わりに他愛のないことを話そうとして。
「あ、えと、その——」
それすら話せないことに愕然とした。分からない。何を話したらいいのかが、分からない。無形の何かが喉に詰まって、苦しいくらいに胸が詰まって、言葉が口から出てこない。
「き、昨日、春斗学校休んでたじゃない?大丈夫?」
それでも、黙ってしまう前に声を絞り出した。
なんとか話題が見つかって良かった。私の問いに、春斗が低い声で返事をする。
「……別にちょっと体調崩してただけ。ただの風邪だよ」
「なんか具合悪そうだったもんね。もう良くなったの?」
「だから学校来てんだろ」
「そっか、だよね、良かった」
それで会話とも呼べない会話は途切れた。
話さなきゃって思うと、何故か上手く話せなくなる。
「……」
気まずい沈黙、重たい時間。私は顔を俯かせた。隣で春斗がどんな表情をしているのか、見てしまうのが怖かった。ややあって春斗が大きくため息をついた。
「そういえば俺、やることあったわ。悪い、先に行くな」
「あ、……うん、ばいばい」
絶対嘘なんだろうなと思いながら、でも、呼び止める術など私には無かった。駆けていく春斗を見送りながら、私は安堵すら覚える。こんな時間を過ごしていたら、いつか取り返しがつかなくなりそうだったから。そして、遠くなる春斗の背を見てふと思う。
なんで春斗、今日は自転車じゃないんだろう。
そんなことすら、今の私では聞けなかった。
× × ×
松前テニスセンター——通称MTCは、テニス選手の松前優太郎が設立した東京都五鷹市にあるテニススクールだ。七星愛美を輩出したとして広く知られる、ジュニア選手の育成に力を入れている名門であり、私が通っているアカデミーでもある。
「——っ」
今日もMTC内では、キュキュキュとシューズとハードコートが擦れる音、ラケットでボールを弾く打球音、コーチの声が混ざり合って反響している。ここはインドアテニスコートなので、音が内側に籠り、それらの音が殊更に大きく聞こえてくるのだ。
私は一度、目を瞑ると大きく息を吐き、アドバンテージサイドでリターンの構えを取った。
今はゲームカウント5―4、得点は30―40。私のブレイクポイントであり、マッチポイントでもある。集中力を一層高めながらぐっと身体を沈め、私はコートの向こう側の対戦相手——金山美乃梨を注視した。フォア側かバック側か。美乃梨のフォームからサーブの方向を予測し、タンタンと細かくステップを踏む。
パアンと炸裂するサーブの打球音。美乃梨の放ったスピンサーブは、私のバックサイドに飛んでくる。バウンド後に大きく跳ねるスピンサーブは、相手に高い打点で打たせることを目的としているサーブだ。高い打点では身体から遠い場所でボールを打たないといけないので力が十全に入りにくく、そのためスピンサーブは敵に攻められにくい守りのサーブともいわれる。まして私は片手バックハンド。高い打点でバックを打つのは非常に難しい。
だから、ポイントをこれ以上落とせない場面でバック狙いのサーブを打つのはセオリーとして当然だった。けれど、セオリーである以上予測することも容易だ。
「——は!」
私はタタタッと一歩コートの内側に入り込むと、飛んで来たボールが跳ね上がる前にライジング気味にボールをバックハンドで叩く。狙い過たず、相手のストレートに飛ぶ私のショット。それに反応した美乃梨がフォアのスピンをかけてクロスコートに返してくる。
けど返球は浅く、美乃梨のボールはサービスラインとベースラインの中間ぐらいにポワンと跳ねた。打ちごろのボール。完全にチャンスボールだ。
もらった、と思った。後は、フォアで美乃梨のがら空きのバック側に叩き込めば良いだけ。本当にそれでお終いの、至極単純なウイニングショット。
「——っ、」
私は奥歯を噛み締めてラケットを高く構える。跳ねるボールを注視し、腰の高さよりも少し上に来る瞬間を待った。狙うはストレート。打ち込め、やり切れ、迷うな。怖がるな、攻めろ。前の試合みたいなミスはするな——。
ザザザ、と思考にノイズが奔る。身体に纏わりついてくる泥。
テニスを憎む父の顔が、どうしてか思い出される。
——テニスさえしていなければ。
陰鬱な表情の春斗が、どんどん遠くに歩き去って行く。
——テニスをしていたせいで。
プレーをする母の姿が、目の前で鮮明に蘇る。
——それでもテニスしかないのだから。
ミスをするな。七星なら、負けることは許されていない。
——でなければ私は何のために。
「——」
ラケットを握る右腕にグッと力を込めた。耳元で囁いて来る言葉を追い払うように、絡みついて来る泥を振り切るように、思い切りラケットでボールを打った。けれど、フラット気味の弾道で飛んでいったボールはサイドラインから大きく外れる。こんな余計な力が入っていれば、ミスするのは当たり前のことだった。
「——カモン!」
美乃梨がコートの向こう側でガッツポーズを作って叫ぶ。コートサイドで試合を見守っていた橋本コーチがため息をつき、力なく左右に首を振ったのが視界に入る。それで私は、汗が滴り落ちるのも気にせず、腰に手を当てて深く息を吐いた。
まただ。また。またまたまたまたまたまた。あの試合から毎回毎回性懲りもなく、一番大事な場面で、こんなイージーミスばかり。一体何度繰り返せば気が済むのか、私は。
「この、——」
自分で自分に嫌気が差して、ラケットを叩きつけたくなる。それを無理やり抑え込んで、私はコートの後ろに置いたタオルを手に取った。汗を拭い、タオルで顔を覆う。
切り替えろ、試合の途中だ、まだ負けてない。そうやって自分に何度も言い聞かせる。でも、プツンと集中の糸が切れてしまっているのは分かっていた。ここから立て直せる気がしないことも、分かっていた。
「……」
短く息を吐いて天を仰ぐと、視界が無機質な白い天井に遮られる。
それで、ふと思った。
まるで箱庭だ。テニス以外に何も知らず、テニス以外に何も無い。縦幅23.77m、横幅10.97mの長方形の箱に閉じ込められて、藻掻き苦しむ七星結花。そんな自分自身を、私はひどく滑稽に思った。
結局、美乃梨との練習試合はそれから3ゲーム連取され、5―7で負けた。
「結花、大丈夫?調子崩してるでしょ」
練習後、更衣室でシャワーを浴びている最中に美乃梨からそう聞かれた。私と美乃梨はMTCに通い始めた四歳から一緒だから、かれこれもう十年以上の付き合いだ。仕切りのせいで隣の美乃梨の表情は見えなくとも、気遣うような表情をしているのが手に取るように分かる。
「……そうかな?」
「そうだよ。見てれば分かるって」
けれどそれは美乃梨にしても同じらしい。私の曖昧な返事は即座に見抜かれてしまう。でも、あまり触れて欲しい話題では無かった。一番の親友であり、最も身近なライバルでもある美乃梨には殊更に。私が黙って髪を洗っていると、美乃梨が続ける。
「最近ずっとだよ。テニスしてても全然楽しそうじゃないもん。むしろ、苦しそう。無理してるっていうか。前みたいな攻撃的なテニスもあんまりないし」
そんなことまで分かるんだ。私は美乃梨の言葉に驚きを覚えながらも、シャワーの音で聞こえない振りをする。わざわざ言われなくても、全部自分で分かっている。おかしいのも、調子が狂ってるのも、苦しいのも、全部。
それで口を引き結んだ。口を開いてしまえば、友人にひどい八つ当たりをしそうで怖かった。それきり美乃梨との間に会話は無く、気まずい沈黙を誤魔化すように私はシャワーを頭から被る。全部、このモヤモヤまで綺麗に洗い流せればよかった。
× × ×
「結花。お前テニスしてる時、なにか余計なこと考えてないか?」
練習後。夕飯も兼ねたファミレスでのミーティングで、橋本コーチがそんなことを聞いてくる。幼い頃から今までずっとお世話になっていることもあって、コーチはおおよそのことは見通しているのだろう。案の定、コーチは私に語りかけるように言葉を続ける。
「別に気負い過ぎなくてもいいんだからな。七星愛美さんは確かに偉大なテニスプレーヤーだった。でも、遺志を継がなきゃなんて思う必要は無いんだぞ」
「……」
スプーンをドリアに突き刺して、私は黙ったままドリアに噛みついて飲み下した。
「結花は結花で自分のプレーを貫けばいい。お前はそれだけの実力をちゃんと持っているんだ。だから、それさえ出来ればきっと世界にも通用する——」
そのまま、コーチの真剣な言葉が頭の中を上滑りしていく。
メンタル、メンタル、メンタル。いつも、私が言われるのはそればっかりだ。テニスはメンタルのスポーツと呼ばれるくらい試合での精神状態が勝敗を大きく左右する。だから、メンタルが弱点なら克服するのは当然のことだ。それは私も理解している。
けれど。
——女子テニスの未来を担うニューヒロイン、七星結花。七星愛美の血を引く天才少女として世代のトップを走り続けてきた彼女だが、高校年代に入ってからは伸び悩みを見せているようにも感じられる。その原因はやはり、先日のMUFG決勝でも露呈したメンタル面の弱さだろう。ジュニア年代では飛び抜けた技術を誇り、良い時のプレーならば世界にも通用するクオリティを発揮する反面、メンタルが崩れた時のプレーはひどく散漫だ。半ば強引な攻撃やイージーミスが目立ち、第二セットはほとんど七星結花の自滅と言っても良かった。この致命的な欠点を克服しない限り、母から娘に託された悲願は文字通り夢物語に終わってしまうことが危惧される。果たして、夏の全日本までに修正が出来るのか——。
「うるさいな。言われなくても分かってるってば」
不意に、少し前に目に入ってしまったネットのスポーツ記事が思い出されて、私は気が付けばそう口に出していた。するとコーチが軽く目を開き、ややあって深くため息をついた。
「……そうか、そうだな。分かっては、いるんだよな」
ひどく歯がゆそうな表情で、声のトーンを落とす橋本コーチ。ストローでアイスコーヒーを啜りながら、コーチはそれきり難しい顔で黙り込んでしまった。
そうだ。弱点のメンタルを克服すればいい。気負わなくていい。自分のプレーを貫けばいい。そんなことは、私が一番理解している。
けど、克服って一体どうやって?
私のプレーなんかない。私の理想のテニスは、七星愛美のテニスそのものだ。果敢に攻め続ける超攻撃的なテニス。あらゆる守りも貫く絶対の矛。その姿を、そのプレーを、ずっと見て来た。ずっと憧れ続けて来た。母の代わりにグランドスラムを優勝する。今の今まで、その為だけにテニスをしてきた。
なのに、遺志を継がなくたっていいだって?今更、全部投げ出せって?ふざけないでよ、簡単に言わないでよ。
それなら、私は。私のテニス人生は、一体全体、何のために——。
× × ×
コーチとのミーティングを終える頃には、もう夜の八時を過ぎていた。一日分の疲労を引きずりながら、暗い夜道を歩く。両肩に食い込むラケットバッグは鉛のように重たく、いっそ投げ捨ててしまおうか、なんて思う。そんなこと、絶対にする訳ないけど。
「っ、——!」
言葉にならない感情のままに道端の小石を蹴飛ばす。石はころころ転がって、道路脇の下水道にぽちゃんと落ちた音がした。多分、そのまま流されていくのだろう。暗い暗い下水の中を、行く先も知らぬまま、漫然と。
「分かんない」
そのままふらふらと道を歩いていると、やがて目の前に三叉路が現れる。続く二つの道の先は何も見えない真っ暗闇で、どっちにいけばいいかさえも分からない。
それで、代わりに夜空を見上げた。輝く星のどれか、見守ってくれているはずのどれかを探して。
「分かんないよ、お母さん」
ねえ、だから教えてよ。
「私、どうすればいい——?」
どうやったら大事な試合に勝てるの?
どうしたらお母さんみたいにプレーが出来るの?
けれど、問いかけても答えを返してくれる人は居ない。夜空は分厚い雲に隠されて、星灯かりはこの地上には届かない。
「……」
そのまま俯くと、私は無意識の内に隣を見ていた。ずっと傍に居て、いつも手を引いてくれて、私を前に連れて行ってくれた人を探していた。
「……なに、してるんだか」
虚空の闇を瞳が捉え、私はほとほと呆れて自嘲する。バカだな、居る訳ないのに。
それで、私は今更のように気が付いた。私は独りぼっちなのだ。こんな広い世界に沢山の人が居るのに、私の傍には誰もいない。
がむしゃらに前に突き進んで。ひたすらにボールだけを追ってきて。全部斬り捨てて、ずっとずっと走り続けてきて。気が付いて振り返ってみれば、私の後ろには、誰も着いて来てなど居なかったのだ。
「いたい」
だから、立ち尽くした。目の前にぽっかりと穴をあけた暗闇を前に、それから一歩も進めなくなる。
「いたいよ」
テニスしかしてこなかった。教えられてきたのは上手くなる方法と敵を倒す方法だけで、胸に走るこの痛みを解決する方法なんて誰も私に教えてくれなかった。
痛い。いたいのに。傍にいたいのに、その方法が分からない。身体を包む寒々しい感覚は、まるで試合の時と同じくらいにひどく心細くて怖かった。
「——」
不意に暗闇がじわりと滲む。それを、必死に唇を噛んで耐えた。泣いてはダメだと思った。泣いていても、雨の中を探して手を握ってくれる人は居ないから。
「……一人は嫌だよ、春斗」
それでも、見えない空の星に手を伸ばして、誰にも届かない本音を吐露する。本当はきっと、「約束」が叶うかなんてどうでもよくて。 私の隣に居てくれれば、それだけでよかった。
春斗が一緒に頑張ってくれている。
それだけで私は十分だったのに——。