「——はっ、」
 荒い息を吐きながら俺はラケットを伸ばす。ギリギリ追いついたボールをスライスで敵陣に沈める。だが、見事なショートクロスで完全にコートの外に追い出されたせいで、俺の自陣のフォアサイド側はがら空き——つまりオープンコートが出来上がっていた。
 無論、相手がその隙を見逃す訳がない。俺の対戦相手である平井は、低い軌道のボールを掬い上げるようなアプローチショットで、丁寧にボールをフォアサイド側に展開した。
 くそ、遠い。歯を食いしばると、切り返してボールを追う。俺はオムニコートの特性を生かして、シューズを滑らせながら移動し、フォアハンドでパッシングを狙った。完全に態勢を崩されていたから、選べたのは一か八かの賭けのショットだけだ。
 しかし、それすらも読み切っていたのだろう。アプローチでネットに詰めていた平井は、俺のショットに対し落ち着いてボレーを決める。柔らかなタッチで完全に勢いを殺す、完璧なドロップボレーだった。そのままボールは俺の陣地で二バウンドして転がった。
「カモン!!!!」
 平井が拳を握って叫ぶと同時、コート横で試合を見ている他の部員たちの拍手が上がる。
「うめえ」「すげえ、完璧じゃん」「流石うちのエース」「いやーレベルたっか」
 部員の間からそんな声が漏れ出て、ベンチに座った顧問の若い男性教員——吉田が腕を組んだまましきりに頷いていた。
「くそ」
 呟いた俺の声は誰にも聞こえることはない。したたり落ちてくる汗は幾ら拭ってもきりが無く、グリップやウェアは既にびしょ濡れだった。
 時刻は午後四時過ぎ。夏の日差しは身体が炙られていると錯覚するほどに厳しく、耳をつんざく蝉の鳴き声に集中が妨げられる。
 うるせえ、黙れ。暑いんだよ、くそが。
 試合展開も含めて募る苛立ちはどうしようもなく、俺は衝動のままにラケットを叩きつけたくなった。もちろん実行には移さない。否、移せない。
 所詮はただの平凡な学生に過ぎない俺は、山ほどラケットが支給されるプロとは違う。ラケットが折れたら換えは無いし、何より、そんな振る舞いをしたら口うるさい顧問が激怒することくらいは分かっていた。
「ノットアップ。カウント、5―6。平井、マッチポイント」
 審判台に座った石原が大声でポイントを宣告する。それを聞きながら、俺はネット前に転がったボールをとぼとぼと拾いに行く。こんな試合にボールボーイなど居る訳が無い。
 我が都立五鷹高校テニス部は現在、一学期の終業式を目前にした休日を利用して部内戦を行っていた。夏の都立団体対抗戦に出場するレギュラーメンバーを決める部内戦だ。
 既に大方の試合は終了し、残っているのは今行われている俺と平井の試合のみ。この試合はシングルスのNo.1を決める、いわば部内の決勝戦だった。
「——、は」
 荒い息を整えながら俺はサービスの体勢に入る。ボールを突く回数は五回だ。
 試合は終盤でタイブレイクに突入している。カウント的には平井のマッチポイントだが、サーブ権は俺にある。だからここをキープすれば6―6のタイに戻すことが出来た。
 ——無論、落とせば俺は試合に負ける。
 勝負の分かれ目となる非常に大事なポイントだ。
「——」
 トスを上げる。炎天下の中で何試合もこなしたせいかダメージの蓄積した足はガクガクで、膝を曲げる動作すらままならない。
 ——ここを落とせば、負ける。
「フォルト!!」
 インパクトの瞬間余計な力が入り、俺の1stサーブは大きくサービスラインを外れた。
 くそ、集中しろ。俺は再度大きく息を吐いて瞑目し、切り替えるように再びボールを突く。ジリジリと日光が肌を焼く。先の完璧な平井のポイントが瞼の裏にこびりついている。よせばいいのに、脳内で余計な思考がぐるぐると巡る。
 ——ここを落とせば、負ける。
 ——テニス歴十三年の俺が、テニス歴六年の平井に負ける。
 ——都大会ベスト32止まりの平井に、負ける。
 うるせえ、黙れ。黙れ、黙れ、黙れ。
 ぐちゃぐちゃの心のまま俺はトスを上げた。案の定トスは乱れた。なのに、トスを上げ直すことすら考えに至らなかった。
「——っ!」
 無理やりに打ちに行く。弱気な心がラケットの回転を鈍らせる。ヘッドは奔らず当たりは中途半端だ。結果、俺のサーブは緩い弧を描いて相手のサービスボックスに納まり、平井のフォアの打ち所の高さにやんわりボールが跳ねた。
 それを見た瞬間、ああ、と思った。
 まただ。またこうなる。ほらな、やっぱりこうなった。
 平井がラケットを振り抜く。フォアハンドで叩きつけるように早いフラットのボールが飛んできた。もはや俺はその球を追うことすらしない。そのまま平井のショットが自陣の隅に綺麗に突き刺さり、鮮やかなリターンエースで試合は終わった。
「ゲームセット、アンドマッチ!ウォンバイ平井、カウント7―6!!!」
「しゃああ!!!」
 瞬間、審判が試合終了を告げて平井が拳を突き上げて叫ぶ。
 すると部員たちが一斉に立ち上がって、コートの中へ入って来た。
「すげえ試合だった!流石、平井!!」
「これ、オレたち結構いいとこまで行くんじゃね?」
「それな!平井と皆川で二勝は固いだろ!何しろ都ベスト32二人がシングルだぜ!?」
「まあ俺らの代は上目指してっからな」
 ガヤガヤと楽しげに騒ぐ平井たちを遠目で眺めながら、俺はコートの上に突っ立っていた。悔しさはない。ただ虚無感だけが心を埋め尽くしている。あまりにも無様だった。今すぐここから消えたくなった。
「皆川ドンマイ。惜しかったな。いい試合してたけど」
 部内でダブルスを組んでいる山島にポンと肩を叩かれる。負けて凹んでいるように見える俺を慰めてくれているのだろう。だから俺はそれに曖昧な笑みを返した。
「……ああ、サンキュ。次は負けねえわ」
「だよな。マジで紙一重だったし」
「それ。5―5のとこでブレイク出来てれば流れ変わってた」
 言っていて笑えてくる。なんて薄っぺらな言葉なのか。本心など何処にも無い、上辺だけで取り繕った言葉を垂れ流しながら、顧問の吉田の元へ集合する。
「——礼!」
「「「よろしくお願いします!!」」」
 部長でもある平井が号令をして吉田に一斉に頭を下げる。礼儀を重んじる吉田は、ミーティングを始める前にもこうした号令を俺たちに課していた。
「おうお疲れ。各々、今日は色んな収穫があったと思う。特に最後の試合なんかは見ている側も学ぶことが多かっただろう。平井も皆川もいいプレーだったしな」
 吉田の話を聞きながら、俺は口の中だけで吐き捨てる。
どこがだよ。俺みたいなレベルのやつなんか、日本中に腐るほど居るだろ。
「都立団体まであと一か月弱か。前から言っている通り、今年のメンツ的に本気で優勝を狙える位置にいると思う。ただ、平井と皆川に頼り切りになるなよ。全員で気を抜かず、練習に励んでいこう」
 続く吉田の言葉は、俺の耳にはほとんど届いていなかった。
 見上げた夏の空には、夕立でも来るのか分厚い雲が現れていた。

× × ×

「それにしても暑かったな、今日は」
「なー。この中で試合はきつかったわ」
 都立五鷹高校——通称鷹高の目の前にあるコンビニは生徒たちのたまり場だ。部活を終えた俺たちはコンビニ前のガードパイプに腰を下ろして、車座になって駄弁っていた。
 メンツはいつも通り平井、俺、山島、石原、北戸、町谷。鷹高男子テニス部のレギュラーメンバーだ。主な話題は今日の部内戦の事で、バニラアイスを齧りながら平井がぼやく。
「まじさ、一日で部内戦やるのは無理があるって。吉田先生結構鬼だよな。ま、熱心なのはありがたいけど」
「分かる。オレとか、皆川と試合してる時に足釣ったし。痛すぎて死ぬかと思ったわー」
 おどけるように石原が文句を言うと、北戸が揶揄うような笑みを浮かべた。
「石原、お前負けた言い訳か?」
「うっせえな!実際足釣ってなければワンチャン合ったし!」
「どこがだよ。普通にベーグル焼かれてたやん」
 ぼそりと山島が突っ込むと、皆がゲラゲラ笑い声をあげた。ちなみに、ベーグルを焼かれるというのは、ゲームカウント0―6で一ゲームも取れずに負けるという意味だ。
 くだらねえ。薄っぺらな笑いを張り付けたまま俺は内心で吐き捨てる。負け試合を笑い話にしているのも、こんな部内の試合も、俺のテニスも全部くだらねえ。
 無造作にコーラのペットボトルに口をつけ、黒々とした液体を飲み下す。身体に悪影響だからトップアスリートは炭酸を飲まないなんていう話を真に受けて毛嫌いしていたのが馬鹿みたいだった。アスリートでもなんでもねえだろ、お前。
 俺が顔をしかめていると、そういえばと平井が問うてきた。
「皆川、これで俺らの対戦成績幾つだっけ?」
「あ?知らねえよ。お前の勝ち越しじゃねえの?」
「マジか。やったぜ。去年までは負けっぱなしだったからなあー」
 投げやりに返事をすると平井が喜色を浮かべる。すると町谷が頷いて追従した。
「平井、最近また伸びたよなー。どんどん上手くなってるやん」
「本当にそれな。これは都立団体マジで行けね?優勝したらうちの高校初でしょ?快挙じゃん。これオレら注目されちゃうっしょ~」
「それはない。何せうちの高校には七星さんがいるからな」
 七星。その名前が出た瞬間、俺は気が付けばペットボトルを握り潰していた。
「わり、俺、今日は先に帰るわ。お疲れ」
 そのまま返事も聞かず、俺は地面に放り投げていたラケットバックを拾ってチャリへ向かい、蹴り飛ばすようにしてスタンドを跳ね上げた。
「おー、お疲れー」
「なんだあいつ、急に」
「ゆうて平井に負けて悔しかったんじゃね?」
 話し声を背に受けながら漕ぎ出す自転車はひどく重たく、一日炎天下で部活をした疲労もあって、碌に前に進んでくれやしない。
「くそ」
 制服のワイシャツに汗が滲む。夕方五時を過ぎているくせに夏の日差しは未だ強烈だ。
「くそ、くそ、くそ」
 募る苛立ちのまま立ち漕ぎに移行し、何もかもを振り切りたくて全力でペダルを踏んだ。だが、背中に感じるラケバの重みも、胃にズシっともたれる不快感も増すばかり。
 七星——、結花。あいつの顔が頭を過ぎって、自己嫌悪で死にたくなった。
「死ねよ、この、下手くそが」
 西の空の残照に向かって吐き捨てる。けれど、胸の内に溜まったままのどす黒い濁りは全然薄れてはくれなかった。

× × ×

 その晩、夢を見た。小学校低学年頃の夢だ。当時の俺は目をキラキラさせて、みんなの前で将来の夢を発表していた。そんな景色を前にして、夢の中で俺は呻く。
 止めろ。止めてくれ。見たくない。聞きたくない。
 しかし、幼い俺は止まらない。
『僕のゆめ。みながわはると。僕のゆめは、ななほし選手みたいにすごいプロテニス選手になることです!そして、絶対絶対絶対に、グランドスラムで結花ちゃんといっしょに優勝します!』
 頬を紅潮させて、熱を帯びた声で、幼い俺が語る。みんながパチパチと拍手する。同じクラスの結花が恥ずかしそうに、でも嬉しそうに笑っていて——。
「——!」
 目が醒めた。俺は家のベッドで寝転がっていた。
「またこれかよ……、いい加減にしろよ!」
 堪え切れない衝動のまま枕を殴りつける。聞くだに吐き気がする。心底反吐が出るくらいにおぞましいゴミみたいな夢だった。世界の在り方を何も知らないで、何一つ理解もしていない頃の愚かな夢想。俺は幼い自分を殺したくなる。
 ——プロスポーツ選手になりたい。
 恐らくそれはスポーツをしている幼い子供ならば誰でも抱く夢だ。小学校の卒業文集を見れば、大半がそんな夢を無邪気に語っている。しかし、中学にもなれば誰もそんなことは言わなくなる。現実を見るから。現実に気が付くから。自分では無理だと理解するから。
 だから俺も、小学校の頃のことなんてただの妄言と切り捨ててしまえば良かった。だが愚かにも俺は、幼い頃から本気で目指して、そして本気で夢が叶うと信じきっていた。
「——」
 大抵の場合、プロテニス選手を目指す子供は三歳から、遅くとも五歳頃からはラケットを握り始める。俺も例に漏れずその一人だった。テニスアカデミーに通い、週六で練習に励む日々。なまじ小学校低学年の頃は試合に勝ててしまっていたのが不幸だった。それで勘違いした。
 無邪気に夢を語る他の奴らと俺は違う。俺は特別なのだと、本当にプロになれるのだと思い上がった。そのせいで、学年が上がるにつれて勝てなくなっても足掻いてしまった。
 目を逸らして、認めたくなくて、無駄な時間と努力を積み重ねた。
その姿のどれだけ醜かったことか。いい加減、さっさと認めればよかったんだ。俺に、テニスの才能なんか無かったってことに。
 ——努力すれば夢は叶う。
 ——努力は裏切らない。
 かつて俺の周りに居た多くの人がそれを口にした。
 それは魔法の言葉で呪いの言葉だった。今なら分かる。俺は憐れまれていたのだ。叶うはずのない夢に向かって無為に時間を費やす俺の姿が見ていられなくて、大人たちは夢物語じみた言葉をかけてくれていただけだった。
 もちろん、その言葉の全てが間違っているとは思わない。きっと努力すればちゃんと叶う夢もあるのだろう。でも、努力したところで決して敵わない夢もある。そして俺の夢は間違いなく後者の類だった。
 だってスポーツの世界は、どうしようもなく残酷だ。
 才能。それがプロになるために必要な、最低限度の前提条件なのだと気が付いたのは中学の頃だった。否、本当はもっとずっと前から気が付いていた。認めて受け入れて諦めたのが、中学の時だっただけだ。なんのことはない。つまるところ、これはかけ算の話だ。
 才能×努力=実力。
 これこそが、至極単純で残酷な勝負の世界の方程式。
 だからゼロに何をかけてもどうにもならない。才能のある奴が人生全部賭けて血反吐を吐く程に努力して潰し合って削り合って、それ以外の何もかもを犠牲にした果てにようやく一握りの人間が辿り着ける——。それが、テニスのプロの世界なのだから。
「分かってんだろ。てめえの人生は全部、無意味だったんだって」
 暗い夜の自室。プロ選手のポスターや無数に書き連ねたテニスノート、読み漁ったトレーニングの本はもうこの部屋には無い。全部、捨ててしまった。
 ならば、と思う。なんで俺はあの時ラケットも一緒に捨てなかったのだろう。なんで今も俺はテニスに醜くしがみついているのだろう。一体全体、何のためにテニスをしているのだろう。
「知らねえよ、そんなこと」
 積み重なった疑問に答えは無く、それらは澱みとなって心の底に沈んでいく。けれど澱みは既に大量に積み重なっていて、心はもう真っ黒だった。
 分からない、分からない、分からない。思い浮かぶのは幼馴染の姿。俺とは違って、今も厳しいスポーツの世界で戦っている彼女の姿。眩しくて可憐で真っすぐな、結花の姿。
「——」
 瞬間、心の中のドス黒いナニカが首をもたげた。自分の心に在ると信じたくない、結花に対して抱く醜い感情が暗闇で蠢く。
それを無理やり見ないように蓋をした。胸の内に圧縮し押し留めようとした。それでも、僅か漏れ出てきた俺のカタチのしたソレが、吐き捨てるように呟く。
 ——あいつにも才能が無きゃよかったのに。
 それは、粘着質に絡みつくようなドロドロとした呪詛染みた言葉。
 今も必死に夢に向かって努力している幼馴染に対して、決して思ってはならない感情。
「くそ、死ねよ、俺」
 だから俺は俺自身が大嫌いだった。

× × ×

 昼休みの教室は騒がしい。総勢四十名あまりの人間が思い思いに会話しているのだから、当然と言えば当然だ。その喧騒の中、弁当を食べ終わった俺は机に突っ伏して寝ようとしていた。
 昨晩はまともに眠れなかったせいか頭痛が酷い。だが、保健室に行くのは色々面倒だった。担任への連絡や、顧問に対して部活を休む旨の伝達等、余計な雑務が発生するからだ。そうなれば顧問に何か小言を貰うのは避けられまい。
「——」
 仮眠をとるため耳にワイヤレスのイヤホンを突っ込んで瞳を閉じる。適当なプレイリストから再生させた音楽は最近流行の曲。とりあえず聞いてはいるものの、正直に言えば良さがよく分からない。
そもそも俺は流行や話題に鈍感だ。いや、鈍感というよりは興味が無かった。これまで、そんな時間も余裕も持ち合わせていなかったから。
 けれど高校ではそうはいかない。人並みに部活に入り、人並みの学校生活を送っている以上、最低限それについて行かなければどうしようもないのだ。
「——」
 ズキズキと頭が痛み顔を歪める。痛みを再び自覚した途端、耳元から直接聞こえてくる音楽がひどく耳障りに感じ、再生を停止した。だが楽曲の雑音が話し声の騒音に変わっただけで、耳障りなのに変わりはない。
「っち」
 眠りを妨げる痛みと話し声に苛立ちが加速する。楽しげな笑い声をあげるクラスメイト達に、俺は八つ当たり染みた怒りを覚えた。
「え!結花、この前の全国大会、準優勝だったの!?すごーい!」
「……うん。まあね。決勝で負けちゃったけど……」
 その中、一人の女子の柔らかな声がずかずかと俺の意識の中に割り込んで来る。さして大きな声ではないはずなのに、やけに鮮明に聞こえるその声。
「え~、でも全国二位ならすごいじゃん。結花はやっぱりプロになるんでしょ?なおみちゃんに続けーみたいな」
「うーん、そんなに簡単じゃないけどね」
 軽やかで無責任な声に対して苦笑交じりの声音が応える。顔を上げるまでも無く、何が誰の話をしているのかが容易に分かった。大勢の女子に結花が取り囲まれているはずだ。
「——」
 七星結花。彼女は平凡な都立高校である我が学校の有名人だ。
 いや、学校内に限ったことではなく日本国内においても、だろう。
 七星結花は日本女子テニス界において将来を嘱望されている選手であり、その出自や端正な容姿によってマスコミからの人気も高い。
 クラスの女子たちにとって、結花は芸能人みたいな存在なのだろう。彼女を無責任に囃し立て、無意味に涙と感動の「物語」を期待する。マスコミも周囲の人間もそうは変わらない。昔も今も何も変わらないまま、ただ変わったのは俺だけだ。「約束」を投げ出して破り捨てた、救い様の無いカスだけだ。
「——」
 ズキと頭が痛んだ。頭痛を患った時、大抵の場合共にやってくるのが吐き気だった。胸がムカつき胃の中のものが逆流してくる感覚。口内に不快な唾液が満ち、俺は耐え切れずに立ち上がった。
 勢いが強かったのか、その拍子に椅子を引くガタリと大きな音が教室中に響く。会話が途切れ、数多の視線が一体どうしたのかとこちらを捉える。俺は無視して教室を後にすると、全力でトイレに駆け込んだ。
「う、え」
 個室の便器の前で膝をつき、えずく。激しい頭痛のせいか視界は霞んでいて、気持ち悪さだけが支配する。
「う、かはっ!」
 けれど、どれだけえずいてみても、内に溜まったものを吐き出すことは叶わない。喉元まで込み上げてきたそれは最後までは出てくれない。澱み、渦巻き、詰まり、留まる。結局、俺は口の中を満たした唾だけを吐き出し、便器から顔を上げた。
 それから洗面台でバシャバシャと冷たい水で顔を洗う。鏡に写った俺はひどく青白い顔をしていた。さながらどこかの映画に出てくるゾンビのようだ。生きた死体なんて、我ながら言い得て妙な表現をする。
 俺は乾いた笑いを溢しつつ、ハンカチで乱暴に顔を拭ってトイレから出る。教室には戻る気にならず、足は自然に逆の方へと向かった。北棟と南棟を繋ぐ渡り廊下ならば外気を吸える。人通りも多くないあの場所ならば、幾らか気分も良くなるだろう。そう思って歩く最中、俺の後方から声が聞こえた。
「ねえ」
 瞬間、振り返りそうになる。足が止まりかける。それを押し殺して、俺は無理矢理足を前に動かした。こんな人目の多い場所で話したくはない。ただでさえ耳目を集める彼女に余計な面倒をかけたくはなかった。
「ねえ、春斗。ねえってば!」
 切羽詰まったような、あるいは懇願するような声がする。無論それは俺の推測に過ぎず、その声に込められた感情など、当人以外には誰も分かりはしない。
「なんだよ、七星」
 渡り廊下に到達し、周囲に人が居ないのを確認してから俺は声の主が居る方へ振り向いた。目の前に立っているのは結花だ。 彼女は、安堵したかの如く小さく息を吐く。それから労わるような表情になって、結花が問うてきた。
「顔色。すごい悪いけど、大丈夫?」
 すると、結花と視線がかち合う。かつてはあったはずの視線の位置の高低差は、もはやゼロに近い。
ここ数年で結花は大きく変わったように思う。伸びた身長も、大人びて綺麗になった顔立ちも、女性的な体つきも、穏やかな笑みも。その全てに俺は慣れない。
 けれど、俺を見つめる真っすぐな眼差しだけは昔と同じまま。結花の瞳はひどく澄んでいて美しく、だから俺は目を逸らしてそっけなく答えを返した。
「別に、たいしたことじゃねえ」
「そんなわけないでしょ。さっき、吐いちゃったんじゃないの?」
「お前なんで……」
「だって、苦しそうだったもん」
 結花が少し口を尖らせて言う。それで、返す言葉を失った。
 こいつは、俺が教室を出た直後から追ってきたというのか。友人との会話を放り出してまで、わざわざ俺を。そう思うと、ささくれ立っていた心が更に乱れた。
「別に、私には強がらなくていいのに。ほら、保健室行くよ」
 結花が言って俺の右腕を取る。ワイシャツの袖越しに、柔らかな結花の手の温度を感じる。不意に距離が近づき、ふわりと柑橘系の甘い匂いが香った。
「っ!」
「——あ」
 気が付けば、俺は結花の手を振りほどいていた。
 結花が驚いたように目を見開き、力なく彼女の手が落ちる。
「ごめ……、私、その、違くて……」
 哀しげな結花の表情に、俺自身の行動に。負い目に、情けなさに、劣等感に、羞恥に。あらゆる複雑な感情に胸中がぐちゃぐちゃにかき混ぜられて、痛む頭に血が昇った。冷静さを失い、言わなくてもいい言葉が俺の口から零れ落ちる。
「止めろよ」
「え」
「そういうの止めろよ。鬱陶しいんだよ。同情とかしてんじゃねえ」
 それで、今更になって吐き出せなかったものが出てきた。
 それは、黒々と淀んだモノだった。
「なんで、そんなこと言うの……?私は、そんなつもりじゃ——」
 頭痛で明滅する視界の中で、結花が力なく首を振るのが見えた気がした。でも、言いかけた言葉は止まらない。俯いたまま俺は結花に吐き捨てる。
「うるせえな。俺が何しようがお前には関係ないだろ」
「っ!」
 そのまま、顔を上げることは出来ない。結花の表情など見られる訳が無い。俺の表情など見せられる訳が無い。
 やがて、走り去っていく足音がして目の前から人の気配が消える。
 ああ、やっと居なくなってくれたと暗い安堵が胸を満たし、胸がじくじくと強く痛んだ。なのに、心は全然晴れてはくれなかった。

× × ×

 それから部活をサボった。後で相当怒られるのは分かっていたが、今はそんなことはどうでもよかった。全然治まってくれない頭痛に苛まれながら、俺は適当に駅前をぶらつく。
 趣味も好きなことも全部斬り捨てて何も作って来なかった俺に、行く当てなどない。空っぽのまま彷徨う俺の姿はやはりゾンビのようだ。本当は家に帰って寝たかったが、親に部活をサボったとは言い辛かった。
 それでふと、テニスアカデミーを辞めると両親に告げた中学三年の時のことを思い出す。母は明らかにホッとしていた。反抗期真っ盛りで、ままならない現実への苛立ちも相まって、俺が一番荒れていた時期だ。苦しんでテニスをしている俺を見かねて「もうやめたら?」と言ってくれていたはずなのに、当時の俺にはそれが「現実見ろよ」と言われているように感じられて、酷い言葉を何度も投げつけた。だから「やっと終わった」と母は思ったはずだった。
 対して父は僅かに失望を浮かべていたように思う。元来テニス好きの父だ。俺をウィンブルドンまで連れて行ったのも父だし、もしかしたら息子がプロになることを期待していたのかもしれない。結局アカデミーに払った数百万はドブに捨てたようなものだったけれど。
「……雨?」
 ふと、ぽつりと冷たい雫を感じた。顔を上げると、空には真っ黒な積乱雲が現れていた。夏の夕立特有の湿った匂いが鼻について、ゴロゴロと遠く雷鳴が響く。ポツポツと雫がアスファルトに黒い染みを作り、まずいと思う間もなく、盆をひっくり返したような大雨が降り始めた。ゲリラ豪雨だ。
「つめてえ」
 外を歩いていた人々が一斉に逃げ惑う。手近なコンビニや軒下に避難したり、折り畳み傘を出そうとしたりと、四苦八苦している。
 そんな様子を、俺は他人事のように見つめていた。
 ざあざあと雨が降る。雨粒が頬を叩き、身体を濡らし、ワイシャツが張り付く。それすらどうでもよくて、俺は突っ立ったまま空を見上げた。
 分厚い雲から零れる雨を、泣いているようだと表現し始めたのは一体誰だったか。泣けるというのは、ひどく羨ましかった。涙は色んなものを押し流してくれるはずだ。
 だから、俺もついでにどこかへ流してくれはしないだろうかと思う。本当に何処でもいい。誰も俺を知らなくて、俺も誰も知らない場所なら何処へでも。
 でもそんなのは不可能だった。俺が俺である以上、俺自身から逃れることはできない。
「最悪だな、それ」
 自嘲気味に呟いて、雨に濡れた街を当てどなく歩く。
 昔も、こんな風に雨の中を歩いたことがあった。
 忘れもしないあの日のこと。
 大事な、大事な「約束」を交わしたあの日——。

× × ×

「おーい、結花ちゃん!どこいったの、結花ちゃーん!!」
 十年前のあの日は、結花の母——七星愛美の葬式が行われていた。七星家とは家が隣で家族ぐるみの付き合いだった俺は、両親につれられて葬式に参列していた。結花がいきなり居なくなったのはその途中だった。だが結花の父は憔悴した顔で忙しそうにしていて、両親もその手伝いで他に手が回らず、結花が居なくなったことにすら気が付いていない様子だった。だから俺は傘をさして、土砂降りの雨の中を歩き回っていた。
「結花ちゃん?どこ?」
 幼馴染の女の子がひどく傷ついているのは想像に難くない。名前を呼んで必死に探し回っていると、雨に濡れてしゃがみ込んでいる結花を見つけた。
 黒い服を着た結花は、泥だらけでびしょ濡れで、一人きりで泣いていた。
「もどらないと、かぜひいちゃうぞ」
 それで、傘を差し伸べる。
 ただ、結花が濡れないようにしなきゃと思った。
「——はると、くん」
 涙で顔をぐしゃぐしゃにした結花が顔を上げる。俺の名前を呼ぶ声はか細くて弱弱しい。痛々しい結花の様子に胸が締め付けられて、俺は結花に手を伸ばした。
「ほら、たてる?」
「う、うん」
 握った手は小さくて冷たかった。だから、絶対に離すまいと幼心に強く思った。立ち上がった結花が、しゃくりあげながら聞いてくる。
「な、なんで、わたしがここにいるって、わかったの?」
「頑張って探したんだよ。そしたら、みつけた」
 結花が笑ってくれるように、俺は笑う。すると結花がほんの少しだけ笑みを浮かべたように見えた。そのまま一緒に火葬場に戻る最中だった。俺が、それを口にしたのは。
「あのさ。このまえ結花ちゃんのママの試合を見た時に、おれ思ったんだ。おれもあんな風になりたいって」
「——!」
 なんでそんなことを言おうと思ったのだったか。
 多分、結花を独りにしたくなかったのかもしれない。結花の傍に居たいと、ずっと一緒に居てあげたいと思ったのだ。
「だからさ、約束しよう」
「約束?」
 そして俺は、取り返しのつかない無責任な「約束」を口にした。
「いっしょに頑張って、グランドスラムを優勝しよう。それで、結花ちゃんのママに言ってあげるんだ。おれたちがちゃんと夢を叶えたよーって!」
「——、あ」
 俺が言うと、結花が途端に激しく泣き出した。
「う、ううううう——」
「な、なんで?おれ、いやなこといっちゃった?」
 その理由が分からずに、俺は慌てふためいていた。
 それから結花が途切れ途切れの言葉を漏らす。
「ち、ちが、う、わたし、うれ、しくて——」
 嬉し涙だったらしい。でも、当時の俺にはそれが理解出来なかった。ただ、泣いている結花に胸が痛んで、絶対に泣かせたくないと強く思ったのを覚えている。そして俺たちはそっと小指を絡めて、契った。
「これで約束だぞ」
「うん、約束」
 それが、今でも俺を縛り続ける呪いなのだと気が付かぬまま。
 この時の俺は、自分の夢が必ず叶うと、ただ無邪気に、無根拠に信じ込んでいた——。

× × ×

 ずぶ濡れで帰って来た俺は、その日の夜に熱を出した。元から体調が悪かったので案の定だ。けれど、これで明日は結花と顔を合わせずに済むと思うと、少しの安堵も覚える。
「——」
 暗い自室で熱に浮かされ、現実にも過去にも似た悪夢の中をひたすらに彷徨った。初めに見たのは、人生最悪の日の夢だ。中学の頃に出場した都大会で、全国の第一シード——黒岩光輝にボコボコにされたもの。

「はあ、はあ、はあ、——」
 みーんみんみんと、耳をつんざく蝉の声。ぎりぎりぎりぎりと、心を締め付ける万力の音。どくどくと血を求めて脈打つ心臓を無視して、俺は歯を食いしばってボールを追う。
 ボールを返し続ければ、何かが起こるはずだと。諦めないで喰らいつけば、きっと状況は変わるはずだと。
 サーブを打つと、その数倍早いスピードでリターンが返ってくる。俺は一歩も動けない。サーブを打つ。何とかラリーに持ち込む。左右に振り回される。遊ばれているのが分かる。ドロップを打たれる。走り込んでも届かない。ロブで頭上を抜かれる。追っても届かない。
「ゲーム黒岩、ゲームカウント3―0」
「黒岩、強すぎかよ」「なんか相手が可哀想になってきたな」「あんな必死にやってんのに」
 黒岩光輝がサーブを打つ。俺のラケットは掠りもしない。なんとか返したとしても次のボールをコートに叩き込まれて終わる。時折セカンドサーブが来る。そこでラリーをする。点は取れない。黒岩光輝は淡々とプレーをする。涼しげに、つまらなそうに、作業的に。
「ゲーム黒岩、ゲームカウント6―0」
「うわもう第一セット終わった」「余裕かよ」「萎えるわー」「一セット十五分w。最速記録だ」
 みーんみんみんと蝉の声。ばきばきばきと俺の心が折れていく音。憐れまれている。見下されている。なんて無様だ。なんて 無力だ。死にたい。死にたい。死にたい。死にたい。
 遂に、俺のボールを追う足が止まる。ああ無駄なんだと、それで分かった。俺と黒岩の間には、どう足掻いても埋めることの出来ない絶対的な隔絶があるのだと、俺はそれでようやく思い知らされた。
 それから俺は、残酷なまでに無慈悲にひたすらに蹂躙された。コートの向こう側、俺なんか眼中にも無い様子で適当にプレーする黒岩を、俺は呆然と見つめるしかなかった。
「あーあ、また心折れてら、相手」「全国第一シードだもんな」「運が悪かった」「ドンマイ」「頑張れー」「諦めるなー」「才能って残酷だよなー」「ああいう奴が世界に行くのかね」
 試合を見ているギャラリーの声が聞こえてくる。
 同情するような視線が真っ暗な視界に届く。
 なのに、屈辱も、怒りも、悔しさすら湧いてこない。
 口からは、乾いた笑いが漏れるだけ。
 結局、カウントは0―6,0―6。
 俺は一ゲームすら取れないままで、幼い頃からの俺の夢は無様な断末魔をあげながら死んだ。皆川春斗を規定したものは、黒岩光輝という絶対の才能にぐちゃぐちゃにトマトのように引き潰されて、原型も留めないほど無惨にばらばらに切り刻まれて、轢殺されて惨殺されて殴殺されて絞殺されて刺殺され撲殺され屠殺され斬殺され虐殺されて——皆川春斗はそこで死んだ。
結局、俺は何処にでもいる有象無象なのだと。掃いて捨てるほどに居る雑魚の一人で、かませ役にすらなれやしないのだと。そんなことを今更になって思い知って、俺はその日にアカデミーを辞めた。 
 何の感慨もなく、ただひたすらに空虚な心を抱えたまま。
 けれど、身体を引きずって家に帰って来た後に、書き連ねたテニスノートを全部無理やり引き裂いたのだけはよく覚えている。
 折り曲げて手で裂いてカッターで切り刻んだ。間違って手を抉って血が出て、その血がノートを赤く濡らしていた。
 きっとその時の俺が切り刻んでいたのは、恐らく自分の心だった。
「死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死よこのクソ野郎が!!」
 喚いて、喚いて、喚いて、暴れた。涙は出ない。血の流れる手は痛い。痛い。痛い。痛い。止まらず、ズタズタに、何が書いてあったか分からない程に数十に及ぶノートを破壊した。壁に張ったポスターや予定表も破って、幼い頃に貰ったトロフィーを床に叩きつけて割った。それで最後にラケットを破壊しようと全力で振り上げて、そこでようやく涙が出た。
「あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」   
 でもラケットだけは、どうしても手放すことが出来なかった。

× × ×

「ああああ、ううううう」
 夢を見る。熱に侵され、自身の無為で愚かな人生を振り返る。
 悪夢の果ての果て、結花の夢を見た。幼い頃から共に育ち、ずっと一緒に居たはずの幼馴染。めきめきと頭角を表してテニスの才能を発揮していく彼女に、劣等感を覚えた。だんだんと大人になって綺麗になっていく彼女に、戸惑って感情を持て余した。
 それで背を向けた。向かい合うことから、関わることから逃げて、逃げて、逃げ続けて。挙句俺は、一番大事な「約束」まで手放して破り捨ててしまった。
 振り返れば遠く、結花は手の届かない場所に居る。否、届いてはいけない。他ならぬこの手で彼女と関わる資格を投げ捨てた俺に、手を伸ばすことは許されてはいない。
「ううう、ああああああああああ」
 悪夢にうなされる。全身を恐ろしいくらいの熱が包んでいて、いっそ焼き殺してくれればいいのにと思う。
そしたら楽になれるだろうか。そしたらもう苦しまずに、傷つかずに済むだろうか。苦しめずに、傷つけずに済むだろうか。
 答えは無い。夜は永く、終わりのない後悔が俺を苛み続けていた。