息を吐くことすら躊躇うような静寂と緊張感。一万人の観衆が見つめる中、テニスコートにボールをつく音だけが響き渡っていた。
トン、トン、トン、トン、トン。五度その動作が繰り返された後、トスが上げられラケットが奔る。アドバンテージサイドから放たれたフラットサーブは、寸分の狂いなくセンターの角を打ち抜いた。
直後、空間が爆発する。カモン——!と叫ぶ声や、悲鳴にも似た歓声、拍手、指笛。観衆たちが一人残らず立ち上がり、衝動のままに声を上げる。人種も性別も何もかも違う彼らはしかし、センターコートに立つ二人のプレーに酔いしれていた。
二〇十二年ウィンブルドン選手権、女子シングルス決勝戦。
グランドスラム通算十度の優勝を誇る絶対女王セルナ・ヴァリアムズと、キャリア初のグランドスラム決勝進出を果たした七星愛美。そんな二人の対戦となった此度の決勝は、まさに死闘と呼ぶに相応しい展開であった。
準々決勝で第三シード、準決勝で第二シードを撃破した七星愛美は、その勢いのまま決勝でも攻撃的なテニスを遺憾なく発揮し、第一セットを6―4で奪取する。だが流石は百戦錬磨の絶対女王。七星愛美の怒涛の攻撃に耐えながらワンチャンスをものにしたセルナが7―5で第二セットを奪い返す。この時点で既に試合時間は二時間を経過していた。
続いて迎えたファイナルセット。七星愛美が鮮やかなウィナーを決めて流れを掴みかけたかと思えば、力強いセルナのフォアハンドとサーブがそれを許さない。互いが持てる全ての力を出し尽くした一進一退の攻防が続き、一ポイントたりとも目が離せない二人のプレーの質に呼応するように、観客のボルテージも際限なく上がってゆく。
当時のウィンブルドン選手権は、ファイナルセットにおいてタイブレーク制を採用していない。つまりゲームカウント6―6になったならば、どちらかが二ゲーム連取しないと試合は終わらないルールだ。そして、当然のようにこの試合はデスマッチに突入した。
三時間以上プレーしているのにも関わらず、疲れを感じさせない二人のプレー。ボールを打つ打球音と二人の呼吸だけが響く静寂と、爆発のような歓声が交互に訪れる。それはまさしく観客達にとって夢のような時間だった。
願わくば、いつまでもこの試合を見ていたい。どうか二人共に勝利を与えて欲しいとすら思ってしまうほどに。
しかし、いずれ終わりは来る。試合である以上、勝者と敗者は必ず決められる。やがてこの試合にも遂にその瞬間がやってきた。
ゲームカウント12―13。
七星愛美のサービスームにおいて、彼女はアンフォーストエラーを三つ重ねてしまった。攻撃的なプレースタイルの七星愛美は元よりウィナーもミスも多い。ただ、これほどミスが重なってしまったのは、極限状態での力みやプレッシャーが原因だろう。
ポイントは30―40。
セルナに今日四度目となるチャンピオンシップポイントがやってくる。瞬間、センターコートは今日の中で最大の歓声に包まれた。激励の声が、絶叫が、咆哮が、全方向から二人の元に注がれる。
「——Please, Thank you.」
鳴り止まない歓声に対し、チェアマンが穏やかに声をかけた。直後、さざ波のように声は退いていき、センターコートを痛いくらいの静寂が満たす。
「——」
サービスの体勢に入った七星愛美が、深く深く息を吐いた。リターンのために、セルナ・ヴァリアムズがぐっと身を深く沈めた。
——トン、トン、トン、トン、トン。
五度ボールを突く。いつも通りの七星愛美のルーティーン。その頬から足元の芝生に汗が滴り落ち、ボールが真っ青な晴天に舞った。
直後、弾けるような打球音が炸裂する。
アドバンテージサイドから放たれた七星愛美のサーブは、スライス気味の回転でセンターを切り裂く。
しかし、そのコースをセルナは読んでいた。完璧なタイミングで捉えた強烈なフォアのリターンが愛美のバックサイドのベースライン際に放たれる。そのボールを愛美は無理に打とうとせず、面を合わせるようにして丁寧にセルナのバックハンド側へ返球する。
そこから両者は硬直状態に陥った。セルナは執拗に愛美のバック側にボールを集め、愛美はそれをスライスで凌ぐ。結果として、長い長いバックハンドのクロスラリーが展開された。
七星愛美の代名詞。それは、片手バックハンドから繰り出されるダウン・ザ・ラインのショットだ。その武器こそが七星愛美を世界のトップに押し上げた切り札であり、だが同時に非常にリスキーなショットでもあった。テニスのネットの高さは中心が低く両端は高くなっているため、ラリーをストレートに展開する際はネットに引っ掛かりやすくなってしまう為だ。
だからこそセルナは愛美にミスが頻発していることをふまえて、あえて彼女のバックハンドにボールを集めているのだろう。 事実、これ以上ポイントを落とすことの出来ない場面において愛美がリスクを負って攻めるのは難しく、スライスで凌ぎ続ける選択を余儀なくされる。
固唾を呑んでそのラリーを見守る一万人の観衆。数十を超える打ち合いの果て、セルナのバックハンドのショットが少し浅めに入った。
攻めるか、凌ぐか。一秒に満たない時間の中、愛美の脳裏でどれほどの思考が展開されたのかは分からない。けれど彼女は攻めることを選択した。それはつまり、七星愛美というテニス選手のスタイルを貫くということ。自身の最も頼れる武器に全てを預けるということだった。
「——!」
間違いなく、彼女のテニス人生における集大成とも呼べるこの瞬間。この一球に、七星愛美は全てを賭けた。
緑色のボールをラケットが押し潰す。禿げた芝のコート上を、空気を切り裂いてゆくショット。ネットを超え、サイドラインに吸い込まれて、ボールが跳ねる。セルナが一歩も動くことが出来ないほどの鮮やかな一閃だった。
「——」
一瞬の沈黙。永遠にも似た刹那。直後、線審が叫んだのは——。
「——Out!」
無情にも試合の終わりを告げるコールだった。
そのコールを耳にした両者は、ほとんど同時にコートに倒れ込んだ。ラケットを放り投げ、ぜいぜいと荒く息を吐く二人。精魂尽き果てたように空を見上げる戦士たちを、鳴り止むことを知らぬ大歓声と拍手が包み込む。
いつまでも、いつまでも、いつまでも。セルナと愛美を称える観衆の祝福が、晴天のウィンブルドンに響き続けていた。
その姿。
その光景を眼前で見つめていた当時の幼い俺——皆川春斗は胸に焼け付く程の憧れを抱いた。彼女のようになりたい。いつか自分もこの場所にと、分不相応にもそう願った。
そして、俺の隣で七星愛美を応援していた彼女——七星結花も恐らくは同じように。この後に何が起こるかも知らないまま、俺と結花はただ無邪気な夢を見ていたのだ。
二〇十二年ウィンブルドン選手権において準優勝を飾った七星愛美。彼女はその勢いのまま、産休以前に記録した自己最高ランキングを更新し、世界ランキング第三位まで駆け上がってゆく。それから数カ月後、彼女はグランドスラム制覇という日本中の期待を一身に背負いながら、全米オープンの会場であるニューヨークへと向かっていた。
——その道中。
七星愛美は交通事故に遭い、帰らぬ人となる。幼い娘を遺して夢の途中で命を散らしたその悲劇を、日本で知らぬ者は居ない。
トン、トン、トン、トン、トン。五度その動作が繰り返された後、トスが上げられラケットが奔る。アドバンテージサイドから放たれたフラットサーブは、寸分の狂いなくセンターの角を打ち抜いた。
直後、空間が爆発する。カモン——!と叫ぶ声や、悲鳴にも似た歓声、拍手、指笛。観衆たちが一人残らず立ち上がり、衝動のままに声を上げる。人種も性別も何もかも違う彼らはしかし、センターコートに立つ二人のプレーに酔いしれていた。
二〇十二年ウィンブルドン選手権、女子シングルス決勝戦。
グランドスラム通算十度の優勝を誇る絶対女王セルナ・ヴァリアムズと、キャリア初のグランドスラム決勝進出を果たした七星愛美。そんな二人の対戦となった此度の決勝は、まさに死闘と呼ぶに相応しい展開であった。
準々決勝で第三シード、準決勝で第二シードを撃破した七星愛美は、その勢いのまま決勝でも攻撃的なテニスを遺憾なく発揮し、第一セットを6―4で奪取する。だが流石は百戦錬磨の絶対女王。七星愛美の怒涛の攻撃に耐えながらワンチャンスをものにしたセルナが7―5で第二セットを奪い返す。この時点で既に試合時間は二時間を経過していた。
続いて迎えたファイナルセット。七星愛美が鮮やかなウィナーを決めて流れを掴みかけたかと思えば、力強いセルナのフォアハンドとサーブがそれを許さない。互いが持てる全ての力を出し尽くした一進一退の攻防が続き、一ポイントたりとも目が離せない二人のプレーの質に呼応するように、観客のボルテージも際限なく上がってゆく。
当時のウィンブルドン選手権は、ファイナルセットにおいてタイブレーク制を採用していない。つまりゲームカウント6―6になったならば、どちらかが二ゲーム連取しないと試合は終わらないルールだ。そして、当然のようにこの試合はデスマッチに突入した。
三時間以上プレーしているのにも関わらず、疲れを感じさせない二人のプレー。ボールを打つ打球音と二人の呼吸だけが響く静寂と、爆発のような歓声が交互に訪れる。それはまさしく観客達にとって夢のような時間だった。
願わくば、いつまでもこの試合を見ていたい。どうか二人共に勝利を与えて欲しいとすら思ってしまうほどに。
しかし、いずれ終わりは来る。試合である以上、勝者と敗者は必ず決められる。やがてこの試合にも遂にその瞬間がやってきた。
ゲームカウント12―13。
七星愛美のサービスームにおいて、彼女はアンフォーストエラーを三つ重ねてしまった。攻撃的なプレースタイルの七星愛美は元よりウィナーもミスも多い。ただ、これほどミスが重なってしまったのは、極限状態での力みやプレッシャーが原因だろう。
ポイントは30―40。
セルナに今日四度目となるチャンピオンシップポイントがやってくる。瞬間、センターコートは今日の中で最大の歓声に包まれた。激励の声が、絶叫が、咆哮が、全方向から二人の元に注がれる。
「——Please, Thank you.」
鳴り止まない歓声に対し、チェアマンが穏やかに声をかけた。直後、さざ波のように声は退いていき、センターコートを痛いくらいの静寂が満たす。
「——」
サービスの体勢に入った七星愛美が、深く深く息を吐いた。リターンのために、セルナ・ヴァリアムズがぐっと身を深く沈めた。
——トン、トン、トン、トン、トン。
五度ボールを突く。いつも通りの七星愛美のルーティーン。その頬から足元の芝生に汗が滴り落ち、ボールが真っ青な晴天に舞った。
直後、弾けるような打球音が炸裂する。
アドバンテージサイドから放たれた七星愛美のサーブは、スライス気味の回転でセンターを切り裂く。
しかし、そのコースをセルナは読んでいた。完璧なタイミングで捉えた強烈なフォアのリターンが愛美のバックサイドのベースライン際に放たれる。そのボールを愛美は無理に打とうとせず、面を合わせるようにして丁寧にセルナのバックハンド側へ返球する。
そこから両者は硬直状態に陥った。セルナは執拗に愛美のバック側にボールを集め、愛美はそれをスライスで凌ぐ。結果として、長い長いバックハンドのクロスラリーが展開された。
七星愛美の代名詞。それは、片手バックハンドから繰り出されるダウン・ザ・ラインのショットだ。その武器こそが七星愛美を世界のトップに押し上げた切り札であり、だが同時に非常にリスキーなショットでもあった。テニスのネットの高さは中心が低く両端は高くなっているため、ラリーをストレートに展開する際はネットに引っ掛かりやすくなってしまう為だ。
だからこそセルナは愛美にミスが頻発していることをふまえて、あえて彼女のバックハンドにボールを集めているのだろう。 事実、これ以上ポイントを落とすことの出来ない場面において愛美がリスクを負って攻めるのは難しく、スライスで凌ぎ続ける選択を余儀なくされる。
固唾を呑んでそのラリーを見守る一万人の観衆。数十を超える打ち合いの果て、セルナのバックハンドのショットが少し浅めに入った。
攻めるか、凌ぐか。一秒に満たない時間の中、愛美の脳裏でどれほどの思考が展開されたのかは分からない。けれど彼女は攻めることを選択した。それはつまり、七星愛美というテニス選手のスタイルを貫くということ。自身の最も頼れる武器に全てを預けるということだった。
「——!」
間違いなく、彼女のテニス人生における集大成とも呼べるこの瞬間。この一球に、七星愛美は全てを賭けた。
緑色のボールをラケットが押し潰す。禿げた芝のコート上を、空気を切り裂いてゆくショット。ネットを超え、サイドラインに吸い込まれて、ボールが跳ねる。セルナが一歩も動くことが出来ないほどの鮮やかな一閃だった。
「——」
一瞬の沈黙。永遠にも似た刹那。直後、線審が叫んだのは——。
「——Out!」
無情にも試合の終わりを告げるコールだった。
そのコールを耳にした両者は、ほとんど同時にコートに倒れ込んだ。ラケットを放り投げ、ぜいぜいと荒く息を吐く二人。精魂尽き果てたように空を見上げる戦士たちを、鳴り止むことを知らぬ大歓声と拍手が包み込む。
いつまでも、いつまでも、いつまでも。セルナと愛美を称える観衆の祝福が、晴天のウィンブルドンに響き続けていた。
その姿。
その光景を眼前で見つめていた当時の幼い俺——皆川春斗は胸に焼け付く程の憧れを抱いた。彼女のようになりたい。いつか自分もこの場所にと、分不相応にもそう願った。
そして、俺の隣で七星愛美を応援していた彼女——七星結花も恐らくは同じように。この後に何が起こるかも知らないまま、俺と結花はただ無邪気な夢を見ていたのだ。
二〇十二年ウィンブルドン選手権において準優勝を飾った七星愛美。彼女はその勢いのまま、産休以前に記録した自己最高ランキングを更新し、世界ランキング第三位まで駆け上がってゆく。それから数カ月後、彼女はグランドスラム制覇という日本中の期待を一身に背負いながら、全米オープンの会場であるニューヨークへと向かっていた。
——その道中。
七星愛美は交通事故に遭い、帰らぬ人となる。幼い娘を遺して夢の途中で命を散らしたその悲劇を、日本で知らぬ者は居ない。