「いた!」

 沖に向かって慌てて進んでいく熊を追いかける。濡れた砂浜に足が沈み、一歩一歩踏みしめながら耳に入った水を抜こうと頭を振った。

「つーきー」

 十年分の淡い恋心をのせて熊の叫び声が飛んでいく。

 足を止めて振り返る彼女がこちらに顔を向けた。熊は嬉しそうに手を振り、なんだか後ろ姿を見ているだけでこっちが恥ずかしくなる。

 名前を呼ばれた彼女は、進路を変えて堤防から続く小さな階段を軽やかに降りてくる。そのまま嬉しそうに砂浜へ足を踏み入れた。

 そこで初めて名前と顔が一致する。船の展望デッキでカモメと戯れていた記憶の中の人物と繋がった。

「熊くん? 熊くんだよね!」

 明るく弾むような声を聞く。駆け寄ってくる彼女が少しずつ近づくにつれて、熊の表情が緩んでいくのが分かる。隣で笑いそうになった。

「すごい偶然! ねえ、どうして」

 俺たちの前で言いかけた言葉を残し、急に視界から消える。サンダルがずるっと砂に取られたのか、滑るようにしてバランスを崩したのが見えた。

「あぶね」

 一瞬のことで無意識に体が勝手に動いていた。

 ここは親友に譲るべき場面だっただろうが、考えている暇もなく咄嗟に彼女を支えていた。目の上で短く切りそろえられた前髪が風でふわりと持ち上がり、こちらを見上げる大きな瞳がはっきり見えた。