尻もちの痛みに目を開ければ、そこは見慣れた最寄り駅のホームだった。
 
 到着した始発電車に乗り込む人たちが、声もかけずにただ視線だけを心配そうに後ろに倒れた僕に向けていた。
 時計を見ても、電車が到着する時間のまま変わりはない。
 僕は確かにホームから落ちて電車の前に飛び出たはずだ。強い光に包まれた先で、僕は彼女に会ったんだ。
 でも、今の僕は線路にいない。ホームの上にいる。轢かれてバラバラになったはずの体はどこも欠けていない。
 僕は白昼夢でも見ていたんだろうか。
 それとも、君が助けてくれたのかな?
 ねぇ、花。
「あの、大丈夫ですか? 立ち眩みされてたようですけど」
 一人の婦人が僕にハンカチを差し出した。
 誰も声を掛けるはずはずがないと思っていた僕は少し驚いて、そして丁寧にハンカチの申し出を断った。
 心優しい申し出に、僕は申し訳なさではなく温かい心を感じていた。
 僕はずっと一人だった。
 けど、本当はそう思っていただけかもしれない。
 本当に孤独の中の人もいる。その中で必死に生きている人たちもいる。僕は勝手に彼らの仲間だと自分を思い込んで、彼らの痛みをわかった気がしてた。
 でも、僕の周りには沢山の人がいて、見渡してみると知らない人でも僕に向かって手を差し伸べているのかもしれない。ハンカチを貸してくれようとしたあの婦人みたいに。
 僕はただ、一人殻にこもって下を見ていただけかもしれない。
 下を向けば、いつでも君がいたから。
「僕も、下を向くのが得意だったかもしれないな……」
 君は僕が下を向くほど辛い時、必ず側にいてくれたから。
 
 でも、君が辛いとき僕は近くにいてやれたか?

 その言葉に、僕は弾かれた様に立ち上がり、尻に着いた汚れを払うと僕は反対側に止まった電車に乗り込んだ。
 僕に仕事を全て押し付けて起きていない上司の留守番電話に、家族の容態が悪化しているため今日会社を休む旨を残し、品川から始発の新幹線に飛び乗った。
 幸せになってと言った彼女は、自分が幸せだったと笑っていた。
 幸せだったはずだよ。父さんも母さんも梨絵も。家族全員彼女が大好きだったんだから。
 僕のことが好きと言った彼女は沢山の人に愛されていた。いつも彼女が家にいるから僕も、きっと皆も、家に帰ってこれたんだと思う。
 それほど僕たちは彼女を愛していたんだ。
 幸せじゃないはずがない。
 でも、僕の幸せってなんだったんだろう。
 どれもこれも思い出すのは、君との幸せな思いでばかりだった。
 子供の僕が大好きだったチョコレートを君の為に諦めた思い出だって、僕にとっては幸せな思い出なんだ。
 そうか。
 これが、誇らしく笑える思い出なのか。
 新幹線がゆっくりと動き出す。
 ゆっくりと、そして徐々に加速を帯びて過ぎてく景色の中で、僕はただ涙を流した。
 僕は君と過ごした日々がどれも誇らしい。
 でもおかしいな。何で誇らしいのに、笑えないんだろう。



 新幹線、電車、タクシーを乗り継ぎ実家についたのは十時少し過ぎるぐらいだった。
 途中、上司からなんと責任感のない奴だ。今日来ないならクビにすると電話がかかってきたが、今ここで家族に会わず会社に戻るぐらいなら辞めてもいいと言って電話を切った。
 今までなら見捨てられることが怖くて、また社会から弾かれてしまうのが怖くて、気に入らないことをしてイジメられるのが怖くて、言われたまま会社に戻っていただろう。
 もしかしたら、行かないと伝えた時、僕はまだ怯えていたかもしれない。
 けど、何でか花の『幸せになってね』の願いを思い出す。
 僕は今、幸せか?
 普通の人になりたくて、皆と一緒がよくて外れてしまったネジを隠すように必死に違う何かで補ってた。
 せめてみてくれだけでも同じでいるために。
 幸せになるために無理やり普通を着飾った僕は、とても惨めだった。
 僕の幸せは、あそこにはなかったんだ。
 そう思ったら、今までの幸せではない僕を手放せた。
 心の底から、クビでもいい。押し付けられた居場所なんて僕には必要がないと思えたんだ。
 僕の幸せはそこにはない。
 僕の幸せがあるのは……。
 インターホンを鳴らすと、目が赤く腫れた梨絵が出た。
「おにい、ちゃん……?」
「ただいま、梨絵」
 僕を見た梨絵が弾けた様に動き出す。
「お、お兄ちゃんっ! お兄ちゃん、早くっ! 早く来てっ!」
 僕の手を引き、靴も脱げないまま僕を引っ張って二階の階段を駆け上がる。
「花っ! お兄ちゃんが来たよっ! 花っ!」
 割れんばかりに声を張り上げ、彼女を呼ぶ。
「お兄ちゃんが、来たからっ! 花っ!」
 梨絵につれていかれた時は、僕の部屋だった。
 ああ。そうか。
 何度泣いても枯れない涙が溢れだす。
 君はずっと僕の部屋で僕を待っていてくれたんだ。
 ドアを開けると、僕のベッドの脇で毛布にくるまれ母親に摩られた花がいた。
「花……」
 僕に何か言おうとした母を止めて、僕はそっと花に顔を寄せて優しく頭を撫ぜる。
 優しく、優しく。
 自分の幸せを確かめるように。
「ただいま、花」
 僕が呟くと、花の瞼がゆっくりと上がる。
「待たせてごめんね」
 頬を撫ぜると、ゆっくりと僕の手にすり寄って、可愛い上目遣いで僕を見上げた。
 涙が僕の頬を濡らすしても、僕は目を決して閉じなかった。
 何度も何度も、止める術がないまま涙を流す。
 子供の様に。花と二人で母に怒られた、あの時のようたに。
 不意に頬の涙が暖かく拭われた。
 花が僕の頬を舐めてくれていた。
 泣かないで欲しいんだよね。
 笑ってて欲しいんだよね。
 それが、君の願いだもんね。
 ねぇ、花。聞いてくれよ。
「僕は今、幸せだよ」
 僕の言葉を聞いた花は、どこか誇らしげに笑ったように僕を見ると、安心したように僕に身体を預けたまま動かなくなっていた。
 それはどこか夏の終わりに二人で見た向日葵の様で、そしていつも僕と一緒にいてくれた花の最後の姿だった。
「おやすみ、花」
 僕はそっと彼女の目を閉じる。
 ありがとう、花。
 こんな僕を最後まで待っててくれてありがとう。
 周りを見れば、家族全員が泣いていた。
 僕が一人を広く、花と二人で丁度いいと感じていたあの部屋が、今はとても狭く感じる。
 ねえ、花。
「花に会えて、みんなが幸せだったんだよ」
 まだ臆病な僕は君にさよならなんて、言えないけどありがとうは言わなくちゃ。
「ありがとう、花」
 この家に来てくれて、僕たちの家族になってくれて。
 ありがとう。



「お兄ちゃん、無理して来てくれてありがとうね」
 花の好きなタオルを入れながら、母が僕に言う。
 そう言えば、今朝母には来れないと言ったんだっけ。遠い昔の話みたいで、いま改めて思えば腹を立てたり、罪悪感を覚えたり忙しかったなと他人事みたいに思えてくる。
「うんん。僕も朝酷いこと言ってごめん。家族が大変な時に仕事なんてしてられないよ」
 多分、もう帰ってもあの会社に僕の席はないだろう。
 五年以上文字通り毎日働いていたけど、僕の代わりなんていくらでもいるだろうし。
「母さん、あのさ」
 もし両親がよければ少しこの家に滞在させて欲しい。
 何年も帰ってこなかった僕に居場所があるとは思えないけど、出来れば少しだけ、少しだけ。あんな白昼夢を僕に見せてくれた花の気持ちに寄り添いたかった。
 どう言って良いものか言い淀みながら言葉を選んでいると、不意に服を引っ張られる。
「おじさんっ。ねぇ、誰?」
 下を向けば見知らぬ小さな小さな男の子。
「え?」
「あら、青昊君。いらっしゃい」
「ばあば、これだれ?」
 ばあば?
 ああ。
「梨絵の子供?」
 僕が聞くと母さんが笑って頷く。
「子供の時の梨絵に似ているでしょ?」
 子供の時の梨絵に会って来たばかりの僕は、母の孫馬鹿っぷりに思わず肩を竦める。
 あれだけ仲悪く喧嘩をしていたのに、家族って不思議なものだ。
「青昊、どこー?」
「ママここー」
「こんなとこに居たの?」
「うん。じいじが花ちゃんが寝てるって言ったから、おはよういいに来た」
「……そっか。でもね、花ちゃん沢山遊んで疲れて寝てるから、もう少し寝させてあげない?」
「えー。やだよ。花ちゃんと遊びたいもん」
 花はきっとこの子にも愛されていたんだな。
 愛してあげていたんだな。
「青昊君」
 僕はしゃがんで青昊君の顔を見る。
「こんにちは、はじめまして。僕は君のママのお兄ちゃんだよ」
「ママの?」
 キョトンとした顔で青昊君が僕を見る。
「そう。いつも君が花と遊んでくれてたの?」
「うんっ! ボールで遊んだり、追いかけっこしたりっ! でも、ちょっと前とかずっと花ちゃん遊んでくれなくて……。だから、今日は絶対遊ぶの」
「そっか」
 体調が長らく悪かったと母が言っていたから、この子の相手も出来なかったんだろう。
 申し訳なさそうな顔をした花が、この子の隣に座っているように見える。
「ねえ、青昊君。花の代わりに沢山、おじさんと遊ばないかい?」
「え? いいの!?」
「近くの公園に一緒に行こうか。梨絵、連れて行ってもいい?」
「あ、うん……。でも、いいの? お兄ちゃん仕事戻らなくて」
「いいんだよ。青昊君、花に行ってきますって言おうか」
「うんっ!」
 青昊君と僕は花が眠る大きな段ボールの中を覗き込む。
「花ちゃん、いってきますっ」
「花、いってくるね。直ぐ帰って来るよ」
 僕と青昊君が外に出ると、玄関先で父さんがタバコを吸っていた。
「じいじっ! おじさんと公園行ってくるっ」
「そうか、気を付けてな」
 孫にきちんと返事を返す父さんは、僕の知らない人みたいだった。
 僕にはそんな返事なんてしなかったのに。
 少し寂しい気持ちを覚えながら父さんの前をと過ぎようとすると、軽く肩を叩かれた。
 どうたんだと振り向けば、僕にも優しい顔をした父さんが。
「よく来てくれたな、お帰り」
 と言ってくれた。
 一瞬驚いて、次に笑いが込み上げて来た。
 帰って来て花が眠ってしまって、僕に声をかけるタイミングが無かったから今言ったのか。
 ああ、昔の僕は間違っていなかったんだ。父さんは本当に不器用なだけだっんだなって。
「うん、今度は直ぐ帰って来るよ」
 青昊君と一緒に手を振って外へ出る。
 上を向けば青い空と白い雲が広がっていた。
「おじさんって凄い人なんでしょ?」
「え?」
 突然青昊君の言葉に思わず首を捻る。会ったばかりの僕のとごを見てそう思ったんだろうか?
 どこからどう見ても、ただの冴えないおじさんだろうに。
「知ってるよ。だって、ママが言ってたもんっ」
 幼かった頃の妹によく似た目で僕を見ながら青昊君が笑った。
 梨絵、が?
 この世界の僕と梨絵は和解は愚か、十年単位で話してない。
 梨絵はたまに見かける僕に舌打ちしてたし、僕は徹底的に梨絵を無視していたのだから、和解なんて到底考えつくこともできない程遠い状態だったはずだ。
 なのに、何で?
「ママ、いつでも家族を守ってくれる自慢のお兄ちゃんって言ってたよ。だから花ちゃんもおじさんのこと大好きだったって」
 僕が妹の暗い過去を知ったように、妹も何かがきっかけで僕のことを知ったのかもしれない。
「ばあばもじいじも、おじさんは凄い人だから忙しいんだって言ってたし」
 父さんも母さんも。
「おじさん? どっか痛いの?」
 青い空の下、雨が降る。
 僕を幸せにしてくれる人たちがいる。
 僕の幸せの形は色々な形を作って変えて、あの青い空に浮かぶ白い雲のように。
 花は今、空を駆けているのだろうか。
 僕の幸せの形を見ながら、笑っているのだろうか。
 どうか、誇りながら笑ってくれ。
 僕の幸せの形だった、花。
「うんん。痛くないよ、嬉しいんだよ」
 僕もきっと最期に、誇らしげに笑うから。


おわり