僕の中学二年の思い出は常に恥辱にまみれたものだった。
 中でも僕の一番トラウマになっているイベントこそが、この花火大会である。
 一回目の人生も今日同様に知らないクラスメイトが僕を花火大会に誘ってくれた。
 ずっと僕と話してみたいと思っていた。でも、大島達の目があるから学校では話かけれない。良かったら、二日後の花火大会に一緒にいかないか。
 朧気ながらも、そんな会話を交わしたことを覚えている。
 この話を受けて、僕は有頂天になっていた。
 辛い日々、誰ともまともに話せない日々。僕はすぐにその話に飛びついた。深く考える事すらせずに。二つ返事で僕の頭の上には既に花火がお目出度く上がっていたことだろう。
 それが悲劇の始まりだった。
 僕は嬉しさの余り、友達ができると嬉しそうに家族に。恐らく、全員だろう。一回目の和解もなかった時の梨絵の顔と言ったら随分と引きつっていたちと思う。普段は自分を無視する兄が、突然友達と花火大会に行くだと話しかけられたら僕だってそうなるかもしれないし、当時僕同様にイジメられていた梨絵にとっては十分に複雑な話だろう。
 兎に角僕は浮足立った。
 友達と花火大会。
 夢のイベント。
 嬉しくて、嬉しくて。
 けど、それは僕だけじゃなかった。
 普段は暗い僕が珍しく騒いでいるのを見て、母さんと父さんも嬉しかったのだと思う。
 二人個別に僕を呼び、決して少なくないお金をこっそりくれた。
 友達と美味しいものでも食べて来い。
 その時の父さんは、少し笑っていたっけ。
 でも、そんな幸せが僕に待っているはずはなかった。
 花火大会の日、僕を待ち構えていたのは大島達五人組だった。
 本当に来たと笑われて、その時ようやく自分が騙されていたのかと知った。
 直ぐに僕の持っていた財布は奪い取られた。財布の中に入っていた、『友達と花火楽しんで来てね』のメモを見て、散々笑われた。母さんの気持ちも僕の気持ちも、踏みにじられて。
 そして僕は人気のない神社の裏地に連れていかれて、そして……。今の僕にはないはずの背中の火傷の痕がチリチリと痛んだ。
 恐らく、今回も同じことが起きるんだろう。
「ねえ、泰也君。この話って、もしかして……」
「うん。大島たちだと思う」
 僕が頷くと、向日葵が僕を止めるかのように強く腕を掴んだ。
「絶対に罠だよっ!」
 そうだ。その通りだ。僕は一度すでに騙されている。
 向日葵に言われなくても断るつもりだった。
 もう二度と、ロケット花火から逃げたくないし、今は向日葵もいる。彼女に危険が及ぶ方が問題だ。
 そう思っていると、隣の向日葵が呟いた。
「でも花火大会、行って見たかったな……」
 と。
 僕は断る手を止め、顔を上げる。
「うん。大島君達に行くと言っておいて。誘ってくれありがとう。それじゃあ」
 そうだ。変わるにはうってつけの敵が僕にはいるじゃないか。
「えっ!? 泰也君、断るんじゃなかったのっ!?」
 焦りながら、向日葵が僕に詰め寄った。心配なのはわかるけど、ちょっと圧が強めじゃないだろうか。
「断ろうと思ったけど、やっぱり行こうよ」
「罠だって、泰也君も言ってたじゃんっ!」
「うん。そうだよ。けどさ、僕は向日葵と大きな花火を一緒に見たくてさ。一緒に行こうよ、向日葵」
「泰也君……、でも……」
「心の底から花火を楽しもうよ。こそこそしないで、堂々と」
 変わりたいと自分から思えた。
 結果が伴わなくても、一歩を踏み出そうと思えた。
 変わるために、一歩踏み出すために、僕は戦おうと思う。
 君が最初に見せてくれたように。
「ならさっ! それならっ、私も戦うっ!」
 向日葵がぎっゅと僕の服を掴んだ。
「絶対に役に立つからっ! お願いっ!」
「ダメだよ、向日葵は見てて。これは僕の戦いだから」
「でもっ!」
「大丈夫だよ。危なくなったら、走って逃げよう。一緒に逃げようよ」
「……絶対?」
「絶対」
 ぎゅっと、向日葵が僕の手を握る。
「私足早いし力持ちだから、泰也君を引っ張って逃げるからねっ! 任せてっ!」
「ありがとう。頼りにしているよ」
「任せてよっ」
 変わりたいと思って、東京に一人移り住んだ。変わりたいと思って、子供の自分を捨てた。
 変わりたいと思って、大人になった。でも、変わる勇気なんて僕にはなかった。
 目まぐるしい社会の波に飲み込まれないように必死で這いつくばって。大人なのだからと責任を感じ、責務を全うする。でも、心はいつでも怒られるのが怖いと怯える子供だった。
 僕は結局、ずっと一人で大人ごっこをしていた子供のままだった。
 ずっとずっと、中学二年生で止まっていた子供の僕の心。
 僕も向き合わなければ。
 彼らを通して、僕自身に向き合わなければ。ずっと逃げて来た陰に後ろから捕まったみたいだ。
 もう、大人のフリなんてしたくない。
「本当にありがとう、向日葵」
 二度目の人生、これは君がくれたチャンス。
 絶対に、僕はこのチャンスを逃がさない。



 一学期の終業式の日の夕方。
 僕と向日葵は約束の午後六時半に神社の階段前にいた。
 約束の時間なのに誰も来ていないのは前回も同じ。今回も呼び出しておいて彼らは遅刻するつもりらしい。
 確かに、そちらの方が期待をしながらも不安げに待っている僕を馬鹿に出来るか。こんな見え透いた嘘を信じて楽しみにしている馬鹿に地獄を今から教えてくるって、低評価で炎上する動画みたいに。
 携帯も持っていない中学二年生の時間つぶしなんて周囲の観察以外にない。神社は花火大会のために人であふれかえっている。見知らぬ人、見知らぬ老人、見知らぬ若者に……、あっ。近所の見知ったおばさんだ。
 現代よりも、誰も彼もが控えめな髪色。その中で、見事な黄金色の髪を揺らしている向日葵は少しだけ目立っていた。
 いや、目立っていたのは何も髪色だけじゃない。
「家に浴衣なんてあったんだね」
 隣に立っている向日葵の浴衣姿を見て、僕は口を開いた。
「これ? 知らなかったの?」
 デザイン的には少し古臭いかもしれないが、向日葵が着るとそんなことは気にならないぐらい綺麗だったし、とても彼女に似合っていたからかな。
「うん。知らない」
 誰かが着ているのを見た事がないので、当然だろう。
「泰也君が小学校の時、おばさんが着てたのに」
「そうだっけ?」
「そうだよ。その時泰也君もかっこいい青色の浴衣着ていし、梨絵ちゃんは可愛いお花が沢山描かれたピンクの浴衣を着てたよ」
 そう言えば、遠い日の向こうで母親に浴衣を着せてもらったことがあったけ。それは梨絵が小学校にあがった年の夏で、家族四人でこの神社に来ていたっけ。
「羨ましかったんだよね……」
「え?」
「梨絵ちゃんが。キラキラしてヒラヒラして、泰也君が可愛い可愛いと頭を撫ぜていたのをさ。その後手を繋いで家を出て行って。凄く羨ましかった」
 遠い目で、向日葵が呟く。
「向日葵はどうしていたの?」
「私は、うん。ずっと家にいたよ。留守番してた。電気がついたリビングで、近くで足音がすれば顔を上げて、遠ざかればまた顔を下げて。ずっとヒラヒラと漂う帯と、楽しそうに笑う二人を思い出しながら」
 耳の奥に聞こえる、小さななく声が。それは行ってらっしゃいじゃなくて、行かないでだったの?
 僕は向日葵の頭に手を置いた。
「え?」
「可愛い可愛い」
 そう言って、僕は優しく手を動かす。
「ふふふ。珍しいのっ。泰也君、私に可愛いって全然言わなかったじゃん。美容院に行って、髪飾りして帰って来ても気づかなかったのにさっ」
「流石に気付くんじゃいない? それは」
「全然だよ。一緒に走り回って、取れちゃっておばさんに叱られてから、いつもそんなものあったけ? って、言うの。本当、呆れちゃうんだらさ」
「可愛いって言われたかった? 僕は梨絵にも言ってた記憶ないけどな」
 三十間近だと、小学生の記憶なんてほぼほぼない。
「うんん。全然。梨絵ちゃんにも一言も言ったことないんじゃない? だって、意味がわからなかったもん」
 向日葵が残念そうに俺に向かって首を横に振る。
 
「ま、それよりも、私は沢山泰也君と遊びたかったし、沢山沢山走り回りたかったけどね。綱引きだって、ボール投げだって、私は楽しかったんだよ」
 如何にも子供の遊びたちを上げて、向日葵が楽しそうに笑った。
 俺だって、嫌いじゃない。けど、一つ嫌いなものがあった。
「僕、綱引きは嫌いだったよ。だって、二人でやると向日葵が強くて勝てなくって、小さい頃はそれで泣いて……」
 ふと、思ってもいない言葉が僕の口から飛び出した。
 おかしい。僕は一度も向日葵と綱引きなどしたことがないのに。記憶だって、一周目のひとりぼっちのものしかない。
 なのに? 一体、何故?
「ははは。だって、泰也君が私のロープを離してくれないんだもん」
 悪戯に上目遣いで笑う向日葵。くりくりの黒いおめめで。
「あれ?」
 僕は何か忘れていないか? 僕は誰かを忘れていないか?
「どうしたの? 泰也君」
「あ、いや、あのさ、僕は……」
 何を言いかけたか自分でもわからなかった時、不意に聞き覚えのある声がする。
「うそぉ、マジでいるじゃんっ!」
「しかも待ってるしっ! 本当にお友達出来ちゃうって楽しみにしてたんだっ!」
「やっば。可哀そー。呼び出してボコボコに殴っちゃうんでしょ? これ、マジでイジメでーす」
「嘘嘘っ! 俺達めっちゃ仲いいでーすっ!」
 大きな声に笑い声。
 学校と何一つ変わらない彼らが、僕たちの前に立つ。
 彼らは僕よりも体も態度も声も大きい。これだけ騒いでいても道行く人たちはチラチラとこちらを見るだけで、何のリアクションもない。
 怖いよな。
 誰も関わりたくない。大人だってそう思っている連中を子供だった僕が怯えないわけがないさ。
 大人になった今でも、この時の恐怖と屈辱の日々は頭からこびり付いて離れない。今だって、彼らの様な人種を見ると年も中身も関係なく、緊張が走って時折動けなくなる。それぐらい、トラウマを僕の中に残して行ったんだ。
 おそらく、これは一生治ることはないだろう。
 勿論、毎日恨んださ。
 勿論、毎日憎んださ。
 普通の生活は出来る。けど、心のどこがでいつも人がいると怯えてしまう。こんな生活を僕は彼らのたった一年足らずの思いつきで送る羽目になっているんだから。
 思ってはいけないことだと分かっていても、毎日彼らが不幸になることを祈っている。君たちが一生不幸になることを僕はずっとずっと祈っていることを、彼らは知っているだろうか。
 きっと、知らない。
 そんな人間がいるだなんて思いもしない。
 そうだよな。だって、彼らは今、とても楽しいのだから。そんなことを思う必要なんて何一つないんだ。
「僕は君たちが嫌いだ」
 僕たちは何一つ挨拶を交わさず、話し始める。君たちがしたように、僕も。
 独り言のように。
「その大きな笑い声が嫌いだった。授業中でもなんでも所かまわず大きな声で談笑する。誰に注意されても、よくわからないことを言って有耶無耶にしようとする。とても嫌いで、聞く度に見る度に嫌な気持ちになってた」
 最初から、印象は最悪だった。
「渋谷と川崎と大野は、大島がいないとずっと静かで、大島がいると騒ぎ始めるのが狡くて嫌だった。大島は直ぐに怒鳴り声をあげて相手を牽制しようとする姿が嫌だった。その大島と付き合っているだけで、自分が偉くなった気でいる棚橋を軽蔑してた」
 僕の言葉が言い終ると同時に、Tシャツの首元を掴まれ引っ張り上げられる。
「はぁっ!? 何か言ったかっ! おいっ!」
 殴られるの、怖かったな。
 殴られた痕を親に見つからない様に必死で隠すのが、辛かったから。いつもどう隠していいか困っていたっけ。
 痛みよりも、一人で耐えようとすることに心が折れそうだったんだね。僕は。
 でも、もうその辛さはこの世界に存在しない。
 僕のことを見ている人がいるから。僕のことを分かってくれる人たちがいるから。
「そうやって大声を出して、殴るところが嫌いだって言っているんだっ!!」
 僕が大声を出すと、辺り一面が静まり返る。
 今までコソコソとしか見ていなかった道行く人たちが、立ち止まって僕たちを見る。
「う、うるせぇっ!」
 それでも殴りかかろうとする大島。流石にヤバいと怯え始める渋谷達。自分は関係ないといつの間にか少し離れた場所に移動し始める棚橋。
 誰も大島のことを助けないんだな。
 体を張ってまで、彼を止めようとしないんだな。
 ああ、彼も僕と一緒じゃないか。
「止めなよ、大島君。ここは学校じゃないんだよ。君が補導されたら働いてる両親のどちらが迎えに来てくれるの?」
 一瞬、大島の目が迷ったように宙を追う。
 大島は中学二年の二月に、母の実家である広島に引っ越した。
 理由は、父親が亡くなったから。
 僕だって当時は何も知らず、いなくなったことに安堵を覚えるだけだった。彼の父の死が自殺であることを知ったのは、その随分と先のことだ。
 彼の実家の家業が上手くいかくなった末の首吊り。死体は、ここから遠い県の山中で見つかっていたらしい。
「お父さんもお母さんも、今頑張って借金を返してるんだろ? 君が今ここで呼び出されて邪魔をしていいの?」
 初めて、大島の顔をマジマジと見た気がする。
 体は大きく、大人みたいだ。
 けど、初めて正面で捉えた顔は、今の僕と同じ中学二年生の男の子だった。
 子供だった。
「僕のうちも父も近々会社が倒産するから、わかるよ。親には迷惑、かけたくないって気持ち。一番わかるよ」
 僕は毎日、君を恨んでいる。
 不幸になれと今尚、願い続けている。
 君たちが僕にしたことは、そんなことでは拭いきれないことをしたのだから。
 けどね。
 それは一回目の人生だけで終わらせたいんだ。
 人を憎むのだって、不幸を願うのだって、疲れるんだ。出来るなら、したくないんだ。どんなに憎い相手でも。
「わかるよ」
 力が緩む手に触れる。
「一緒じゃないか。僕たち」
 出来るなら、君たちも変わって欲しかった。
 僕は大人だから、君たちがこれからどんな道を歩んでいくか知っている。
 不幸になった奴もなっていない奴も。誰が酷くて誰がマシか。
「……っ」
「渋谷竜二っ! 棚橋愛璃っ! 川崎大志っ! 大野正志っ! そして、大島君。僕は君たちが嫌いだった」
 僕は逃げようとしている人間の名前を大声で叫ぶ。
 大島だけが、許されなくてもいいように。
「大嫌いだったから、先入観で物事を決めつけて先生に誤ったことを告げ口したことは、ごめんっ! 本当に、ごめんっ! 君たちは何も悪くないのに、悪者にしてごめんなさいっ」
 僕は頭を下に下げる。
 もっと早く、謝るべきだったのだ。それに気まずいさと怖さで逃げ回っていたのは僕だ。イジメを理由に謝る事を避けていたのも僕だった。
 だけど、心のどこかでずっと引っかかっていた。引っかかっていたからこそ、最初のイジメをされてもしょうがないことと捉えてしまっていた。
 彼らを助長した一因は、間違いなく僕の勇気のなさだ。
 後ろめたさから、毅然とした態度をとることを憚られた。
「後で先生から、君たちには関係がない先輩達の仕業だったって聞いたよ。本当に、ごめんっ」
 深く深く下げた頭を上げれば、五人は何とも言えない顔をしていた。謝られるだなんて、微塵も思っていなかったんだろう。
 彼らが僕をイジメていい最大の理由なのだから。
「いや、でも、遅くない?」
 誰よりも早く口を開いたのは、渋谷だった。
「俺達、めっちゃ怒られたしっ! 違うって言っても信じて貰えなくて最悪だったよな? な? 川崎っ」
「え、あ、うん。そうだったと、思う」
「それなのに謝って済ます気かよっ! どう弁償してくれんだよっ! 俺達の信頼とか、時間とかっ!」
 一人騒ぎ始めると、今まで固まっていた棚橋がそれに加勢するように叫び始める。
「そうだよっ! うちら被害者だしっ! そんなんで終わりとか可笑しくないっ!? 愛璃、その日パパにも怒られたんだよっ!? 本当に悪いと思ってるならこれで終わりとか可笑しいでしょっ! ねっ、友弥っ!?」
 棚橋に呼ばれた大島は、僕を見て戸惑ったまま小さく、「ああ……」と言うだけだった。
「許して欲しかったら、ちゃんとやる事やれよっ!」
「そうだよ、誠意見せろよっ!」
「誠意って、何?」
 僕は騒ぐ二人を見る。
 それは、土下座か?
 それとも……。
「え? 普通に慰謝料じゃない?」
「そうだよ、俺達傷付いたんだから慰謝料でしょっ! なっ! そうだよなっ!?」
 まだ自分達の方に分があると思っているのか、大島以外の四人が「慰謝料!」「慰謝料っ!」と手を叩きながら囃し立てる。
 自分と同じだと知っている大島だけが、心配そうに僕を見ていた。
 そうだよね。
 お金がないと、喧嘩するよね。
 大島の家が本当に喧嘩をしていたかなんて知らない。わからない。けど、大島も僕も同じで家で起こった酷い事が僕の家でも起きているんだと思って心配してるだろうな。
 本当はもっと早く話せば、彼とは分かり合えたかもしれない。
 支え合えたかもしれない。
 自分達の友達の様子すら心配せず、コールを続ける子供達はなんとも滑稽だった。その姿に、どうしてかいつも感じる怯えすら出できてくれなかった。猿の合唱、幼稚園児の合唱会。それ以下のお遊戯会に見えてくる。
「お金を払ったら、解決するのか?」
 僕は子供達に問いかける。
「……え? だって当然の権利で……」
 大野が言いかけた言葉を避けぎる様に、僕は声を荒げる。
「お金を払ったら、解決する問題なのかっ!? お前たちがやったこともかっ!?」
 叩いていた手がパラパラと締まりがなく止まる。
「金を出したら、解決できると思っているのかっ!? その程度で収まる怒りで、僕は裸にさせられたり、髪を焼かれたり、持ち物全てを捨てられ、壊され、殴られ、ゴミ箱と呼ばれて人権すら奪われていたのかっ!?」
 僕の大声で、大野の口が窄んでいく。
「でも慰謝料一人五百万だし? それぐらいじゃない? ね? 普通だろ。何自分が被害者面してんの?」
「五百万払ったら、同じ事していいのか?」
 僕は棚橋を見る。
「払ったら、同じ事していいのか? なあ」
 僕は大島の前を離れて、棚橋の前に立つ。
「二十八歳になる時、お前の家迄で行ってやる。利子をつけて八百万でも一千万でも払ってやる。お前の家の実家、美容院だよな。ここにいる全員が知っているし、転勤もしようもないもんな。払ったら同じ事をさせろ。絶対だ。絶対に同じ事をさせろ。お前はそれでいいんだよな?」
 僕は棚橋の顔に指を差す。
「絶対に、同じ事をするからな。今まで何をやっていたか僕は一つも忘れず覚えている。お前の持っているもの、職場の関係、家庭、子供どれを持ってても取り上げてやる。お前がしたことはそういうことだろ? 僕も同じとをしてやる。絶対だ」
 詰め寄る僕に、棚橋は怯えた顔を見せた。
 いつもの様に生意気の口はみっともなく下に下がっている。
「お金で、解決できるんだよな?」
「そんな金、ないくせにっ! こいつ貧乏なんですっ! 草とか虫とか食べてるんですっ! 皆、やばいとか思わないっ!?」
「名誉毀損って、知ってる?」
 僕は冷たい目を彼女に向ける。
「……は?」
「草とか虫とか、僕の家族が食べてる。それぐらい貧乏だと言われて、僕たちの不利益を考えた事ある?」
「え? あ? え? キモいから?」
「違うよ。僕たちが貧乏人だと思われて社会的に生まれる不利益のことを言っているんだ。君はそんなことを言われている僕が店に入ったらどう思う?」
「虫食ってる人間が来たって……」
「違うよ。虫を食っている程金に困っている人間が店に来て、商品を買うと思うか?」
「……え?」
「貧乏なんだろ? 虫を食うとはどの様な状態だと大人は思う?」
 想像してみなよ。
 その一言で生まれる不利益を。
「わ、わかんない……」
「はは……」
 思わず馬鹿馬鹿しくて笑いが漏れた。
「そんな僕がパンを持ったらどう思う?」
「買えば、いいじゃん」
「買える人間が何で虫を食べるの?」
 君たちの一言から始まる地獄を、考えろっ。
「僕は買えないものだとレッテルをレッテルをお前に張られたっ! 虫を食う程僕たちの家族が金がないってお前はどこで大声で喋った!? 学校の全校生徒に聞こえるぐらいの大きさでっ! 今ここで僕のことを何一つ知らない大勢の他人に対してっ! その全員が、僕たち家族をお前が言った言葉のままで僕たちを見るんだぞっ!? もしその間違った情報で僕たちの家族の誰かが冤罪を受けてもっ! 誰かがそのことをきっかけに命を絶ってもっ! お前は、責任が持てるのかっ!!」
 中学生にはわからないかもしれないが、お金がないって情報は沢山の意味を持っている。それを嗅ぎつけて悪い事をする大人は少なくない。
 その犠牲者の一人が大島の父親だ。彼の父親は、そんな悪い大人たちによって殺されたと言える。
 嘘でも本当でも、決して人前では言ってはいけない言葉だ。
「その時、僕はどんな金額を君が払っても許さない。絶対に、許さないっ!」
「え、あ、五百万円でも……?」
 怯えながら呟く彼女に、笑いが込み上げてきそうになった。子供の五百万の大きさは命も買える絶対的な金額なんだな。
「五百万で人間は生き返らないよ。なら、君は五百万あげるから死んでくれと言われたら嫌だと言わず無条件で死ぬの? 五百万なら今からすぐに渡そうか?」
 彼女は強く首を横に振る。
「棚橋さんの言った『虫を食べなきゃいけない貧乏人』が店に入ったら、お金がないから万引きしに来たと思われて店から入店を断られる場合があるかもしれない。ちょっと前に言った冤罪をかけられる可能性だって高い。その時、君が言いふらしたかった『虫を食べなきゃいけない貧乏人』だからと理由を答えたら君はどうやって責任を取るの? そもそも、それを狙って言いふらしていたの? 僕たちの家族を殺したいの? 僕の父さんも母さんも妹も向日葵も。全員殺したいって思ったから、言ってるんだよな? それが事実だと思って言ってるんだよな? 誰から聞いたか教えてよ。僕はその人に君のしたことの責任を問うから」
「あ、あら……」
「君の店の客から聞いて広げたとなれば、棚橋さんの両親が経営してる美容院に行こうと思う人いると思う?」
「え?」
「そこで話したことが、こんな風にそこの娘によって広がって、こんな被害を受けると知ったお客さんがまたそこで髪を切ろうと思う? 君の両親に話せば、こんな風に言いふらされて、こんなひどい扱いを受けて、こんなにも最悪な思いをしますよ。それでも貴方はお金を払ってそんな扱いを受けに行くんですか?」
「はっ!? パパもママも関係ないじゃんっ! 何でそんなことをするのっ!? ひどすぎるじゃんっ!」
「当たり前だろ。君が最初に僕の父さんと母さんの名誉を、いや。僕の家族の名誉を酷く傷つけたのに? 名誉毀損ってね罪なんだよ。罪ってね、裁かれなくちゃ許されないこともあるんだよ」
 僕は大きく息を吐く。
 そうだ。
「君たちのやっていたことはイジメじゃないっ! 全部犯罪なんだよっ! 金を取るのも、殴るのも。ある事ない事ことを言うのも、人の物を壊し隠すのも。全て犯罪なんだよっ」
 知らなかったで済むわけがない。
「君たちは犯罪者になりたかったのか? 犯罪者になってまで、僕を苦しめたかった? たった僕に五百万を払ったことろで、君たちがやった犯罪は一生消えないのに?」
 それでも、僕をイジメたい?
「僕の人生を犠牲にして、君たちは自分達の一生も捨てたかったのか?」
 僕の問いかけに、五人が俯く。
 何も言い返せないのか、辺りは沈黙したままだ。
「僕は君たちのことが嫌いだった。今でも、大嫌いだ。けど、君たち五人の仲の良さは羨ましかった。だからこそ、仲間ぐらいは大切にしろよっ! 周りに迷惑をかけるぐらい仲がいいなら、誰か困ってるなら助けてやれよっ! 大島君が僕に捕まっていた時、何で逃げたっ!? 何で距離なんかおけるっ!? 助けてやれよっ! 友達が人生を棒に振るかもしれない瞬間を、誰か全力で助けてやれよっ!」
 友達なんだろ? 僕みたいに一人で苦しむ必要がない、友達だろ? 
 何で、逃げるんだ。
 何で、離れるんだ。
 僕をイジメることで、一緒に犯罪者になってもいいと思っていたんじゃないのか?
「自分の人生を棒に振るなよっ! いい友達の人生を棒に振らすなよっ! 友達なら、止めてやれよっ! ずっと一緒にいた友達だろっ!? 授業中ですら喋りたくなるぐらい仲がいいんだろ? なら、助けてやれよっ! 守ってやれよっ!」
 涙が込み上げてくる。
 こんな下らないことに人生を使ってしまった僕らの末路を考えると、何て哀れなのか。
 僕は一人だった。
 友達なんていなかったし、誰も守ってくれなかったし、助けてくれなかった。
 けど、彼らは違うじゃないか。
 急に、彼らが遠い子供のように見えてくる。
 海の向こうの名前もしらない国で可哀そうに暮らしている子供たちのように。
 僕は彼らにさえ、僕のようになって欲しくなかった。
 なにもしらない純粋爛漫な遠くの国で自然と一緒に気の向くままに野生のように生きていけると思っている彼らが、本当はここは日本で君たちには今から人間社会のルールや法律のもとで暮らしていかなければならないと、知らない文字で書かれ紙をただ見ることしかできない可哀そうな子たちが、これからどんな風に生きれると言うのだ。
 一人で生きることもできるけど、一人は辛い。一人はわからないことだらけで、簡単に道を踏み外してしまう。悪い事にも、劣悪な環境すら誰と比べてもわからずに。ただただ、貪られて人生が終わってしまうのだ。
 電車に轢かれた一度目の僕の人生のように。
 誰か一人でも道を踏み外した時、四人全員で引き上げられるようになった欲しい。
 もし僕を殴る大島を彼らが止めていたら、僕が家族に全てを打ち明けたように何か変わっていたかもしれないんだ。
「自分も、周りも……っ。大切に、してくれよっ!」
 声が届いて欲しい。
 僕みたいな大人になるな。僕みたいに簡単に人生を捨てようとするな。
 君たちにも、後ろにいる事の顛末を見守るギャラリーにも。そして、今の僕自身にも。自分の時間も、労力も、そして命まで軽く思って欲しくない。
 価値なんてないんだと自暴自棄になって欲しくない。
 耐えていれば、自分だけならと思って欲しくない。
 君だけで完結する物語なんて、人生と言う本の中には存在しないんだから。
 それでもどうしようもない時だって沢山ある。けど、僕みたいに最初から諦めて全てを捨てて生きて行くのはどうか思いとどまって。
 どうか、誰一人。
 僕みたいに自分は一人だと思わないで欲しい。
 誰かにとっても、自分にとっても。大切な人間なんだから。
 どうか、どうか。
 自分を変える存在を捨てないであけでくれよっ!
「うん」
 そっと、僕の振り下げた手に白い手が重なった。
「大丈夫だよ」
 隣を見ると、向日葵が笑っている。
「大丈夫、泰也君の声はどこ迄も届くよ」
 そう言って、笑うのだ。
「大切な人がいる人生を、僕みたいに壊して欲しくない。僕みたいになって欲しくない……っ」
「うん、そうだね。でも大丈夫。皆も、泰也君も。大丈夫だよ。泰也君は前の泰也君にならないよ。だって、泰也君はいつもそうだったじゃない。ずっと一人で前を向いて、いつも置いていかれるのは私の方だもん」
 僕は向日葵の言葉に自分の手を見た。
 大人の僕とは違う小さくて細い手だ。
 この手も、あの骨ばった大きくゴツゴツした手に変わっていくんだろう。
 でも、どんな風に変わっていたはわからない。毎日自分の手を僕は見続けて来たというのに。少しずつ、少しずつ変わっていく。変わっていくのは僕なのに、僕はそれがわからない。
 ああ、そうか。
 僕はこの世界に来て、急に変われたと思っていた。
 隣に彼女がいてくれたから。彼女が僕の欲しいモノを全て与えてくれるから。彼女が特別だったから。
 そう思ってた。今の今まで。
 少しずつ変わる自分なんて分からずに。
 一人だけ、家族の中で一人だけ、僕はこの時代から動けないままだと思っていた。変わっていないままだと思っていた。
 この時代に縛られたまま、人とのしこりを一人で感じて、見ないふりして。変わっていく家族の目には僕は中学二年生の学生服を着た、難しい性格の男の子に映っているのだと思ってた。
 でも、きっとそんなことはなくて。僕だけが僕を見ていなかっただけなのかもしれない。僕自身を見る鏡すら、僕は捨ててしまっていたのだから。
「うん……。そうだね。僕はいつでも自分で勝手に変わってたね」
 家を出のも僕の意思だったし、就職を決めたのも僕から動いたからだ。
 僕はいつでも自分を変えれる力を持っていたんだ。
「あっ」
 優しく涙を流す僕を見守ってくれていた向日葵が、僕の手をぎゅっと握った。
「え?」
「いけないっ。私、警備員呼んでたんだった! ここで捕まったら花火見えないよっ。逃げよっ!」
「えぇっ!? 何で!」
「泰也君が殴られそうだったからっ! でも、約束通り逃げるのは私に任せてっ!」
 向日葵が走り出す。
 僕を引っ張って。
「は、早いよっ! 向日葵っ」
「あははっ! 懐かしいねっ。いつも散歩で私が泰也君を引っ張るとそう言ってたっ」
 不意に腕を引っ張られる感覚が蘇る。
 僕はこのスピードを知っている。
「でも、早く走らないと花火が始まっちゃうっ」
「ねぇっ! 花火までにはまだ時間があるよっ!?」
 花火は八時からだ。
 まだ今は七時にもならないはずなのに。
 耳に響く爆発音に僕は上を向く。
「あっ」
 楽しそうな向日葵の声を背に、向日葵色の火花の大輪が真っ暗な夜空の上に咲き誇った。
 僕と向日葵は雑木林の中で自然に足を止め、開いた空を見上げている。
「何で……」
 上がらないはずの打ち上げ花火が上がったことにより僕が戸惑い時間を確認しようとすると、向日葵がぐっと手に強く力を入れて離してくれない。
「泰也君、今の花火見た?」
「え? あ、うん」
「すっごく大きかったねっ。音も大きくて、ちっょとびっくりしちゃった」
「うん……」
 僕も強く彼女の手を握る。
 まだ始まるはずのない花火は、僕の返事をかき消すように次々と上がって行った。
「綺麗だね」
 花火よりも綺麗な向日葵がぽつりと呟く。
 赤い打ち上げ花火に照らされた彼女の横顔はとても嬉しそうで、とても幸せそうで、少し寂しそうだった。
「私ね、ずっとこの花火を見たかったの」
「言ってくれればいつでも連れて来たよ」
「嘘つき。来年は一緒に見ようねって、泰也君言ってくれたじゃない」
 僕はその約束を今でも覚えている。
 期待に胸膨らませた昨日、一度目の僕が約束した言葉。
「結局一度も約束は守ってもらってないけど、今日のこれで許してあげる。私は約束ちゃんと守ったのになぁ」
 そう言って、悪戯っぽく笑う彼女から目が離せない。
 僕はあの日、約束した。彼女と確かに約束した。
「花……?」
 僕の大切な家族で、一番の友達で、誰よりも一緒の時間を過ごしたゴールデンレトリバーの『花』と。
 僕はあの日、次の花火を約束したのを僕ははっきりと覚えている。
「向日葵は、花、なのか……?」
 僕の震えた声で問いかけた言葉に、向日葵は、いや。違う花は。
「うん。そうだよ。泰也君、私、花だよっ」
 向日葵の花の様に笑ったのだ。
「花? どうして、何で? お前、人間に……っ」
「ちょっとちょっと、今まで散々泰也君の隣で人間だったのに今更驚くの? ワンテンポ遅いよ。まったく」
「だって、向日葵って……」
「うん。いい名前でしょ? それに私にとても似合っていると思わない? 泰也君が私に付けてくれた名前。花って名前も可愛いけど、ずっと憧れたんだ」
 向日葵。それは、小学一年になったばかりの僕が花に付けようとした名前だ。
 花は僕の祖母の友達が子犬の引き取り先を探していると、祖母宅に来ていた六匹の中で黄色のリボンが巻かれている女の子が彼女だった。
 小さくて可愛くて、ふらふらしてて。なのに一人必死にタオルで遊んでいる姿がほっておけなかった。僕はどうしても花が飼いたくて、必死に父さんと母さんに頼んだったけ。
 飼っていいと言われた時、僕の中で彼女の名前は既に決まっていた。黄色い毛並みに黄色いリボン。僕の大好きだった向日葵の花の様だった。
 だから僕は家に来たばかりの彼女に言ったんだ。「お前の名前は向日葵だよ」って。けど、それを聞いていた母が慌てて貴方の従妹に『ひまり』がいるから向日葵は駄目よ。相手が犬の名前と似てるって不愉快になっちゃうかもしれないから。どうしても向日葵にしたいなら向日葵もお花なんだから、花にしなさい。
 そんな無茶苦茶な理由で名前を変えられてしまったんだっけ。
「聞こえてたの?」
「勿論。そしてずっと覚えてるよ」
 もう二十になるのに。生まれたばかりで家に来たことすら大切に覚えていてくれいたのか? お前は。
「だって、泰也君に最初に貰ったものだもん」
「花……」
「沢山私、泰也君に貰ってばっかりだった。それはそれで沢山幸せだったけど、やっぱりちょっとだけ……、うんん。嘘。一杯、悔しいことばかりだった」
 花はぐっと僕の手を握る。
「ずっと渡したかった。ありがとうの気持ちをずっと渡したかったっ! 私が味方でいるって、伝えたかったっ! 泰也君と一緒にどこにでも行きたかったっ! 一人だけお留守番なんて嫌だったっ! ずっとずっと、私は人間になりたかったっ! 泰也君の隣にずっとずっといたかったのっ!」
 彼女が気持ちを叫ぶ度に、彼女の瞳から涙が溢れ零れる。
「あの日、泰也君が火傷して帰って来た日。泰也君が私を抱きしめて言ってくれたこと、私はずっと出来るって信じてたのっ。私が人間だったらどこに行くのも一緒だって。私が人間だったら泰也君は一人じゃないってっ。私が人間だったら、人間だったら……、きっと今日だって辛くなかったってっ!」
 そうだ。僕の辛い日々にはずっと花がいた。
 花に泣いて、話して、毎日抱きしめながら一緒に眠りについた。僕が朝早く学校に向かう時だって、彼女だけが一人見送ってくれた。
「……犬だった時だって、花は僕を助けてくれてたじゃないか……っ」
 いつでも、僕を隣で支えていたのは花だったじゃないか。
「人間でも、犬でも。そんなの関係ないよっ! 花はいつだって……、いつだって、いつだって、僕の味方で、僕の一番の親友で、大切な家族の一人で、いつだって、僕を守ってくれてたじゃないかっ!」
 僕が泣く度、優しく頬を舐めてくれた。僕の一人ぼっちの世界には、いつだって君がいた。
 閉じこもっても、鍵を閉めても。君だけは僕の心の中にてくれた。
「……本当に? 本当に、私、泰也君を助けてた? 泰也君に沢山あげれた?」
「いっぱいもらった。もう、抱えられないぐらいに」
 君に沢山優しさも、愛も。
「……っ」
「……花?」
 ぐちゃぐちゃの顔をした花が、必死に自分の下唇を噛んでいた。
 泣くのを我慢する子供の様に。
「はは……」
 僕はそんな彼女が笑ってしまうぐらい愛おしかった。
 母の様に僕を愛して、姉の様に頼りになって、妹の様に甘えたがりで、親友の様に気が置けない誰よりも可愛い僕の花。僕の大切な家族。
 壊さない様に壊さない様に、僕は優しく彼女を抱きしめた。
「大好きだよ、花。僕の自慢の、花」
 声を上げて花が泣く。
 君が最初に僕の家に来た夜、聞かせてくれた鳴き声みたいに。
「泰也君っ、泰也君っ。私、私ねっ、幸せだったっ」
「……うん」
「泰也君の家族になれて幸せだったっ! 私を飼ってくれてありがとうっ」
 ああ、そうか。
 花火が終わるんだ。
 心臓の音のような強く空気を打つ花火が。
「……うん。僕も、幸せだった」
 君といる時はいつも幸せだった。どんな地獄の中でも。
「私っ、泰也君の笑顔が好きっ! いつも優しく頭を撫ぜてくれた君の笑顔が好きだった。いっぱいいっぱい遊んでくれる泰也君が大好きだったっ」
「僕も……っ。僕もいつも隣にいてくれた花が大好きだったよ」
 どけだけ強く抱きしめても、きっと零れ落ちてしまうのに。
「ありがとう……。ありがとう、泰也君。私の我儘に付き合ってくれてありがとう。最後に約束を守ってくれてありがとう」
「……最後なんて言わないでよ」
 まだ夏休みは始まったばかりで、まだまだ僕は君と話したいのに。
「ごめんね。でも、笑ってよ」
 笑えるわけがないのに?
「君が、死ぬのに……?」
 母からの電話。
 君の死期。
「うん。ごめんね。もう待つのが無理なんだ。もう体が頑張れなくなっちゃったの」
 ずっと花は僕を待っていたんだ。
 ずっと、僕が家を出たあの日から。
「ごめん……」
 こんな時に僕と言うダメな奴の口からは、こんな陳腐な言葉しか出て来てくれなかった。
 謝っても時間は巻き戻らないのに。
「ごめん、花……っ」
「うんん。お兄ちゃんは忙しいっておばさんも言ってたの知ってるもん。仕事忙しいんでしょ? 仕方がないよ。遠い所にいるっておじさんがいつも私に教えてくれてたし。いいの。私が勝手に待ってただけだから」
 もう花の声に涙はない。
「もう、花火が終わっちゃうね……。ねぇ、体に気を付けてね。泰也君はいつも頑張り過ぎるの、私は知ってるよ」
 ただ優しく僕を抱きしめるだけ。
「はは。もう、泰也君ったら顔がぐちゃぐちゃだよ。そんなにいたら目が溶けちゃうね……。ねぇ、お願い。最後に笑って。初めて私にギターを聞かせた時みたいに、笑ってよ」
 君が死ぬのに。
 僕は涙に濡れた顔をあげる。ぐちゃぐちゃで子供の様にみっともない顔を。
 でも、君も顔も一緒で、僕は思わず笑ってしまった。
「はは、お揃いだね」
 君も、僕と同じ気持ちなんだね。
「僕も君も、同じだね」
「ふふ、そうだよ。私はいつでも泰也君と一緒だもん」
 混ざりあっていたほどに密着した体が、少しずつ離れ始める。
「泰也君は私にとって大切な家族で、大好きな友達で、頼りになるお兄ちゃんで、手のかかるかわいい弟で、そして誰よりも素敵なご主人様だったよ」
「うん」
「ねぇ、私本当に幸せだったの。きっとこの世の誰にも負けないぐらい幸せだった。だからね、泰也君。君にも幸せになって欲しい。私と同じぐらいに」
「……君がいないのに?」
 僕の幸せは、君だったのに?
「泰也君は忘れてるよ。君を見ている人は私だけじゃないってこと」
 ぐちゃぐちゃの顔で花が笑う。
 幸せそうに笑う。
「大丈夫だよ。君を幸せにしてくれる人たちが待ってるから」
 花が僕胸を押す。
「さよなら、泰也君」
 そう呟いて。
 あ。最後なんだ。
 僕だって沢山君に感謝を伝えることがあるのに。囁きたい愛があるのに。
 けど、そんなことよりも僕は。
「幸せに、絶対になるからっ!」
 君がそれで笑ってくれるなら、幸せを感じてくれるなら。
 僕は絶対に幸せになって見せるから。
「すぐに、絶対、笑顔を見せに行くから……っ」
 どうか。