許せなかった。どうしても、許せなかった。
 その日から、僕は部屋の鍵を閉めた。それは僕の心の鍵に繋がっていたかもしれない。
 あれから、向日葵とは話していない。
 元の生活に、一日、一日と戻って行く。学校でも家でも、僕は孤立していった。これが本来の姿なのだから仕方がない。
 元々一人なんだ。一人でいるべきだったんだ。
 信じるべきじゃなかった。最初からずっと怯えていた癖に。わかっていたんだろ、心のどこかで。僕に手ほ差し伸べる人間なんて存在するわけがないって。
 優しくしてくる奴には必ず裏がある。
 それを一番学んだのがこの夏だったのに。
 何で、僕は……。
 僕はこの日から、向日葵を徹底的に無視し続けた。それは妹にしたように、声も姿をも何も存在していないように、徹底的に。
 目も合わせない、話もしない。一緒にもいない。
 それなのに、彼女は僕を諦めなかった。
 何も反応を返さなくても、彼女は僕に必死に話しかけたし、何かと世話をやこうとしていた。僕はそれさえも振り払って孤独を生きていた。
 何故、ここまで必死に僕の相手をするのだろうか。
 イジメに加担していたこと、僕を騙して笑っていたとこに対する償い? それとも、僕の反応が悪いとまた自分もイジメのターゲットになってしまうため、それを回避するために僕の機嫌を取っているのだろうか。
 考えるだけで、吐き気がした。
 彼女の勇気に感動た馬鹿な自分を殴ってやりたい。
 イジメっ子の間に大袈裟に割り込んでくる彼女を見ても、だ。いつも以上に過敏に反応して首を突っ込んでくるが、その姿を見ると怒りが止め処なく込み上げてくる。
 どれだけ僕を馬鹿にしたら気が済むんだろうか。
「泰也君に謝りなさいよ」
 真摯に真剣な横顔。正義を語る凛々しさ。どれもこれも、嘘ばかり。
 正義の味方ごっこは楽しいか?
 僕を踏み台にして得る注目は美味しいか?
 僕が何も知らないと思っているのだろう?
 僕が何も出来ないと思っているのだろう?
 僕が何も感じないとでも思っているのか?
 一回目よりも、今の方が地獄だ。
 希望なんて抱けなかった一回目の方が、どれだけマシだったかっ!
「待ってっ! 泰也君っ」
 名前を呼ばれるだけでも虫唾が走る。あれだけ居心地の良かった彼女の隣は今では地獄の特等席だ。
 その度に僕は彼女の呼びかけを払いのけて逃げる。
 もう、傷つきたくなかった。
 それは、お互いに。
 優しくされればされる程、僕のダムに水が溜まる。憎しみよりもドロドロとした、最早形容しがたい何かが僕の中に溜まっていった。
 早く栓を抜かなければ、僕の中はそれで溢れかえってしまう。
 一人閉じこもった部屋の中には、何もない。僕はどうやって息をしていたのか。もう何も思い出せない。ただ僕は溜まった何かが溢れて出てしまわないように自分の口を必死に抑えてベッドに転がるしか出来なかった。
 口に出せるわけがない。
 だって、だって。
 そしたら本当に、この家はバラバラになってしまうじゃないか。
 だけどダムの決壊は既に始まっていたことを、この時僕はまた気付いていなかったのだ。
 その事にようやく気付いたのは、その次の日の夜だった。



 その日も僕は向日葵を避けていた。彼女と話すことは愚か目を合わすことさえ許さず、同じ空間にいることえも拒んだ。
 ただただ、不快だった。
 自分だけが苦しむ現実も、自分だけが背負う安泰も。
「お兄ちゃん、折角今日お休みなんだから家族みんなでご飯食べない? 今日はお兄ちゃんが好きなハンバーグをお母さん作ったの」
 連日不機嫌な息子の機嫌を取ろうとする母すら、何も知らない癖にと罵りたくなってしまう。これはそんな安い対価しかない自分と、それで僕のこの地獄の気遣いを清算出来ると思っている母に対する怒りだ。
 先日は棚橋に母の名誉を気づ付けられたことを憤っていた癖に。
 これ以上は駄目だ。ここにいてはいけない。
 そもそも、うっかりリビングの中を通り過ぎようとしてしまった浅はかな自分が悪いのだ。さっさと退散して早く鍵を閉めなければ。
 早く。
「……お母さん、お兄ちゃんなんてどうでもいいじゃんっ! いても何も喋んないし、いる意味なくない?」
 早く。
「梨絵っ! お兄ちゃんなんだから、そんなこと言わないのっ!」
「いもお母さんそれだけど、お兄ちゃんだから何なの!? 何が偉いの?」
「早く生まれて来たんだから、当たり前じゃない」
「はぁ!? 早く生まれたら偉いって何!? なんのルール? 意味わかんないっ! ただ邪魔でキモいだけで、お母さんから守られて当然だと思ってるマザコンが先に生まれたから私より偉いって意味わかんないっ」
 早く……。
「何を言っているの!? そんな酷い事、お兄ちゃんによく言えるわねっ! 謝りなさいっ!」
「本当のこと言うのが酷い事なの!? いつも嘘は吐くなって言う癖に、嘘を吐けって事? お兄ちゃんが可哀想だから!?」
「何てことを言うのよっ! お母さんは嘘を言えなんて言ってないでしょ!?」
 もう、止めてくれ。
 聞きたくない。何も聞きたくない。
 妹の罵声も、母の無償の愛に似た義務も。何も聞きたくない。
「二人共、いい加減にしなさいっ!」
 僕が立ち尽くしていると、ソファーの向こうから、父の怒鳴り声が聞こえて来た。
 あ、僕のために父が間に入ってくれるのか。
 そう安堵しかけた時だ。
「うるさくてテレビが聞こえないだろうっ! 喧嘩したいのなら家から出てしろっ!」
 そう言って、父はテレビの音量を上げていく。
 あ。
 駄目かもしれない。
 こんな日常が見たくなくて、僕は一回目の時、部屋の鍵を閉め続けた。
 恐らく父には僕の姿なんて映ってすらいないのだろう。
 だから僕のために妹に怒ることも、僕のために母の行き過ぎた保護を止めてくれたわけでもない。
 期待はいつでも僕を裏切る。
 無意識に期待をしてしまう僕が悪いのだろうか。
 些細なことで、僕が密かに期待していたことだって簡単にそうじゃないと教えてくれる。いつだって、残忍で残酷なんだ。
 それは絶望よりも、とても。
 父は言葉が少ないだけで、もしかしたら僕のことを思っているかもしれない。父親というものは不器用だと小説に書いてあった。父もそうかもしれない。
 ずっとそう心のどこかで信じていたのに。
 こんなにも呆気なく、裏切られるなんて。
「お、お父さんっ! 貴方、お兄ちゃんがこんなことを言われてるのに何で怒らないの!?」
「お兄ちゃんなんている意味ないって、お父さんも思ってるからだよっ!」
「あんた、また何てことを言うのっ!?」
「だってそうじゃんっ! お母さんだって、お兄ちゃんのこと可笑しいって思ってるの私、知ってるよっ!? 心の病気だって多香おばさんに言ってたの聞いたんだからっ!」
「梨絵っ!」
「お母さんだってお兄ちゃんのこと……」
 妹が続きを唱えようとした瞬間、僕の耳が温かい手によって塞がれる。
「もう止めてっ!」
 父が上げたテレビの音量すら掻き消す声で向日葵が叫んだ。
「もう止めてよ……。泰也君がいるんだよ!? 聞いてるんだよっ! 梨絵ちゃんっ、何でそんなにひどい言葉を吐けるの? 泰也君が何も言わないから何も思わないと思っているの? そんな人間、いると思っているのっ!? いる意味がいないとこの家にいられないのなら、私も梨絵ちゃんも何でいるのっ!?」
 叫んでいる向日葵の顔は俯いている。表情はわからない。
 だけど、何かが彼女の頬を伝って零れ落ちている。
「おばさんもっ! もう少し泰也君を信じてよっ! 泰也君は何でも出来るんだよ!? 誰よりも大人なんだよっ! 何で泰也君のことをみんな勝手に決めつけるの?」
 僕は耳を塞ぐ彼女を見る。
「皆、酷いよ……」
 ついには声まで涙ぐんでいる。
 けどさ。
 は?
 それ、どの口が言っているんだよ。
 心底不愉快で、酷く……。
「気持ち悪っ」
 僕は力一杯目の前に立っていた向日葵を押し出した。
「……え?」
 押し出され後ろに、尻餅をつく形で倒れた向日葵が僕を見上げる。
「お兄ちゃん何してんのっ!? 向日葵ちゃん大丈夫!?」
「お兄ちゃんどうしちゃったの……?」

「うるさいっ!! 黙れよっ!!」

 僕の叫び声に、家族全員の時が止まったかのようだった。
 その時、止まっていないのは僕の口だけだ。
 もう僕自身でも止めようがなかった。どうしようもなかった。
 もう、ダムは決壊している。
 ドロドロした僕の感情はドボドボと口からあふれ出した。もう、決して止まることはない。僕にだって、出来ない。
「いい加減しろよっ! 僕を馬鹿にして、弱い者に仕立て上げて正義のヒーローごっこは楽しかったか!?」
 何も知らない訳じゃない。
 僕はバカじゃない。
 どれだけ誰かに虐げられてバカにされてきていも、僕には考える頭も感じる心もなにをされてそれがどんな意味で僕をどう追い詰めているかわかるぐらいの頭は持っているっ!
「優しい自分に酔いしれたかったのか!? それとも、それで何か評価を上げることが目的だったのか? どっちかなんて知らないけど、僕はお前の都合のいい道具じゃないっ!」
 でも、何も知らないフリをし続けたかった。
「優しさ? 思いやり? 嘘を吐くなっ! そんなもの、誰も僕に持ってないくせにっ! ここにいる全員っ! だれも僕を守れない癖にっ! 僕なんて居なくていい人間だって、皆思っている癖にっ! 母さんも父さんもっ、お前らだってっ!」
「お兄ちゃん……、そんな、私……」
 自分が言った言葉に、妹が反応して言葉を詰まらせる。常に妹が僕へ向ける言葉ばかりだ。自分の言葉が理解でるだなんて思わなかったと続けたいのだろう。
 だが、僕には妹なんていない。誰かが何かを言っている。
「最初から僕はお前の優しさが気持ち悪かったっ! けど、僕を助けてくれたから僕はまんまと騙されたんだ……。自分の代わりに殴られて血が出るってパフォーマンスをされれば、誰だって騙されるよなっ! まさかあれが演技だなんて、誰も思わないよなっ!」
「泰也君、何を言っているの? 私、演技なんて一度もしてないっ!」
「僕は知ってるんたっ! お前が大島たちと繋がってるのをっ! 大島たちと組んで、僕をイジメていたんだろ? 僕が殴られて、服を取られて全裸で校庭走らせられた時、来てくれなかったもんなっ!? どこかで見て笑ってたんだろっ!」
 タイミングを見計らったようにいつも現れるのも、大島たちと組んでいたから出来た芸当なんだろ?
「ちょっと待って……。お兄ちゃん、イジメって何……? 全裸で校庭って、どういこうとなの……?」
「……」
「ねぇ、お兄ちゃんっ! イジメられているってどうことなの!? 誰に! ねぇっ! ……お父さんっ!! テレビいい加減消しなさいよっ! 何考えて観続けてるのっ!? お兄ちゃんが、お兄ちゃんが……っ! 貴方……っ」
 言葉が詰まり、母が座り込む。
 父は慌ててテレビを消しているが、その姿が酷く馬鹿馬鹿しかった。
「お母さんっ。大丈夫?」
 あれだけ言い争いをしていたのに、妹は心配そうに母に寄り添った。
 向日葵だけは、まだ俺をずっと見上げている。
 はっ。
 本当に、どれもこれもが馬鹿馬鹿しかった。
 もういい。もう、何でもいい。
 みんな僕がそれ程憎かったんだ。寄ってたかって、僕を壊したかったんだ。
 母さんのためにって、耐えてみたのに精神を病んでるから優しくしていた? 何も聞いてくれなかったのに? 何も知ろうとしてくれなかったのに?
 妹もだ。本気で僕に消えて欲しいから言った暴言を、何故僕自身が繰り返して傷ついた顔をしているんだ。ただ妹がなくなく気分のままに吐き捨てていた言葉に僕は傷ついてきたのか? それだけで?
 父だって。何も言わないのは不器用でもなく本当に関心がないだけかよ。今までテレビを付けて観ていたぐらい、僕のことに関心がないわけ?
 こんなのが僕の家族だ。
 僕はこんな家族を守るために、口を閉じて、目を閉じて、心まで隠して、我慢し続けた。
 その日々は一体、何だったんだ?
 僕の一回目の人生は何だっだんだ!?
 こんな家族を守るために、僕は全てを押し殺して生きていたのかっ!?
 何て馬鹿馬鹿しい人生だっんだろうかっ!
「イジメ、られてるよ。教科書も体操服ももうないよ。全部捨てられたり燃やされたり、無理やり食べさせられりした」
 もう、隠す意味だって見いだせない。家族の安泰を乱さない様にと必死で守っていた僕の気持ちなんて、もうどこにもないのだから。
「え……。なんで、なんで言ってくれないの……?」
 言ってくれない?
 普通母親なら気付くだろ? 体操服が何日も洗い物にで出ない。ボロボロの鞄を持って登校する。帰りが遅い、朝は何故あんなにも早く出てしまうのか。
「じゃあ、何て言えばよかったんだよっ!」
「なんてって……、イジメられてるって、直接……」
「じゃあ、何で父さんの会社か近々潰れることを僕に言わなかったの?」
「……なんで、それを?」
 その言葉は父から出てきた言葉だった。
 両親は子供は知らなくていいと隠していたんだろう。
 僕達に言っても仕方がないのだから。それはそうだ。仕方がないのだ。
 だけどね。
「そっちだって、隠してるじゃないか。何で家族のこと、教えてくれなかったの?」
 何も行動は起こせないかもしれないけど、ただ子供に節約を要求するだけよりも理解が出来る。協力が出来る。
それにね。
「それを隠すために喧嘩が増えるぐらいなら、いっそ教えて欲しかった」
「……」
 知らないフリをしていたのは、僕が知っていることで更に二人が喧嘩をしてしまうと思っていたからだ。
 両親が喧嘩をして喜ぶ子供なんて、いない。
「私も……っ」
 母の側から、絞り出す小さな声が聞こえきた。
「え?」
 驚いてそちらを見れば、妹が立ち上がり肩を震わせている。
「私も、知ってたのっ! お父さんの会社がなくなるって、だから家からお金がなくなるって、お母さんとお父さんが話してたの聞いたのっ!」
 泣きながら、母に捕まらず自分の服を握りしめて。
 幼い妹が必死にそう叫んだ。
「お兄ちゃんごめんなさいっ! 私、お兄ちゃんは知ってて私だけ仲間外れにされてると思って沢山意地悪したっ! 私もクラスで貧乏ってイジメられてて、お兄ちゃんだけイジメられてなくて狡いと思って、私たけって思って……」
 僕は驚きのあまり目を見開いた。
 妹も?
「ごめんなさいっ!」
 僕達は勝手に妹が思春期だとか、反抗期だとか、良くわからない枠組みに押し込めて見ていた。
「梨絵、お前も……」
 急に酷い態度を取り始めたのに、理由なんて考えなかった。
 助けてと叫ぶことも、小さな妹は僕と一緒で躊躇っていたんだな。
 だから僕に必死に気付いて欲しくて……。
「イジメられたなんて、お母さんにも言えないよっ! お母さんもお父さんも喧嘩ばっかりだもんっ! お兄ちゃんは学校がずっと楽しいから家にいないと思ってたもんっ」
 妹も僕と一緒だった。
 ずっと一人で抱きかかえて、言えなかったんだ。
「僕だって、言いたかった……」
 涙が溢れて来る。
「でも、言えなかった。僕だけが今を我慢すれば、またいつも通りの家族になるって信じてたからっ。喧嘩もしない、部屋に閉じこもる必要もない、何でも母さんに話を聞いてもらえる、あの家族に戻れると思ってたからっ!」
 零れる。
「戻れるって信じて、ずっと耐えて来たんだよっ!」
 涙が。
「だから、向日葵の僕のことを見て気付いてくれるのが嬉しかった。今、誰も僕を見てくれないから。いつも辛いとを知っていてくれるのが嬉しかった。それだけで、この我慢が少しだけ報われた気になってたっ。けど、それがただの捌け口だってわかって、悲しかった」
「そんな、捌け口って……」
「自分をよく見せるだけの道具として僕を見てたなんて、思いたくなかった! そんなことを感じたくなかったっ! 疑いたくなかった。 けど、棚橋は君と話している後、父さんが無色になる話を学校中で大声で叫んでいた。何で知ってたの? それは、向日葵。君が彼等にリークしたからじゃないか?」
「それはっ!」
「これ以上綺麗ごとなんて聞きたくない。僕のことなんて誰も必要としてない、何も持ってないしな。人間だと思っていないって知ってたから。本当は誰も僕のことなんて見てなかったんだよ……」
 誰も。
 そう思った瞬間、向日葵が僕に抱き付いた。
「何だよっ! 離せっ!」
「そんなことないっ!」
 向日葵の声がリビングに響く。
「っ」
「そんなことないっ! 誰も見てないわけがないんだよっ! おじさんも、おばさんも、梨絵ちゃんも皆、皆泰也君のこと見てたよっ! 泰也君が優しいことなんて誰でも知ってるっ! だから、おばさんもおじさんも、泰也君にバレてることを薄々気付いてても君の優しさに乗っかってしまってたし、梨絵ちゃんだって君の心優しさにずっとずっと甘え続けてたっ! 皆知ってるもんっ! 君がどれぐらい優しくて、私たち家族が好きで、何よりも私たちを一番に考えてくれていたかっ、知ってるよっ! 何が何も持ってないだっ! 何でも持ってるでしょ! 優しさも才能も未来もっ」
 その声は、最早怒鳴り声に近かった。
 でも、どこか上ずった、子供の泣き声のようだった。
「泰也君が沢山沢山頑張ったことも知ってる。何も出来ず甘えてしまったのは私たちの方なのに……。それでも泰也君は私たちをいつでも思って、守ってくれてたのに。ごめんね。沢山我慢させて。ごめんね、不安だったよね。私は一度も泰也君を道具だと思ったことはないよ。けど、馬鹿な私の浅はかな行動で不安させてごめん。ごめんねっ! ごめんなさいっ!」
 何度も謝りながら、向日葵は僕を一生懸命抱きしめる。
「私、もっと頑張るからっ! もう不安にさせないからっ! だから、頑張るから、ずっと泰也君の近くにいたいっ! ずっと、ずっと……、頑張るからっ! 今度は私が絶対に守るからっ!」
 少しだけ痛い抱きしめられた体に染み込む、優しい温かさ。
 懐かしい太陽の香りに僕まで涙がまた零れて来た。
「わ、私もっ! お兄ちゃん、ごめんなさいっ! ごめんなさいっ!」
 震えた声で、妹が僕の背中にしがみつく。
「ごめんなさいっ、ごめんなさいっ! もういい子になるから、どこにもいかないでっ! お兄ちゃん、行かないでっ!」
「梨絵……、僕も無視してごめんねっ」
 何も気づけない不甲斐ない兄でごめん。
 三人で泣き続けていると、泣いている僕らを母が抱きしめる。何度も謝られながら。
 そして、少し離れた所で一文字に結んだ口を震わせながら、眼鏡を外して涙を拭う父を僕は見た。
 僕の言葉で泣いている家族。
 ああ、僕が一番見たくなかった景色なはずなのに。
 どうしてこんなに涙が止まらないほと、嬉しいのだろうか。



 夏休みも目の前、七月の半ば。
 暑さがじっとりと絡みつく暑さへ変わっていく。
 あと二日で休みに入るのか。
「今日も熱いね」
「そうだね」
 僕の隣には暑さに愁いる向日葵がいた。
「あ、ちょっと笑ったでしょ? 何かついてる?」
「違うよ。名前が向日葵なのに夏の太陽に弱いんだ思ったら可笑しくって」
「向日葵だって太陽の光浴びてても枯れちゃうんたから、大して強くないよ」
「それもそうだね」
 二人で笑いながら、いつもの道を歩いて行く。
 あの後、僕らはずっと泣き続けた。家族で、泣き続けた。
 言ってしまった、悲しませてしまった後悔はまだ心のどこかでシコリの様に残っているけど、父にも母にも言ってくれた勇気と、自分達を守ろうととたことにお礼を言われ、そして少しだけ我慢したことを叱られた。
 妹は、たまに拗ねた顔をするようになった。でも、何も言わないように自分を律している姿を見せてくれた。
 あの涙の夜が明けた次の朝、僕達家族は随分とぎこちなかったと思う。けど、ぎこちないけどギスギスなんてしてなかった。
 もうきっと、僕達は戻れない。何もなかった幸せな家族には戻れないと思う。けど、変われるんだ。
 変わるのが怖かった。二度と元に戻れないのが怖かった。
 けど、もう恐れは僕の中にはない。
 もし、一回目の人生でも僕が何か吐き出していたら、違っていたのかな。
 もし、今ある勇気が少しでもあったら、結果は変わっていたのかな。
 もし、向日葵がいれば……。
「ん? 何? 私の顔何かついてる?」
「あ、うんん。何でもないよ」
 どうやら無意識に向日葵の顔を見ていたらしい。
 もし、一回目の人生で彼女がいたら僕もまたみんなと一緒に変われたのかな。
 もう向日葵に向けた疑惑の目は僕の中にどこにも無い。
 あれは誤解だと、彼女の口から事の真相を教えてもらったし、情報漏洩には他に犯人がいたのだ。
 あの日、大島たちと密会しているのを僕が見かけた日、彼女は大島たちに僕に自分がイジメられていると気付かせないようにろと約束をしに言っていたらしい。
 楽しそうに笑っていたのも、見間違いではなくただただ勝気な態度を崩さないためだった。イジメられ、僕のようにシクシククヨクヨしてみろと言われて、張り合って僕のいつもの真似をするためにニコニコしていたとのことだ。
 そして、情報漏洩については驚くことに、母が犯人だった。
 日々の気苦労からか、ついついパート先が同じ梨絵の友達の母親に愚痴と一緒に漏らしてしまったらしい。梨絵の情報では母子共にお喋りな気質で誰にでも何でも話してしまうとか。
 そこから、棚橋の実家の美容院に通っていることを知り、棚橋に情報が降り降りて行ったのだろう。
 僕の勘違いはそうやって生まれて行った。悪いのは勝手に怯えて碌に確認しなかった僕と、タイミングだったみたいだ。
 最初は、心のどこかで信じていいのか疑っている自分もいたよ。
 けどね。
「何でもないけど、ただ……。夏休み、楽しみだねって思ってさ」
「あっ、うんっ!」
 君を信じられない自分を、この先僕は思い出したくないんだ。
「私も凄く楽しみっ!」
 これは走馬灯じゃないかもしれない。
 夢じゃないかもしれない。
 これは正真正銘、僕の二回目の人生かもしれない。哀れな僕に神様がチャンスをくれたんだ。
 時を駆けるなど信じられない、信ぴょう性が低い、リアリティに欠けると散々言っていたのにと、自分でも呆れてしまうのはしょうがないだろう。
 でも、僕も変わりたいんだ。
 そんな御伽噺のようなことを信じてみようと思う様に。
 この二度目の人生は神様がくれたチャンスなんだと思いたいみたいに。
 家族のみんなが変ったように。
 僕だって。
 僕の人生をただただ寂しいものにしたくはなかった。何も努力もしないみすぼらしさだけを纏った生活を二度と送りたくはなかった。
 だから、どんなことでも変えていきたかったんだ。
 でも、何から変わればいいか皆目見当がつかずちょっと困っている。
 体を鍛えたり、何か大きな変化を皆に見せられれば。少しは僕も自信がついてくるのかなと、自身の薄い体を触るが遠い道のり過ぎる。肉体改造はおいおいとして……。
 僕達が教室に着くと、余り話したこともない女子二人組が僕に寄ってきた。
 こんなこと、人生で一度も……。
 いや、待ってくれ。
 あれ? この光景、一回目で見た事があるぞ?
「坂口君、あのさ、終業式の後って暇?」
「あのさ、花火大会、行かない? 私たち、前から坂口君と話してみたくて。どうかな?」
 嫌な汗が背中から吹き出て来る。
 ああ、矢張り運命だけは変わらないのか。
 この地獄の運命だけは。