相も変わらず、家の空気は最悪で学校の生活は恐怖に満ち溢れいた。
だけど。
「泰也君っ」
少しだけ楽しいと思う時間が増えていく。
向日葵と一緒にいる時間だけは、なんだか怯えて生活をする前の自分に戻ったみたいに楽しさを感じられるようになったのだ。
七月に入って数日が経ったが、向日葵はずっと僕の傍にいてくれる。
「ちょっとっ! 泰也君に何してんのっ!?」
「うわ、また来た……。お前女子に守られて恥ずかしくないのかよ」
情けない話しだが、あれから何回もイジメっ子たちから彼女は僕を守ってくれていた。
「男も女のも関係ないでしょっ!? 自分達だって恥ずかしいこと沢山してるのに、泰也君だけに恥ずかしさを求めるなっ! それに、何で人に頼っちゃ駄目なの? 自分たちは五人でずっと群れてる癖に。私たちはたった二人で助け合ってて何がおかしくて、何が恥ずかしくて、何がずるいわけ? そっちの方が滑稽で、おかしくて、私だったら恥ずかしいけど」
男として、大人としては恥ずかしいことこの上ないと思っていたが、その度に向日葵が頼ってもいいんだと僕に教えてくれる。
それが、僕にはとても嬉しかった。
「うっざっ。キモいキモいって。皆行こ」
「泰也君大丈夫だった? 殴られたりしてない?」
「うん。大丈夫だよ。ありがとう」
「いいよっ」
相も変わらずに向日葵と僕との関係をからかわれるのは慣れなかったけど、向日葵が隣に居る生活はすっかり慣れてしまった。
「そう言えばさ、部活でね、新しい楽譜もらってね」
「部活?」
「あれ? 泰也君知らなかったけ? 私、吹奏楽部に入ってるんだよ」
そう言って、向日葵が楽しそうにブイサインを僕に見せる。
「え、向日葵、楽器弾けるの?」
「何それっ! 泰也君って失礼なことをさらって言うよね」
「あ、ごめんごめん」
思わず正直な感想が口から飛び出てしまっていた。向日葵は確かにいい子だけども、ちょっと大胆と言うか、大雑把と言うか。
正直、音楽には向いてないと思っていた。
「もう。泰也君が音楽は楽しいって勧めてくれたのにっ」
「え? 僕が?」
今の僕が知らない話を出されると、少し困ってしまう。向日葵には存在する記憶が僕にはないのだから。
その事が、最近では少し寂しい。
「えー? 覚えてないの?」
まるで妹そっくりな言い方。
最近、向日葵を通して家族を見ることが多かった。母親の癖に妹の喋り方、父親の味の趣向。きっと僕の癖も向日葵の中にはあるんだろうな。彼女が本当に僕が知らない間に家族になっていたのだと実感してしまう。
「ごめんね」
「ふふふ。謝らなくてもいいよ。泰也君も、私が本気に受け取るとは思ってなかったんだろうなとは思ってたから。ギター弾きながら、泰也君ずっと私に音楽は楽しいって言い続けてたんだよね。私、だからずっと憧れてたの。音楽ってどれだけ楽しんだろうって」
「そうなの?」
多分、前の僕も自分の言葉で向日葵が音楽を始めるだなんて思いもしなかっただろう。
そんな影響力を自分が持っているだなんて考えもしなかった。
「吹奏楽で何してるの?」
「トランペット!」
「吹くの難しかったでしょ?」
「うんん。簡単だったよ。私ね、ずっと覚えているからね。泰也君のこと」
「え?」
「泰也君にとっては何気ないことかもしれないけどね、私はずっと覚えているのだよ」
悪戯した色した笑顔が咲く。
「何の話? 教えてよ」
「たまには自分でちょっとは思い出してよねっ」
「えー」
向日葵は不思議な女の子だった。勿論、僕の二回目の人生で初登場なのだから不思議どころの話ではない。摩訶不思議な存在である。
だが、不思議とはそっち方面じゃない。
何というか、彼女から感じる居心地の良さが不思議なのだ。
ここに戻って来てたった二週間も経っていないのに、隣に居るのが当たり前の様に居心地が良かった。
この身体が覚えているのか、懐かしさを感じる時もしばしあった。
向日葵は、僕の話をじっと聞く。
「この話、おもしろくないかも」
僕がそう言えば彼女は決まって、
「面白くなかったこと一回もなかったよ」
と、答えてくれる。
最初はただただ恥ずかしさとおべっかを言ってくれる申し訳なさで、どんどんと委縮していったのだが決まって僕の話の続きを求めた。
僕はそれでも、どうしても無理をさせている気がして居た堪れなかったが、向日葵はそんな僕を見て少し呆れた顔を見せてこう言った。
「最近喋ってくれなかったでしょ? だから、今私に向かって話してくれるだけでとても嬉しいの。私の今はね、泰也君のお蔭で出来てるって言っても過言じゃないよ。君が沢山話してくれていたから、私は今ここで楽しく暮らしていけるの。自分の言語じゃない言葉に慣れたのも、どんなことにも戸惑わなくて挑戦出来るのも、泰也君のおかげなんだよ」
金色の髪を持つ向日葵がこの家に来た時、きっと彼女は幼くて日本という国すら知らなかったかもしれない。言葉も文化も違うのに、両親は傍にいない。
彼女の孤独は、僕の孤独とはまた違う、想像出来ないぐらいの孤独だっただろう。
「勿論、泰也君だけじゃないよ。おばさんもおじさんも梨絵ちゃんも、沢山私に話しかけてくれたし優しくしてくれたよ。感謝してもしきれないなって、よく思う。けどね、泰也君が一番私と遊んでくれたの。何もわからないし、何をしていいかもわからない私に根気よくずっと付き合ってくれて。何も話せない私に、ずっと話しかけてくれて。ずっと隣にいてくれて。だからかな。何か泰也君が喋ってくれないと落ち着かないんだよね」
そして、彼女は悲しそうに自分の手を見る。
「やっぱり、私と話していても楽しくないから話さなくなったのなかって、私もずっと思っていたの」
「そんなことっ」
あるわけがない。
今だって僕は楽しいのにっ!
「本当?」
「当たり前だよ。今だって楽しいよ」
僕はいつにもなく真剣なに声を出す。どうしても彼女に誤解されるのだけは、いやだった。だって、本当に楽しいんだ。僕の人生全てを通して。
「なら、沢山喋ってっ!」
「え?」
「いつもみたいに独り言を言いながら突然同意とか求めてよっ! いつもみたいにコロコロ話題が変る話ししてっ! いつもみたいに私に聞いているかって突然振り向いてっ!」
「え……っ」
前の僕はどうやらとんだ傍若無人だったみたいだ。
「やって! やるって約束しないと、ずっと私、泰也君が私と話していても楽しくないんだって思い続けるからねっ! 楽しくないから、私の所にこないんだって思い続けてやるからねっ! それでもいいのっ!?」
「それは……」
とても嫌だ。
向日葵にそんな気持ちを抱いて欲しくない。
誤解されたくない。
「嫌なら、約束っ! 出来るよね?」
何という脅しだろうか。
僕は前の僕みたいに傍若無人には振る舞えない。それが例え家族であっても無理だ。けど、それを彼女は望んでいる。
「約束は無理かもしれないけど、善処するで許してくれない?」
「善処ってなに?」
きょっとと向日葵が首を倒す。中学二年には中々馴染みのない言葉かもしれない。善処すると述べるのは大抵善処できない大人達だけなのだから。
「頑張るってことだよ」
「頑張らなくていいよ。自然体でやって」
この我儘さは妹にとても良く似ている。
「今の僕には難しいよ……」
僕は君が知っている僕じゃないから。
続きはどうしても言えなかった。
「えー」
「でも、頑張るよ。僕だって向日葵と沢山話したいって思うから」
この気持ちは本物なのだ。
「本当?」
「本当、本当」
僕はこの時期から人が怖かった。家族も他人も、なんなら子供だって。ひたすら怯えて、ひらすた恥ずかしくて。自分から人と話すという選択肢なんて一回も出で来ないぐらいに。
けど、今は違う。勿論、人は怖いよ。そして自分が常に笑われているようで恥ずかしくて、飽きもせずにずっとずっとビクビクしてる。でも、向日葵だけは違うんだ。
それは僕を守ってくれる。そんな調子の良いとろでの信頼じゃない。向日葵から発してくれる僕を認めてくれるところ。誰も知らないだろうと思っていたことを、全て見てくれた居たところ。それが僕にとっては何よりも信頼でき、僕自身を信じてもいいのかもしれないと思う事が出来た。
だからこそ、『僕の話』をしようと思えたのだ。
「……なら、善処ってやつ、してもいいよ」
「はは、頑張るよ」
「それは約束ね?」
「はいはい」
「はいは一回って、私に言う癖にさっ」
向日葵との時間は楽しい。
辛い事はなくならない。だけど、楽しい事が増えていく。
「はぁ? お兄ちゃんが先にお風呂入っちゃったの!? 最悪。私おふろはいれなくなったんだけど、どうしてくれんの!?」
楽しい時間が増えると、辛い事はいつもよりも強く感じて仕舞うのは人間のバグだと思うのは僕だけだろうか。
学校だけじゃなくて、家だって落ち着かない日が増えて来た。
これからはどんどんそんな時間が増えていく。最初は母が相手にしていたが、次第に車の中での喧嘩とは比べ物にならないほどの母と妹の激しい口喧嘩に発展。その後は妹が常に何事もヒステリックに叫びだすし、母は妹のやることなすことが気に入らないのかいつも喧嘩腰で話し始める。妹のことを無視して随分と経つが、そんな僕でさえたまに母の決めつけは理不尽で可哀想だと思ったこともあるぐらいだ。
でも、母の苦悩も良く知っている。
反抗期、思春期と言葉を並べられたらどうしようもないかもしれないが、妹の行動は僕の中でも恐らく母の中でもその言葉の範疇を超えていたように思える。
可哀想なことは確かに多かった。今はまだ父が前職について給料も貰えているが、倒産してからの我が家の財政の厳しさは十歳になったばかりの妹にはまだ理解できなかったただろう。彼女にとったら理不尽な我慢に見えたのかもしれない。
その怒りを、僕や家族にぶつけて発散していたのかもね。
どうでもいいけど。
冷たいかもしれないけど、妹とイジメていた同級生は同じラインじゃない。
ゴミや虫だと同級生にいくら言われ続けても会わなくなってしまえば彼らを追いかけることなんてしない。いくら激しい怒りのままに一生をかけて呪い続けても、会わないならそれ以上の憎しみの更新が止まってしまう。
感覚だけはずっと頭にこびりついていても、怒りの更新も再確認も会わないんだからなにもない。けど、妹は違う。妹は僕がこの家を出るまで常にこの家にいた。
会うたびに再確認だ。会うたびに更新だ。
自分が何をされたか、何を言われたか、何を憎んで怒っていたか。
そしてその度に怒りよりも憎しみが更新される。
僕が中三になってからは、妹と一言も話した記憶がない。向うからは色々言ってくるが、僕の中では言語として受け取ってなかった。嫌いな人間からは何一つ受け取りたくないだろ? 潔癖なわけでもないけど、僕にとっては汚物を投げつけられているのと変わらない感覚なのだ。
見る度に、こいつは僕に汚物を投げつける奴だなと再確認をする。声という汚物を投げつけられるたびに怒りよりも憎悪が募る。
だからか、僕は妹がいくら可哀想でも何も思えなかったし、助ける気すら起きなかった。
妹は良く、自分が一番可哀想だと嘆いていたがその度に僕は自分の手を見る。一番可哀想な妹に一番馬鹿にされて、暴言を吐かれて、物もなげられ、汚物扱いされていた僕は何なんだろうって。
自分が一番辛い、可哀想と言葉にするのが僕には怖い。
心のどこかでそんなことはないと信じたいから。
辛いよ。酷いよ。けど一番なんて嫌じゃないか。僕だけがって、嫌じゃないか。
だから必死に目をそむき続けていたのに、妹の言葉の一つ一つで気付きそうになるのが僕には一番辛かった。
「本当、最悪。キモ汁浴びなきゃいけない私、可哀想すぎない?」
誰に同意を得ようとしているのか、わからない言葉を妹は放つ。
ああ、矢張り今回もこいつは僕の妹の梨絵ではなく、『妹』になるのだな。
他にも何か続けようと、僕を見ながらニヤニヤ笑う妹の口が開いた。その瞬間だ。
「梨絵ちゃんっ。そんな綺麗にしたいなら、私とお風呂入ろうかっ! めちゃくちゃ綺麗に洗ってあげよっ!」
向日葵が妹の後ろへ飛びつく。
「えっ。向日葵ちゃんと入ってもいいのっ!?」
「勿論だよっ。中々梨絵ちゃんとお風呂入れなかったもんね」
「入るっ! 私も向日葵ちゃん洗っていい?」
「いいよー。でも、今日は私の髪で遊ばないでよ? いつも私の髪立てたりして遊ぶんだから……」
「だって面白いんだもんっ!」
妹はすっかり僕のことなんて忘れてしまったようで、さっさとお風呂の用意を取りに行ってしまった。
向日葵があのタイミングで間に入ってくれたのは、僕を守るため? 妹から僕を?
ここまでくると、流石に情けなさがカンストしてくる。十歳の小学生からも守ってもらうなんて赤ちゃん以下じゃないか。
けど……。
「向日葵、助けてくれてありがとう……」
風呂の用意を始めようとした彼女に声をかける。守られてばかりだ。助けられてばかりだ。情けないけど、嬉しかった。
困っていた僕を彼女は知ってくれていたんだ。
両親だって、僕が妹を無視し続けるのが得策だと思っていたのに。向日葵は違う。
「いいよ、気にしないで。聞きたくないって顔も、言わなきゃよかったと思う顔も見たくなかっただけだから」
「言いたくなかったって、梨絵が?」
向日葵は少し驚いた顔をすると、小さく笑う。
「私ね、皆がどんな顔して俯いているかがわかる能力を持っていたりするのかも?」
「何それ?」
「うんん、何にも。先に部屋戻って寝ていていいからねー」
「? わかった」
何だよ、そんな能力。
僕は言われるままに自室に戻る。部屋の鍵は、あの日から一度も閉めてはいない。
僕は部屋を無意味に見渡して一つしかないベッドの上に腰掛ける。
一人にしては少し広いと感じる部屋も、二人だと丁度いい。
変な話だ。
中学生といったら多くの場面で、性別でわけられることが多くなる。なんなら小学校の高学年で既に着替えなどで部屋をわけられていたぐらいだ。
我が家でも僕が高学年になると妹や母とお風呂には入らなくなった。当時他の同級生と話しているとやや早い方だったたかもしれないが、日が経つにつれ多くの同級生たちは僕と同じ側になっていた。
僕としては、特に母に意見はなかった。周りを見ればそれも一種の性教育だと思う。歳が少し離れている分、僕と妹もどちらも分からないままこれが普通であると延長戦で色々な物事を見てしまう危険性を母は早期に摘んでくれたのだ。
そんな母がだ。
不思議なことに、僕が向日葵と同じ部屋、同じベッドで寝ていることを指摘し、抗議しても飽きれた顔で僕を見るだけだった。
「お兄ちゃんは何を言っているの? 向日葵ちゃんは家族でしょ?」
さも、当然のように。
恐らくだが、前の僕と向日葵はとても仲が良かったのだと思う。向日葵や母さんの話を聞く限り、双子の兄妹の様に日々を過ごしていたのだろう。
学年も一緒でクラスも一緒。学校側が外見の目立つ彼女に配慮してかはわからないが、僕の毎日の多くは彼女に侵食されていたことだろう。
まったくもって、羨ましい限りだ。
彼女との何気ない会話でも楽しい。僕だって、もっと早く彼女を知りたかった。
でも不思議なもので彼女に対しての感情にそれ以上がなかった。
だから、いくら母の言い分が昔と違って可笑しくても、理解出来なくても母の『家族でじょ?』の一言で何も言い返せなくなってしまった。
大人としては、よくないことだと思う。何もないとはいえ、年頃の男女だ。恋愛のソレではないと言えど、僕は人生で一度も恋愛なんてしたことがない。男も女も、子供も皆、平等に怖い。そんなものを好きになんてなれない。誰も好きになれないなんて異常体質じゃないかと言われたけど、自分に危害を与えてくる恐怖対象に愛とか恋とか、そんなものを持つ方が僕の中では異常体質だと思う。でも、それは信じられる人に出会わなかったからではないのか。
僕はベッドに倒れた。
そうだ。この楽しさが恋か愛なんて僕にはわからないんだ。
向日葵は信じられる人。
いつもいつも、透明人間でゴミ箱だった僕を人間だと初めて気付いた人。
何をされても平気なわけがない。何を言われて平気なわけじゃない。助けてと息継ぎすら言わせてもらえない水の中に平気で泳げる魚じゃない。
可笑しいな。
昔の辛いことは鮮明に覚えているのに、僕はあの水槽の中でどうやって息をしていたのか覚えてないなんて。
僕の名前は坂口泰也、市立の中学校に通う二年生。
父、母、年の離れた妹の四人暮らし。
そして家には……。
「泰也君っ、起きている?」
「あ……、うん」
部屋に入って来た向日葵を見て、僕は急いで体を起こした。
「よかったー。泰也君のアイスも持ってきたんだよね」
「ありがとう」
「いいよ。最後の二個だったし。はい、泰也君」
「うん。……あれ? そっちチョコレート入ってるやつ?」
「うん。そうだよ?」
僕のアイスはミルク一色だ。
「交換する?」
僕は先ほど受け取ったアイスを再度彼女に差し出した。
「え? 何で?」
「え。何でって、チョコレートがかかっているから……」
あれ? 何でだ?
「私、チョコレート食べられるよ?」
何でか僕は彼女がチョコレートを食べられないものだと思い込んでいた。
そんな情報、今まで一度もなかった筈なのに。
「あ、そうだよね。ごめん、何か変な勘違いしちゃっていたのかも……」
急に恥ずかしくなる。
「別にいいけど、あれ? 泰也君の方がチョコレート苦手じゃないの? 交換しても食べられなくない?」
「え? チョコレート、苦手じゃないよ?」
「嘘っ。私、泰也君がチョコレートのアイスを食べているところ見たことないよ!?」
「そういえば、余り食べないかも……」
僕の記憶でも、自分がミルク系のアイスをよく食べていた記憶がある。
「嫌いなのかと思ってた」
「嫌いじゃないよ。それに、バニラとかミルクとかが特別好きじゃないしね。何でこんなのばかり食べてたんだろ?」
一人暮らしをしてから、白色だけのアイスなんて中々食べてない気がする。
「あ、ならさっ。半分こしない?」
「え、いいよ。どうしてもチョコレートが食べたいって訳じゃないし」
「えー。やろうよっ。私、いつも泰也君から食べ物もらってばっかりで、自分からわけるの嬉しいし楽しいんだよねっ!」
「え、僕そんなに向日葵に食べ物渡してた?」
ここに来てからは、そこなことは起きてなかったと思うけど。
前の僕の話だろうか。
「うん。何でも一口、二口くれたよ。別にね、私も食べたいわけじゃなかったんだけどさ、隣に行ってじっと見ていると毎回くれるの」
「じっと見ているからてじょ? もの欲しそうに見えるんだよ」
「だって、見ておかないと。思い出したくても、思い出せないんだよ。今だって、泰也君と半分こをしたんだなって、いつでも思い出したいからやるだけだし」
そう言って、彼女の食べかけのアイスを僕の前に突き出した。
「いつも貰ってばかりの、待ってばかりの私からって。思い出した時、誇らしく笑えると思うんだよねっ」
「沢山貰っているいけどな……」
それは、こんなアイスみたいな直ぐに口の中に広がる甘さではなけれども。
僕は彼女の差し出したアイスを小さく齧る。
口の中で、甘く解けてドロリと流れていく。
彼女がくれたのは、こんな即物的な感覚じゃない。徐々に胸の中に淡く残る温かみや、僕の中に残って広がる安心感のようなものばかり。
「え? おにぎりぐらいしかあげてないと思うよ?」
「ああ、確かにおにぎりも貰ったね」
始まりの朝だった。
別にこの時代に帰って来た瞬間でも、向日葵と初めて話した瞬間でもない。けど、僕にとっては始まりの朝だった。
そして、僕はその時から彼女に沢山の気持ちを貰った気がする。
「なんだか懐かしいな……」
まだ二週間も経っていないのに。
あの時怯えていた自分が懐かしく思えてくる。優しさに触れたら、疑ってお互い傷ついて。それで終わっていたかもしれない。向日葵が僕を追いかけてくれなかったら、きっと。
本当は優しさを疑ってはいけないって、僕は知っている。でも、仕方がないじゃないか。僕は優しさにまだ慣れていないんだ。
痛さにも。
可笑しいな。歳を重ねるにつれて慣れないものばかりが増えていくなんて。
「え。すぐ前のことなのに?」
「そうだね」
「そんな近くで懐かしがっていたら、すごい昔はどうなっちゃうの?」
凄い昔か。
そうだな。
「思い出したくない、かな」
もう二度と、向日葵が存在しない過去なんて思い出したくないことかもしれない。
「……私は楽しかったけど?」
「えっ? あぁ、そう、だね」
僕には存在しない、二人の時間を彼女は思って頬を膨らます。
そうか。そうだよな。彼女と過ごした時間はきっと楽しかったと思う。
「楽しかったと、思うよ……」
地獄の中で延々と泳いでいた僕よりは。
どんなに辛くてもオアシスがそこにあればきっとも泳ぎ続けれると思うから。
「凄く他人事っぽいっ! 別にいいけどねっ、私だけが楽しかったと思っててもっ!」
「怒らないでよ。ほら、僕のアイスも食べていいから」
「アイスで釣られないんだからねっ」
「ごめんごめん。でも、食べないの?」
「食べるけどさっ!」
本当の家族って、兄妹って、こんな感じなのかもしれない。
笑い合って、怒ったり、謝ったり、与え合ったり、貰い合ったり。貶されたり、煙たがられたり、決して一方的な関係じゃない。
僕は楽しかった。
安心していたし、信じていた。
向日葵は絶対に裏切る事はしないって。
どれだけ脳裏に過っても、どれだけチラついても、僕自身よりも僕はずっと彼女を信じていた。
それが間違いだと気付くまでは。
人は裏切る。簡単に手を離す。余裕がなくなったら、手を離す。
それが誰でも、例え家族でも。
いや、それが向日葵でも。
でもきっと、最初に裏切っていたのは僕の方かもしれない。
「向日葵? どうしたの?」
「あ……、うんん。何でもない。ちょっと教科書を忘れちゃったみたいで先生に言ってくるね。」
慌てて何かを隠しながら、向日葵が教室の席から立つ。
僕は心配そうな顔でどうしたんだろうと思うように装っていた。
本当は気付いているのに。
彼女の教科書が僕の教科書と同じように酷くボロボロにされていることを。
そうだ。
最近彼らの魔の手が向日葵に向いていることを僕は気付いていた。僕がやられた事を今、向日葵がやられているのだ。
でも、向日葵は僕に何も言わなかった。
僕はそれをいいことに、ずっと心の中でも必死に気付かないフリを続けていたのだ。
それに向日葵がイジメられていると言って、僕へのイジメがなくなった訳じゃない。
まだ継続している。恐らく、一回目同様主犯格である大島の引っ越しと、棚橋の補導が起きる二年の二月までは終わらないだろう。
このままだと僕達二人がどんどんと追い詰められるだけになってしまう。学校に言っても、僕の時同様に先生達の対応に効果は期待できない。事後に同情した目を向けられるだけで終わってしまう。
向日葵をそんな目にあわせるのなんて嫌だ。
勿論、僕だって彼女を助けたいし、助けるつもりだった。
でも、自分から言い出してくれないと僕は何も出来ない。
わかっている。僕は余りにも無力過ぎるから。僕が何をしたところで彼らには何も起こらないだろう。
昔恐れていた、反抗することにより更に酷いイジメに発展するかもしれない。いや、きっとするだろう。既にそれは向日葵の身に起こっているんだから。
同様に、僕が反抗したことによる彼女への反動。
それを彼女が同意してくれるなら、いくらだって……。
でも、そんな日はいつまで経っても起きることはない。
向日葵も僕と同様にイジメられている事実を誰にも言わず隠し続けている。家族にバレてしまう情けなさと煩わしさと、そして悲しませるかもしれないという事実に動けなくなってしまうことは僕が一番良く知っていた。
だから、今、何も言わない彼女に僕が出来るのは、何も知らないフリぐらいだ。
向日葵だって、きっと……。
でも、向日葵は僕が何も言わなくても、いや。何も言えなくても僕の前に立ってくれた。僕を守ってくれた。
本当に、僕は向日葵のことを思って立ち止まっているのだろうか。
ただ、また何も言えなくて縮こまっるだけじゃないのか?
本当に立ち上がる事が出来るのか?
これはただの言い訳じゃないのか?
自分自身の問いかけに、僕は思わず席を立った。
気付かないフリは優しさ? 僕は自分のイジメを気付かないフリを続けたクラスメイト達に一度でも優しさを感じた事はあっただろうか?
なかった。
一度もなかった。
心の中で、ずっとずっと、助けてと叫んでいたのに耳を塞ぎ、目を逸らし、今の僕みたいに気付かないフリで身を守り続けた彼らに、思えるわけがなかった。
正直、この時僕は耐えられなかったのだと思う。
自分のために、自分を騙そうとする僕に。
自分が許せなかった事を向日葵にしそうになっている僕に。
向日葵のイジメはどんどんとエスカレートするばかりで、僕みたいに彼女のものが沢山奪われていて、壊されいて。
それに目をそむき続けるのが限界だったのだと思う。
僕は教室を飛び出し、職員室に向かった向日葵の背中を追いかける。
透明色の群衆と同じにはなりたくなかった。
一緒になるなら、向日葵と一緒がいい。
向日葵が言っていたじゃないか。
思い出したら、誇らしげに笑えると思うと。
僕だって、一つぐらいはそれが欲しい。
誇らしく笑いたい。どれだけ殴られても、蹴られても。罵倒されてもどんなことをされても。彼女が僕の前に立っていてくれたように。
ただ殴られるよりも。
嫌な思い出に、なるよりも。
誇らしげに笑って思い返す思い出が、欲しいんだっ!
廊下を走り抜け、渡り廊下に差し掛かる時にふいに声が聞こえた。
立ち止って外を見れば、人気のない部室棟と呼ばれるプレハブの近くに向日葵がいたのだ。僕は窓のない渡り廊下から身を乗り出し、向日葵と大きく呼ぼうとしたのだが、向日葵が楽しそうに笑っている姿が目に入る。
誰かと一緒にいるのだろうか?
珍しい。基本、学校でも家でも僕の隣にしかいないのに。
楽しそうに笑っている横顔にムッとする。これは面白くないと。けど、本当に誰と話しているんだろうか? 教科書の問題は解決したのだろうか。話しているのは、先生と……。
そうあって、欲しかった。
物陰から出て、向日葵の肩を組んだ人物を見て、僕は必死に口を抑える。そうしなければ、今すぐにも叫びだしてしまいそうだった。
その相手が、僕達をイジメている大島でなければ、僕だってこんなにも動揺なんてしなかっただろう。
嘘であってほしかった。
全てが、嘘であって欲しかった。
木陰に隠れていた棚橋の手を取り、向日葵が発した言葉も。
嘘であって欲しかった。
「絶対に泰也君に、気付かせないでよね」
何を? 何を僕に?
そのまま、僕の視界にはイジメっこ五人と共に校舎に戻る向日葵が映っていた。
どうして、彼らと向日葵が一緒にいるんだ?
何であんなにも仲がよさそうに?
いつもいがみ合っていたじゃないか。
現に今だって、向日葵の教科書をボロボロにして、困らせて……。
でも、笑い合っていたよな?
いや。違う。彼女はそんな子じゃないっ!
彼女だけは、絶対に違うんだっ!
僕は、向日葵を信じている。だって、彼女は信じられるだけの行動を全て僕に与えてくれていたじゃないか。
僕を守ってくれて、助けてくれて、優しくで……。
あれ? 何で優しくしてくれているんだっけ?
可笑しい。言いがかりだっ! 彼女には理由があった! 僕のことをヒーローだと呼んでくれだしゃないかっ!
本当に? 本当にそんなことを思っていると僕は信じているのか?
大体、そこんなことが本当にあったかなんて、ここに来て間もない僕には知りようがないじゃないか。
エビデンスのない情報を信じられるのか?
僕はいつからそんな愚かな人間になってしまったんだ?
自分の身は自分で守らなければ、僕なんて誰も助けてくれないのに。
でも……、それでも。
向日葵といて僕は楽しかったじゃないか。
嬉しかったじゃないか……。
自分でも、自分のことがわからなかった。
向日葵を信じたい自分と、信じてはいけないと警告を鳴らす僕。頭ではわかっているんだ。警告を鳴らしてくれる自分が正しいことを。
こんな僕に優しくしてくれる人間なんていないのを、僕は良く知っている。
僕は卑怯だ。彼女を言い訳に使って。
僕は弱者だ。守ることすら出来ない癖に、守ると宣って。
僕は無力だ。渡り廊下の上で息を殺す事しか出来ないなんて。
自分に何の価値もないことは、自分が一番良く知っているのに。
信じきれない、動けない自分の彼女への後ろめたさからか、僕の足はいつまで経っても彼女が向かったであろう教室には行けなかった。
始業の鐘の音を聞いても、それは変わらなかった。
季節が香る風が僕の頬を触る。
夏の匂いがするね。彼女が隣に居たらきっと言ってくれるだろう。
それからどれぐらい経ったかわからないが僕の足は動き出した。
このまま、何も知らないフリをして過ごそう。
大体、何の話をしていたのか僕にはわからないし、楽しそうだと言うのも見間違いだったのかもしれない。
ただの誤解で、ただの疑惑でしかない。
そんな状態で、彼女に何て聞く気なんだ? それこそ、違っていたら彼女を傷つけてしまうじゃないか。
頭の中で、聞き心地の良い言い訳ばかりが浮かんでくる。
僕は、向日葵の隣を手放せない。
ただの風一つで、彼女との会話を考えるぐらいに。
このままでは、駄目だ。そんなことわかっている。
けど、嫌だ。
手放したくない。
聞くべきだ。真実を確かめるべきだ。彼女を信じているのならば、尚の事。
無理だ。僕にそんな勇気がないことを僕が一番知っているくせに。
だって、僕には向日葵しかいないんだ。
僕には、向日葵しか……。
その時だ。
「お掃除ロボットが教室から飛びしてるじゃん。大島、戻してやれよ」
「はぁ? あー。いいよ。その前に壊れてないか解体した方がいいんじゃね?」
「うわー。優しさー」
「見ろよ、お掃除ロボットに服みたいなゴミ巻き込んでるじゃん。可哀想すぎだろ。俺達で取ってやらなきゃ」
「ひ……っ!」
そうだ。全裸で廊下を走らせられるんだ。
捕まっちゃ駄目だっ!
逃げなきゃ! 逃げなきゃっ!
僕は身体がもたつきながらも何とか旋回し反対方向へ走り出した。
でも、僕は足が遅いから追いつかれるかもしれない。意味がないのかもしれない。振り返れば、彼らは今にも走り出そうとしている。
だが、彼らの足は動くことがなかった。ただただニヤニヤとにやけた顔をで僕を見ているだけだった。
いつもなら追いかけてくるのに、何で……?
僕が不審に思っていると、突然棚橋が割れんばかりの大声をあげ始めた。
「やめてあげなよーっ!! 二年三組の坂口泰也君のパパは仕事が出来なくて会社をクビになっちゃうんだよっ!! 泰也君の家はお金が無くて、そこら辺の雑草食べなきゃいけないぐらい貧乏なんだよっ!! 可哀想なことやめなよーっ!! 給食費も払ってないから、ただで給食食べてるって皆思っちゃ駄目だよーっ!! それ、イジメだよーっ!!」
それは、学校中に響き渡るぐらいの大声で。
事実無根の暴露を。
何故、親を貶められなきゃいけないんだ。父が仕事が出来ないわけがない。母が給食費を払わなかったことなんて一度もない。食べられない食事なんて、出たことがない。そんなことが起きないようにと、僕の両親は身を粉にして来たのを僕は見てきた。
何で、両親まで、気づ付けられなきゃいけないんだ……。
けど、どうして。
僕は、立ち止る。
どうして、父が職を無くすことを知っているんだ。
事実無根の中で、一つだけ正解が混じっている。その正解を主軸に思いつく罵倒を棚橋が並べているようにか思えない。
家族だけしかこんなこと、知らないのに。
何で……。
僕の脳裏に金色の髪をなびかせて笑う彼女が過る。
僕の家族で、その事実をこの学校内で知る僕以外の唯一の人間。
「向日葵……」
君なのか? 向日葵。
だけど。
「泰也君っ」
少しだけ楽しいと思う時間が増えていく。
向日葵と一緒にいる時間だけは、なんだか怯えて生活をする前の自分に戻ったみたいに楽しさを感じられるようになったのだ。
七月に入って数日が経ったが、向日葵はずっと僕の傍にいてくれる。
「ちょっとっ! 泰也君に何してんのっ!?」
「うわ、また来た……。お前女子に守られて恥ずかしくないのかよ」
情けない話しだが、あれから何回もイジメっ子たちから彼女は僕を守ってくれていた。
「男も女のも関係ないでしょっ!? 自分達だって恥ずかしいこと沢山してるのに、泰也君だけに恥ずかしさを求めるなっ! それに、何で人に頼っちゃ駄目なの? 自分たちは五人でずっと群れてる癖に。私たちはたった二人で助け合ってて何がおかしくて、何が恥ずかしくて、何がずるいわけ? そっちの方が滑稽で、おかしくて、私だったら恥ずかしいけど」
男として、大人としては恥ずかしいことこの上ないと思っていたが、その度に向日葵が頼ってもいいんだと僕に教えてくれる。
それが、僕にはとても嬉しかった。
「うっざっ。キモいキモいって。皆行こ」
「泰也君大丈夫だった? 殴られたりしてない?」
「うん。大丈夫だよ。ありがとう」
「いいよっ」
相も変わらずに向日葵と僕との関係をからかわれるのは慣れなかったけど、向日葵が隣に居る生活はすっかり慣れてしまった。
「そう言えばさ、部活でね、新しい楽譜もらってね」
「部活?」
「あれ? 泰也君知らなかったけ? 私、吹奏楽部に入ってるんだよ」
そう言って、向日葵が楽しそうにブイサインを僕に見せる。
「え、向日葵、楽器弾けるの?」
「何それっ! 泰也君って失礼なことをさらって言うよね」
「あ、ごめんごめん」
思わず正直な感想が口から飛び出てしまっていた。向日葵は確かにいい子だけども、ちょっと大胆と言うか、大雑把と言うか。
正直、音楽には向いてないと思っていた。
「もう。泰也君が音楽は楽しいって勧めてくれたのにっ」
「え? 僕が?」
今の僕が知らない話を出されると、少し困ってしまう。向日葵には存在する記憶が僕にはないのだから。
その事が、最近では少し寂しい。
「えー? 覚えてないの?」
まるで妹そっくりな言い方。
最近、向日葵を通して家族を見ることが多かった。母親の癖に妹の喋り方、父親の味の趣向。きっと僕の癖も向日葵の中にはあるんだろうな。彼女が本当に僕が知らない間に家族になっていたのだと実感してしまう。
「ごめんね」
「ふふふ。謝らなくてもいいよ。泰也君も、私が本気に受け取るとは思ってなかったんだろうなとは思ってたから。ギター弾きながら、泰也君ずっと私に音楽は楽しいって言い続けてたんだよね。私、だからずっと憧れてたの。音楽ってどれだけ楽しんだろうって」
「そうなの?」
多分、前の僕も自分の言葉で向日葵が音楽を始めるだなんて思いもしなかっただろう。
そんな影響力を自分が持っているだなんて考えもしなかった。
「吹奏楽で何してるの?」
「トランペット!」
「吹くの難しかったでしょ?」
「うんん。簡単だったよ。私ね、ずっと覚えているからね。泰也君のこと」
「え?」
「泰也君にとっては何気ないことかもしれないけどね、私はずっと覚えているのだよ」
悪戯した色した笑顔が咲く。
「何の話? 教えてよ」
「たまには自分でちょっとは思い出してよねっ」
「えー」
向日葵は不思議な女の子だった。勿論、僕の二回目の人生で初登場なのだから不思議どころの話ではない。摩訶不思議な存在である。
だが、不思議とはそっち方面じゃない。
何というか、彼女から感じる居心地の良さが不思議なのだ。
ここに戻って来てたった二週間も経っていないのに、隣に居るのが当たり前の様に居心地が良かった。
この身体が覚えているのか、懐かしさを感じる時もしばしあった。
向日葵は、僕の話をじっと聞く。
「この話、おもしろくないかも」
僕がそう言えば彼女は決まって、
「面白くなかったこと一回もなかったよ」
と、答えてくれる。
最初はただただ恥ずかしさとおべっかを言ってくれる申し訳なさで、どんどんと委縮していったのだが決まって僕の話の続きを求めた。
僕はそれでも、どうしても無理をさせている気がして居た堪れなかったが、向日葵はそんな僕を見て少し呆れた顔を見せてこう言った。
「最近喋ってくれなかったでしょ? だから、今私に向かって話してくれるだけでとても嬉しいの。私の今はね、泰也君のお蔭で出来てるって言っても過言じゃないよ。君が沢山話してくれていたから、私は今ここで楽しく暮らしていけるの。自分の言語じゃない言葉に慣れたのも、どんなことにも戸惑わなくて挑戦出来るのも、泰也君のおかげなんだよ」
金色の髪を持つ向日葵がこの家に来た時、きっと彼女は幼くて日本という国すら知らなかったかもしれない。言葉も文化も違うのに、両親は傍にいない。
彼女の孤独は、僕の孤独とはまた違う、想像出来ないぐらいの孤独だっただろう。
「勿論、泰也君だけじゃないよ。おばさんもおじさんも梨絵ちゃんも、沢山私に話しかけてくれたし優しくしてくれたよ。感謝してもしきれないなって、よく思う。けどね、泰也君が一番私と遊んでくれたの。何もわからないし、何をしていいかもわからない私に根気よくずっと付き合ってくれて。何も話せない私に、ずっと話しかけてくれて。ずっと隣にいてくれて。だからかな。何か泰也君が喋ってくれないと落ち着かないんだよね」
そして、彼女は悲しそうに自分の手を見る。
「やっぱり、私と話していても楽しくないから話さなくなったのなかって、私もずっと思っていたの」
「そんなことっ」
あるわけがない。
今だって僕は楽しいのにっ!
「本当?」
「当たり前だよ。今だって楽しいよ」
僕はいつにもなく真剣なに声を出す。どうしても彼女に誤解されるのだけは、いやだった。だって、本当に楽しいんだ。僕の人生全てを通して。
「なら、沢山喋ってっ!」
「え?」
「いつもみたいに独り言を言いながら突然同意とか求めてよっ! いつもみたいにコロコロ話題が変る話ししてっ! いつもみたいに私に聞いているかって突然振り向いてっ!」
「え……っ」
前の僕はどうやらとんだ傍若無人だったみたいだ。
「やって! やるって約束しないと、ずっと私、泰也君が私と話していても楽しくないんだって思い続けるからねっ! 楽しくないから、私の所にこないんだって思い続けてやるからねっ! それでもいいのっ!?」
「それは……」
とても嫌だ。
向日葵にそんな気持ちを抱いて欲しくない。
誤解されたくない。
「嫌なら、約束っ! 出来るよね?」
何という脅しだろうか。
僕は前の僕みたいに傍若無人には振る舞えない。それが例え家族であっても無理だ。けど、それを彼女は望んでいる。
「約束は無理かもしれないけど、善処するで許してくれない?」
「善処ってなに?」
きょっとと向日葵が首を倒す。中学二年には中々馴染みのない言葉かもしれない。善処すると述べるのは大抵善処できない大人達だけなのだから。
「頑張るってことだよ」
「頑張らなくていいよ。自然体でやって」
この我儘さは妹にとても良く似ている。
「今の僕には難しいよ……」
僕は君が知っている僕じゃないから。
続きはどうしても言えなかった。
「えー」
「でも、頑張るよ。僕だって向日葵と沢山話したいって思うから」
この気持ちは本物なのだ。
「本当?」
「本当、本当」
僕はこの時期から人が怖かった。家族も他人も、なんなら子供だって。ひたすら怯えて、ひらすた恥ずかしくて。自分から人と話すという選択肢なんて一回も出で来ないぐらいに。
けど、今は違う。勿論、人は怖いよ。そして自分が常に笑われているようで恥ずかしくて、飽きもせずにずっとずっとビクビクしてる。でも、向日葵だけは違うんだ。
それは僕を守ってくれる。そんな調子の良いとろでの信頼じゃない。向日葵から発してくれる僕を認めてくれるところ。誰も知らないだろうと思っていたことを、全て見てくれた居たところ。それが僕にとっては何よりも信頼でき、僕自身を信じてもいいのかもしれないと思う事が出来た。
だからこそ、『僕の話』をしようと思えたのだ。
「……なら、善処ってやつ、してもいいよ」
「はは、頑張るよ」
「それは約束ね?」
「はいはい」
「はいは一回って、私に言う癖にさっ」
向日葵との時間は楽しい。
辛い事はなくならない。だけど、楽しい事が増えていく。
「はぁ? お兄ちゃんが先にお風呂入っちゃったの!? 最悪。私おふろはいれなくなったんだけど、どうしてくれんの!?」
楽しい時間が増えると、辛い事はいつもよりも強く感じて仕舞うのは人間のバグだと思うのは僕だけだろうか。
学校だけじゃなくて、家だって落ち着かない日が増えて来た。
これからはどんどんそんな時間が増えていく。最初は母が相手にしていたが、次第に車の中での喧嘩とは比べ物にならないほどの母と妹の激しい口喧嘩に発展。その後は妹が常に何事もヒステリックに叫びだすし、母は妹のやることなすことが気に入らないのかいつも喧嘩腰で話し始める。妹のことを無視して随分と経つが、そんな僕でさえたまに母の決めつけは理不尽で可哀想だと思ったこともあるぐらいだ。
でも、母の苦悩も良く知っている。
反抗期、思春期と言葉を並べられたらどうしようもないかもしれないが、妹の行動は僕の中でも恐らく母の中でもその言葉の範疇を超えていたように思える。
可哀想なことは確かに多かった。今はまだ父が前職について給料も貰えているが、倒産してからの我が家の財政の厳しさは十歳になったばかりの妹にはまだ理解できなかったただろう。彼女にとったら理不尽な我慢に見えたのかもしれない。
その怒りを、僕や家族にぶつけて発散していたのかもね。
どうでもいいけど。
冷たいかもしれないけど、妹とイジメていた同級生は同じラインじゃない。
ゴミや虫だと同級生にいくら言われ続けても会わなくなってしまえば彼らを追いかけることなんてしない。いくら激しい怒りのままに一生をかけて呪い続けても、会わないならそれ以上の憎しみの更新が止まってしまう。
感覚だけはずっと頭にこびりついていても、怒りの更新も再確認も会わないんだからなにもない。けど、妹は違う。妹は僕がこの家を出るまで常にこの家にいた。
会うたびに再確認だ。会うたびに更新だ。
自分が何をされたか、何を言われたか、何を憎んで怒っていたか。
そしてその度に怒りよりも憎しみが更新される。
僕が中三になってからは、妹と一言も話した記憶がない。向うからは色々言ってくるが、僕の中では言語として受け取ってなかった。嫌いな人間からは何一つ受け取りたくないだろ? 潔癖なわけでもないけど、僕にとっては汚物を投げつけられているのと変わらない感覚なのだ。
見る度に、こいつは僕に汚物を投げつける奴だなと再確認をする。声という汚物を投げつけられるたびに怒りよりも憎悪が募る。
だからか、僕は妹がいくら可哀想でも何も思えなかったし、助ける気すら起きなかった。
妹は良く、自分が一番可哀想だと嘆いていたがその度に僕は自分の手を見る。一番可哀想な妹に一番馬鹿にされて、暴言を吐かれて、物もなげられ、汚物扱いされていた僕は何なんだろうって。
自分が一番辛い、可哀想と言葉にするのが僕には怖い。
心のどこかでそんなことはないと信じたいから。
辛いよ。酷いよ。けど一番なんて嫌じゃないか。僕だけがって、嫌じゃないか。
だから必死に目をそむき続けていたのに、妹の言葉の一つ一つで気付きそうになるのが僕には一番辛かった。
「本当、最悪。キモ汁浴びなきゃいけない私、可哀想すぎない?」
誰に同意を得ようとしているのか、わからない言葉を妹は放つ。
ああ、矢張り今回もこいつは僕の妹の梨絵ではなく、『妹』になるのだな。
他にも何か続けようと、僕を見ながらニヤニヤ笑う妹の口が開いた。その瞬間だ。
「梨絵ちゃんっ。そんな綺麗にしたいなら、私とお風呂入ろうかっ! めちゃくちゃ綺麗に洗ってあげよっ!」
向日葵が妹の後ろへ飛びつく。
「えっ。向日葵ちゃんと入ってもいいのっ!?」
「勿論だよっ。中々梨絵ちゃんとお風呂入れなかったもんね」
「入るっ! 私も向日葵ちゃん洗っていい?」
「いいよー。でも、今日は私の髪で遊ばないでよ? いつも私の髪立てたりして遊ぶんだから……」
「だって面白いんだもんっ!」
妹はすっかり僕のことなんて忘れてしまったようで、さっさとお風呂の用意を取りに行ってしまった。
向日葵があのタイミングで間に入ってくれたのは、僕を守るため? 妹から僕を?
ここまでくると、流石に情けなさがカンストしてくる。十歳の小学生からも守ってもらうなんて赤ちゃん以下じゃないか。
けど……。
「向日葵、助けてくれてありがとう……」
風呂の用意を始めようとした彼女に声をかける。守られてばかりだ。助けられてばかりだ。情けないけど、嬉しかった。
困っていた僕を彼女は知ってくれていたんだ。
両親だって、僕が妹を無視し続けるのが得策だと思っていたのに。向日葵は違う。
「いいよ、気にしないで。聞きたくないって顔も、言わなきゃよかったと思う顔も見たくなかっただけだから」
「言いたくなかったって、梨絵が?」
向日葵は少し驚いた顔をすると、小さく笑う。
「私ね、皆がどんな顔して俯いているかがわかる能力を持っていたりするのかも?」
「何それ?」
「うんん、何にも。先に部屋戻って寝ていていいからねー」
「? わかった」
何だよ、そんな能力。
僕は言われるままに自室に戻る。部屋の鍵は、あの日から一度も閉めてはいない。
僕は部屋を無意味に見渡して一つしかないベッドの上に腰掛ける。
一人にしては少し広いと感じる部屋も、二人だと丁度いい。
変な話だ。
中学生といったら多くの場面で、性別でわけられることが多くなる。なんなら小学校の高学年で既に着替えなどで部屋をわけられていたぐらいだ。
我が家でも僕が高学年になると妹や母とお風呂には入らなくなった。当時他の同級生と話しているとやや早い方だったたかもしれないが、日が経つにつれ多くの同級生たちは僕と同じ側になっていた。
僕としては、特に母に意見はなかった。周りを見ればそれも一種の性教育だと思う。歳が少し離れている分、僕と妹もどちらも分からないままこれが普通であると延長戦で色々な物事を見てしまう危険性を母は早期に摘んでくれたのだ。
そんな母がだ。
不思議なことに、僕が向日葵と同じ部屋、同じベッドで寝ていることを指摘し、抗議しても飽きれた顔で僕を見るだけだった。
「お兄ちゃんは何を言っているの? 向日葵ちゃんは家族でしょ?」
さも、当然のように。
恐らくだが、前の僕と向日葵はとても仲が良かったのだと思う。向日葵や母さんの話を聞く限り、双子の兄妹の様に日々を過ごしていたのだろう。
学年も一緒でクラスも一緒。学校側が外見の目立つ彼女に配慮してかはわからないが、僕の毎日の多くは彼女に侵食されていたことだろう。
まったくもって、羨ましい限りだ。
彼女との何気ない会話でも楽しい。僕だって、もっと早く彼女を知りたかった。
でも不思議なもので彼女に対しての感情にそれ以上がなかった。
だから、いくら母の言い分が昔と違って可笑しくても、理解出来なくても母の『家族でじょ?』の一言で何も言い返せなくなってしまった。
大人としては、よくないことだと思う。何もないとはいえ、年頃の男女だ。恋愛のソレではないと言えど、僕は人生で一度も恋愛なんてしたことがない。男も女も、子供も皆、平等に怖い。そんなものを好きになんてなれない。誰も好きになれないなんて異常体質じゃないかと言われたけど、自分に危害を与えてくる恐怖対象に愛とか恋とか、そんなものを持つ方が僕の中では異常体質だと思う。でも、それは信じられる人に出会わなかったからではないのか。
僕はベッドに倒れた。
そうだ。この楽しさが恋か愛なんて僕にはわからないんだ。
向日葵は信じられる人。
いつもいつも、透明人間でゴミ箱だった僕を人間だと初めて気付いた人。
何をされても平気なわけがない。何を言われて平気なわけじゃない。助けてと息継ぎすら言わせてもらえない水の中に平気で泳げる魚じゃない。
可笑しいな。
昔の辛いことは鮮明に覚えているのに、僕はあの水槽の中でどうやって息をしていたのか覚えてないなんて。
僕の名前は坂口泰也、市立の中学校に通う二年生。
父、母、年の離れた妹の四人暮らし。
そして家には……。
「泰也君っ、起きている?」
「あ……、うん」
部屋に入って来た向日葵を見て、僕は急いで体を起こした。
「よかったー。泰也君のアイスも持ってきたんだよね」
「ありがとう」
「いいよ。最後の二個だったし。はい、泰也君」
「うん。……あれ? そっちチョコレート入ってるやつ?」
「うん。そうだよ?」
僕のアイスはミルク一色だ。
「交換する?」
僕は先ほど受け取ったアイスを再度彼女に差し出した。
「え? 何で?」
「え。何でって、チョコレートがかかっているから……」
あれ? 何でだ?
「私、チョコレート食べられるよ?」
何でか僕は彼女がチョコレートを食べられないものだと思い込んでいた。
そんな情報、今まで一度もなかった筈なのに。
「あ、そうだよね。ごめん、何か変な勘違いしちゃっていたのかも……」
急に恥ずかしくなる。
「別にいいけど、あれ? 泰也君の方がチョコレート苦手じゃないの? 交換しても食べられなくない?」
「え? チョコレート、苦手じゃないよ?」
「嘘っ。私、泰也君がチョコレートのアイスを食べているところ見たことないよ!?」
「そういえば、余り食べないかも……」
僕の記憶でも、自分がミルク系のアイスをよく食べていた記憶がある。
「嫌いなのかと思ってた」
「嫌いじゃないよ。それに、バニラとかミルクとかが特別好きじゃないしね。何でこんなのばかり食べてたんだろ?」
一人暮らしをしてから、白色だけのアイスなんて中々食べてない気がする。
「あ、ならさっ。半分こしない?」
「え、いいよ。どうしてもチョコレートが食べたいって訳じゃないし」
「えー。やろうよっ。私、いつも泰也君から食べ物もらってばっかりで、自分からわけるの嬉しいし楽しいんだよねっ!」
「え、僕そんなに向日葵に食べ物渡してた?」
ここに来てからは、そこなことは起きてなかったと思うけど。
前の僕の話だろうか。
「うん。何でも一口、二口くれたよ。別にね、私も食べたいわけじゃなかったんだけどさ、隣に行ってじっと見ていると毎回くれるの」
「じっと見ているからてじょ? もの欲しそうに見えるんだよ」
「だって、見ておかないと。思い出したくても、思い出せないんだよ。今だって、泰也君と半分こをしたんだなって、いつでも思い出したいからやるだけだし」
そう言って、彼女の食べかけのアイスを僕の前に突き出した。
「いつも貰ってばかりの、待ってばかりの私からって。思い出した時、誇らしく笑えると思うんだよねっ」
「沢山貰っているいけどな……」
それは、こんなアイスみたいな直ぐに口の中に広がる甘さではなけれども。
僕は彼女の差し出したアイスを小さく齧る。
口の中で、甘く解けてドロリと流れていく。
彼女がくれたのは、こんな即物的な感覚じゃない。徐々に胸の中に淡く残る温かみや、僕の中に残って広がる安心感のようなものばかり。
「え? おにぎりぐらいしかあげてないと思うよ?」
「ああ、確かにおにぎりも貰ったね」
始まりの朝だった。
別にこの時代に帰って来た瞬間でも、向日葵と初めて話した瞬間でもない。けど、僕にとっては始まりの朝だった。
そして、僕はその時から彼女に沢山の気持ちを貰った気がする。
「なんだか懐かしいな……」
まだ二週間も経っていないのに。
あの時怯えていた自分が懐かしく思えてくる。優しさに触れたら、疑ってお互い傷ついて。それで終わっていたかもしれない。向日葵が僕を追いかけてくれなかったら、きっと。
本当は優しさを疑ってはいけないって、僕は知っている。でも、仕方がないじゃないか。僕は優しさにまだ慣れていないんだ。
痛さにも。
可笑しいな。歳を重ねるにつれて慣れないものばかりが増えていくなんて。
「え。すぐ前のことなのに?」
「そうだね」
「そんな近くで懐かしがっていたら、すごい昔はどうなっちゃうの?」
凄い昔か。
そうだな。
「思い出したくない、かな」
もう二度と、向日葵が存在しない過去なんて思い出したくないことかもしれない。
「……私は楽しかったけど?」
「えっ? あぁ、そう、だね」
僕には存在しない、二人の時間を彼女は思って頬を膨らます。
そうか。そうだよな。彼女と過ごした時間はきっと楽しかったと思う。
「楽しかったと、思うよ……」
地獄の中で延々と泳いでいた僕よりは。
どんなに辛くてもオアシスがそこにあればきっとも泳ぎ続けれると思うから。
「凄く他人事っぽいっ! 別にいいけどねっ、私だけが楽しかったと思っててもっ!」
「怒らないでよ。ほら、僕のアイスも食べていいから」
「アイスで釣られないんだからねっ」
「ごめんごめん。でも、食べないの?」
「食べるけどさっ!」
本当の家族って、兄妹って、こんな感じなのかもしれない。
笑い合って、怒ったり、謝ったり、与え合ったり、貰い合ったり。貶されたり、煙たがられたり、決して一方的な関係じゃない。
僕は楽しかった。
安心していたし、信じていた。
向日葵は絶対に裏切る事はしないって。
どれだけ脳裏に過っても、どれだけチラついても、僕自身よりも僕はずっと彼女を信じていた。
それが間違いだと気付くまでは。
人は裏切る。簡単に手を離す。余裕がなくなったら、手を離す。
それが誰でも、例え家族でも。
いや、それが向日葵でも。
でもきっと、最初に裏切っていたのは僕の方かもしれない。
「向日葵? どうしたの?」
「あ……、うんん。何でもない。ちょっと教科書を忘れちゃったみたいで先生に言ってくるね。」
慌てて何かを隠しながら、向日葵が教室の席から立つ。
僕は心配そうな顔でどうしたんだろうと思うように装っていた。
本当は気付いているのに。
彼女の教科書が僕の教科書と同じように酷くボロボロにされていることを。
そうだ。
最近彼らの魔の手が向日葵に向いていることを僕は気付いていた。僕がやられた事を今、向日葵がやられているのだ。
でも、向日葵は僕に何も言わなかった。
僕はそれをいいことに、ずっと心の中でも必死に気付かないフリを続けていたのだ。
それに向日葵がイジメられていると言って、僕へのイジメがなくなった訳じゃない。
まだ継続している。恐らく、一回目同様主犯格である大島の引っ越しと、棚橋の補導が起きる二年の二月までは終わらないだろう。
このままだと僕達二人がどんどんと追い詰められるだけになってしまう。学校に言っても、僕の時同様に先生達の対応に効果は期待できない。事後に同情した目を向けられるだけで終わってしまう。
向日葵をそんな目にあわせるのなんて嫌だ。
勿論、僕だって彼女を助けたいし、助けるつもりだった。
でも、自分から言い出してくれないと僕は何も出来ない。
わかっている。僕は余りにも無力過ぎるから。僕が何をしたところで彼らには何も起こらないだろう。
昔恐れていた、反抗することにより更に酷いイジメに発展するかもしれない。いや、きっとするだろう。既にそれは向日葵の身に起こっているんだから。
同様に、僕が反抗したことによる彼女への反動。
それを彼女が同意してくれるなら、いくらだって……。
でも、そんな日はいつまで経っても起きることはない。
向日葵も僕と同様にイジメられている事実を誰にも言わず隠し続けている。家族にバレてしまう情けなさと煩わしさと、そして悲しませるかもしれないという事実に動けなくなってしまうことは僕が一番良く知っていた。
だから、今、何も言わない彼女に僕が出来るのは、何も知らないフリぐらいだ。
向日葵だって、きっと……。
でも、向日葵は僕が何も言わなくても、いや。何も言えなくても僕の前に立ってくれた。僕を守ってくれた。
本当に、僕は向日葵のことを思って立ち止まっているのだろうか。
ただ、また何も言えなくて縮こまっるだけじゃないのか?
本当に立ち上がる事が出来るのか?
これはただの言い訳じゃないのか?
自分自身の問いかけに、僕は思わず席を立った。
気付かないフリは優しさ? 僕は自分のイジメを気付かないフリを続けたクラスメイト達に一度でも優しさを感じた事はあっただろうか?
なかった。
一度もなかった。
心の中で、ずっとずっと、助けてと叫んでいたのに耳を塞ぎ、目を逸らし、今の僕みたいに気付かないフリで身を守り続けた彼らに、思えるわけがなかった。
正直、この時僕は耐えられなかったのだと思う。
自分のために、自分を騙そうとする僕に。
自分が許せなかった事を向日葵にしそうになっている僕に。
向日葵のイジメはどんどんとエスカレートするばかりで、僕みたいに彼女のものが沢山奪われていて、壊されいて。
それに目をそむき続けるのが限界だったのだと思う。
僕は教室を飛び出し、職員室に向かった向日葵の背中を追いかける。
透明色の群衆と同じにはなりたくなかった。
一緒になるなら、向日葵と一緒がいい。
向日葵が言っていたじゃないか。
思い出したら、誇らしげに笑えると思うと。
僕だって、一つぐらいはそれが欲しい。
誇らしく笑いたい。どれだけ殴られても、蹴られても。罵倒されてもどんなことをされても。彼女が僕の前に立っていてくれたように。
ただ殴られるよりも。
嫌な思い出に、なるよりも。
誇らしげに笑って思い返す思い出が、欲しいんだっ!
廊下を走り抜け、渡り廊下に差し掛かる時にふいに声が聞こえた。
立ち止って外を見れば、人気のない部室棟と呼ばれるプレハブの近くに向日葵がいたのだ。僕は窓のない渡り廊下から身を乗り出し、向日葵と大きく呼ぼうとしたのだが、向日葵が楽しそうに笑っている姿が目に入る。
誰かと一緒にいるのだろうか?
珍しい。基本、学校でも家でも僕の隣にしかいないのに。
楽しそうに笑っている横顔にムッとする。これは面白くないと。けど、本当に誰と話しているんだろうか? 教科書の問題は解決したのだろうか。話しているのは、先生と……。
そうあって、欲しかった。
物陰から出て、向日葵の肩を組んだ人物を見て、僕は必死に口を抑える。そうしなければ、今すぐにも叫びだしてしまいそうだった。
その相手が、僕達をイジメている大島でなければ、僕だってこんなにも動揺なんてしなかっただろう。
嘘であってほしかった。
全てが、嘘であって欲しかった。
木陰に隠れていた棚橋の手を取り、向日葵が発した言葉も。
嘘であって欲しかった。
「絶対に泰也君に、気付かせないでよね」
何を? 何を僕に?
そのまま、僕の視界にはイジメっこ五人と共に校舎に戻る向日葵が映っていた。
どうして、彼らと向日葵が一緒にいるんだ?
何であんなにも仲がよさそうに?
いつもいがみ合っていたじゃないか。
現に今だって、向日葵の教科書をボロボロにして、困らせて……。
でも、笑い合っていたよな?
いや。違う。彼女はそんな子じゃないっ!
彼女だけは、絶対に違うんだっ!
僕は、向日葵を信じている。だって、彼女は信じられるだけの行動を全て僕に与えてくれていたじゃないか。
僕を守ってくれて、助けてくれて、優しくで……。
あれ? 何で優しくしてくれているんだっけ?
可笑しい。言いがかりだっ! 彼女には理由があった! 僕のことをヒーローだと呼んでくれだしゃないかっ!
本当に? 本当にそんなことを思っていると僕は信じているのか?
大体、そこんなことが本当にあったかなんて、ここに来て間もない僕には知りようがないじゃないか。
エビデンスのない情報を信じられるのか?
僕はいつからそんな愚かな人間になってしまったんだ?
自分の身は自分で守らなければ、僕なんて誰も助けてくれないのに。
でも……、それでも。
向日葵といて僕は楽しかったじゃないか。
嬉しかったじゃないか……。
自分でも、自分のことがわからなかった。
向日葵を信じたい自分と、信じてはいけないと警告を鳴らす僕。頭ではわかっているんだ。警告を鳴らしてくれる自分が正しいことを。
こんな僕に優しくしてくれる人間なんていないのを、僕は良く知っている。
僕は卑怯だ。彼女を言い訳に使って。
僕は弱者だ。守ることすら出来ない癖に、守ると宣って。
僕は無力だ。渡り廊下の上で息を殺す事しか出来ないなんて。
自分に何の価値もないことは、自分が一番良く知っているのに。
信じきれない、動けない自分の彼女への後ろめたさからか、僕の足はいつまで経っても彼女が向かったであろう教室には行けなかった。
始業の鐘の音を聞いても、それは変わらなかった。
季節が香る風が僕の頬を触る。
夏の匂いがするね。彼女が隣に居たらきっと言ってくれるだろう。
それからどれぐらい経ったかわからないが僕の足は動き出した。
このまま、何も知らないフリをして過ごそう。
大体、何の話をしていたのか僕にはわからないし、楽しそうだと言うのも見間違いだったのかもしれない。
ただの誤解で、ただの疑惑でしかない。
そんな状態で、彼女に何て聞く気なんだ? それこそ、違っていたら彼女を傷つけてしまうじゃないか。
頭の中で、聞き心地の良い言い訳ばかりが浮かんでくる。
僕は、向日葵の隣を手放せない。
ただの風一つで、彼女との会話を考えるぐらいに。
このままでは、駄目だ。そんなことわかっている。
けど、嫌だ。
手放したくない。
聞くべきだ。真実を確かめるべきだ。彼女を信じているのならば、尚の事。
無理だ。僕にそんな勇気がないことを僕が一番知っているくせに。
だって、僕には向日葵しかいないんだ。
僕には、向日葵しか……。
その時だ。
「お掃除ロボットが教室から飛びしてるじゃん。大島、戻してやれよ」
「はぁ? あー。いいよ。その前に壊れてないか解体した方がいいんじゃね?」
「うわー。優しさー」
「見ろよ、お掃除ロボットに服みたいなゴミ巻き込んでるじゃん。可哀想すぎだろ。俺達で取ってやらなきゃ」
「ひ……っ!」
そうだ。全裸で廊下を走らせられるんだ。
捕まっちゃ駄目だっ!
逃げなきゃ! 逃げなきゃっ!
僕は身体がもたつきながらも何とか旋回し反対方向へ走り出した。
でも、僕は足が遅いから追いつかれるかもしれない。意味がないのかもしれない。振り返れば、彼らは今にも走り出そうとしている。
だが、彼らの足は動くことがなかった。ただただニヤニヤとにやけた顔をで僕を見ているだけだった。
いつもなら追いかけてくるのに、何で……?
僕が不審に思っていると、突然棚橋が割れんばかりの大声をあげ始めた。
「やめてあげなよーっ!! 二年三組の坂口泰也君のパパは仕事が出来なくて会社をクビになっちゃうんだよっ!! 泰也君の家はお金が無くて、そこら辺の雑草食べなきゃいけないぐらい貧乏なんだよっ!! 可哀想なことやめなよーっ!! 給食費も払ってないから、ただで給食食べてるって皆思っちゃ駄目だよーっ!! それ、イジメだよーっ!!」
それは、学校中に響き渡るぐらいの大声で。
事実無根の暴露を。
何故、親を貶められなきゃいけないんだ。父が仕事が出来ないわけがない。母が給食費を払わなかったことなんて一度もない。食べられない食事なんて、出たことがない。そんなことが起きないようにと、僕の両親は身を粉にして来たのを僕は見てきた。
何で、両親まで、気づ付けられなきゃいけないんだ……。
けど、どうして。
僕は、立ち止る。
どうして、父が職を無くすことを知っているんだ。
事実無根の中で、一つだけ正解が混じっている。その正解を主軸に思いつく罵倒を棚橋が並べているようにか思えない。
家族だけしかこんなこと、知らないのに。
何で……。
僕の脳裏に金色の髪をなびかせて笑う彼女が過る。
僕の家族で、その事実をこの学校内で知る僕以外の唯一の人間。
「向日葵……」
君なのか? 向日葵。